阪神電車の再起

「阪神電車の風景」へ

9300系

 

成人の日は今年は1月13日、数年前から必ず連休になった。思えば8年前、1月15日は日曜日で、月曜日の振替休日とで連休だった。8年目の1月17日が来る。

筆者は神戸在住ではないので、震災は体験していない。しかし見慣れた場所が一転、被災地となってしまった喪失感というものは、今でも忘れない。体験していない者がそれを語ることは出来ない。せめて私の好きな阪神電車がどう再起したのか書き留め、自分の記憶に留めていきたい。

昨年2002年に、筆者個人のホームページに書いたものを再び以下にまとめる。

2003.1.15 NAKA-MA


目次

-1

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  1.1995年1月17日状況

   1-1.車両被害状況

1-2.施設被害状況

-3

  2.運転再開

2-1.1995年1月18日

2-2.1995年1月26日

2-3.1995年2月1日

2-4.1995年2月11日

2-5.1995年6月26日

-4

  3.阪神電車車両の復興

3-1.廃車車両

3-2.修理車両

3-3.新造車両

  4.その後の阪神


阪神の再起-1

7年目の1月17日が過ぎた。

オリックス練習場でのイチロー選手が報道されていたが、この日を自主トレ開始の日にしたかった、と答えていた。1995年のオリックスブルーウエーブはイチローの大活躍でリーグ優勝し、神戸のプロ野球チームとして復興の証になった。さて、一方の、阪神タイガースも開幕当初、期待されたが、中村監督の途中辞任、藤田監督代行の不振で定位置最下位に終わった。阪神は大阪の球団やから・・という言い訳が聞かれたが、実際にはブルーウエーブ本拠地グリーンスタジアム神戸のある西神地区は地震の被害はほとんど無かったのに対し、阪神甲子園球場のある西宮市は大きな被害を受け、甲子園球場自身一部破損している。そんな阪神が優勝することが神戸市民の期待でもあったが、がっかりする結果ばかりで、オリックスはこの期に一気に神戸市民球団の名声を得ることが出来たと言って良いだろう。
2002年、タイガースに関しては星野新監督就任、田淵コーチ就任が野村前監督の後味の悪い辞任劇を一掃してくれたが、肝心の選手は、川尻投手が大リーグ移籍問題でもめたまま、藪投手はエースナンバー18の剥奪(新背番号は4;)、坪井選手は故障が癒えず応援ホームページも閉鎖・・・。どうも良い話題が書けそうにない。

1995年1月17日、阪神地区に起きた未曾有の天災によって、阪神電鉄はまさしく瀕死の状態であったが、会社存亡を賭けて再起を果たした。阪神電車など鉄道の再建はまさしく神戸市民の再起の希望だった。それから7年目の今も、このときの打撃の影響は残っているが、会社規模の大きなJR西日本、阪急電鉄に果敢に挑んでいる。
タイガースで書けない代わりに阪神電車の再起とその後の挑戦をこれからまとめてみよう。

 

2002年1月18日  NAKA-MA


阪神の再起-2

1.1995年1月17日状況

午前5時45分までの阪神電車は、成人の日の振り替え休日明けの平日がスタートしたところだった。すでに始発電車は走り始め営業車は12列車、来るラッシュ時に備え、続々と電車が車庫から回送されつつあった。そして1分後、地震が起きた。

1-1.車両被害状況

12営業電車のうち神戸市内走行中の4列車が脱線などの被災した。そして各電車とも負傷者が多数出たものの、幸い死者はなかった。まだ各駅停車(普通電車)の運行しかなく、時速65km以下での被災だったためもあろう。しかし、落下した大石付近の高架橋の上に電車があり、また神戸市内地下隧道の中ではその周囲の状況を考えると、列車停止後の方が脱出に困難を極めたに違いない。
しかし、阪神にとっては車庫に留置中の電車が被害を受けたことが打撃を大きくした。神戸市の石屋川駅と新在家駅の間にある、石屋川車庫は後述のように、高架車庫であったが、崩壊。留置していた58両が脱線、高架ごと落下、その隣にある御影留置線の36両も脱線、一部転覆した。
(当日の報道では、御影の転覆した電車をヘリから空撮した映像が繰り返し流れた。しかし御影と正しく報道したところは皆無であった。)

阪神保有車両314両中、実に126両が被災した。

   

1月28日、青木(おうぎ)付近で放置されている5261形。この時は青木駅まで開通していた。脱線し、架線柱と衝突したのか側面上部が凹んでいる。パンタグラフも破損している。この編成は修理され復帰した。

