Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


『想いが過ぎて』


 その日はなんの変哲も無い一日だと思っていた。
 そう、教室であの事件がおこるまでは。
 客観的に見れば事件と呼べるような事ではなかったのかも知れない。
 けれども、自分にしてみれば大事件だったのだ。

 それは、その日のお昼休みに起こった。
 ちょうどクラスメイトと昼食後の談笑をしていたその時に……

 「瞳子さん、お客様ですわよ」

 後ろの扉に程近い席で友人と話をしていたクラスメイトが自分の名前を呼んだので、
 瞳子はそちらのほうに顔を向けて「はい」と返事をした。
 名前を呼んだクラスメイトは「きゃー」といった声を上げて友人のところに戻って
 いった。

 −どなたかしら?

 クラスメイトは何か舞い上がっているようにも見受けられ、訪問者の方のお名前を
 告げる事を完全に失念していた様子だった。
 瞳子が扉の前まで行くと……

 「瞳子!」
 「きゃあ!」

 聞きなれたお声と共に、その方は抱きついてこられた。
 もう、いい加減諦めるしかないのかしら。
 その方のなさった事に今更驚かされる自分を情けなく思いつつも、瞳子はその方の
 声を聞いて嬉しくなった。

       ロサ・キネンシス・アン・ブトゥン
 「きゃあ!紅薔薇さまのつぼみが瞳子さんに」
 「本当に仲が良くって羨ましいわ」

 クラスメイトの嬌声が聞こえる。
 少し前までは皆、吃驚して声も出なかったというのに最近では慣れたものなのか、
 羨むような声が多数をしめている様子だった。
 一人を除いて。

 「お姉さま、たまには普通にいらっしゃられないんですか?仮にも紅薔薇さまの
  つぼみでいらっしゃるお姉さまがこのような事をされていては瞳子の同級生た
  ちにお示しがつきませんわよ」
 「うぅ、瞳子冷たい」

 お姉さま。福沢祐巳さまが悲しげな声で仰る。
 ここで甘やかしてはいけない。あと数ヶ月で紅薔薇さまである祥子お姉さまも卒
 業なさってしまうというのに、紅薔薇さまのつぼみであるお姉さまがこのままで
 はいけないのだから。
               ロサ・キネンシス
 「お姉さまはもうすぐ『紅薔薇さま』としてリリアンの生徒達を導いていかなけ
  ればならないのですから、もう少し自覚を……」

 そこで言葉が途切れた。
 目の前で本当に泣き出しそうなお姉さまを目の前に見てしまったから。

 「お、お姉さま!?」
 「そう…だよね。ごめんね瞳子」

 そう仰って祐巳さまは回れ右をするように廊下をとぼとぼと歩き出してしまわれ
 た。
 慌てて追いかける。

 「お姉さま、何かあったのですか?」

 こんな祐巳さまを見たことは無かった。いつも百面相と言われる祐巳さまだった
 けれども、こんな悲しいお顔をされているのは見たことが無かった。
 なんだか祐巳さまが遠くに行ってしまわれるような気がしてその細い手首を強く
 掴んで引き止めた。

 「ねえ、瞳子はわたしが居なくなっちゃうとどうする?」
 「え……」

 祐巳さまが瞳子を振り返る事も無く小さく呟いた。
 祐巳さまが居なくなる……
 そんな事、考えた事も無かったし考えたくも無かった。

 「あ、ご、ごめんね!変なこと言っちゃって。瞳子の顔が見たかっただけだから」

 そういって一瞬緩んだ瞳子の腕をするりと抜けて祐巳さまは去っていってしまった。
 スカートのプリーツを乱さないぎりぎりの速さで。
 それは祐巳さまだけの特技だった。

 「お姉さまが……いなくなる?」

 祐巳さまが仰った事が頭の中に響いてそれ以上追いかける事が出来なかった。
 そんなことある筈がないのに、言いようの無い不安が渦巻いて仕方がなかった。

 それが総ての発端だった。

 「瞳子さん、酷い事をするのね」
 「可南子さんには関係有りませんわ」

 教室に戻ると細川可南子が仁王さまのように瞳子の前に立ちはだかっていた。
 その相手を威嚇するような長身を憎憎しげに思いながらすっとかわして席に戻った。

 「祐巳さまの『妹』だからといって何をしても言いという訳ではないでしょう」
 「瞳子が悪いとでも仰りたいのかしら」

 相変わらず、瞳子には棘のある言葉をぶつけてくる。
 体育祭で祐巳さまと関係を修復されたら今度はその矛先を瞳子に向けてくる。
 お姉さまの取り成しもあったので表面的には瞳子も仲直りをしたけれど、やはり相
 容れないものはどうしようもなかった。

