戦史におけるエピソード
 遺跡
 劇場
 帰り道 - カラタフィーミへ

「戦史」におけるエピソード

セジェスタという町の名前を知っている人がわが国にはどれほどいるのだろうか。
紀元前400年ごろに書かれたテューキュディディースの「戦史」(Thucydididis Historiae)の中で最も面白いエピソードのひとつによって、エゲスタの町の名前を覚えておいでの方もあることだろう。 このエゲスタが今日のセジェスタである。
その巻の六[6]には、『かくも多種多様のギリシャ人、異民族の諸族がシケリアには移り住んできた。 そしてかくも広大な島であるシケリアに対して、アテーナイ人は遠征軍を送ろうと勢い立っていた。 その真の動機はシケリア全島の支配を望むかれらの願望に根ざしていたが、これを言葉たくみにつくろって、自分たちの血縁所部族ならびにかねてからの同盟諸邦に対する援助という形ですすめたい、と考えていたのである。 ことに折りも折り、エゲスタからの使節がアテーナイにやってきて、かつてなき熱烈な援軍要請の辞を伝えたことが、かれらの意欲を何にも増してつよく刺激することとなった。 エゲスタはセリーヌースと境界を接する隣国であったが、結婚をめぐる事件と、境界紛争のたえぬ領土が原因となって両国は戦争状態に入っていた。 するとセリヌース側は同盟軍としてシュラークサイ勢を迎え入れ、エゲスタ勢と戦いこれを海陸両面から封じ込めようとした。 たまりかねたエゲスタ人は、先頃の戦の際にラケースとレオンティーノイ人との間に成立した同盟条約の前例を引き、今回は自分たちを援助するためにアテーナイから船隊を派遣してもらいたい、と要請した。 彼らの言分は多岐にわたったが、要するにその趣旨は、もしシュラークサイ側がレオンティーノ人を駆逐しても何らこれに対する報復措置をこうむることがないとわかれば、やがてシュラークサイ側は、今まだ残っているアテーナイ側の同盟諸国をも壊滅させ、シケリア全島の勢力を一手に押さえてしまうであろう、そうなればかれらドーリス人、血縁でもあり母国でもあるペロポネーソス諸邦のドーリス人に一臂の力をいたすべく、いつの日か大規模な軍備を整えて援軍を送り、ペローポネソス勢と力をあわせてアテーナイの戦力を破局に追い込もうとするやも知れぬ危険がある。 ゆえにアテーナイ側としては、今なお同盟の列に踏みとどまっている諸国を助けて、シュラークサイ側と抗争することこそ賢明な策、とりわけ自分たちエゲスタ人が十分な戦費を提供しようとしているのだから、この機を黙過すべきではない、と。 幾度かの民議会においてエゲスタ側使節は、かさねてこの趣旨を力説し、またその言説に賛同する市民も現れたので、これを聞いたアテーナイ人はとりあえずエゲスタに使節を派遣すべきことを投票決議した。 使節の任務は、エゲスタ人が言うごとき軍資金が実際に、国庫および神殿財庫に蓄えられているかどうかを検査し、あわせてセリーヌースとの戦争なるものがいかなる状態で行われているかを確認することであった。』
巻の六[46]『エゲスタ人は、アテーナイから最初の使節が軍資金査閲の目的でやって来た折に、ほぼ次のごとき計略をめぐらした。 かれらは使節をエリュックスにあるアプロディーテー女神殿に案内し、奉納品の酒杯、酒壺、香炉、などをはじめ、その他少なからぬ数量の家具什器の類を見せた。 これらはみな銀製品であったので、実際の金額に換算すればとるに足らぬものであったけれども、実額を幾倍にもあざむく光景を呈したのである。 それのみか、かれらは三重櫓船の船員たちを私邸に招いて供応するに際して、エゲスタ全土から金銀の酒器をかき集めたのみか、近隣のポイニキア人やギリシャ人の諸都市からも什器を借り集め、あたかも各人己の持ち物であるかのごとくにして、これらを宴席に運びいれたのである。 こうしてどの家に招かれても、大体みな同じような器が用いられており、しかもあらゆる場所にふんだんに姿を見せたので、三重櫓船のアテーナイ人は大いに驚き、アテーナイに帰ってから、多大の財貨を目のあたりにしたと、声もからして喧伝した。』(以上岩波文庫久保正彰訳より抜粋)
このようにしてだまされて大船隊を送ったアテーナイは、破滅へとまっしぐらに進んでいくのだった。

