オルヴィエート Orvieto の名前をはじめて聞いたのは1972年頃、文学部での美術史の授業の時だった。 シエナ Siena、オルヴィエートそしてアマルフィ Amalfi の大聖堂をイタリアの最も美しい3つの大聖堂との説明があり、いつの日かぜひ行ってみたいと思った。 しかしその機会はなかなか来なかった。
1985年11月ドロミテの山を目指したのだがシーズン・オフで宿はどこも閉まっていた。 仕方がないので美術、建築物探訪の旅へと切り替えた。 この時初めてこの町を訪れ、そしてオルヴィエート・クラシコと共にこの町が好きになった。 2002年7月、短時間ではあったが久しぶりにこの町へ行ってきた。 大変暑い日だった。Duomo from Torre del More

 オルヴィエートへ  ドゥオーモ
 オルヴィエートの歴史  ドゥオーモ周辺
 フォルテッツァ・アルボルノツ  モーロの塔
 サン・パトリツィオの井戸  オルヴィエート ・アンダーグラウンド

Stazione FS Orvietoオルヴィエートへ

オルヴィエートはローマとフィレンツェを結ぶ幹線上に位置する。ローマ・テルミニからは頻繁に列車が出ており、ICで1時間、Dで1時間18分ほどでオルヴィエートの駅(右写真)につく。
この日はフィレンツェを8時42分に発つICに乗り、オルヴィエートには10時8分に到着した。 夕刻にローマへ向かい、1泊してローマ・フィウミチーノ空港から帰国するというスケジュールを立てていたので、まず駅でスーツ・ケースを預けることにした。 ところが手荷物預かり所へ行くと、駅員が警察からの命令で荷物は預かれないことになったと言う。 これは困った。
スーツ・ケースを持って駅を出ると、駅前はさびしい。 駅前には噴水と家屋があるだけ(左下写真)で商店街もなIn front of the stationい。 イタリアでは市街地から離れて駅があることが多いが、このオルヴィエートもその一つの例だ。 オルヴィエートの町は駅の西側、しかもここから195m(640ft)も高い位置にある。
駅前にケーブルカー(下写真)の駅があるので、ここからそれを利用してオルヴィエートの市街へ向かう。 ここで私は「FUNICOLARE + BUS」というケーブルカーとバスがセットになった0.90ユーロの乗車券を購入した。 私は気がつかなかったのだが、ここで「Carta Orvieto Unica」というカードが買えるのではないかと思う。 このカードはオルヴィエートの5つの見所、ドゥオーモ内のサン・ブリツィオ礼拝堂、モーロの塔、クラウディオ・ファイナ博物館、そしてオルヴィエート・アンダーグラウンドのツアーの入場券と、往復のケーブルカーならびに電気ミニ・バス路線AおよびBの乗車券がついて12.50ユーロである。 私は旧市街の観光局でこのチケットを購入したので先の0.9ユーロとあわせ合計13.40ユーロを支払うことになってしまった。
ケーブルカーはやがてトンネルに入りピアッツァ・カーヘン Piazza Cahen 前の山上駅に到着する。 この駅の背Cablecar station後にはポルタ・ロッカ Porta Rocca という要塞跡の公園があり、またポッツォ・サン・パトリチオ Pozza San Patrizio と呼ばれる有名な深井戸が駅をはさんで公園の反対側にある。
まずこの辺りの見物からはじめるのが普通だろうが、今回はスーツケースがある。 仕方ないのでA路線のミニ・バスに乗ってまずドゥオ-モまで行き、ピアッツァ・ドゥオーモ Piazza Duomo を挟みドゥオーモの反対側に位置する観光局 Ufficio Turistico でどこで荷物を預かってくれるのか聞くこととする。 観光局の前、ドゥオーモの右側面に沿って進むと突き当りが考古学博物館 ムゼオ・アーケオロジコ Museo Archeologico だが、そのミュージアム・ショップで預かってくれることがわかった。 博物館入口ではなく、右手にある入口から入るとそのミュージアム・ショップで、その営業時間内のみ預かってもらえる。

