Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


『愛すれど哀しく』


 昨日の日曜日、久しぶりに蓉子の家でごろごろしてた。
 特に何をするでもなく本を読んだり、テレビに突っ込みを入れたり、時々ふわっとキスしたり。
 そんな暖かくて、のんびりした休日を過ごした所為か、今日はとっても気分が良かった。
 だから放課後、薔薇の館に向う途中で会った、聖のファンだって言う2年生の子と仲良く中庭のベ
 ンチでお喋りしていたのよ。短い時間だったけど、気分が良かったから肩に手をまわしたりして少
 しだけサービスしてあげた。それだけだったのよ。本当に。

 ─それなのに。

 「待っていたのに。私の事なんてその程度しか想ってくれていないの?」

 目の前で蓉子が怒ってる。
 理由は言わずもがな。
 でも、その内容は理不尽極まる内容だった。

 「だから、ただ話をしていただけって言ってるでしょう」
 「話をするだけで肩に手をまわしたり、キスしたりする訳?」
 「キスなんかしてないって、何度も言ってるじゃない」

 キスなんかしてない。
 ただ、余程聖と話しができて嬉しかったのか、その子は急に泣き出しちゃったからその涙を拭って
 あげただけ。
 マリア様に誓ってキスなんてしてない。

 「嘘よ」
 「嘘じゃないってば」

 それなのに、蓉子は何を勘違いしたのか聖がキスをしたと言い張って譲らない。そりゃ、確かに表
 面上は多少軽薄なのは聖も認める。でも、だからと言って聖の事を一番理解している筈の蓉子がこ
 うも頑なに言う事を信じてくれないのは何故?と問い掛けたくなる。
 祐巳ちゃんにちょっかいを出しているのも、本気じゃない事を解っているから口を挟まないのに。
 名前も知らない下級生の事でどうしてここまで頑ななのか。

 「もう、いいわよ。浮気でもなんでも勝手にすればいいじゃない」
 「蓉子!」
 「帰る」

 会議と言う名のお茶会が終わってから、既に1時間くらい経っている。
 江利子を始め、他の皆が帰ってからずっと平行線の会話を、彼女は一方的に打ち切って帰ろうと鞄
 を手に取った。慌ててその腕を掴んで引き止める。

 「待ちなさいよ、このまま帰るつもりなの」
 「いくら話しても同じじゃない」
 「蓉子が信じてくれないだけでしょう」
 「正直に話さない聖が悪いんでしょう!」
 「嘘じゃないって言ってるのに!」
 「もう良いわよ!」

 ぱぁん。

 「いったぁ……」

 乾いた音を残して、蓉子は部屋から駆け出していった。
 左頬の鈍い痛みをお土産に。

 「やってくれるじゃない、蓉子」

 薄暗くなった薔薇の館の会議室に一人立ち竦む。
 この理不尽な仕打ちは一体何なのだろうか。勝手に誤解して、人の言う事に耳を貸さないで、お終
 いには平手打ちと来たもんだ。
 良いわよ。こうなったらお望みどおり、好きにしてあげる。
 私の事を好きで好きで堪らないのに、勝手に妄想して、嫉妬して。

 ─蓉子が勝手な事ばかりするなら、私も好きにするわよ。

 ───────── * ─────────

 日付が変わっても、蓉子は昨日のままだった。
 志摩子と祐巳ちゃん、由乃ちゃんの3人は試験勉強だとか言って上級生のお茶の用意の後、図書館
 に行ってしまった。
 残っているのは三人の薔薇さまと、祥子と令の五人。
 聖も蓉子も、ちらちらとお互いを窺うだけで今まで一言も言葉を交わしていない。
 ここまであからさまに普段と違う聖たちの様子に、他の皆が気づかない訳はない。だから江利子は
 面白そうに、祥子と令は不安そうに二人の様子を窺っていた。
 妙な雰囲気のまま、時間が過ぎて行く。

 「祥子、どうしよう」
 「どうしようって……お姉さまたちの事にわたくしたちが口を挟むわけには……」

 勝気なお嬢様の祥子も蓉子の事になるとお手上げだ。令も優しいから気にはするけど、干渉する勇
 気も、切っ掛けもない。色の違う薔薇さま二人に干渉する理由もないから余計に。祐巳ちゃんでも
 居てくれれば持ち前の天然さで少しは和んだかもしれないけれど、それも居ないのではどうしよう
 も無い。唯一、何とか出来そうな江利子はこんな面白そうな事態を自ら火消しに廻る筈が無い。
 だから、八方塞のままに時間だけが過ぎて行く。
  ロサ・ギガンティア
 「白薔薇さま、ちょっといいかしら」

 江利子がつまらなさそうに声をかけて来た。
 先ほどの面白がっていた様子は全く残っていなかった。一体どうしたのか、江利子の考える事は本
 当に解らない。
     ロサ・フェティダ
 「何、黄薔薇さま」

