阪神魚崎駅は神戸市東灘区、住吉川の畔にある駅です。
阪神電車の駅は川の上にある駅(芦屋、武庫川)や川の畔にある駅(淀川、香櫨園、石屋川など)が数多くあります。阪神間の特徴として天井川とい
う、川底が周囲の土地より高い位置にあるという特殊地形の影響で、線路も勾配の頂上に駅があります。最近は高架化されてはっきり分からないようになりまし
たが、阪神芦屋駅と魚崎駅はアップダウンの激しい線形が残っています。近年、魚崎駅西方、松原曲線が改良高架化されました。
ここにお見せする写真は1983年7月に撮影したものです。
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一枚目、二枚目の写真は、住吉川西岸の道路から、魚崎駅方向(梅田方向)を見た構図で、筆者が子供の頃、阪神電車を見る定位置で
あった。
一枚目は、浜(南)側から山(北)側を望んだ、住吉川鉄橋が最もきれいに見える位置である。鉄橋そのものは短いが、電車の足回りが
至近距離で見える。なお、阪神間の川は大水害を起こしたことから治水工事が行われ、また、六甲山開発の土砂を浜の埋め立てに使うため、1965(昭和
40)年頃にはダンプカー専用道路が住吉川両岸を走った。今では遊歩道になっている。
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二枚目は、山側から望んだもので、洒落た欄干の道路橋がかかっている。橋の取り付きのところがふくらんでおり、ここが子供でも安全
に見られる特等席だ。何時間粘ったことか。
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三枚目の写真は一枚目の写真のさらに西方から駅方向を撮ったものであるが、望遠レンズなので圧縮効果で距離が詰まって見える。当時
の魚崎駅は各駅停車のみ停車の小さな駅であった。駅舎は地下にある。その昔、1970年以前は写真の地下へ降りる階段付近に駅改札があった。駅の浜側に
は、灘五郷のひとつ魚崎郷がある。以前は古い酒蔵が残っていた。
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四枚目の写真は、魚崎駅浜側の地下改札入り口である。お巡りさんが写っているが、撮影した右に駅前交番がある。魚崎駅周辺は阪神電
車沿線ではめずらしく山の手的雰囲気の住宅地であるが、そのためか駅前には商店街がない。静かな雰囲気の駅である。奥には松の木が見えるが、さらに奥には
白壁の倉があった。
筆者はこちら側の改札通路を使うことはなかったので馴染みが薄いが。
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五枚目のみ1979年の写真であるが、今でもそれほど変わらない。魚崎駅から山側の道を梅田方向へ向かった所である。「思い出の魚
崎駅周辺」でお見せしている写真だが、筆者にとっては魚崎駅といえばこの風景を見ると「帰ってきた」気がする。この先に親戚の家があって、そこに滞在して
いたからである。
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魚崎の親戚は震災後転居して、今では、摂津本山に住んでいるのですが、筆者は神戸に行くと、そこからこの魚崎駅まで2キロほどわざわざ歩くこと
が多い。ちなみに阪神間では3本の鉄道が走っているので、駅まで2キロも歩くことなど無いと言って良い。筆者の住む横浜ではざらにあることですが。
ちなみに魚崎駅は今では六甲ライナーの接続駅で橋上駅舎となっています。
魚崎駅山側(北側)の道を線路沿いに梅田方向へ進むと、車がすれ違えないほど狭い道となって、道からは電車が見えなくなります。やがて、南北に
走る道路と交差します。この道路は、つい最近まで神戸市バスが走っていた通りですが、阪神電車のガードは低く、道路も少し下がって、桁下高さを稼いでいま
す。1965年頃は阪神のガードはさらに低く、道路も未舗装で、掘り下げた道路には雨水がたまっていました。よくトラックが立ち往生していたようです。
2001.5
ここから先は、阪神が地平に降りてきて、道路から電車がよく見えます。線路沿いの道は隣の青木(おおぎ、昔はあふぎ、あうぎと表記)駅の手前ま
で続き、そのまま青木駅まで行くことが出来ます。
先のガードから、次の横屋踏切まで交差する道路もなく、南北の往来が不便です。ですがその間にもいくつか桁下高さの低い歩行者用ガードがありま
す。この低さが尋常ではない低さで、その一つ、「地蔵前溝橋」は1.4m。
聞いた話では、昔魚崎小学校へ阪神の南側から通う児童が、近道をしようと線路に入り亡くなるという事故が何度かあったそうです。その供養のため
地蔵が建てられ、ガードが造られたそうです。真偽のほどは不明です。実際に、震災までこの写真の一方通行の標識付近にお地蔵さんが祠に入って祀られていま
した。しかし、震災で倒壊して無くなってしまいました。