オルヴィエートの歴史

オルヴィエートの起源は青銅器時代まで遡ることができるようだが、現在でも残る遺跡からエトルリアの都市であったことは間違いない。 その遺構としては後述するサン・パトリツィオの井戸の北にベルベデーレ神殿 Tempio di Belvedere があり、また町の外側にはネクロポリスの遺構がある。 ネクロポリスは北のクロチフィッソ・デル・トゥーフォ Tombe Etrusche del Crocifisso del Tufo と、南のカッニッチェッラ Tombe Etrusche del Cannicella である。
そのエトルリア都市は紀元前263年にローマ軍によって破壊され、一時は住む人もいなくなった。 3世紀ごろになるとパーリア川 Fiume Paglia とテベレ川 Fiume Tevere 合流点のローマ港パリアーノ Pagliano との通商でオルヴィエートは勢いを盛り返す。 ローマ帝国が衰退し、401年には西ゴート族がイタリアに侵入してきた。 この時代のオルヴィエートはその地形上の優位性に加え、防備を固め、その重要性と住民数を回復していった。 538年には東ローマの将軍ベリサリウス Belisarius によりビザンチン帝国に服属することになり、605年にはロンゴバルド族の支配下に入った。 そして1000年ごろからはロンゴバルド族起源のオルヴィエート伯爵領となる。
People's Palace12世紀にはコムーネ Comune = 都市共同体 が創設された。 1210年から1270年にかけてポポロ宮殿 Palazzo delPopolo (右写真)が建造された。 一方法王宮殿 Palazzo Papale は段階的に建造された。 すなわち1262年から1264年にかけ靴作りの息子でフランス人で東西教会一致の実現寸前に没したウルバヌス四世の宮殿が、1271年から1284年にかけては司教館 Palazzo Vescovile と連なるアンジュー家のシャルルの意のままになったと言うマルティヌス四世の宮殿が建造された。
この時代には教会も次々に完成していった。 1240年から1266年にかけては聖フランチェスコ教会 Chiesa e christro di S. Franchesco (ここでは1297年にボニファティウス八世=在位1294年-1303年=が第7次および第8次十字軍を率い、チュニジアで病死したフランス王ルイ九世(1214-1270)を聖列させている。)が、1260年には聖ドメニコ教会 Chiesa di S. Domenico、1265年から1275年にかけてはサンタ・マリア・デル・セルビ教会 Chiesa di S. Maria del Servi などが建造された。 1290年にはいよいよドゥオーモの建設が始まる。 この建設にはほぼ300年を要すことになる。
14世紀には黒死病がオルヴィエートを襲い、さらには1354年アルボルノツ枢機卿がこの町を征服し、教皇領に組み入れてしまい、町の繁栄は大いにかげってしまった。
ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を作成させるなど文芸の復興者として有名な反面、フランス、ドイツ、スペインなどと次々に同盟を結び、外国の軍隊をたびたびイタリアに引き入れてしまったユリウス二世(在位1503-1513)は1508年8月26日自ら軍勢を率いローマをたった。 異教徒を討つための戦でなく、ペルージア、ボローニャと言うイタリアの都市を再び法王領とするための出陣であった。 彼はこの途上9月5日にオルヴィエートに入城している。 1527年5月のローマの劫掠の時には法王クレメンテ7世は12月になってオルヴィエートに逃げ込んでいる。 この時3つの井戸を掘らせている。
17世紀および18世紀にはオルヴィエートは再び富裕な中産階級の地主達により統治される小さく静かな町に戻る。 ナポレオン時代には1798年に樹立されたローマ共和政府の最初のカントンとなった。 1816年は教皇領に戻ったが、1860年には義勇兵によりこの町は教皇軍から開放され、イタリア王国に併合された。

フォルテッツァ・アルボルノツ

View from Fortezza Albornozケーブル・カー山上駅の背後に高い塀で囲まれた一角がある。 ここがフォルテッツァ・アルボルノツ Fortezza Albornoz だ。 もともとここはオルヴィエートの東の入口としてポルタ・ロッカ Porta Rpcca という市門がある。 1354年、アルボルノツ枢機卿がこの地を占拠し、その守りを固めるために1364年にモンテマルテのウゴリーノ Ugolino に命じて建造が始まったのがこの要塞だ。
1390年にはこの城砦の一部が破壊された。 1450年から1457年の間に教皇ニコライ5世によって再建され、またおそらく拡大されたと言う。 1831年には城壁や建物が破壊され、1888年にはケーブルカーのトンネル工事のためその堀も埋められた。
現在ここは公園となっており、ここからは町の東側の眺めが良い(上写真)。 下中央少し左側に2列の木立が並んでいるのが見えるが、この間をケーブルカーが通っている。 その下が駅である。 (重要度 低)

