Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


『キスという名の枷』


 「はぁ…」

 お風呂の中で乃梨子は大きくため息をついた。
 そのまま体を沈め、鼻のすぐ下まで顔をお湯につける。

 「志摩子さん…今日だけで…あんなに一杯…」

 思い出しただけで顔が真っ赤に染まり、体中が熱くなってくる。
 湯船にたゆたう髪の毛の先っぽを見ながらつぶやく。
 その声はお湯の中で発せられた為、傍目には『ぶくぶく』としか聞こえなったけれども。

 「リコ!いつまで入ってるんだい!のぼせるよ」
 「はぁーい」

 菫子さんが大きな声で言った。
 そうでなくてものぼせそうな事を思い返していただけに本気でそろそろ危なかったので
 乃梨子はとりあえず、湯船からあがった。

 「はぁ…」

 また、大きなため息が出た。

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 それは今日の夕方の出来事だった。
 山百合会のメンバーは学園祭の準備のため、夏休みの自主登校を始めて今日で3日目。
 いつものように2階の部屋には総勢6人の山百合会幹部が勢揃いしていた。
ロサ・キネンシス  ロサ・フェティダ
 紅薔薇さまは黄薔薇さまと小さな声で何事が打ち合わせをしていて。
ロサ・フェティダ・アン・ブトゥン
 黄薔薇さまのつぼみの由乃さまは何かの資料をめくりながら、ノートに時々何かを書き
 とめていた。
ロサ・キネンシス・アン・ブトゥン
 紅薔薇さまのつぼみである祐巳さまは購買部に走ったり、どこかのお店に電話を掛けに
 いったりと忙しなく薔薇の館を出たり入ったりしていた。
                ロサ・ギガンティア
 乃梨子の姉である白薔薇さまの志摩子さんは予算や何かの計算をもくもくと続けていた。
 そして、乃梨子はというと時々志摩子さんから渡される計算の検算をするくらいで後は
 お茶をいれるだけで正直暇だった。

 でも、もくもくと計算を続ける志摩子さんの横顔を眺めているだけで実は幸せだったり
 するので、その時間を持て余すことなく満喫していた。

 「あーーーーーーーーーーーーーーー!」

 突然、リリアンの生徒とも思えぬ大きな声があがって皆が一斉に声の主を見た。
 声の主は黄薔薇のつぼみの島津由乃さんだった。

 「もう駄目ぇ。この妙な沈黙はなんなのぉ」
 「由乃。あのさぁ・・・」
 「なに!令ちゃん」

 由乃さまは黄薔薇さまであり姉である支倉令さまを「令ちゃん」とよんでいた。
 時々見ることが出来る由乃さまの実態。猫をかぶりきれなくなるほど心の余裕が失われ
 ると突然現れる。
 つまりそれだけ由乃さまはいまイライラしているということで。

 「せめて学校の中では”令ちゃん”って呼ぶの止めてっていってるでしょ」
 「だってぇ・・・」
 「だってじゃないの。ちゃんとお仕事しないと今度のデートはなしにするわよ」
 「ああ!それって横暴!」

 なんとなくほかのメンバーのお顔を伺うと…
 紅薔薇さまの小笠原祥子さまは手元の書類に目を落とし、祐巳さまはすこし焦ったよう
 な表情をしたり、笑顔になったりところころと表情を変えている。
 これが噂に聞く祐巳さまの百面相かぁ。なんて思ってみたりして。
 志摩子さんはというと、黄薔薇姉妹の事など目に入っていないかのように計算を続けて
 いた。

 あれ?

 いつもならハラハラした表情で成り行きを見守ったりしているのに。
 よくみると志摩子さんの手は電卓にも掛かっていなくて、シャープペンシルを持ったま
 ま止まっていた。

 志摩子さんがいつもと違う。
 まさに心ここに在らずという感じだった。

 「あの…お姉さま?」

 志摩子さんの肩をゆすってみるが、返事はおろか気づきもしないようだった。
 それにしても『お姉さま』はまだ照れくさい。いい加減慣れてもいいころなのになぁ。

 「お姉さまっ」

 もう一度呼んで見る。

 「ごめんなさい!乃梨子!わたし、なんてこと…を…」

 はっ。となって椅子から立ち上がった志摩子さんが発した言葉によって、部屋にいる全
 員が硬直した。
 その原因となった志摩子さんを含めて。

 −な…なんなの。いったい、何の事!

