Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


『惑わされて』


 穏やかな春の日の午後。
 並木道の桜も満開と言ってよい具合で、既に花びらをひらひらと舞い散らせていて夕暮れにもなる
 と幻想的な雰囲気を醸し出し始めている。
 今のところ、まだ日はそれなりに高くてそんな雰囲気ではないけれど、薔薇の館の窓からも咲き誇
 る桜の花が少し見て取れる。

 「はぁ……」

 お姉さまが卒業なさって間もなく2ヶ月。
 高等部に進学してから今までの間、殆ど一緒に過ごしたせいか、傍らにお姉さまがいらっしゃらな
 いと言う現実に時々とてもつもなく不安を感じる。

 「なあに、令ったら溜息なんか吐いて。5月病にはまだ早いわよ」
 「祥子は情緒がないわねぇ……」

 声の主を振り返る事も無く、答えた。
 見る間でもなく、呆れたような顔をしながら令を見ているだろう事は想像するまでも無い。
 好き嫌いが激しくて、我儘で、ちょっとしたことでヒステリックに声を荒げたり。
 祥子と付き合い始めて2年間、嫌と言うほど見てきた彼女の欠点。でも、それと同じか、それ以上
 の魅力も見続けてきた。優しくて、人のことを自分の事のように心配したり、どんな事にも毅然と
 して立ち向かって行く勇気。令自身や由乃、お姉さまたちにも無い祥子の魅力。

 「失礼ね。私にだって情緒くらいあるわよ」

 恐らく、口を尖らしているだろう祥子の表情を想像して、気分が幾らか楽になる。
 桜と、ぽかぽかする温もりのせいか、普段以上にメランコリックになっている自分が少しずつ醒め
 て行くのが解る。

 「祐巳たち、遅いわね。由乃ちゃんが来ないからって何時までも呆けているのでは無くてよ、令」
 「祥子こそ失礼ね。呆けてなんか居ないわよ」
 「あら、それは失礼したわ」

 祥子とポンポン言い合うのは楽しい。
 由乃のようにずっと寄り添い続けた関係では無く、一定の距離が開いている分、掛かってくるプレッ
 シャーが軽い所為だろうか。祥子にとっても令はそういう存在なのだろうか……。

 「マリア祭の準備にそろそろ掛からないとばたばたしてしまうわよ」
 「解ってる」

 窓の外の景色を名残惜しむように、令は体をテーブルに向け、目の前にあるルーズリーフを開く。
 マリア祭。幼稚舎から大学まで、リリアンに通う全ての乙女が参加する一大イベント。高等部では
 新入生歓迎会まで含まれる。生徒会である山百合会、その役員である自分達薔薇さまの挨拶から1
 年生に手渡されるおメダイの授与まで。段取りやら物品の手配。進級したばかりの薔薇さま達にと
 り、初めて単独で任される行事だ。

 「ねえ、祥子。祐巳ちゃんとうまく行ってる?」
 「うまくとは、どういう意味かしら」

 ふっと祥子と祐巳ちゃんの関係が気になって口にしてしまった。
 途端に祥子の顔に険しさが表れる。

 「仲良くやっているかってこと」
 「そういう意味なら、うまくやっていけていると思うわ。令の方こそどうなの?」
 「そういう意味だったら由乃とは問題ないよ」
 「そう」

 会話が途切れる。
 会議室に静寂が訪れる。リーフのページをめくる音、ペンを走らせる音、開け放たれた窓から聞こ
 える運動部の掛け声や小さな鳥の声。それらだけが時折部屋の中を駆け抜ける。祥子もそれきり令
 に顔を向けず、令も意識して見ないようにした。けれど、欲求には抗えず、ちらちらと祥子を見て
 しまう。凛々しい顔立ちや長く艶やかな黒髪。淡いピンク色の唇。部屋が暖かい所為だろうか。時
 々乾いた唇を湿らせるように祥子の舌が唇を小さく撫でては消えていく。
 令も同じように舌を唇に這わせる。

 「ねえ、祥子」
 「何?」

 彼女は顔を上げずに応じる。

 「祐巳ちゃんとキスとかした?」
 「!」

 パキっと小さな音がして、祥子はばっと顔を令に向けた。鋭い視線で令を睨みつける。心持ち顔を
 紅く染め、まるで相手を射殺すような視線で。その視線に令は体が小さく震えるのを感じた。恐怖
 などではない。由乃相手では絶対に感じる事は無い、ぞくぞくするような感覚。
 目の前を窓から入ってきたであろう、桜の花びらが落ちて行く。並木からは結構離れている筈なの
 に。

 「したこと無いんだ」
 「あ、当たり前でしょう」
 「じゃあ、蓉子さまとは?」

 彼女のお姉さまの名前に祥子の顔は更に赤味を増してゆく。令の知る限り、祥子は蓉子さまとは何
 度か唇を重ね合わせている筈だった。祥子の瞳の色に厳しさが増す。
 ゆっくりと席を立ち、左手の指先で純白のテーブルクロスを撫でながら祥子に近寄る。

 「令、貴女おかしいわよ!」

 祥子のきつい声が部屋に響く。
 けれど、令は躊躇う事無く更に祥子の近ずく。

 「令!」

 祥子の顔色が変わる。先ほどまでの怒りと恥ずかしさがない交ぜになった赤ら顔と異なり、言い知
 れぬ恐怖のような物を感じているように。
 令自身、自分が何故こんな気持ちなのか良くわからなかった。祥子が魅力的に過ぎるから?解らな
 い。ただ押さえる事の出来ない欲望が令の身体も、心も支配しているだけのように想えた。祐巳ちゃ
 んは?由乃は?お姉さまは?蓉子さまは?

 「い、いや……」

 祥子の頬に手を添える。
 その瞬間、彼女はビクッと身体を震わせ、拒絶の言葉を発する。
 嫌なら逃げればいいのに……。
 どこか醒めたところで自分では無いような自分が囁く。

 「祥子……」

 桜の花びらが吹雪のように視界を流れて行く。桜並木からは離れていて、しかも薔薇の館の屋内だと
 言うのに。それは幻なのかも知れない。こんなところにそんな大量の桜の花びらが舞うはずが無いの
 に。

 「ん、ん!」

 祥子の唇を奪う。
 柔らかい……。
 由乃とはまた違う唇の感触に、令は背筋が震える。
 長いキス。
 けれど、心はまだ満足していなかった。
 そっと祥子の唇を割り、舌を挿し入れる。

 「うぅ、んん!!」

 祥子の腕に押し離すような力が掛かる。
 無意識のうちに令の腕がそうはさせじと、強引に祥子を抱きしめる。
 更なる快楽を求め、令の舌が祥子の舌を求め、絡まる。
 瞳を閉じても尚、視界が桜の花びらで一杯になってゆく。

 春の暖かい午後のぬくもり……。
 幻である筈の桜の花びら……。
 その全てが……。

 桜は人を惑わせる……。
 有り得ざる現実。
 心の深淵で求めていたのは彼女だったのだろうか……。

 桜は人を惑わせる……。

  − f i n−


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