サン・パトリツィオの井戸

1527年5月5日夜、神聖ローマ帝国軍はシャルル・ド・ブルボンを総司令官にローマを攻めた。 総司令官が銃弾で倒されると、皇帝軍は激昂してその士気は大いに上がり、翌朝5時半には戦いの峠を越えた。 それから7日間というものローマは略奪と破壊をほしいままにされた。 これをサッコ・ディ・ローマ Sacco di Roma、ローマの劫掠または略奪、という。 サッコ・ディー・ローマについての日本語文献はほとんど無いようで、わずかに塩野七見の「ルネッサンスの女たち」のイザベッラ・デステの項でその有様を垣間見ることが出来る。
法王クレメンテ7世 Clemente VII は囚われに身となり、その後400,000スクードの身代金を払い多少は自由の利く身となった。 が彼は12月6日にローマを脱出し、オルヴィエートへ逃げ込む。 法王は万一の籠城戦に備えるため井戸を掘ることを命じ、3つの井戸が掘られた。 このうち1つはすでに無くなってしまったが、現在2つが見学できる。 1つは町の西側ヴィア・デッラ・カーバ Via della Cava にあるカーバの井戸 Pozzo Outside of Pazzo di San Patriziodella Cava だ。 この井戸はエトルリアの時代からあったのを法王の命により拡張したものと言う。 もう一つがアントニオ・サンガッロ Antonio da Sangallo によって設計され、1527年から1537年にかけて掘られた井戸で、もともとは単に城砦の井戸 Pozzo di Rocca と呼ばれており、今日サン・パトリツィオの井戸 Pozzo di S. Patrizio と呼ばれているものだ。  法王クレメンテ7世はこの井戸の完成前の1534年に逝去し、パウル3世の時代になって完成した。
サン・パトリツィオの井戸はケーブルカー駅をはさんでフォルテッツァ・アルボルノツの反対側にある。 入口(右写真)はブロックを積んだ高さ4.5mの円形をしたものである。 
3.5ユーロの入場料を払って中に入る。 中心部分は直径4.61mの中空の空間が下まで続く。 その円筒には72の大きな窓がくりぬかれている(左写真)。 その周りに延々と248段のらせん階段がInside od Pazzo di San Patrizio続く。 らせん階段部分の直径は9.41mなので階段部分はかなり広いが滑りやすい部分もあるので注意して下る。 井戸の深さは61.32m、上方の2.7mは石灰華 tufa と呼ばれる炭酸カルシュームの沈殿物をくりぬき、下方の26mは粘土質の地層にレンガを積んで作ってある。 下に降りると水がきれいでなく、がっかりした。 井戸をまたいで反対側に渡ってらせん階段を登る。 このらせん階段は2つあって、互いにぶつからないようになっている。 すなわち全行程一方通行だ。 ロバの背に桶を乗せ、水を地上に効率的に運ぶ際の渋滞を避けるためという。 入口の反対側から表に出る。
なお蛇足であるが、フランコ・ゼッフィレッリ Franco Zeffirelli 監督、プラシド・ドミンゴ Placide Domingo、カーチヤ・リッチャレッリ Katia Ricciarelli 主演のオペラ映画「オテロ Otello」に出てくる井戸はここでロケーションを行ったものと思われる。
なお塩野七見は「神の代理人」のなかで、『"ローマの劫掠"の主役は、カトリック教徒である皇帝ではなく、ローマ侵入とともに群盗と化した、ルター派信徒のドイツ傭兵であった。 清く正しいキリスト教徒である彼らドイツ人にとって、ローマは、ルターの弾劾の言葉どおり、異教徒トルコ人すら吐き気をもよおす堕落と頽廃の都であり、正義の民が、神に代わって神罰をくだすべきものの筆頭であったからである。 これが欲に目のくらんだ群盗に、大義名分を与えた。 ローマは、アルプスの北の勝利の歓呼を聞きながら、廃墟と化した。』(ローマ・十六世紀初頭)と書いている。

