Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


『伝え得ぬ想い』



 「それじゃあ、みんな。明日からお願いね」

 紅薔薇さまが締めの言葉を口にして、さほど時間を要すことの無かった今日の会議はお開きになった。
 
 「江利子はどうする?」
 「わたしはもう少し、仕事を処理してから帰りますわ。お姉さま」
 「そう、あまり遅くならないようにね」

 江利子に向けられたお姉さまの優しい笑顔に微笑んで返事をすると、お姉さまは紅薔薇さまとお二人で
 何事かお話をしながらビスケットの扉をくぐって退出された。
 
 「聖、一緒に帰りましょう」
 「すみません、今日は一人にしておいてください」

 聖が白薔薇さまのお誘いをかわして、早々と部屋を出ようとする。

 「あ……」

 江利子の隣に座っていた蓉子が、聖の後姿を追いかけながら何かを言いかけたけれど、ほんの少し躊躇い
 を見せる間に、さっさと聖は帰っていってしまった。

 「ごめんなさいね、蓉子ちゃん」
 「白薔薇さま……」
 「また聖が何か迷惑掛けちゃったかな?」

 白薔薇さまが申し訳なさそうに蓉子に声をかけた。
 蓉子の顔が少しゆがんで見える。蓉子自身は精一杯努力して、表情を変えないようにしているのだろう
 けど、傍から見る限りそれは成功しているようには見えなかった。

 「いえ、そんなことは」

 蓉子も自分で結果が理解できたのだろう。結局は白薔薇さまから顔を背けるように答えることで逃げて
 しまった。そのゆがんだ横顔に浮かんで見えるのは哀しみと、寂しさと、自分自身を縛り付けてしまう
 ほどの聖への想い。

 「そう、だったら良いのだけど。あまり気にしてはだめよ?あの子にはあの子の考えがあってのことだ
  だけど、ちゃんと蓉子ちゃんの事は判ってくれているから」
 「ありがとうございます。白薔薇さま」

 最後に短いやり取りを交わして、白薔薇さまも部屋を出ていかれた。
 残ったのは蓉子と江利子。ふたりだけ。

 「お茶でも入れましょうか、蓉子」
 「江利子……」

 驚いたように江利子を見上げる蓉子に向かって、小さく微笑みながら彼女の目の前の空になったカップを
 トレイに乗せる。

 「白薔薇さまの言うとおりよ。蓉子は気にし過ぎね」
 「わかっている……わよ」

 小さく呟く様に応える蓉子の唇は、普段のような艶やかさは見られずに乾ききっていた。
 江利子は、カップを載せたトレイを手に流しへと歩いていく。
 両手を顔の前で組み合わせ、額をその手に預ける蓉子の辛そうな横顔を視界の隅に捕らえながら。
 聖が久保栞という1年生に心の全てを向けていることは既に山百合会幹部の2、3年生の知るところでは
 あったけれど、それが聖にとっても久保栞さんにとっても良くないことであるのは明らかだった。
 もちろん、それを完全に否定することなどしたくもないし、必要も無かったけれど、二人に一定の距離を
 空けさせてあげなければならない、聖本人以外の皆はそう思っていた。
 二人は、特に聖の方は、お互いを求めるあまりにお互い以外の世界を拒絶しつつある。それは二人にとっ
 て決して明るい未来をもたらす道ではないだろう。だからこそ、何度怒られても、何度嫌われても、蓉子
 は聖にそのことを伝え続けているのだった。

 「そろそろね」

 左腕に巻かれた小さな腕時計。その長針の位置を確認して、江利子はポットで蒸らせていた紅茶をカップ
 にゆっくりと注ぎ始めた。
 白磁の上品なカップをほどよい色をした紅茶がゆっくりと満たしていく。
 現在の薔薇の館の住人の中で、江利子は決してお茶を煎れるのが上手なほうではなかったけれど、他の人
 と比べれば充分以上においしい紅茶を煎れることが出来た。
 紅茶を注ぎ終えたティーポットをそっとシンクの上に置き、いつもよりほんの少し多めに砂糖を入れる。
 こんな時は少し多めに糖分を取るのが良い。そうすれば気持ちも少しは楽になるから。
 まだ一年生のころ、聖のことで少し落ち込んだ白薔薇さまに、江利子のお姉さまである黄薔薇さまがそう
 言いながらお茶を入れていらした時に教えて頂いて以来、江利子はずっとそれを守っていた。

 「どうぞ」
 「ありがとう、江利子」

 蓉子が顔を上げて礼を言う。
 さきほどよりも随分と良くなった顔に、微笑を浮かべながら。
 蓉子は自身で心の浮揚が出来たようだった。

 「どういたしまして」

 蓉子がカップに口を付けるのを確認して、江利子も自分のカップを手に取った。
 少しの間、部屋の中を静寂が包み込む。
 江利子も蓉子も口を開かず、ただぼんやりと部屋の中を眺めたり、ときおり視線を交わしながらゆっくり
 と紅茶を啜っていた。

 「最近、こうして江利子にお茶を入れてもらうことが多いような気がするわ」
 「そうかしら?」
 「ええ……」

 蓉子が不思議そうに顔を向けて来るけど、江利子はいつものようにさほど面白くもないといった雰囲気で
 受け流す。
 実際に随分と回数は多い。
 それは蓉子が聖と、栞さんの関係に気がついてから始まったことだった。
 蓉子が聖にお節介を焼き、聖に怒られる。そして、沈んだ蓉子の気持ちを江利子がやわらげる手伝いをす
 るのがその構図。

