阪神電車ミニ歴史帳

(阪神5001形)

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目次

(その1)

(その2)

(その3)

(その4) 


(その1)

はじめに

阪神と言えば、もちろん阪神タイガースですが、大体シーズンは夏前に終わります。打てない打線、それで良かった投手陣も勝てなくなって、中継ぎでがんばっても、これはと言う押さえもない。それでも昨年よりよいのではと思うのだが。しかし真の阪神ファンはこの状態からでも野球を楽しめるのです。勝敗を意識せずに野球を楽しめるのは本当の野球ファンといえるのではないでしょうか。

さて、阪神電気鉄道はなかなか皆さん馴染みがないでしょうがタイガースの親会社ですから何となく知っているでしょう。このHPでは電車の方を扱っていますが、データらしいものがないのでちょっとした歴史帳でも書いておきましょう。

関西では早くから私鉄が充実しており、親しみを込めて、○○電車と言います。阪神電車、阪急電車、京阪電車、山陽電車、南海電車、近鉄電車(これは何だかおかしいね)など。関東では国電(かつては省線=鉄道省、国鉄もなくなって久しいが)、今のJRが先行したので私鉄は補完的役割だったので京浜急行、東急(東横線とか)、西武、東武、京王などに「電車」はつけたりしないですね。

関西では阪神電車が都市間電気鉄道の創始者として明治時代から走っており、阪急電車などが続いて開業し、電車と言えば汽車より速い私鉄だったのです。関東では京浜急行の大師線が阪神より早いものの、東京市電(都電)と同様な路面電車然とした低速鉄道で汽車と対抗できるものではなかったのです。

今でこそ関東私鉄は10両編成などが走っていますが、1965年(昭和40年)頃は2〜4両編成が多かったです。しかも遅くて(これは京浜急行以外は相変わらず)、ターミナル駅が小さい。関西私鉄はそのころには4〜6両編成、110キロ/時運転、4線以上のターミナル駅が完成していました。その後完全に関東私鉄に追い抜かされてしまいましたが、関西私鉄は戦前からの優良企業だったのです。

 

戦前は他の私鉄沿線がまだ田園地帯だったのに比べ、尼崎の下町を走る(一方で芦屋の高級住宅地=谷崎潤一郎で有名・・らしい、も走る;)阪神電車は利用客が多くて住友財閥の中でも優良企業だったのです。だから朝日新聞社(これも大阪)が全国中等野球大会の開催場のために阪神電気鉄道に球場建設を持ちかけたのも当時旧河川敷の臨時停車場でしかなかった甲子園を不動産開発するための阪神のもくろみに合致したからでした。甲子園球場は高校野球大会のために作ったものでした。

 

野球について少し触れておきましょう。

大学野球、中等野球全盛の昭和初期、日米野球をきっかけに、大学進学予定の沢村を口説き落として、東京巨人軍が設立された。職業野球の誕生であるが相手がいなかった。笑ってしまうのであるが、正力松太郎が「相手がいなくちゃ話にならない」といって全国に話が持ち込まれ、多くのプロ野球チームが発足した。

1935年(昭和10年)12月「大阪タイガース」が設立された。(読売対朝日というわけではなかったようである) 実際の試合は翌年からであるが、この年を創立年としている。タイガースもまた進学希望の藤村富美男を強引に入団させたりしている。それほど当時の学生野球は人気で職業野球は見せ物であった。

その後戦中、戦後にかけてプロ野球人気は高まった。そして当時の猛虎軍は強かった、らしい。優勝は巨人と分け合っていた。しかし戦後の2リーグ分裂、内紛などにより弱体化、阪神タイガースとなった1961年頃以降は1962(昭和37)、1964(昭和39)年のセ・リーグ優勝以降、村山、江夏、田淵と孤軍奮闘するも勝てず、1985年(昭和60年)日本シリーズを征するまで長い年月が必要だった。掛布、岡田、真弓、バース・・・・。あのころが懐かしい;;。そして今、阪神タイガースは長い地下隧道の中にいる。やはり21世紀中も・・・。

(その2)

阪神電車の創業

さてここから阪神電車の歴史に話を移します。

阪神電気鉄道は会社発足時1898年(明治31年)、摂津電気鉄道という社名で、当時の日清、日露戦争による不況で危ぶまれた開業も1905年(明治38年)大阪出入橋-神戸三宮間が一気に開通した。

開業に障害になったのは経済面だけではなかった。当時の官鉄(現JR)を管理する逓信省鉄道局から完全に競合する阪神の路線免許に不許可の意向だったのである。一方で内務省土木局は路面電車である軌道条例を管理していて、当時の電気鉄道の例に倣い、阪神も軌道条例で免許が下りた。

