教育は国の礎(イシズエ)

1. この物語の背景
 この文では戦争で荒廃した国土の中で、贈られた米を皆に分配するのではなく、売却してその金を元に学校を建てた病(ヘイ)翁(オウ)小林虎三郎の物語を書いてみたいと思います。


米百俵の群像

 越後の国(新潟県)、西北は日本海に面して雪は比較的浅いが、東南は高い山が連なって雪は深く積ります。江戸では雪の降らない年もあるので初雪をことに喜び、種々の遊びをするそうですが
、越後では雪の降らない年はなく、積雪は一丈(約3m)になることもあります。そのため、初雪を見て、今年もまたこの雪の中で暮らすのかと雪を悲しむのは、雪国に生まれた人の不幸です。(北越雪譜より)
 この国には戦国時代以後、英雄が多数、出ています。上杉謙信、河井継之助、山本五十六、田中角栄。ところが、これらの人々がいずれも終わりを全うしていません。
 上杉謙信は「越後の虎」と呼ばれ、武田信玄との数度にわたる、川中島の決戦は有名ですが、織田信長との戦いに出陣する前夜、脳卒中で死亡します。
 河井継之助は明治維新前夜に越後長岡藩の宰相として武装中立を唱えるが果たさず、戊辰戦争のなかで最大の激戦である北越戦争で郷土長岡は焦土となり、自身は負傷して会津へ逃げる途中に、国境の峠である八十里越で最後を遂げます。
 山本五十六は連合艦隊司令長官として、太平洋戦争の緒戦に真珠湾攻撃で多大の戦果を挙げますが、次のミッドウエイ海戦で航空母艦四隻を失い、日本連合艦隊は再起不能に近い打撃を受けます。自身は前線視察の途中で暗号の漏洩から敵機の待ち伏せを受け、撃墜されて戦死します。
 田中角栄はまだ皆さんの記憶に新しいことと思いますが、小学校卒の首相として「今太閤」と呼ばれ権勢を誇りますが、ロッキード事件で有罪となり、失意のうちに世を去ります。田中真紀子元外務大臣は田中角栄の長女です。
 これらの人々がいずれも、雪国というハンデを背負って生れたことが、運命に影を落とすことにつながっていることもあるのではと考えられます。
 越後の生んだ英雄の略伝を記しましたが、本文では、北越戦争で焦土と化した長岡を再建すべく、越後長岡藩の宰相となった小林虎三郎の活躍を述べてみたいと思います。
 太平を謳歌した徳川幕府も、黒船の来航によってその土台を揺す振られます。
 犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩は、坂本竜馬の仲介などもあって同盟を結びます。そして、京都郊外の鳥羽・伏見の地で両軍が激突します。幕府軍1万5千人に対して、薩長軍は5千人と数の上では劣りましたが、新型の大砲や鉄砲で武装されていて、幕府軍を徹底的に打ち破りました。
 江戸城の無血開城などの後、戦火は東北地方にも拡大します。
 薩摩、長州、土佐、肥前の各藩からなる官軍は越後小千谷まで攻め込んで来ます。そこで越後長岡藩の宰相河井継之助は、武装中立の嘆願書を持って、単身で小千谷の官軍本営に出かけますが、官軍に一蹴されてしまいます。これが有名な、千谷会談です。
 官軍は長岡に攻め込み、長岡市街は廃墟になってしまいます。3千軒あった家屋は、2千5百軒も焼失し、死傷者は6百人にも達しました。この戦争は北越戦争と呼ばれ、明治の初めに起きた戊辰戦争の中の最大の激戦と言われています。
 今でも、河井継之助は長岡市の人々に
長岡の英雄と考える人たちと、長岡を戦火で焼失させた張本人と考える人たちで、評価が分かれているそうです。

2. 小林虎三郎と米百俵
 小林虎三郎は若い時、佐久間象山の象山塾に学び、吉田寅次郎松陰と並び「象山塾の二虎」と呼ばれて実力を認められていました。河井継之助、勝海舟、坂本竜馬もこの塾で学んでいます。病弱であった小林虎三郎は病翁と号し、北越戦には参戦していません。