 「気のせいでしょう」
 「江利子……」

 聖を想う蓉子の心。
 それが自分に向けられたものだったなら。きっと蓉子にこんな想いなどさせなかったのに。そう思う事は
 たびたび有った。けれど、それを口にすることは決して出来なかった。
 それを口にしてしまえば蓉子を傷つけてしまうから。

 「それにしても、あなたとこんな風にここでお茶を飲んでいるなんて不思議ね」
 「そっくりお返しするわ」

 感慨深げに微笑む蓉子に向かって、江利子も同じように微笑する。
 蓉子と出逢った中等部。たしかにその頃はそんなこと想像もできなかった。もちろん、聖とも。
 聖と出逢った幼稚舎、3人が同じクラスになるという不思議な偶然が起こった中等部。どれも今となって
 は懐かしい思い出になりつつある。
 でも……。
 江利子も蓉子も、あの頃だったならこんな想いを抱かずに済んでいたのに。
 友情、なんていう言葉では括りきれない蓉子の聖に対する想い。
 そして、それと同種の想いを江利子は蓉子に対して抱いていた。はっきりした出来事は無かったように思う。
 クラスメイトして、友達として、蓉子を見続けているうちに想いはどんどんとたかまっていった。
 恐らく聖に対する蓉子の想いも同じような道を辿ってきたのだろうと思う。

 「聖、大丈夫かしらね」
 「……」

 先ほどまで、いくらか明るさが戻ってきていた蓉子の表情が曇る。
 江利子自身にも自分がなぜ今、聖の名前を出してしまったのかわからない。蓉子が再び落ち込むのは目に見
 えていたのに。

 「どう……なのかしら。でも、このままじゃ良くないとは…・・・思う」

 言葉を途切れさせながら、蓉子は今思っているだろう事を江利子に話した。
 心の本当の部分は隠しながら。「聖が好き」という本当の思いは。

 「蓉子……」

 テーブルの上に置かれた蓉子の手の上に、自身の手を重ねる。

 「江利子……?」

 少し驚いたように蓉子が江利子に顔を向ける。

 「蓉子は蓉子の思うようにやってみて。わたしには多分、あなたを支えてあげるくらいしかできないから」
 「江利子……」

 蓉子と聖の関係には干渉しない。ううん、出来ない。だから蓉子を、彼女が必要なときに支えてあげるくら
 いしか、江利子には出来なかった。どれだけ想いを募らせても、それを蓉子に伝えることは出来そうに無かっ
 たから。

 「ありがとう、江利子」

 心から寄せられる蓉子の信頼と友情の微笑み。江利子にはその微笑が眩しくも心に突き刺さる棘のように感
 じられた。
 蓉子が求めているのは聖。
 江利子が求めるのは蓉子。
 静かな薔薇の館の2階にながれる切ない想いの渦に、江利子はやりきれない何かを感じて、静かに席を立った。

 「江利子?」
 「ごめんなさい、今日はそろそろ帰るわ。蓉子はどうするの」

 一時、逡巡するような表情を見せ、蓉子は柔らかく首を振った。

 「もう少し、ここにいるわ。ごめんなさい」
 「あまり思いつめないでね、蓉子。それでは、ごきげんよう」
 「ごきげんよう、江利子」

 微笑を向けて、蓉子に挨拶をして、江利子は薔薇の館を後にした。
 正門に向かう。
 本当なら反対側にある裏門のほうが良いのだけれど、今日はなんとなくマリア様を通る正門に足が向いた。
 並木を抜けると、小さな森の中にマリア様が浮かんで見えた。
 終業からやく1時間、帰宅部の生徒と、部活の生徒が下校を始めるまでの狭間であるためか、マリア様にお祈
 りをしている生徒の姿は一人も見えない。

 「……」

 江利子は静かに、口を固く結んだまま、マリア様を見上げた。
 ゆっくりと両手を胸の前で合わせる。

 (マリア様……)

 願うは想い。求めるは蓉子の心。
 狙った事には喰い付いて離れない、普段の自分をうらやましくも思いながら、こと蓉子のことに限っては全く
 臆病な自分を見つめ、静かに祈る。

 (蓉子と……)

 蓉子と、なんなのだろう。どうしたいのだろう……。
 蓉子を思い過ぎるあまり、己の想いを告げることもできず、蓉子が思いを募らせる聖に対して、親友として何
 ら行動することもできない。
 そんな自分に軽い嫌悪を抱きながら、江利子はマリア様へのお祈りに捧げる言葉を途中でやめてしまった。
 足早にマリア様の森から離れる。

 求めるのは蓉子ただひとり。
 
 いつか、蓉子を傷つけることなく、この想いを伝えたい。想いが報われなくとも、届けるだけは……。

 「蓉子……」

 江利子は小さく流れ出した涙に気付かない振りをして、正門を駆け抜けた。
 伝え得ぬ想いを隠したまま。

  − Fin −



ごきげんよう。
黄山まつりです。また江利子さま・蓉子さまです。
祐巳・瞳子をお待ちくださってる皆様すみません。どうにも祐巳・瞳子はネタが
浮かびませんで…。
拙作、「Snapping turtle」の前作にあたる位置になるかと思います。
今回は、江蓉同盟参加記念作品と言うことで…


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