Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


『Bridle Ribbon』


 「瞳子ちゃん、そっちは終わった?」
 「今、最後の一枚です。祐巳さま」

 放課後、祐巳と瞳子ちゃんは薔薇の館で書類の処理をしていた。
 本来なら昨日までに処理しておかなければならなかった書類だったけれど、昨日の時点でいくつかの
 ミスが有ったので修正に時間を取られて今日まで掛かってしまっていた。
 瞳子ちゃんは祐巳の巻き添え。

 「まったく、祐巳さまはどうしてこんな些細なミスに気がつかなかったんですか」
 「ご、ごめんね」

 昨日、書類の頭の方で祐巳がミスをしてしまった所為で、後の処理をお願いした瞳子ちゃんの分まで
 ミスが連続してしまったのだ。
 この状況では、瞳子ちゃんに謝る事しか祐巳には出来なかった。

 「はい。終わりました」
 「こっちも終わり。良かった、間に合って」
 「これからは気をつけてください」
 「うん。本当に御免ね」

 もう一度謝って、祐巳は椅子から立ち上がり流しに向った。

 「瞳子ちゃんも紅茶で良い?」
 「あ、お茶ならわたしが……」
 「いいの、せめてこれ位はしないと。瞳子ちゃんに迷惑を掛けちゃったお詫び」

 椅子から腰を浮かせた瞳子ちゃんを制する。
 彼女は「そう言う事なら頂きます」と言って、再び腰を降ろした。

 「そういえば、皆様遅いですね」
 「そうだね」

 祐巳たち二人以外の面々は皆、校内に散っている。
 祥子さまと令さまは実行委員会との会議、志摩子さんと由乃さんは備品購入の段取りのため事務室
 へ。乃梨子ちゃんと可南子ちゃんは各クラブへ予定表を取りに周っている。
 本来なら祐巳たちもクラブの予定表回収に周らなければならなかったのだけど、先ほどの書類の修
 正のため、乃梨子ちゃんと可南子ちゃんがそれぞれ二人分周る事になってしまった。

 「はい、どうぞ」
 「有難うございます」

 瞳子ちゃんの前にティーカップを置く。
 そういった理由で薔薇の館には現在、祐巳と瞳子ちゃんの二人しか居なかった。
 二人とも先ほどまでかなり集中をしていたので、仕事を終えた後の満足感と脱力感からか、無言で
 お茶を啜っていた。

 「そういえば祐巳さま」
 「なに?」
 「劇の話ですけれど、祐巳さまの声は通りが悪すぎます」
 「へ?」

 瞳子ちゃんの突然すぎる話の振り方に、祐巳はかなり間の抜けた返事をしてしまった。
 どうしてこう祥子さまといい、瞳子ちゃんといい突然180度違う話を脈絡無く振ってくるのだろ
 う。生粋のお嬢様の条件にでもなっているのだろうかと、つまらない事を想像してみる。

 「去年の舞台の話です。祐巳さまだけ、お声の通りが悪くて姉のセリフがはっきり聞こえない所が
  たくさん有ったんです」
 「と、瞳子ちゃんって去年のシンデレラ……見ていたの?」

 なんで瞳子ちゃんが?去年はまだ中等部で……

 「当然ですわ。祥子お姉さまが主役をされるのに見に来ない訳がないじゃないですか。しかも王子
  様役は優お兄様でしたのに」
 「う……」

 瞳子ちゃんの言葉は全くもって当たり前のように思えた。
 彼女は祥子さまと親戚で、銀杏王子だった柏木さんとも親戚だったのだから。入場チケットは祥子
 さまからでも簡単に入手できたろうし、その情報だって祥子さまか柏木さんから簡単に手に入れる
 事だって出来たのだ。