1-2.施設被害状況

西宮の赤煉瓦変電所が崩壊し、変電設備はそれより神戸方の壊滅した。従ってすぐに運行再開できる状況ではなかったが、それ以上に深刻なのは軌道の崩壊であった。御影から西灘にかけての1967(昭和42)年完成の連続高架橋が全壊した。同時期に完成した石屋川車庫は珍しい高架車庫であったが、人工地盤が崩落し高架橋と運命を共にした。一方、住吉-御影間の高架は1929(昭和4)年完成であるが無事だった。また、魚崎-住吉間、御影留置線、石屋川駅、西灘付近の盛土築堤は土が流出崩壊した。盛り土は明治の創業期に近くの住吉川、石屋川の川砂を盛ったもので地震に対しては脆弱な地質であった。岩屋から三宮の地下隧道(1933年完成)や三宮-元町地下隧道(1936年完成)は、内部で車両が側壁に激突、破損したりしたが、構造上の問題はなかった。元町から先の相互乗り入れ先である神戸高速鉄道は大開駅が崩落した。
一見、戦前の高架が無傷なのに高度成長期の高架が全壊していることから、施工強度の問題を感じるが、それだけではなく、わずか100mの距離で建物の倒壊状況が変わるくらい、地質と振動状況がまだらであったことを示している。そしてJR西日本では高架区間の六甲道付近、阪急では西宮北口から夙川の高架区間が崩壊していることから、・高架、盛り土区間は地平に比べ脆弱であること・被害区間が南北には関連が低く、東西の帯状に広がっていること・特に南(海)側は、海、河川の堆積砂の地質であるためそこをを走る阪神の被害が大きいことこと、などが考察される。

いずれにせよ、阪神間にしか本線を持たない阪神電鉄の被害は甚大であった。

2002年1月20日 NAKA-MA


阪神の再起-3

2.運転再開

2-1.1995年1月18日

翌日には梅田-甲子園間が部分開通した。阪神電鉄は尼崎と石屋川に車庫を持っているので、尼崎車庫の車両で運行を再開できたのは不幸中の幸いだった。他社は大阪以東にも車庫を持っているので問題ないが、阪神は梅田止まりなので、もし車庫が石屋川一つだったら部分開通も出来なかっただろう。また、甲子園は折り返し線を持っているので通常でも甲子園折り返し準急など(野球開催時の臨時特急も)が運行されるのでダイヤが組みやすかったのだろう。

JRが芦屋、阪急が西宮北口までだったので、一番短い阪神の状況が懸念された。

なお、数日後甲子園-三宮間に代替えバスも運行を始めた。

2-2.1995年1月26日

この事態でも他社との競争意識が働いたか、阪神はこの日、青木(おうぎ)まで開通した。青木は神戸市東灘区で、大阪から初めて神戸市内まで達したと報道され、住民にも希望を与えた。青木駅には折り返し線があるものの、ホーム手前で渡るので一つのホームしか使えず、混雑で危険なため、急遽神戸よりに渡り線が新設され、降車ホームと乗車ホームが分離できた。なんと良心的な会社だろうか。

当時、筆者も親戚の応援に行くため、この阪神の延長開通がどんなに嬉しかったことか。神戸市民の唯一の足として阪神電車は機能することになる。それはJRが住吉まで開通するまで続いた。

青木駅から阪神、JR、阪急の三宮行き代替えバスが運行された。

1月28日、筆者も現地に入った。梅田から青木行き急行に乗ると甲子園までは意外に順調に走り、沿線の家も屋根に一部ビニールシートをかけた程度だった。しかし西宮の明治時代の赤煉瓦発電所がくずれ、次第に沿線の被害も大きくなってゆく。満員の乗客も次第に声がなくなる。

親戚の家のある魚崎まで青木から一駅分(といっても2キロ程)歩いた。まわりは目を疑うような光景だった。ひび割れたマンション、火災で焼け落ちた青木商店街、屋根が地面の上にある日本家屋、道路は倒壊家屋で塞がれている。四駆なら車で来られると思っていた自分の甘さに呆然とした。

魚崎小学校は避難した人でいっぱいだった。この建物は戦前のものだが、震災にも耐えた。

2-3.1995年2月1日

阪神は岩屋以西は地下隧道に入り、神戸高速鉄道(車両を持たない会社)から山陽電鉄へつながっている。しかし神戸高速の大開駅は地下駅だが地上の道路が陥没して崩壊した。この地下線に閉じこめられた電車のうち応急修理で再生できた阪神車2編成と山陽車1編成は、この日、阪神三宮-高速神戸間の運転を再開した。地上は大渋滞で、地下線の開通は神戸中心部唯一の公共の足となった。なお、ここには車検の出来る車庫がないので、急遽地下線内で仮の車検を行った。この区間は2月20日に岩屋まで、3月1日には西灘仮駅まで開通した。