Facade from oblique angleドゥオーモ

ドゥオーモは町の東西の中心かつ南北の南端近くに位置している。 ケーブルカー駅から電気ミニ・バス 路線Aに乗ると終点がドゥオーモ Duomo だ。 そのピアッツア・ドゥオーモにつくとその壮麗なファサードに度肝を抜かれるだろう。 しかし今回も残念ながらファサードを修復中で、足場がファサード正面を覆っていてそのすばらしい壁面を堪能することが出来ない。 右写真はピアッツア・ドゥオーモの南端の一番奥の壁にへばりついて撮ったものだが、広角レンズを持っていかなかったので全体が入りきらなかった。 それほど大きいのだ。
このドゥオーモの由来であるが、1263年一人のボヘミヤの聖職者がローマへの巡礼の旅の帰り道、オルヴィエートの南西のボルセーナ湖 Lago di Bolsena でミサをあげていたところ、聖餅(聖餐式用のパン=キリストの肉の象徴)からたくさんの血が滴り落ち、その下の布にしみこんだ。 これを「ボルセーナの奇跡」という。 法王ウルバヌス四世はその布をオルヴィエートに持ち帰り、この奇跡を記念するために聖体祭、コルプス・ドミニ Corpus Domini という祭日(復活祭から60日目の木曜日)まで作った。 そしてこの聖なる布を蔵置する大聖堂を建設することをオルヴィエートの人々に訴え続けたという。
現在ドゥオーモの建っている一帯には、当時古く、荒廃していた聖マリアと聖コンスタンティヌスの2つの大聖堂が建っていた。 そこでまずそれらの取り壊しから工事は始まった。 そして実際のドゥオーモの建設は1290年、法王ニコラウス4世(在位1288年-1292年)が基石を祝福して始まった。
両側に丸天井の袖廊(翼堂)と中央に半円の後陣をもつプランは、フィレンツェ出身の高名な建築家アルノルフォ・ディ・カンビオ Arnolfo di Cambio の図面に基づき、フラ・ベビニャーテ Fra Bevignate によって設計されたと言う説もあるが、今もって誰の作だかわかっていない。
ところが建物が崩壊するという流言があり、1308年にロレンツォ・マイターニ Lorenzo Maitani が呼ばれたときには既に屋根を葺いている時期であった。 マイターニは袖廊、控壁などの構造補強工事を行ったが、崩壊の恐れと言うのは根拠のないことであった。 マイターニの死後、建築監督はマイターニの息子のヴィターレ Vitale とニコロ・ヌッチ Nicolò Nutti (1331-35)、メオ・ヌーティ Meo Nuti (1337-1339)、ふたたびニコロ・ヌッチ (1345-1347)、アンドレア・ピサーノ Andrea Pisano (1347-1348)、ボローニャのメッテオ・ディ・ウゴリーノ Metteo di Ugolino (1352-1356)、シエナのアンドレア・ディ・チェッコ Andrea di Cecco (1356-1359)、オルカーニャ Orcagna と呼ばれるアンドレア・ディ・チオーネ Andrea di Cione (1359-1380) とめまぐるしく替わっている。
ファサード
The facade of the Duomo上写真がファサードの上半分部分である。 中央の三角形の部分には1584年に作られた「復活」のモザイクがあったのだが、1714年に「聖母戴冠」に変えられたという。 今日見られるものは1824-1847年にコッキ Cocchi およびコステリーニ Costellini によって作られたものである。
その下がアンドレア・オルカーニャ Andrea Orcagna (1359-1380)のローズ・ウインドーを中心とする区画である。 その四隅を飾る四聖人のモザイクはピエトロ・ディ・プッチオ Pietro di Puccio が1388年に作ったものでかなりの修復がなされている。 これらの周りに配置されているのは14世紀に作られた合計52人の大理石の聖人頭像で、この52と言うのは1年間の52週に由来していると言う。 この上部で「聖母戴冠」との間に挟まれた部分に横に並ぶ大理石の「十二使徒」はモンテルーポのラッファエッロ Raffaello da Montelupo、ファビアーノ・トーティ Fabiano Toti およびイッポリート・スカルツァ Ippolito Scalza の1561-1570年の作だ。