 「ふん」

 そういい残して細川可南子は自分の席に戻っていった。
 ちょっと背が高いからといって性格まで居丈高になる事は無かったでしょうに。
 心の中で瞳子は毒づいた。はしたない事だとは解っていたけれども、どうしようも
 ないことは変えられそうに無かった。

 「何かあったの?」
 「瞳子もよく解りませんの」
         ロサ・ギガンティア・アン・ブトゥン
 斜め後ろから白薔薇さまのつぼみ、二条乃梨子さんが話し掛けてきた。

 「放課後、志摩子さんにも聞いてみるね」
 「お二人だけの時以外は『お姉さま』でしょう?」
 「瞳子の前でも同じでしょ」

 同じ1年生でありながら、つぼみでいらっしゃる乃梨子さんは白薔薇さまが関係な
 さっていない限りとても頼りになる親友だった。
 けれど、今回ばかりは瞳子にもまったく訳がわからないので相談しようにも出来な
 かった。

 「まあ、可南子さんの事は置いておくしかないね」
 「そうですわね」

 そういって話を一旦打ち切った。
 5限目の数T担当の教師が教室に入ってこられたから。

 放課後、演劇部にまず顔を出した。
 お昼休みに教室に来られた祐巳さまの事がどうしても気になったので急いで薔薇の
 館に行きたかったけれど、演劇部にお休みの断りを入れなければならなかったから。
 部長は「学園祭も終わったから山百合会優先で構わないわよ」と言ってくださった。
 お言葉に甘えて、しばらくは部活を休みがちになる事を伝えることにした。

 「あら、瞳子ちゃん」

 演劇部が練習に使っている講堂から中庭を横断して薔薇の館に向かっていた瞳子は
 中ほどまで来たところで自分を呼ぶ声に気が付いて振り返った。
 ロサ・キネンシス
 「紅薔薇さま」

 振り返った先には『紅薔薇さま』である小笠原祥子さまがにこやかなお顔をして歩
 いて来られていた。
 長く艶やかな黒い髪がとても綺麗に、柔らかな風に小さく揺れていた。

 「どうかしたのかしら?そんなに急いで」
 「え、そんなに急いでいるように見えましたか?」
 「ええ。歩いてはいたけれども、心はすごく急いでいるように感じたわ」

 まるで何もかもお見通しのような祥子お姉さまの言葉にどきりとする。
 祥子お姉さまには敵わない。正直なところそう思った。

 「瞳子ちゃん、なんだか祐巳に似てきたわね」
 「え、え」

 祐巳さまに似てきた?
 いったいどこがだろう。確かに両耳の上で結んだリボンとかは似ているかも知れな
 いけれども、それ以外に祐巳さまとの共通点なんてあったかしら。

 「急いでるって、顔に書いてあるわよ」
 「ええ!」
 「祐巳のように百面相、とまでは言わないけど五十面相くらいはしていてよ」

 祥子お姉さまが苦笑しながら仰った。
 確かにもともと表情は豊かなほうだったけれど、いつのまにそこまで気持ちが表情
 に出るようになっていたのだろうか。
 なんだかとても恥ずかしかったけれど、祐巳さまに似ていると言われて嬉しかった。

 「歩きながら話しましょう」

 優しいお顔を浮かべて、祥子さまは瞳子の肩に手を置いて歩き出された。
 瞳子も促されるまま、薔薇の館に向けて足を動かした。
 道すがら、祥子様に全てをお話した。
 祐巳さまがお昼休みにいらっしゃったこと、自分が居なくなったらと仰ったことなど
 を全てお話した。
 祥子さまなら何かご存知かも知れない、もしかしたら原因すら承知しているかも知
 れないと、そう思ったから。