 乃梨子はパニック。志摩子さんは硬直。
 紅薔薇さま、祐巳さま、黄薔薇さま、由乃さまは志摩子さんと乃梨子を交互に凝視。

 「…あの…志摩子さん。いったいどうしたの」

 最初に立ち直ったのは以外にも、といったら失礼だけど祐巳さまだった。

 「あ、ああ、わたし…わたし…」

 志摩子さんは俯いて、何か言おうとしていたけれどもすぐ隣にいた乃梨子にようやく聞こ
 えるかどうかの声しか発せられていなかった。

 「今日はここまでにしましょう」

 紅薔薇さまがため息をつくように言った。

 「いいの?祥子」
 「今日中に処理しなければならない所は終わっているし、由乃ちゃんだけでなく志摩子ま
  であの様子ではこれ以上続けてもしようがないわ」
 「そうね」

 紅薔薇さまと黄薔薇さまが話されているのを聞いて、由乃さまは膨らませていた頬を元に
 戻して「やったー」っと両手をあげて喜んでいる。
 祐巳さまは先ほどとかわらず、心配そうに志摩子さんの様子を伺っていた。

 肝心の志摩子さんはというと、まだ俯いたままだった。

 「お姉さま、どこか具合でも悪いんですか?」
 「大丈夫、ごめんなさい乃梨子」
 「お顔、少し赤いような…」
 「大丈夫よ。さっきので…それで…」

 どうやら先ほどの台詞の事で照れているようだった。

 「志摩子さん、乃梨子ちゃん帰りましょう」

 祐巳さまが声をかけて来た。

 「いえ、まだちょっと計算が残っているので」
 「え〜。明日でいいじゃない」

 由乃さまも加わった。

 「由乃。誰のせいでこうなたと思っているのよ」

 令さまが不満そうに言った。

 「由乃のせいだっていうの!令ちゃん」
 「有難う、由乃さん祐巳さん。もう少しだけ計算が残っているから。後はわたしが片付け
  ておくわ」

 志摩子さんがこれ以上は無いと言うくらい美しく優しい笑みを添えて由乃さまと祐巳さま
 に言う。

 「志摩子さんがそう言うのなら」

 由乃さまはそう言って令さまと一緒にビスケット扉を出て行った。

 「無理しないでね、志摩子さん。片付けなら明日すればいいんだし」

 祐巳さまが尚、心配そうに声を掛ける。

 「祐巳さん。ありがとう」

 −む。

 志摩子さんが祐巳さまの言葉に嬉しそうにお礼を言った事が、なんだかちょっと面白くな
 かった。
 我儘なのはわかっているけど、乃梨子以外にそんなお顔を見せて欲しく無いと思って。

 「大丈夫です、祐巳さま。わたしもお姉さまと一緒にいますから」
 「乃梨子ちゃん」

 祐巳さまと志摩子さんの間に割って入るようにして言った。
 ちょっと刺があったかも知れない。

 「祐巳。行きましょう」
 「お姉さま」
 「それじゃ、あとはお願いするわ。志摩子、乃梨子ちゃん」
 「はい」

 乃梨子が答えたのを確認して祥子さまは祐巳さまをつれて部屋を出て行かれた。
 志摩子さんは後に残ったのが二人だけなのを確認すと計算を再開し始めた。
 けれども、またすぐに手を止めた。

 「乃梨子、あなたも先に帰って構わないのよ」

 志摩子さんが乃梨子の方に顔を向けることなく言った。
 彼女にとってはなにげない一言だったのかも知れない。けれどもどれは今の乃梨子の心
 に小さな刺となって刺さった。
 まるで乃梨子が『いらない』と言った様に思えた。

 「どういう…意味ですか」
 「え…意味って…」

 志摩子さんに問い掛けた。
 自分でも吃驚するくらい、その声は冷たかった。

 「わたしは邪魔ってことですか」
 「の…乃梨子。何を言っているの」

 自分でも「何を言っているのだろうと」と思った。
 志摩子さんがわからなく思えた。
 ついさっきまでそんな事欠片も思いもしなかったのに。
 志摩子さんが自分から離れていきそうな。そんな嫌な考えが頭に一瞬よぎった。
 ほんの一瞬。でもそれはほんの短時間でぐるぐると乃梨子を縛り付けてきた。

 「わたしは志摩子さんにとって『不要』だってことですか?」
 「乃梨子、あなた何を言っているの。そんなことあるはずがないでしょう」
 「じゃあ、なんで帰ってもいいって言うんですか!」

 −乃梨子。少しだけ付き合って頂戴。

 そう言ってくれればいいのに。
 そうしたらこんな嫌な考えもおきなかったのに。

 「志摩子さんが卒業するまで側を離れないって言ったじゃないですか」

 無茶苦茶だ。
 四六時中側から離れないなんて出来るはずも無いのに。
 理性では無茶苦茶なのはわかっていても、感情がそれを押しのけていく。

 「乃梨子、一体どうしたの。今のあなたがまるでわからない」
 「わからないのは志摩子さんのほうだよ!」

 涙が溢れてきた。こんなに想っているのに。
 わたしのことをわからないなんて言わないで!