 返事をすると、江利子は立ち上がって聖の腕を引っ張る。

 「ちょっと来なさい」
 「何よ」
 「いいから」

 そのまま、聖を流しの方に連れて行く。
 祥子と令は影になって見えない。見えるのは、蓉子のむすっとした横顔だけだった。

 「一体何があったのよ」
 「何って、江利子に言うような事じゃないわよ」

 素っ気無く江利子に答える。

 「そんな訳には行かないでしょう。このままだったら仕事は進まないわ、蓉子は暗いままだわで何
  にも良い事無いわ」

 呆れた様に言葉を続ける親友を前に、ふっとある事を思い出した。
 そういえば、江利子って面白い事には物凄く積極的に興味を示すのに、自分がそういう立場に立っ
 た所を見せた事は無かった。
 普段から見た目には何を考えているのか解らない、つまらなさそうな表情をしている時が多くて三
 人の薔薇さまの中では最も遠巻きに憧れられている薔薇さま。

 「心配、してくれるんだ」

 江利子に向って、取って置きの笑顔を向ける。
 自分では気づかなかったけど、蓉子に言わせるとこの笑顔が聖のファンを舞い上がらせる大きなファ
 クターの一つらしいと言う聖の笑顔。
 聖自身は今ひとつ実感が無かったけれど。

 「あ、当たり前じゃない。親友二人が仲違いしてる所なんてあんまり見たいものじゃないわ」

 江利子の顔に、緊張のような物が見え隠れする。
 聖を見てはいるけど、視線はやや外し気味。見た目の変化はさほど無かったけれど、この笑顔は江
 利子にも効果はあるらしい。

 「嬉しい……」
 「せ、聖?」

 右手は肩の後ろ、左手はその細い腰に。
 両の腕を回して江利子を抱きしめる。柔らかく、きつくならないように気をつけて。

 「ちょ、ちょっと、聖」
 「心配してくれて嬉しいよ、江利子」

 江利子の耳元に囁きかける。
 江利子の動悸が早くなるのが制服越しに感じられる。

 ─バキ!

 「お、お姉さま……?」

 何かをへし折る音と共に、祥子の弱々しい声が聞こえる。
 どうやら蓉子の嫉妬を煽る事には成功したようだ。
 それは願っても無い事だった。

 「は、離して頂戴。聖」
 「やだ」
 「聖ってば」

 江利子が離れようともがき始める。けれど、聖はそれを許さないように、腕に力を入れて強く抱き
 しめる。
 江利子も気が気ではないのだろう。彼女が、蓉子に少なからず想いを抱いているのは解っていた。
 その無表情の奥に、何年も隠し続けた蓉子への想い。だからこそ、聖は江利子を抱きしめる力を緩
 める事はできなかった。

 「駄目、離して」
 「江利子。私のことはただの親友?」
 「あ、当たり前でしょう」

 蓉子の言うように、好きにしてあげる。
 聖の軽薄に見える行動が作り物だって知っている癖に、言う事を信じてくれないのなら。
 そして、それを江利子に見せ付けてあげる。蓉子を渡さないために。

 「江利子……」

 真剣な眼差しを江利子に向ける。
 江利子の顔がほんのりと赤らんで行くのがわかった。
 まんざらでもない様子で。

 「せ……い……」

 江利子が怯えるように固く目を閉じる。
 決してキスを待っている顔ではなく、それを必死に拒む固い想いを秘めた顔。
 もちろん、聖にしてもその唇を奪うつもりなんて毛頭無い。そこまでしてはやり過ぎだ。

 「やめ……て……」

 搾り出すよう、最後の拒絶を江利子が零す。
 そのか細い声を無視するように顔を寄せて行く。
 その刹那、固く抱きしめた筈の江利子の身体が勢い良く聖から引き剥がされる。

 「やめてよ!」

 それは勿論、蓉子の声だった。

 「蓉子!」

 ようやく聖の戒めから解放された江利子が、安堵の声を上げた瞬間に顔が引きつらせた。

 「蓉子、やっと……」

 勝ち誇ったように、蓉子に向き直った。しかし、蓉子の顔は涙をポロポロと流して絶望を訴えかけ
 る様な瞳だった。

 「やめてよ……」

 蓉子が搾り出すように訴える。

 「よ、蓉子」

 その声と同時に江利子が蓉子の肩に手を掛ける。
 聖は動けなかった。
 蓉子がここまで感情を曝け出した姿は見たことがなかった。そして、そこまで蓉子を追い込んだの
 が聖自身だと言う事が更なる枷になっていくのを漠然と感じて。