 「残念だけれど、わたしは何も知らないのよ」
 「そうなんですか」
 「ええ、昨日までは特に変わった事もなかったようだし、今日はまだ祐巳に会って
  いないし」

 瞳子の期待は叶わなかった。
 祥子さまにも解らないなんて。けれども、そう仰る祥子さまのお顔は不安など微塵
 も感じさせる事無く、先ほどと同じように微笑んでいらっしゃった。

 「祥子さまは祐巳さまのことご心配ではないんですか?」
 「あら、心外だわ」

 瞳子の言葉で祥子さまは行き足を止めて本当に意外そうに瞳子に振り向いた。
 けれど直ぐに笑顔に戻られてはっきりと仰った。

 「本当に祐巳が悩みを抱えているのなら心配もするし、要らないと言われても何事
  か祐巳に問い質しもするわよ」
 「では、なぜ」
 「それは、わたしが干渉すべき事ではない事がはっきりしているから。勿論、祐巳
  にはいつも笑顔で居て欲しいわ。それがわたしにとっても幸せなのだから」

 祥子さまが干渉すべきではないこと?
 それは祐巳さまのお悩みの原因がはっきりと解っているから言える事ではないのか
 しら。でも、さっき確かに祥子さまは「わたしは知らない」と言われた。
 知らないけれど、解っているという事?。でもそんな事って……。

 「ふふふ」
 「祥子さま!」

 薔薇の館に到着して、二階へと階段を昇っている途中で祥子さまが急に声をだして
 笑われたものだから、ついそれを咎めてしまった。

 「ごめんなさい、瞳子ちゃん。でも、なんだか貴女と祐巳が微笑ましくて」
 「微笑ましい?」
 「祐巳は貴女に会えなくなったらって言ったのよね」
 「はい」
 「祐巳らしいわ」

 祥子さまは本当に可笑しそうに瞳子を見て仰る。
 それが瞳子にはなんだか面白くなかった。
 瞳子には判らない祐巳さまのお心をまるで何もかもご存知な様子で面白くなかった。
 確かに祐巳さまとのお付き合いは瞳子のほうが短いけれど、その差は半年も無かった
 筈なのに。
 祥子さまはそのままビスケット扉を開けて中に入っていった。
 瞳子も続く。
 薔薇の館の会議室には、黄薔薇さま、白薔薇さまのつぼみの二人しか居なかった。

 「ごきげんよう。令、乃梨子ちゃん」
 「ごきげんよう」

 何事も無く挨拶が交わされる。
 瞳子は不思議に思った。祐巳さまも含めて2年生の方が誰もいらっしゃらない事を。 
 ふっと乃梨子さんに目を向けると、瞳子を見てなんだかくすくすと可笑しいそうにして
 いた。
 なにかしら?
 おかしな所でもあるのかしらと思って見える範囲で自分の姿をチェックするけれど、特
 におかしな風になっている所はなかった。

 「乃梨子さん、なにか可笑しくて?」
 「え、まだ気づいてないの」

 乃梨子さんのお隣に腰を降ろして小声で聞いてみたら、本当に可笑しそうに見つめ返し
 てきた。解らないから聞いているんでしょう、本当に意地悪なんだから。

 「薔薇さま達を見てごらん」

 言われてテーブルの反対側に座っている祥子さまと令さまに目を向ける。
 すると、乃梨子さんと同じようにお二人も可笑しそうに瞳子を見ている。

 「瞳子は何かおかしな格好をしているんですか?」

 一体なんですの?訳がわからないので思い切って祥子さまに聞いてみた。
 そうしたら、祥子さまは「まあ」といって更に可笑しそうに目を丸くして仰った。

 「別に格好がおかしいのではなくてよ、瞳子ちゃん」
 「うん、どこもおかしくない」

 令さまも続けて仰った。
 なら一体全体何がおかしいのだろう。全く持って解らない。

 「ごきげんよう、お姉さま」
 「ごきげんよう薔薇さま方」
 「ごきげんよう、お姉さま方」

 頭を抱えそうに悩んでいたところで、祐巳さまたち二年生の方々がビスケット扉
 を開けて入ってこられた。

 「お姉さま!」

 祐巳さまが瞳子に目で挨拶しながら祥子さまの所に駆け寄っっていった。
 由乃さまはわき目もふらずに令さまのところへ。
 志摩子さまは優雅に乃梨子さんのお隣の席に座られた。
 なんだかお姉さま方がいつもと少し違う。