4本の尖塔は左からイッポリート・スカルツァのデザインによりクルツィオ・テスタセッカ Curzio Testasecca の1590年の作で、塔頂部に聖ピエトロ・パレンツォ Pietro Parenzo のブロンズ像を戴く。 左から2番目は1505年ごろから1540年ごろにかけて作られたもので、その先端部分には17世紀に作られた聖母と聖ヨセフの像。 3番目の尖塔は1516年にサンミケーリ Sanmicheli のデザインにより製作が始まり、1533-34年にサンガッロのアントニオのデザインによって完成している。 その先端には聖パトリックと聖コンスタンティヌスの2体のブロンズ像がすえられている。 一番右の尖塔は1505年ころから1512年に作られたもので、頂上部にはトゥールーズの司教だった聖マルチノ San Martino の像。
Presentation to the Temple左から1番目と2番目の尖塔の間にはブロンズのマグダラのマリア像を頂上に戴いたピエトロ・ディ・プッチオのモザイクの「処女マリアの結婚」(1381-1386年)があったが、ギルランダイオ Ghirlandaio により1492年に、そしてガブリエレ・メルカンティ Gabriele Mercanti により1612年に手直しがされている。 そして反対側の右から1番目と2番目の尖塔の間には聖バルバラのブロンズ像を頂部に戴いたピエトロ・ディ・プッチョの「宮詣り」のモザイク(1381-1386年)。 このモザイクは1714年および、1760-1763年に改作され、現在見られるものは1837年に修復されたもの(右写真)である。
ファサード下段であるが、修復のため足場が築かれているのでほとんど写真が撮れなかった。 そこでほとんど写真なしで説明することにする。 中央下段にはエミリオ・グレコ Emilio Greco が1964年に製作し、1970年に据え付けられたブロンズのドア。 この上に半円形のスペースにはめられたアルノルフォ・ダ・カンビオ Alnorfo da Cambio の作と推定されるブロンズの「荘厳の聖母」像。 そしてこれらを逆さU字型のモザイクの浮き彫りアーチが取り巻く。 その上に二等辺三角形に近い「聖母被昇天」のモザイク。 これは上写真に一部が見られる。 その両側の三角形のスペースには十二使徒のモザイクが配置されている。
下段左側の入口上の尖塔状の部分には「キリストの洗礼」のモザイク、その左には「聖ヨアキム」、右には「聖アンナ」と聖母マリアの両親と言われるヨアキムとアンナのモザイクが配されている。 下段右側の入口上の尖塔状の部分は「聖母マリアの誕生」で、ジョバンニ・ディ・ブッチョ・レオナルデッリ Giovanni di Buccio Leonardelli およびウゴリーノ・ディ・プレーテ・イラーリオ Ugolino di Prete Ilario の1365年のモザイクである。 今日見られるものは1785-1789年に復元されたものである。
さて高く聳える4本の尖塔の基部にはそれぞれすばらしい浅浮彫が配されている。 一番左側のものは「天地創造」で、パネルの中央のツタの茎がシンメトリカルに6つの部分に場面を分割している。 すなわち下左が第1の場面で世界の創造、動物の創造、人間の創造、その右が2場面目で神が人に命を吹き込む、神はアダムからあばら骨を取る、イブの創造、2段目の左が第3場面でサタンの誘惑と神の非難、その右の第4場面はエデンからの追放、働くアダムとイブ、最上段左の第5場面はカインとアベルのお供え、アベルの殺害、そしてその右が第6画面、人類の最初の事業、カインの子孫。
East side of the Duomo左から2番目のパネルには預言者たちが、3番目のパネルにはイエスの生涯が描かれているがここでは説明を省略して写真のある4番目のパネルに移ろう。 このパネルの各シーンは葡萄のツルによって分割されている。 すなわち底部左の第1場面は死(地獄)からの復活、その右の第2の場面は選ばれし人々のお召し、神に見放された人々、第3場面は天国に選ばれた人々、第4画面が全ての聖人、第5画面は使徒と預言者。 そして最後の6番目が虹の中に座るイエス。