 まるで癇癪をおこしている子供だわ。
 頭の片隅では冷静に自分を見ている。自分が暴走しているのもわかっていた。
 でも、止められなかった。

 「あの日、わたしにロザリオくれたのは何だったの!雰囲気に流されて?」

 −やめて!!
 心の中で悲鳴があがる。
 自分がしようとしていることに。

 「姉妹の契りってそんな安っぽいものだったの!だったらこんなもの…」

 涙声になって叫んでいる自分がひどく遠い存在に思えた。
 その遠い自分は首に掛けられたロザリオに手をかけていた。

 「乃梨子!!いい加減にして!!」

 志摩子さんは悲鳴のように叫んで乃梨子を抱きしめた。
 乃梨子の頭を抱えるようにして。
 その瞬間、声が出なくなった。いや出せなくなった。
 志摩子さんの唇に塞がれたから。

 信じられなかった。志摩子さんがそんな事をするなんて。
 でも、志摩子さんがその信じられない事をするほど自分を思ってくれていることだけは
 確信できた。
 同時に、頭の中は事態についていけずに完全に思考を停止してしまったけれども。

 どれほど唇が触れ合っていたかわからない。
 志摩子さんが解放すると同時に乃梨子は床にへたり込んだ。

 志摩子さんも膝を床について乃梨子を抱きしめる。
 今度は優しく、壊れ物を抱えるように。

 「し・・・まこ…さん」

 ようやくそれだけ言えた。

 「ごめんなさい…乃梨子」

 志摩子さんも泣いていた。

 「…怖かったの。乃梨子がわたしを想ってくれている事が」
 「どう…して…」
 「以前、あなたが言ったようにわたしはとても欲張りなの」

 志摩子さんは搾り出すように言葉を紡いだ。

 「自分の中でどんどん乃梨子の存在が大きくなって、おかしな夢までみて」
 「夢…」
 「わたしだって人間の女だわ、つまらない想像もするし情欲だってあるの。乃梨
  子を手放したくなくってイエズス様の教えに背くようなことだって考えてしま
  う。」

 イエズス様の教え?

 「同性を愛する事は罪…教えはそう説いているの…でも…」

 同性を愛する?

 「わたしは乃梨子が好き……いいえ愛している」

 永遠とも思える間を置いて志摩子さんは言った。

 ノリコヲ アイシテイル。

 言葉が音として頭の中に入ってくる。
 意味を伴わずに。

 −乃梨子を アイシテイル。
 −乃梨子を 愛している。

 何度もリフレインする志摩子さんの言葉の意味がようやく理解できたその時。

 「あなたが離れていくくらいならわたしは…」
 「それ以上、言わないで!!」

 今度は乃梨子が志摩子さんの唇を塞いだ。
 志摩子さんは自分を責めている。
 これ以上言葉を続けたらきっと大変なことを言ってしまう。
 それは、それだけは止めさせたかった。
 例え、信仰は心の中が最も重要だとしても、口に出してしまったらそれで志摩子
 さんが壊れてしまうような気がした。

 「キスなんて、大した事ないよ」

 唇を離して、乃梨子は言った。

 「キスなんて挨拶じゃない…」

 キスは行為に過ぎない。本当ならそのキスをする時の意思が問題なんだろう。
 でも、それは志摩子さんにとって枷となる。
 だったら志摩子さんにキスをするという目に見える行為が枷にならないようしな
 ければならなかった。
 志摩子さんの心を守るためにも。
 さっきまで凍結していた頭を急いで解凍してフル回転させた。
 そうでなくても志摩子さんは思い込んだらどんどん自分自身を縛り付けていく人
 なんだから。思い上がりかも知れないけど今、それを緩めて上げられるのは乃梨
 子しかいないのだから。

 「そんな深刻に考えなくてもいいじゃない」
 「乃梨子…」
 「志摩子さんはわたしを『愛している』。わたしも志摩子さんを『愛している』」

 志摩子さんを見つめながら続ける。

 「その気持ちを言葉じゃない方法で確認しているだけ」

 乃梨子は願った。方便でもいい、捻じ曲がった理屈でもいいから志摩子さんがキス
 という行為を正当化出来てさえしまえば。
 そうすれば壊れなくても済むから。

 「乃梨子…」
 「志摩子さん…」

 今度はどちらからとも無く唇を交わした。
 志摩子さんのなかで、キスという行為を正当化させることに成功したと乃梨子は
 そのキスで確信した。

 「志摩子さん…わたし、ファーストキスだったんだよ」
 「ごめん…なさい、でも…わたしも…その…」

 志摩子さんは思い出したように顔を赤らめた。
 多分、自分も真っ赤になっているに違いない。
 乃梨子にとって生まれて初めてのキスは涙の味が一杯した。

 「志摩子さんが嫌がっても、わたしはたくさんキスしてあげる」

 志摩子さんは黙って頷いた。
 誰も居ない薔薇の館での、二人だけの密事。
 ここを見ているのはまだ暑い夏の日差しと、物言わぬ館の住人だけ。

 そう、ここならマリア様に見られることだけはなかったから。

  − f i n−


ごきげんよう。
今回なんかおかしいです。
最初はもっとライトな感じで思いついたはずなのに。
書いているうちにどんどん暗い話になっていってしまって。
UPするかどうかかなり迷ったんですがしてしまいました。
しかも乃梨子壊れ気味だし(滝汗)
乃梨子FANのかたごめんなさい。
しかも最初と最後で随分雰囲気ちがうし、志摩子は意味不明になっているし。
なんでこんな風になってしまったんだろうか…
あとがきも訳がわからなくなってきたので、このあたりで失礼いたします。
それではまた、近いうちに。


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