しかしその条件は道路上を走る電車であり、当時から阪神の目標であった都市間高速鉄道構想にはほど遠いものになってしまう。そこで内務省との交渉で「軌道のどこかが道路に付いていればよい」とされ、大阪出入橋、三宮付近、そして中間の住吉、御影付近のみ路面電車となり、他は専用軌道とすることでなんとか高速運転のめどが立った。

阪神の時のこの判断のお陰で、以降同様に軌道条例で京浜、京阪、箕面有馬(後の阪急)が開通できることになる。

開業後、官鉄の乗客は激減したという。大阪-三宮間が官鉄60分に対し阪神90分(実際は80分を切っていた)でやはり併用軌道の速度制限(12.8キロ/時)が影響したが、運転間隔を12分毎とし、フリークエントサービスで対抗した。「待たずに乗れる阪神電車」のキャッチコピーは最近まで使われていたが、既に開業当初からその思想があった。阪神はこの後数年で60分を切るスピードアップを行ったが、それまでも裏のダイヤを作って公然とスピード違反を行って早着扱いで走っていたそうである。

このときの阪神の唱えた高速都市間鉄道(インターバン)の考え方は、アメリカを視察した初代技師長三崎省三によるもので、軌道間隔は官鉄の狭軌(1067ミリ)ではなく標準軌(1435ミリ)になり、車両も4個モータ直接制御のボギー車で、路面電車とは一線を画した。この頃から「技術の阪神」の片鱗が見られた。

ともかく明治創業時の阪神電車は日本初の高速電気鉄道として華々しく発展していったのである。

(その3)

阪神電車の発展と苦難

明治時代、車両増強とスピードアップを繰り返し、増える乗客に対応していった。1910年(明治43年)には所要時間63分、運転間隔6分までになっていた。

それでも追いつかない混雑緩和に「千鳥式運転」という隠し技を考案した。これは例えば「い」電車と「ろ」電車があって、「い」が各駅に止まる区間を「ろ」は急行運転し、次の区間では逆に「ろ」が各駅停車「い」が急行になるような互い違いの運転方式で運転間隔を1分間隔までみじかくしたという。

さらに輸送力増強のため2両連結運転を政府に働きかけ軌道線で初めて成し遂げた。しかし本格的なスピードアップのためには併用軌道区間の解消がネックであった。

 

箕面有馬電気鉄道が当初箕面、宝塚方面へ向かっていたのが、阪神間に進出、阪神との特許争いの末、六甲山側に高速軌道を1920年(大正9年)開業。阪神急行電鉄(のち京阪神急行、現 阪急)となった。

阪神は前述の方法でこれに対抗し、じっと耐え、1929年(昭和4年)住吉-石屋川間の併用軌道を一気に高架化、1933年(昭和8年)岩屋-滝道を廃し岩屋-三宮間を地下隧道で開業した。大阪側は出入橋併用軌道が梅田開業で無くなっており、晴れて専用軌道化が完成した。

梅田-三宮特急35分運転は積年の悲願達成であったが、1936年(昭和11年)4月阪急三宮乗り入れ、特急35分運転、1937年(昭和12年)国鉄電化、大阪-三宮急電24分運転とライバルの力も大きく成長してきていた。

阪神は1936年3月、阪急三宮乗り入れに先駆け、三宮-元町の延長線が完成した。そして1939年(昭和14年)梅田地下ターミナルの完成(地下4線の今もそのまま使われているくらいの当時としては東洋一の巨大ターミナル)をもって阪神本線は完成した。戦前の話である。

1938年(昭和13年)7月、阪神大風水害は六甲山から牛や岩が流れてきた(筆者の会ったことのない祖父の弁)大洪水で、本線は1ヶ月不通という大災害だった。

戦時中には関西一の規模を誇る発電、配電事業が国に取られ収益の半分が無くなった。三宮-元町間は地下工場と化し休業、そこで不審火により温存車両焼失、そして第二次世界大戦大阪、神戸大空襲により戦災焼失、終戦時1945年(昭和20年)10月でも可動車両は27両(13%)、国道線の併用軌道用車両も28両(33%)しかなかった。これを復旧するのに新型車両ではなく現有車両の復旧でじっとしのぐ阪神であった。

昭和期、地下乗り入れのためいち早く鋼製車両に改造、新造していた阪神電車だが、基本サイズは路面電車と変わらず、全長15m以下、幅2360mm(バス並)の全車モータ車両が、それでも6両編成で時速100キロ出していたというのは一度見てみたかった。

851形など急行系の一部は前面貫通扉が足下までガラス張りで、運転台は左端だけでそれ以外は乗客に開放、車掌は立っていたので後尾の運転席まで乗客に開放していた。筆者の叔父などはこの電車の先頭に乗るのが楽しみだったという。側窓(がわまど)上には天窓が付いた(明かり窓と言った)が戦時中増備車は灯火管制のためなくなった。