 「祐巳さま、ちょっと立って頂けますか?」
 「あ、うん」

 瞳子ちゃんに促されるまま、祐巳は立ち上がった。

 「あえいうえおあお かけきくけこかこ」
 「あ、あえいう?」
 「そのまま大きく声を出してください」

 訳のわからぬまま、祐巳は言われたとおりに大きく叫んだ。

 「あえいうえおあお!かけきくけこかこ!」
 「違います、叫んではいけません」
 「そ、そうなんだ」

 瞳子ちゃんが眉間に皺を寄せて祐巳に注意する。
 そうか、これって発声練習なんだ。

 「お腹から声を出すようにして、もう一度」

 瞳子ちゃんは簡単に言うけれど、そんな練習したことの無い祐巳にとってはなかなかうまく行かな
 いのは当然のことで、何度やっても瞳子ちゃんに「駄目」を押される。

 「良いですか?ここに力を入れて喉で声を出すのでは無く、息を吐き出すのと同じように声を出す
  んです」

 言いながら、瞳子ちゃんは祐巳のお臍の上あたりをさらっと撫でていった。

 「うひゃう!」
 「へ、変な声を出さないで下さい。祐巳さま」
 「だ、だってぇ……」
 「だってじゃ有りませんよ」

 瞳子ちゃんが呆れたような顔をする。そうは言っても、突然お腹を撫でていく瞳子ちゃんもどうか
 と思うんだけど。

 「では、もう一度」
 「あえいうえおあお かけきくけこかこ」

 お、なんだかさっきよりも声に張りが出たような気がする。
 けれど、瞳子ちゃんはまだ納得行かない。という顔で祐巳を見ていた。

 「祐巳さま椅子に座って、背もたれにきちっと背を付けてもう一度お願いします」
 「う、うん」

 正直、まだ続けるのかと思ってしまったけれど、やりかけた事を途中で投げ出すのも悔しいのでそ
 のまま言われたとおりにする。
 それにしても演劇暦が長いだけあって、瞳子ちゃんの指導は堂に入っている。

 「あえいうえおあお かけきくけこかこ」
 「声を出すときに前屈みになってしまっています。だから声が沈むんです」
 「うー」

 厳しい。
 なかなか瞳子ちゃんの満足の行く声にならないようだ。

 「仕方がありませんわ。祐巳さま、両の手を背もたれの後ろで交差させてください」
 「こう?」

 祐巳が言われたとおりに手を動かすと、瞳子ちゃんがシュルッと自分の縦ロールを束ねているリボ
 ンを解いて祐巳の手首を縛ってしまった。

 「ちょ、ちょっと瞳子ちゃん」

 さすがにこれはやりすぎだろうと抗議の声を上げるが、瞳子ちゃんは取り合ってくれない。

 「これで背は伸びたままに出来ます」
 「解いてよー」
 「さ、祐巳さま。もう一度」

 どうやら及第点を貰えるまで解放して貰えそうにないので、諦めて声を出す。

 「あえいうえおあお かけきくけこかこ」
 「その感じです。続けてください」
 「あえいうえおあお かけきくけこかこ、あえいうえおあお かけきくけこかこ。あ……」

 部屋の中に、祐巳の声が木霊しそうなくらいに響き渡る。先ほどまでと全く違う響き方。

 「そうです。祐巳さまは筋が良いかも知れませんわ」
 「そうかな」

 練習を始めてから、初めて瞳子ちゃんが笑顔を返してくれる。
 祐巳も、一つの事をやり遂げた嬉しさから顔を綻ばせた。

 「じゃあ、そろそろみんなも帰ってくるだろうから手を解いて」
 「はい」

 瞳子ちゃんが笑顔のまま快く返事をして、祐巳の方に近づいてくる。
 すぐ前にまで来た瞳子ちゃんを祐巳は笑顔のまま迎える。そこで瞳子ちゃんがピタっと立ち止まる。
 なんだか困ったような、逡巡するような表情をしたり、そうかと思えば頬を染めたり、泣き出しそ
 うな顔になったり。祐巳が良く言われる百面相ってこう言う事を言うのかな、なんて妙に納得して
 しまう。

 「瞳子ちゃん?」
 「……ゆ、祐巳さまがいけないんですわ」
 「え?」

 ころころと変わっていた表情が何かを決心したような真剣なものになって、瞳子ちゃんの瞳が真っ
 直ぐに祐巳を見据える。
 一言。うわ言の様に祐巳を非難して、瞳子ちゃんの手がゆっくりと祐巳の顔に迫ってくる。

