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さて、写真はまず1979年3月の写真に始まります。これは初めて買った一眼レフ(オリ
ンパスOM-1)で最初に入れたフィルムの駒です。
魚崎駅西方に流れる住吉川のたもと山側から梅田方向(東)を狙ったこの構図は、子供の頃
から見てきた構図でして、駅舎が1970年前に改築された(駅改札上下別、踏み切り横断 から 駅改札地下化)以外はほとんど変わらない景色でした。
ここは梅田方向(下り)からも、三ノ宮方向(上り)からも上り勾配で一気に駆け上がり、下るのですが、一番高いところが住吉川鉄橋です。阪神間の川は天井
川が多く、川底より、周囲の土地の方が低いのです。ちなみに上流のJR東海道線は鉄道が川の下をくぐります。
阪神電車は明治の開業で、日本初の都市間電気鉄道として誕生しましたが、当時の軌道法の関係で梅田(当時は出入橋)、御影、三ノ宮付近は道路併用軌道(い
わゆる路面電車)でした。その鬱憤をはらすがごとく、専用軌道では当時から高速運転がされていたようです。芦屋-魚崎間は阪神でも速度制限のない(最高速
度は現在106キロ/時、ATS導入以前はそれ以上で走っていた、らしい)最長区間であり、もっともスピードを出す区間なので、住吉川鉄橋を渡るスピード
は(通過電車は)最高速度に近いわけです。それがガーター橋の左右に何もない所を走り、至近距離で見ればそれはすごい迫力でした。
上左に写っている新5001形は、デビューが1977年でまだ32両全部揃う前でした。
今となっては代替え廃車となった5201形であったなら良かったのに・・と思います。でも梅田行きの最後尾が5101形なので、ちょっと良かった。
(5201、5101形は1959年デビューで1960年生まれの筆者にとって同期生の思い入れがある車両なのでした)
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駅舎の上の大きな二段の架線柱は、阪神電車の特徴の一つでした。戦前からこのような大掛
かりな設備を備えていた電気鉄道はそうなかったはずです。戦前は電力供給事業を阪神電車がやっていたことがあって、(収入としても大きかった)その電線
や、電車の運転本数が当時としては高密度であったことから、電圧確保からこのような大掛かりな設備を持つようになったと言えます。
いまや一種のモニュメントのようです。
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同じ場所から撮った現在の写真です。(1999年10月11日)駅舎が橋上になってい
て、六甲ライナーに接続しています。上に六甲ライナーの高架橋が見えます。橋は見えません。また防護柵が邪魔で電車が良く見えません。残念です。
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次の写真は駅の梅田方向を見たもので、浜側(南)と山側(北)の写真です。浜側の写真の
奥には倉が写っており(白壁の倉です。ちょっとこの写真では分りづらいですが)、これはおそらく戦前からあった倉です。山側の写真は、この細い道の先に母
の実家があったので、今でも懐かしい景色です。
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さて橋の浜側から見ると六甲山が見通せる美しい光景になります。住吉川左右は遊歩道で、
堤防?上には桜並木があります。春はきれいです。上流は六甲山がそびえます。
こんな風景が大阪と神戸の中間で見られるのです。京浜急行の品川ー横浜間では残念ながら
見ることのできない光景です。
青胴車5141形が写っている方(右上)は1986年11月23日の、5261形(右)は1985年8月16日の写真ですが、ほとんど変わっていないのが
わかります。
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構図がちょっと違いますが、現在の魚崎駅浜側から山側を見た写真です。(1999年10
月11日)住吉川は両脇に遊歩道がありますが、これは昭和40年代、人工島、六甲アイランドを埋め立ての際、六甲山中腹の開発現場から海へ土砂を運ぶダン
プカーの専用道でした。今では静かな遊歩道で、これはこれで良い景観なのですが、阪神電車も含めた風景になっていないのが残念です。何だか隠されたみた
い。
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24ミリ広角レンズで山側を狙った写真は1983年7月の写真で魚崎駅周辺に数多くあっ
た松がかなり減ってしまって、かろうじて残った松を入れて撮ったものです。住吉川西方から神戸方向を見たもので、この先住吉駅までの間にある大カーブは松
原曲線というくらい松の多いところでした。明治時代の阪神の写真にここが写っていてうっそうと松が生えていました。線形は当時のままです。7701形の写
真は1985年3月のものですが左奥に松原曲線が見えます。
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松林の入った写真に近い構図で撮った現在の写真です。(1999年10月11日)
高架工事は、現在魚崎西方から下り勾配で降りた後、急曲線(松原曲線)で上り勾配にはい
り、昭和初期の高架橋住吉駅に至る線形を改善するための工事です。ここは70キロ速度規制があって工事の必要性も分りますが松を残すことはできなかったの
でしょうか。なお、この写真の線路は仮線で、海側に寄せてあり、山側に高架橋ができます。
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最後に魚崎駅から梅田寄り青木(おおぎ)駅方向に少し行くと地平区間になるところの写真
です。ここは先ほど述べた架線柱が立派に見えるところで50ミリ標準レンズでなんとか全景を入れることができました。なお、新8000系の写っているのは
後年の写真で1992年3月のものです。
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そしてやや構図が違いますが、その後の同地点です。(左=1995年11月26日、右=
1996年7月28日)実はこの付近にある魚崎市場は全壊し、道路沿いの家もかなり壊れたので、今でも空き地が目立ちます。写真を撮る時は空き地も入れた
構図も撮ったのですが、やはりここには出せません。特に1995年当時は撮影も控えました。さて、写真では架線柱が一段になってしまったので、以前のよう
な構図で撮る意味もなく、平凡ですが、変化が分るでしょうか。
これらの何気ない風景は長年に渡りのどかに魚崎駅周辺の風景としてあったので、そのとき
はあまり意識して撮らなかったのですが、1991年六甲ライナー開通で魚崎駅が全面改築となり橋上駅舎になり、さらに1995年の阪神大震災後この区間の
架線柱が一段になってしまいます。あの倉も全壊してしまいました。そして1999年現在松原曲線の高架化工事で松林がなくなり、ついにこれらの写真は全く
再撮影ができなくなりました。
1999年7月1日作成。2000年1月25日更新。
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