2-4.1995年2月11日

一部崩れた住吉川両岸の築堤を補修し、御影まで延長した。住吉-御影は戦前の高架線だがほとんど無傷だったことが幸いした。

御影-西灘間は3.1キロ、筆者はカメラを持って歩いたこともある距離だ。だが阪神にとってこの距離がとても長かった。

1995年5月5日。御影駅から神戸方向を見る。高架線はとぎれ、クレーンが立っている。

魚崎駅にて。梅田-御影の行き先表示板を付けた5311形。

青木-魚崎間も運転が再開された。しかし沿線の家が。

2-5.1995年6月26日

震災から160日、真新しい高架線を阪神が走った。阪神電車、再起の日である。しかし石屋川車庫は高架橋工事作業用地に使っていたため、1996年3月1日まで再建にかかった。その間、車両が不足する中、苦心の運用を強いられた。

阪神間三線のうち最後の開通で、予想より半年も早く復旧したとマスコミももてはやした。しかし、JRに遅れた一ヶ月はこれから阪神電車に重くのしかかることとなる。

全線開通した阪神電車は手塚治虫「火の鳥」のヘッドマークをつけて沿線住民に再起をアピールした。

2002年1月26日 NAKA-MA


阪神の再起-4

3.阪神電車車両の復興

3-1.廃車車両

先述のように地震の被災車両は126両であったが、阪神の悲劇は車両基地の崩壊であった。なぜなら他社は被災車両はあっても修理して使えたのだが、阪神の場合、高架車庫から落下した車両のダメージは大きく、修理の利かない車両が合計41両にものぼった。

阪神電車は急行系と普通系で車両の性能も分けているのが特徴だが、廃車は急行系33両、普通系8両になった。

ところで大手私鉄では同じ規格の電車を大量に製造して「xxxx系」とひとくくりに語られるのだが、阪神では社内的にも「系」という呼び方はせず「xxxx形」と呼んでいた。これは先の急行系、普通系の区別の中ではほとんどが連結可能で、規格、性能を揃えてあった。そのため車両形状の違う形式同士がつながって「でこぼこ」編成になったり、逆にわずか二両の「形式」が存在したりした。(1985年以降は8000系などと称するようになった)

今回の廃車では大半は残る同型式車両があったのだが、そのなかで「5151形」が形式ごと廃車になった。

5151形は5151-5152の二両のみの形式だった。1964(昭和39)年製であったが、1959(昭和34)年の5101、5201形以来の初期ジェットカーのボディ形状を持つ唯一の形式だった。この初期ジェットカーは筆者と同世代だったこともあり、思い入れの強い形式だった。他の形式が次々廃車された中、5151形は1980年に冷房改造、電機子チョッパ改造が施され生き残ったのだった。

5151-5152は、三宮3番ホームで被災した。同じく地下隧道で被災した2001形も廃車になっているが、連結していた車両は廃車されなかったところを見ると、5151形が異端児だったことも廃車の原因だったのかも知れない。ファンにとっては残念な出来事だった。

阪神5151形

1984.5.4 魚崎-青木

 

3-2.修理車両

被災したものの修理により甦った車両も、相棒を失ったりして固定編成を崩し、組み替えが行われた。特筆すべきは、同じ8000系ながらも、第1編成は従来車に似たデザインであったが、第2編成以降が新デザインに変更されたのだが、この第1編成の半数が廃車になった。そこで新デザインの新8000系と組むことになった。前面デザインが梅田方と元町方で全く違うのだ。

また、普通系5261形はちょうど廃車時期だったが(5151も)、車両不足により延命された。2000年に廃車になった。

3-3.新造車両

1995年6月26日の全線開通以降も廃車の41両を欠く車両での運用が続いた。石屋川車庫の再建が9ヶ月も先になったため車両を置く場所に困ることになったこともあるが、苦心のダイヤと車両運用でまかなうにも限度がある。早急に「震災復興車」の新造が必要だった。

修理車両と組むために、どうしても欠けてしまった車両、8000系においては、8500番台をあたえることで、新造車が製作された。これは廃車となった車両から使用可能な走行関係機械などを流用して、ボディのみの新造車であった。しかも相手が一世代前のデザイン(側窓が連接タイプではなく個別タイプ)なのでわざわざ元のデザインに戻して設計された。