 「祐巳、気持ちは判るけれどもう少し落ち着きなさい」
 「あ、すみません。お姉さま」

 祥子さまに注意されたにも拘らず、祐巳さまは嬉しそうにしていた。
 由乃さまも同じように令さまに注意されながらもにこにこしている。

 「暫くの間だけでしょう、それに折角なのだから楽しい思い出を作ってらっしゃい」
 「はい、でもやっぱりお姉さまや瞳子に逢えないのは淋しいです」
 「もう、本当に甘えん坊なんだなから」

 祥子さまは祐巳さまのタイを直しながら微笑んでいる。

 −暫く逢えない?

 一体何の事なの。
 祥子さまや瞳子に逢えないというのは。祐巳さまが本当にどこかに行ってしまうと
 いうのだろうか。

 「もう、瞳子って妙なところで抜けているんだから」
 「なんですって」

 乃梨子さんをキッと睨んだ。抜けていると言うのは少し失礼じゃないですか。
 でもそのお顔は先ほどと同じく、くすくすと笑っていた。

 「お姉さまたち、明日から修学旅行なんだけど」
 「えええええ!!」
 「と、瞳子!どうしたの!」

 祐巳さまが慌てて瞳子のところに飛んできた。
 そこにはいつものお姉さまがいらっしゃった。そういえば、ニ、三日前にそのよう
 な事を祐巳さまは言ってらした気がする。
 という事は、お昼休みのあの祐巳さまの泣き出しそうなお顔は……
 かーっと顔が赤くなる。
 信じられない、たった一週間お逢いできなくなるだけなのにまるで今生の別れのよ
 うなお顔をされて抱きついてきたなんて。

 「お、お姉さま!」
 「な、なに。瞳子?」

 祐巳さまがびくっと身を退かせる。
 その表情はまるで覚えの無い事を咎められているような表情だった。

 「たった一週間お逢いできなくなるだけで、あんな悲壮なお顔をされていたんです
  か!」
 「え?え?」
 「お昼休みの事を言っているんです。あの時のお姉さまが気になって気になって瞳
  子はどれだけお姉さまの事を心配したと思っているんです!」
 「あ、でも、だって」
 「でもも、だってもありません」
 「瞳子は一週間も逢えないのに淋しくないの」
 「そ、それは……」

 一気にまくし立てる瞳子に祐巳さまはお目目うるうるな表情で訴えかけてきた。
 ずるいですわ、お姉さま。そんなお顔されたら瞳子は……

 「……淋しいです」
 「だよねーー」
 「きゃっ」

 また祐巳さまが抱きついてこられる。
 さっき泣いた烏が、といった様子で。
 でも、そこまでお姉さまに想われて瞳子は幸せです。

 「はいはい、祐巳の瞳子ちゃんへの想いはわかったから。わたしだって淋しいのよ」
 「お姉さま!」
 「あ……」

 祐巳さまは祥子さまのほうに戻っていかれた。
 もう少し祐巳さまに抱きしめてほしかったのに、祥子さまの意地悪。

 「瞳子ちゃんにばかり祐巳を独占されるのは悔しいもの」
 「紅薔薇さまっ」

 祥子さまが意地悪そうに瞳子に微笑を送ってくる。
 乃梨子さんや由乃さまも瞳子たちをみてお笑いになっていた。
 もう、みんな本当に意地悪なんだから。
 お姉さまには罰として一杯お土産をおねだりしよう、そう心に決めた。
 来週、戻ってこられたお姉さまに一杯一杯甘えて。
 勿論、旅先からの電話だって一日でもなかったら思い切り拗ねてあげますからね。

 −大好きなお姉さま。

  − f i n−


ごきげんよう。
今回、普通の小説のように書いてみました。
細かい描写が出来る代わりにやはりかなり長くなってしまいました。
たかだか3時間程度の出来事の描写なんですけど。
つまらない落ちですみません。
でも、甘甘の瞳子・祐巳が書けてとっても楽しかったです。
ここまで読んでくださった方有難うございました。
これに懲りずにまたお付き合いくださいませ。
それではまた近いうちに。


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