悔しい。
家に戻ってからも、ずっと渦巻く後悔と嫉妬。
父や兄達の声も、煩わしい雑音にしか聞こえない。
夕食は味も解らなかった。
お風呂に入っても、身体は温かくなるのに、心はどんどんと凍り付いてくる。
悔しい。
ようやく、春になり、気温も徐々に過ごしやすくなって来たのに。
周囲が暖かく感じられるだけに、余計に心が冷えるのが敏感に感じられる。
始業式。
ロサ・フェティダ・アン・ブトゥン ロサ・フェティダ
黄薔薇さまのつぼみだった自分が、黄薔薇さまと初めて呼ばれた日。
鳥居江利子は、同じつぼみだった同級生にリリアン入学以来、二度目の敗北を喫した。
一度目は幼稚舎で。
そして今日。
前回の敗北など、取るに足らないほどの敗北。
「聖…」
佐藤聖。
幼稚舎以来、常に相容れる事無く対峙してきた彼女。
中等部で、一人の少女に出会ってから江利子と聖の関係は変わった。
今では親友と呼んで差し支えないほどに。
けれど、今日の敗北は大きかった。その痛みは生まれて初めてと言っても良いほど強烈だったから。
「……蓉子」
同級生であり、親友であり、そして、最も愛した少女。
彼女の名前がふっと口から漏れた。
そして、今まで堪えていた緊張が、想いが溢れる。
瞳から止め処なく涙が流れ出した。
江利子は、その滴を拭う事もなく、ただ流れるに任せた。
急に身体の緊張までが失われ、そのままベッドに倒れこむ。
何度、蓉子に想いを伝えようと思ったか。何度、蓉子の唇に触れる事を願ったか。
しかし、その勇気を出せなかったばかりに、いや、今の関係を失う事を恐れた為に、蓉子は江利子の
手の届かない存在になってしまった。
「蓉子……聖が好きだったものね……」
今日、始業式の後に薔薇の館で目の当たりにした光景。
ビスケットの扉の向こうで、蓉子が聖に口付けをしていた。
−もう、お姉さまは……いないのね。
−聖。私だけではだめなの?
−蓉子……。
−白薔薇さまの分も、わたしが聖を愛してあげる。
親友達が唇を交わす直前の、二人の声が耳の奥に残っていた。
窓の光が二人を影にしていた。
そこには神々しいまでの、純粋な二人の心があった。
蓉子は、やはり聖と結ばれていた。
江利子が逃げていたから。
叶わないと思っても、自分から幕を引いていればこんなに痛みを、冷たさを感じなかったかも知れな
い。けれども、もう後の祭り。
大切な親友と、愛する少女。
二人を傷つけてまで、蓉子を奪い取るなんて、出来ない。
逃げたかった。
けれども、それは許されないから。現実が向こうから追いかけてくるのは目に見えているから。
だから、演じ続けるのだ。
ロサ・フェティダ
黄薔薇さまを。
今日だけは、今日だけは蓉子を想い涙を流そう。
涙が枯れるまで。
そうすれば、明日には。
明日には、何時ものように、演じ、振舞う事が出来るから。
明日には……。
ロサ・フェティダ
「ごきげんよう、黄薔薇さま」
「ごきげんよう、江利子さん」
ロサ・フェティダ
放課後、薔薇の館へ向かう江利子は『黄薔薇さま』と呼ばれる自分にまだ戸惑いながら、挨拶をして
くれる下級生や、同級生に愛想良く返事をしながら、その足を進めた。
現実に追われるのではなく、立ち向かうために。
−逃げるもんですか。
館の扉を開き、自分の心を奮い立たせる。
そう、例え蓉子が聖と愛し合おうとも、自分の心は裏切れない。
だから立ち向かうのだ。
奪う事など、無い。
こうなったら聖もまとめて愛してあげる。
そうすれば、誰も傷つきはしない。詭弁かも知れないけれど、それでも良い。
階段を昇り、現実の待ち受ける扉を開く。
「ごきげんよう、皆さん」
「ごきげんよう、黄薔薇さま」
「ごきげんよう」
なんといっても「すっぽんの江利子」らしいのだから。自分は。
そう、簡単に諦めてなんてやるものですか。
「随分、機嫌よさそうね」
「そう見える?」
聖が江利子の顔を見ながら言う。
「見えるわ、何かあったの?」
「ふふふ、あったわ」
「何、何?」
蓉子と聖、少し前まで「紅薔薇のつぼみ」と「白薔薇のつぼみ」だった二人。
二人に取って置きの笑顔で答える。
蓉子と聖は顔を見合わせた。
見てらっしゃい、わたしは諦めが悪いのだから。
そう、心の中で宣言して、江利子は席についた。
春の日の、暖かい午後。
昨日までの、心に突き刺さる冷たさは、もう無い。
−そう、逃げてなんて、やるものですか。
−fin−
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