 「と、瞳子ちゃん?」

 祐巳の頬に彼女の手のひらが触れる。祐巳の体温の方が高いのか、彼女の手は少し冷たかった。
 そう感じた時、瞳子ちゃんの顔はぶつかりそうなくらい間近に来ていた。

 「好き……」

 震えるような小さな声で、瞳子ちゃんがポツリと告げたその瞬間。

 「んんっ!」

 瞳子ちゃんの唇が、祐巳の唇に押し付けられた。
 頭の中が真っ白になって行く。
 何が起こったのか。思考の方が付いていけずに、触れ合った唇の感触と眼前に浮かんでいる瞳子
 ちゃんの顔、といっても閉じられた瞼くらいしか視界には無かったけど。が、ただ情報としてだけ
 祐巳の頭の中に入ってくる。

 「はふ……」

 どれくらいそうしていたのだろう。瞳子ちゃんの顔が名残惜しそうにゆっくりと、祐巳から離れて
 いく。
 そこで初めてキスをされたのだと理解した。
 理解した途端、急に苦しくなって口で大きく空気を吸い込む。
 余りの出来事に、祐巳は呼吸を止めてしまっていたのだ。呼吸を再開すると同時に肩までもが大き
 く上下する。

 「と、と、と、と、と!」

 瞳子ちゃん!と叫びたかったのに、言葉にならない。
 目の前の瞳子ちゃんは熱病にでも掛かったかのように、顔を真っ赤にして立ち尽くしていた。
 恐らく、祐巳の顔も茹蛸のように真っ赤になっている事間違いなしなんだけど。

 「祐巳さま……祐巳さまが……いけないんです。あんな風に、あんな風に瞳子を見つめるから……
  だから、瞳子は……祐巳さまが……好きで……」

 途切れ途切れに、瞳子ちゃんが言葉を搾り出す。
 その瞳は祐巳を見ているようでもあり、どこか宙を彷徨っているようでもあった。

 「ま、ま、ま、松平瞳子ぉぉぉぉぉぉー!」

 突然、それを遮るように叫び声が部屋の中を駆け抜けた。
 瞳子ちゃんと祐巳が同時に声のする方に振り返る。

 そこには、可南子ちゃんと乃梨子ちゃんが居た。

 「あ、あ、あ、あ、貴女と言う人はぁぁぁぁ!」
 「ちょ、ちょっと可南子さん」

 雄叫びと共に可南子ちゃんが瞳子ちゃんに掴みかかろうとするのを、乃梨子ちゃんが可南子ちゃん
 の腰の辺りを抱きしめてなんとか制止する。

 「あ、あら。可南子さん、なんですの一体」
 「なんですのですってぇ!今のは一体どう言う事なの!祐巳さまを、祐巳さまを動けなくして、あ
  ろうことか、あろうことかぁ!」
 「お、落ち着いて!可南子さん」
 「これが落ち着いていられるもんですか!離しなさい乃梨子さん」
 「悔しかったら可南子さんも祐巳さまとキスできる関係になれば宜しいでしょう」
 「おのれぇぇ」
 「瞳子も何やってんのよ!」

 未だに顔を真っ赤にしながら、可南子ちゃんをあしらう瞳子ちゃん。
 怒りに我を忘れて瞳子ちゃんに突っかかる可南子ちゃん。
 必死に可南子ちゃんを制止しながら、事態を何とかしようとしている乃梨子ちゃん。

 「あの、ねぇ、誰か解いてぇ」

 祐巳の声は、目の前で繰り広げられる熾烈な争いにかき消されているようで、誰の耳にも届いてい
 ないようだった。
 一体、何故こんな事になってしまったのだろう。
 ただ発声練習をしていただけだった筈なのに。
 祐巳はただ、目の前の喧騒を見守る事しか出来なかった。

 「あーん、もうー。誰か助けてぇ」

  − f i n−


ごきげんよう。
やっと出来ました。
「後ろでに縛って、ちゅぅ〜」
発声練習は先に軽く柔軟をするそうなんですが、話の都合上そこはカットしました。
本当に演劇されている方には「なんじゃそら」って感じでしょうが、笑って見逃して
やってくださいませ。
内容はいつもの黄山スタンダードかと思うのですが、瞳子の方から一方的にアクショ
ン起こすのは初めてですね。しかも、ちゅ〜を…
しかし、可南子が出た途端にいつものギャグになってしまう…
乃梨子もこのまま胃に穴のあきそうな状況になったら大変かも(合掌)
それではまた近いうちに。


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