この下にいて電車が通過すると怖いです。
この区間、芦屋から魚崎までは阪神の中でも線形の良い所で、駅間距離も2キロ程度と阪神電車の中では長い方なので、ジェットカーも最高速度90
キロに達します。阪神ジェットカーは本当に加速が良いので、ある意味、特急よりもスピード感溢れる運転がされます。
ここにご覧いただく写真は、そんな最高速で走る阪神電車です。1977年頃だと思います。カメラはオリンパスペンEE、ハーフサイズカメラで
す。このカメラも良く写りました。ネガはありませんので、プリントをデジカメで複写したものです。
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5201形
夕方ちかい時刻だったと思うのですが、すこし赤みがかった西空がバックに、逆光の5201形です。阪神電車は東西方向に走る路線な
ので、朝、夕は正面から光が当たるか、逆光か、印象的な光線状態となります。
この写真はお気に入りの写真なのです。
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7701・7601形
この形式は5201形に次いで好きな形式なのですが、写真が余りありません。
もとは3601・3701形で、1961年阪神初の付随車(電動車に付随している、モータのない車)が3701であった。1971
年に冷房改造の際、制御系をサイリスタチョッパに改造、電気ブレーキを廃止したので、7000番台になった。
3501形と同じ車体なのですが、7000番台になったので編成を組むことが出来ず、形状の違う7861などと組んでいましたから
「凸凹編成」などといわれていました。
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7101・7001形
日本初の電機子サイリスタチョッパ制御電車で有名?。営団地下鉄6000系が最初と思われているが阪神の方が早い。もっとも省エネ
ルギーとなる回生ブレーキは備えていない。
ちょうど大阪万博のある1970年にデビューしました。当時阪神初の冷房車で話題でしたが、筆者は「なんで特急が普通車みたく両開
き扉やねん」と思っていました。(それまでの急行系は客用扉は片開き扉でした)
また妙におでこが広く、これも「クーラーが付いたからやな」と思っていましたがその後以前の形式も冷房化され、わからなくなってし
まいました。
いまでは2000系に改番され、スカートが付いています。
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7801・7901形(最終形)
上の7001形と組むため、7801形増備車ながら車体形状と冷房装置を同じくしたため、全く別形式に見える。
阪神では形式を急行系では3000番台が電気ブレーキ付き、7000番台を空気ブレーキのみ、と区別し、その中ではどの形式とも組
めるよう性能を揃えていたので自由に編成が組めた。
形式の解らない当時は7001形と区別できなかったのですが、後にそれ以外の7000番台と編成を組むようになったため、「凸凹編
成」が際だっていました。
現在は2000系として旧7001形と固定編成を組んで、きれいな編成になっています。
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7801・7901形(初期型)
1963年にデビューしたこの形式は、1971年まで増備され、一時は阪神電車のなかで一番大所帯の90両を数えた。だが、先述の
ように見た目は三種類に分かれる。初期型は片開き扉、正面が完全平面、正面幌の埋め込み廃止、車体下部のR(丸め)廃止、と客室内も運転席後座席廃止、蛍
光灯カバー廃止。
阪神の中では武骨な印象の車両で、筆者はあまり好きではありませんが、写真に撮ったのは一番多く、写真写りは良い感じがします。電
車好きは運転台の後に乗りたがりますが、他の4両固定編成(7001、7701)が先頭はTcでモータがないのに対し、この形式はMcなので、走行中の
モータの唸りが大きく、よりスピード感がありました。3000系に改番されて現存しますがもうすぐ無くなる車両です。
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5151形(冷房、電機子チョッパ改造後)
この写真だけ1984年のものです。
5151形は5151・5152の二両のみ、1964年製、初期ジェットカーの最終形である。1980年、冷房改造、回生ブレーキ
付き電機子チョッパ改造。阪神初の省エネカーとなった。
1995年、廃車間近の頃、阪神大震災で被災、廃車となる。
これは好きな車両でした。二両だけなので写真に撮る機会が少なく、カラー写真がありません。
前側パンタグラフを維持して冷房化され、初期ジェットカーの面影を残していただけに、無念の廃車でした。
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