このような特色ある「やせっぽちのエース」が阪急900系や国鉄52系急電と競争して走っていたのは想像しても面白い。しかし阪神電車は明治期の軌道法のためやむを得ず小型車両にしたのであって、後発の阪急が大型車両を走らせるのを見てだまっているだけではなかった。次の飛躍を虎視眈々と狙っていたのである。

(その4)

思えば神戸はこの100年の間に天災、戦災を何度も経験している。大水害、大空襲、大型台風(1945年ジェーン台風)、そして大震災。

大阪大空襲があった1945年(昭和20年)6月1日、その翌日に知人の様子を見に祖父は阪神電車で大阪梅田に向かった。まわりが瓦礫と化しているのに阪神電車が良く走っていたものやな、と生前語ってくれた。そのとき祖父は、次は神戸だ、と思い、次に空襲警報があったときは自宅下の小さな防空壕ではなく、共同の大きな防空壕に避難するよう家族に指示していたという。かくして6月5日の空襲は三宮の父方の家も、防空壕に置いてあったものも全て焼き尽くしたが、祖父らは無事だった。もし阪神電車が大阪空襲で不通になっていたら・・・・。

阪神電車の戦後と発展

1954年(昭和29年)、満を持して完成した特急用大型高性能車3011形は阪神初の大型車(長さ約19m、幅2800mm)であるだけでなく、日本鉄道界における新性能車の先駆けであった。

軽量張殻構造車体(飛行機みたいな)、(直角)カルダン駆動方式(釣り掛式=古い電車が大きな音を出していたでしょう=にかわる、モーターを車体に釣って台車とはたわみ軸継ぎ手でつながり振動が少ない、今も使われている方式)、クロスシート、車内空調など新技術満載であった。変わったところでは吊り革が「革」でなくなったのもこの車両が世界初である。(ビニール製のは吊り手という)

この新型車両は、昼間、梅田-三宮間25分で走った。阪神長年の夢であった高速電車が他社に先駆けて走ったのである。

当時PR用に配った絵はがきセットの表紙

絵はがきの中身

3011形はクロスシートを阪神間の通勤路線に使うには混雑が激しく、改造された。3561形。1989年廃車。
外見だけでも改造しないで欲しかったな・・。

その後も新性能車開発が続き、1958年(昭和33年)、各駅停車(普通)用高性能車5001形、急行系3501形が登場した。特に普通用は日本最高加速度(加速4.5キロ/時/秒、減速5.0キロ/時/秒)を誇り、「阪神ジェットカー」の愛称を持つ。この性能は現行車でも継承されている。

1959年(昭和34年)には普通系量産車5201形が登場。5201、5202は東急6000系と並ぶ日本におけるステンレス車のはしりであった。5203以降は上部クリーム、下部マリンブルーで、先の急行車が上部クリーム、下部バーミリオンオレンジであったので「赤胴車」(赤胴鈴之助から)、対して「青胴車」と言った。でもこんな呼び方は普通の人はしなくて、僕は叔父には「銀車」「赤い電車」「青い電車」と教わった。

1970年(昭和45年)日本万博で大阪が賑わった頃、阪神は7001形を導入。これは日本初のサイリスタチョッパ制御量産車(ただし電気制動を持たず、回生ブレーキは営団6000系が日本初)で、冷房車であった。関西の夏は暑い。阪神は在来私鉄としては日本で最初に100%冷房車になった。(1982年)さらに路線の立体交差化も進み、踏切無しの日も近い。

1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災の被害は激しく、高架橋崩壊、脱線転覆により、40%の車両が被災、10%を大きく越える41両が廃車となった。それでも翌日には甲子園、1月26日には青木(おうぎ)まで復旧し、大いに被災民に貢献した。6月26日に阪神間で最後に全通したが、被災していない路線を多く持つJR、阪急に比べ、会社に与えた影響は甚大で、倒産の危機もあったと聞く。

1998年2月からは乗り入れている山陽電車の終点、姫路まで直通特急が走り、2001年には3011形、5001形以来のクロスシート車9300系が颯爽とデビューした。

今後も神戸市連続立体高架や、2007年予定の西大阪線の難波延長により大きな変革があるはずである。巨大なJRや阪急相手に戦ってきたのは今に始まったわけではない。

 

以上、くどくどと書いてきましたが、手持ち資料の、「鉄道ピクトリアル303、452、640号」(鉄道図書刊行会)「カラーブックス阪神」(保育社)などを参考に纏めてみました。

でも、こんなことを考えながら電車が好きになるわけではないのですね。住吉川鉄橋を爆走する赤い特急、加速時のモーター音が独特な青い各停、たまにしか来ない銀車(二両しかない)が僕の頭の隅で、いまだ、駆けているのです。


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