これらのパネルの上、すなわち尖塔の底部にはそれぞれ福音史家のシンボルのブロンズ像が据えられている。 すなわち左から天使(マタイ)、有翼の獅子(マルコ)、鷲(ヨハネ)、そして雄牛(ルカ)である。 これらはロレンツォ・マイターニの作と言われ、1329-1330年にここに据えつけられた。
聖堂内部
Inside正面ファサード側から聖堂に入るとすぐ左手にすばらしい大理石の洗礼盤がある。 大聖堂のかたどったこの洗礼盤は複数の作家によるものだ。 すなわちシエナのルカ・ディ・ジョバンニ Luca di Giovanni (1390)、ピエトロ・ディ・ジョバンニ Pietro di _Giovanni とフィレンツェのイアコーポ・ディ・ピエトロ・ディ・グイード Iacopo di Pietro di Guido (1406)、そしてシエナのサーノ・ディ・マッテオ Sano di Matteo (1406) である。 頂上部の像はルイジ・アクイスティ Luigi Aquisti の1891年の作品である。
左側の壁面にはジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの「光輪に囲まれて玉座にある聖母子」のフレスコ。
正面を望む(左写真)と、アプスの中央には48枚からなる聖母マリア、預言者たち、教会博士たちそして福音史家を描いたアッシジのジョバンニ・ディ・ボニーノ Giovanni di Bonino のステンド・グラス。 その前にはジョバンニ・アンマナ-ティ Giovanni Ammannati によって1331-1340年に製作された木製の聖歌隊席。 これは聖堂中央部にあったものを1541年にアプスに移動したものだ。 そしてステンド・グラスの両側には処女マリアの生涯と栄光のフレスコ画。 これはウゴリーノ・ディ・プレーテ・イラーリオ Ugolino di Prete Ilarioが弟子の助けを借りて1370年に描いた。 ピントゥリッチョ Pinturiccho は聖家族のシーンを修復し、パストゥーラ Pastura は受胎告知、聖母マリアのヨハネの母エリザベスの訪問、ヨセフのまぼろしを1497-1499年に修復している。
左側の翼堂入口の近くの上方には装飾のすばらしいパイプ・オルガン。 その翼堂はコルポラーレ礼拝堂 Capella del Corporale で、1350-1361年に建造されウゴリーノ・ディ・プレーテ・イラーリオによってフレスコ画が描かれている。 この堂に向かって右側にはリッポ・メンミ Lippo Memmi の「慈悲のマドンナ」。 そして最奥両側には大天使像。 中央にはウゴリーノ・ディ・ヴィエーリ Ugolino di Vieri の金箔とエナメルを施した銀製のすばらしい聖遺物箱がある。 これには「ボルセーナの奇跡」の布が収められている。
右側の翼堂はサン・ブリツィオ礼拝堂 Cappella di S. Brizio (Cappella Nuova とも呼ばれる)でここは入場料を払って中に入る。 ただしカルタ・オルヴィエート・ウニカを持っていればOKだ。 この礼拝堂は1408年から1444年の間に建造された。 1447年6月14日フラ・アンジェリコ Fra Angelico はこの礼拝堂の何も描かれていない壁をフレスコ画で仕上げる契約を交わし、アーチ天井に「裁き主たるイエス」や一連の預言者たちを描いたところで同年9月28日突如オルヴィエートを去ってしまう。 50年を越える中断の後、やっと1499年になってルカ・シニョレッリ Luca Signorelli にアーチ天井と壁のフレスコ装飾が依頼され、1504年ごろ完成させている。 天井画の中には、「裁き主たるイエス」、「預言者の合唱隊」、「福音史家の合唱隊」、「最後の審判の予言」、「殉教者の墓所」、「ユダヤの祖」、「教会博士たち」、「乙女たち」。 壁の上部には左から右に「アンチ・キリストの説教」、「選ばれた人々」、「天国と地獄」、「肉体の復活」、「世界の終末」。 下方の壁面にはグロテスクなものの他に、古代の哲学者や詩人の肖像画や、ホメロスやダンテなどの作品からのシーンがメダリオンの中などに描かれているのは面白い。 礼拝堂右手にはルカ・シニョレッリの「ピエタ」がある。