小林虎三郎の碑

 戦後に小林虎三郎は長岡藩の宰相になります。長岡藩は、明治政府から領地を五分の一に削られ、焼野が原のなかで、食べる物にも事欠く状態になります。
 見るに見かねた、長岡藩の親戚の三根山藩から見舞いの米が百俵、送られて来ます。
 この米の配分を巡って、虎三郎と藩士の間にいさかいが起こります。大勢の藩士が夜中に虎三郎の部屋に押し掛けます。
 藩士達は口ぐちに訴えます、
「聞くところによると、このたび、三根山藩から送られてきた米を、我々に配分せずに売り払い、その代金で学校を立てるとか。お前様には、その日の暮らしに困っている家中の実情をよそに、学校を立てるなどと、たわけたことを言うのか。」
 虎三郎は、
「貴公らは百俵、百俵とわめき立てるが、それっばかりの米を、家中に分けても、一軒のもらい分は二升そこそこ、一人あたりにしたら、四合か五合だ。それくらいの米は一日か二日で食いつぶしてしまう。あとに何が残るのだ。」
 藩士の一人は、
「あとの事は、あとの事だ。教育なんてもので、腹がくちくなるか。そんな先の長い話は、後にしてもらおう。」
 これに対して虎三郎は説きます、
「なぜわれわれがこんなに食えなくなったのだ。それは、日本人同士、鉄砲の打ち合いをしたことだ。やれ、薩摩の、長州の、長岡のなどと、つまらぬいがみ合いをして、民を塗炭の苦しみにおとし入れたことだ。
 戦争が始まる時に、先の見えた人物がいたら、同胞は血を流さずにすんだのだよ。国がおこるのも、ほろびるのも、ことごとく人にある。人物さえ出てきたら
、人物さえ養成しておいたら、どんな衰えた国でも、必ず盛り返せるに相違ないのだ。そういう信念のもとに、おれは学校を立てることに決心したのだ。貴公らにも子供がおるだろう。どうか子供の行く末の事を考えてくれ。」
 三根山藩から送られた米を売った金で、書籍や器材が整えられ、やがて国漢学校が開校します。この学校からは後に
多くの俊秀が育っていきます。
 「教育は国の礎」は小林虎三郎の残した言葉だといわれています。

国漢学校跡地の碑
 
3.国の将来を思って
 米百俵の物語は、山本有三の作った戯曲で知られるようになり、更には小泉元首相が首相に就任した時に、施政方針演説で引用して一躍、有名になりました。
 日本の国は資源がほとんどありません、そのため知恵を出し合って他の国には出来ないことを考え、世界に貢献することが日本の生きる道です。そのためには、教育をより一層普及し、人々に夢を持たせることです。
 かってイギリスも産業革命の時代、アメリカやインド、オーストラリアから資源を輸入し、製品に加工して輸出することで発展しました。
 かって鳩山前首相は、CO2の25%削減を世界に宣言しました。これは、理想として、夢として、素晴らしいことです。しかし、それを実現するためには、技術力を磨くことが必要です。ところが困ったことに、最近は高校生の理科離れが言われており、全国の高校生の理科系進学希望が20%を切っているそうです。それは、理工学系の勉学が文科系に比べてハードだからだとか。今こそ若者に夢を与え、教育の重要性を理解させるべきです。
 目先の困窮に耐えて、将来の発展のために備える、この思想こそが日本の国の将来のためにも必要なのではないかと信じます。
 日本は現在、経済の停滞に苦しんでいます。こういう時こそ、安全衛生や環境
の技術を若い人たちに勉強してもらい、
新しい技術を世界に広めていくのが日本を再生させる方法なのではないでしょうか。若者により一層勉学に励んでもらい、大きな夢を育んでもらわなければなりません。
 山本五十六元帥は海軍次官だった時、
右翼の暗殺の危険にさらされながら机の後ろの壁に次の言葉を貼つて自戒としていたそうです。
 「苦しいこともあるだろう、言いたいこともあるだろう、それをじっと我慢するのが男の修行である。」
 苦しさに耐えて、次の時代に期待をする、その土台を作るための「米百俵の精神」は今も生きているはずです。
 若い人たちに期待しています。大きな夢を持って、勉学に励んでください。またそれを支える人たちは、勉学にふさわしい場を作ることに努力しましょう。
 「若者よ夢を持とう、夢は必ずかなう」

4.参考資料
:*「米百俵」山本有三著  新潮文庫
*「怨念の系譜」早坂茂三著  
             集英社文庫
*「峠」司馬遼太郎著   新潮文庫
*「小林虎三郎」松本健一著 
             学研M文庫
*「米百俵」山本有三著  長岡市
*「北越雪譜」鈴木牧之著 岩波文庫
*「夢はかなう」高橋尚子著 幻冬舎文庫

  ―以上―





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