編成をまるまる作る車両については、復旧を急げば、従来車のまま製作するのが一番早いのだが、あえて阪神はそうせず、全くの新規設計車両とした。阪神初のVVVF制御車になる、5500系と9000系である。しかも外観色まで変えての登場だった。

阪神5500系(普通系)

むろん、5500系についてはもともとの計画の前倒し、9000系については、グループ会社、武庫川車両の製造キャパシティの関係で、川崎重工へ一括発注したため、という事情があったとはいえ、
思えば、終戦後、戦災車両の修理でまかなって、9年後の新性能車投入を他社に先駆けたように、今回も、地震という打撃を、車両の更新という形で前向きに再起を図る、かつての社風がそのまま生きていたとも思える。

阪神9000系(急行系)

筆者は、阪神の心意気を感じると同時に車体色を変えたことで、一抹の寂しさも覚える。震災はあまりにも多くのものを失った。失ったものを思うが故、元に戻らないと分かっていても少しでも元の形に戻って、失ったものを忘れないようにしたいからだ。

戦後、ドイツなどヨーロッパの復興が元の町並みを復元する形で行われたのに対し、日本は全く変えてしまった。今回、神戸の町並みも明治期の日本家屋の雰囲気は全く失った。新しい耐震プレハブ住宅は新興住宅地のようだ。駅前の復興も都市計画にのっとって、立ち退きを迫られたりしている。もといた住民が戻れなくて何のための復興か。

5500系が従来の車体色で出てきたら、筆者は嬉しかったのだが、それは後ろ向きなのかも知れない。でも以前のままの車両に乗ると、乗り心地は格段に向上している、なんていうのも粋ではないだろうか。

4.その後の阪神

あれから7年。神戸市の住民数は震災前を超えたと聞く。しかし鉄道に関して言えば、震災の影響は阪神を今なお苦しめている。

特にJR西日本は震災を期に、新造車を阪神地区に集中投入、開通が一ヶ月他社に先駆けたことを最大限利用して、一時的に移った乗客を固定客にしてしまった。もともとスピードでは新快速があったので、それの乗り心地を大幅に改善した新造車と、さらなるスピードアップ、特定料金の設定で定期料金は他社より安く、大増発により待ち時間も削減・・・、国鉄時代には考えられなかった変わり身の速さで、お見事だった。

阪神は1998年、相互乗り入れしている山陽電鉄と、従来須磨浦公園までであった乗り入れ区間を姫路までに延長。阪神梅田から山陽姫路までの直通特急が誕生した。我々ファンにとっては相互乗り入れの始まった1968年以来30年来の夢が叶ったわけだが、スピードアップした新快速の敵ではなく、相互乗り入れの乗り換えを無くしただけにも見える。

山陽電車の5000系がクロスシート車で評判が良かったので、阪神も9300系を2001年に新造。1954年以来の特急のクロスシート車だ。(9300系は急行系に区分される)

阪神9300系

震災復興時に直通特急が設定されたら、直通特急設定時に9300系が投入されていたら、と時期が遅れた感は否めないが、それでも最大限の努力をしている。

西宮市内の高架化工事は完成した。魚崎駅西方の「松原曲線」の改良高架工事も完成が近い。そして西大阪線の難波延長、近鉄奈良線との相互乗り入れ、と希望は続く。

阪神の売り上げは震災前の3/4にまでおちこんでいる。これはもはや震災のためではない。会社存亡を賭けて、阪神電車の戦いは続く。

筆者の親戚で阪神電車沿線に住んでいた2家族はいろいろな事情で転居してしまった。神戸に遊びに行く(一時遊びに行くなんて不謹慎、などという風潮だったが今こそ皆さんにも遊びに行って欲しい)ときには阪神電車を使う必要はなくなったが、家族の迷惑を顧みず阪神電車に乗る。何と言っても梅田から摂津本山へ行くのに、阪神で三宮まで行き、阪急で岡本まで戻って歩く。;)という筆者って一体・・・。(byさくらももこ、キートン山田の声で)

だが阪神が頑張っているのを見ると、つい応援したくなってしまうのだ。電車も野球も・・。

 

(参考文献:鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル-特集阪神電気鉄道」1997/7 640号、交友会「鉄道ファン」1997/4,5 阪神大震災 被災と復旧の記録 8.阪神電鉄)

2002年2月3日  NAKA-MA


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