ドゥオモ周辺

クラウディオ・ファイナ博物館 Museo "Claudio Faina"
ドゥオーモ側から見てやや右手の向かい側にあり、カルタ・オルヴィエート・ウニカで入場できる。 ここはマウロ・ファイナ伯爵がはじめ、彼とエウジェニア・ファイナ伯爵により購入又は個人的に発掘をして集められた品々を展示する博物館である。 収集品は、コイン、クロチフィッソ・デル・トゥーフォのネクロポリスからの出土品、、アッティカの赤絵式と黒絵式の壷、エトルリアの壷などである。 この博物館の魅力はドゥオーモのほぼ正面に位置すると言うことだ。 すなわち上階はドゥオーモのファサードの観察に最適な場所なのである。 上の写真の大部分はここからのものである。 市立考古学博物館 Museo Civio Archeokogico もこの建物に同居している。
ソリアーノ宮 Palazzo Soliano
ドゥオーモの右手にある13世紀後半に建てられたもので、以前は法王宮殿と呼ばれていた。 正面に大きなテラスがあり、建物左手半ばから階段を使いテラスへ登る。 この建物には1階にエミリオ・グレコ博物館 Museo "Emilio Greco" が、2階にはドゥオーモ博物館 Museo dell'Opera del Duomo が入っている。 グレコ(1913-1995)はシチリアのカターニャ出身の彫刻家。 
考古学博物館 Museo Archeologico
ドゥオーモとソリアーノ宮の間の広場の突き当りが考古学博物館だ。 以前はここをソリアーノ宮といっていたと思うが、現在法王宮殿 Palazzo Papale と呼ばれている。 ソリアーノ宮に比べ格段に規模が小さいのでなんとも不似合いな名称だ。

モーロの塔 Torre del Moro

ドゥオーモからヴィア・ドゥオーモ Via Duomo を北西にポポロ宮の方へ行くと、コルソ・カブール Corso Cavour と交差する。 これを越えた左側にパラッツオ・デイ・セッテ Palazzo del Sette がある。 モーロの塔はこの一部だ。 高さ47メートルのこの塔はオルヴィエートの見晴台として最適のスポットで、ここもカルタ・オルヴィエート・ウニカで入場できる。
このページでまず最初に掲げたドゥオーモの遠景、この宮殿のすぐ北に位置するポポロ宮、そして下のコルソ・カブールの西側の写真(左の広場がレプブリカ広場 Piazza della Republica、その前の建物がコムナーレ宮 Palazzo Comunale)はここから撮ったものだ。 右写真はそのレプブリカ広場からのもので、モーロの塔が左側に小さく見える。 右の塔はコムナーレ宮殿のもの。 正面の教会は聖アンドレア教会 Chiesa di A. Andrea。
View from Torre del Moroオルヴィエートは丘上都市であるので土地には限りがある。 どちらを向いても建物がひしめいている。 そのため床面積を拡大するためには、上に建て増すか下に掘り下げるかしかないのである。

オルヴィエート・アンダーグラウンド

オルヴィエートには1つ新しいガイド.ツアーがあった。 それがこのオルヴィエート・アンダーグラウンド Orvieto Underground という地底のツアーだ。 これもカルタ・オルヴィエート・ウニカで参加できる。 毎日11時と4時にイタリア語と英語のツアーがツアーがあって、ドゥオーモ前の観光局で予約をする必要がある。 

集合場所は観光局で、観光局からみぎへ崖っぷちまで行き、そこから崖に沿って少し降りたところに地底への入口があった。 オルヴィエートの崖は右写真のごとくである。
この町の下には縦横に洞窟が掘られているが、このツアーで案内されるのはその一部だ。 その洞窟の規模の大きさにまず驚かされる。 人一人がやっと通れるといったものではなく、まさに大空間があるのだ。 これらのうちにはエトルリア時代まで起源を遡れるものまである。 

旅のヒント

パトリツィオの井戸  入場料 : 3.50ユーロ。 ドゥオモわきのエミリオ・グレコ美術館 Museo Emilio Greco との共通券は4.50ユーロ。 開場時間 : 4月−9月 10:00 - 18:45 10月−3月 10:00 - 17:45 休場の記載なし なお入場制限をしているので、余裕を持ってスケジュールを立てること。
レストラン コルソ・カブール沿いにはしゃれたレストランが多い。