 ─そんなつもりじゃないのに……。

 原因は蓉子の誤解。
 そして、聖に対する蓉子の想いを彼女にもう一度思い返させる為に演じた江利子へのモーション。
 けれど、それは聖の思惑を通り越してしまっていた。

 「そうよ……、私は聖がいないと駄目なのよ。どんなに良い子ぶっても、ただの女なんだもの。好
  きな人が他の誰かと仲良くしている所を見せ付けられて平然としていられるような聖人君主じゃ
  ないんだもの!」

 感情の赴くままに声を荒げてまくしたてる。
 1年前、栞との事で突っかかって来た時ですらこんな声も、顔もしなかったのに。

 「わたしは聖が好きよ、愛してる。だから聖にも同じように私を愛して欲しいだけなのに」
 「よ、蓉子……」

 蓉子が聖を見据えている。
 ほんの短い間だったはずの涙の痕が、まるで一晩泣き通したように見えた。そして、その傍らには
 蓉子の肩に手を掛けたまま、蓉子の言葉を聞いて呆然と立ち尽くしている江利子がいる。

 「聖は私のものなんだから!」

 短く、けれど力いっぱいにそう宣言した蓉子は、聖の首に腕を絡めて唇を重ねた。
 何時ものように甘く、くすぐったいようなキスではなくて、歯がぶつかりそうな勢いで乱暴に押し
 付けられた蓉子の唇。

 「……」

 ここは薔薇の館。
 別に蓉子との仲を隠しているつもりなんて無かったけれど、江利子も令も、祥子までが見ている中
 で押し付けられた蓉子の唇は、苦くて、切なくて……。

 ─こんな想いをするなら、蓉子にぶたれた方がましだったかも。

 蓉子への想いと、蓉子の想いが頭の中に渦巻いていて、現実を受け止める事すら出来なかったのか
 も知れない。ただ、永遠と思われる苦しいキスが蓉子がどれだけ聖を愛していてくれているか、ど
 れだけ聖が蓉子を愛しているかを思い知らせていてくれた。

 冬の短い夕暮れのなか、悲哀と絶望、嫉妬と愛憎が薔薇の館のサロンを埋め尽くして、時間だけが
 誰の上にも平等に流れていった。

 ───────── * ─────────

 「祐巳」
 「あ、あの。お姉さま?」

 祥子が祐巳ちゃんにベタベタと纏わり付いている。

 「お、お姉さま……」
 「令……」

 江利子が物憂げに令の肩に頭をもたれさせている。

 「こ、こ、こ……」
 「よ、由乃さん……」

 令に寄り添う江利子に対し、爆発寸前の怒りのオーラを撒き散らしながら二人をねめつけている由
 乃ちゃんに、どうすれば良いか逡巡しながらも何とかなだめようと努力している志摩子。
 昨日の出来事を知らない一年生三人組みと、見てしまったが故に奇怪とも思える行動に走っている
 二年生一人と薔薇さま一人。

 「はぁ……」

 無意識に零れる溜息一つ。
 聖は自分の口から零れた溜息を、まるで他人のものの様に鬱陶しげに頬杖をついて眺めていた。

 「はい、聖」
 「ありがと……」

 小さなスライド式の紙箱から取り出したアーモンドチョコレートを、わざわざ聖の口まで持って来
 て食べさせてくれる蓉子。
 甘いミルクチョコレートの味も、香ばしいアーモンドの香りも、今のどんよりした聖の心を晴らし
 てくれる事は無かったけれど、いくらかでも和らげてはくれているようだった。
 先程、事件の発端となった二年生が薔薇の館にやってきてから蓉子はずっとこの調子だった。
 あの時に涙を拭いてあげたハンカチを洗濯して返しに持ってきてくれた。
 聖は、その後の出来事が余りにも大変だったので、ハンカチを貸したことすら忘れていたのだけれ
 ど。
 彼女の口から発せられた簡素な謝罪と礼から、蓉子の誤解はあっさり解けた。
 けれど、その誤解が残した暴風はそう簡単に収まりそうにも無かった。聖と、蓉子に関しては収まっ
 たのだけど、その周りに波及した影響は当分続きそうだったから……。

 「もう一つ、食べる?」
 「……うん」

 にこにこと笑顔を浮かべて、聖に世話を焼いてくれる蓉子を見ながら聖は思った。

 ─マリア様。一刻も早くこの騒ぎから解放して下さい……。

  − f i n−


ごきげんよう、黄山です。
久しぶりの蓉子・聖、というか三薔薇さまSSです。
去年『NOTE』にネタだしした「聖さまのアタックにまんざらでも無い江利子さまと、嫉妬に燃える
蓉子さま」なんですが、どうにも落ちが巧く出来ずに、「嫉妬に燃える蓉子さま」がちゃんと表現でき
なかったのは無念の極みです。こんなネタをリクした自分をお許しください○○さまTT。
それではまた、近いうちに。


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