遺跡Temple of Segesta

セジェスタはパレルモ中央駅 Palermo Centrale からトラパニ Trapani 行きの列車で94km、セジェスタ・テンピオ駅 Segesta Tempio から歩いて1〜2kmのところに位置する。 トラパニ行き列車は通常アルカモ・ディラマツ Alcamo Diramaz まで一編成で運行され、そこからカステルベトラーノ Castelvetrano 経由のものと、トラパニ・ミロ Trapani Milo 経由のものとにわかれる。 セジェスタに行くのは後者なので間違えないように。 なお、セジェスタ・テンピオ駅は無人駅で、私の行った1987年冬にはトタパニ行きは一日に一列車が、トラパニからのパレルモ行きが四本ここに止まるだけであった。
そこで私はトラパニからバスでセジェスタ・テンピオ駅まで行くことにした。 トラパニからは鉄道で32km、バスでおおよそ45分の行程だった。 無人の駅にはバスもタクシーもあるわけではなく、遺跡までは歩いていくより仕方がなかった。 駅からはカラタフィーミの方角に舗装道路を10〜15分歩き、T字路を右に曲がると広い緩やかな上り坂となり、すぐ神殿近くの駐車場につく。 ここからはシャボテンの間の無舗装の階段状の遊歩道を登っていく。 すぐに後ろに低い山を背にしたTemple (Front View)台地の上に、荒削りで男性的なドーリック神殿が目の前に現れてくる。 神殿の前後に6本、側方から眺めると14本、合計36本のかなり太い円柱の上にはこれも立派な梁が乗っており、破風の保存も良い。 屋根は勿論残っていないが、これほど保存の良いギリシャ神殿は世界に10とは無いだろう。 神殿の中は平坦でガラーンとしており、内陣が作られた形跡がまったくないため、未完成の神殿ではないかとする説がある。 しかし最近ではこの神殿は今日知られていない神、恐らくギリシャ神では無い神、のためのもので、神殿の外に祭壇をしつらえ祈祷が行われたのではないかという説が有力だということである。
この神殿は紀元前5世紀半ばに建造され、紀元前307年にセジェスタがシラクサに破壊された際にも難を逃れたと言われている。

劇場

Theater神殿を後にしてさらに舗装道路を700〜800メートルほど登っていくとバルバロ山のかなり平坦な頂上部分に出る。 この広い地域が古代のエゲスタの町だったということである。 二重の壁に囲まれているという古代都市だが、わずかにその壁らしき遺構が見られるのみである。 遺構の間の小道をさらに歩いていくと、半円形の舞台(オルケストラ)とそれを囲む20段のスタンド型観客席を持つ劇場跡にたどり着く。 7つのエリアに区分された観客席の最上段には背もたれまでついており、2,000〜3,000人は裕に収容できるだろう。
この劇場は紀元前5世紀の終わり頃から同3世紀頃の作とも、また紀元前200年ごろにローマ人がセジェスタを再興した際に作られたともいわれている。 バルバロ山の頂上北端部分の崖を切り取って建造されたようで、晴れた日の観客席からの眺望は息を呑むほどすばらしい。
毎年夏にはここで古代劇の上演が行われるようで、右下の写真はパレルモで見つけたセジェスタの古代ギリシャ劇上演のポスターである。 なお公演のある日にはパレルモ,トラパニおよびカステラマーレからのバス・サービスがあるようである。

Palermoで見つけたSegestaのギリシャ劇のポスター帰り道 - カラタフィーミへ

セジェスタの劇場を含む古代都市はバルバロ山の頂上部分にあり、その先端部分が劇場になっている。 劇場からは元来た道を戻る以外に手は無い。 古代都市の跡を通っていくわけだが、ほとんど完璧に破壊されており、この町がどの程度の規模だったのか想像をつけにくい。
神殿の入り口を過ぎるとすぐT字路にぶつかるので、そのまま直進し、さらに線路際の三叉路まできたらみちなりに左へ行くと,駅舎も立派なカラタフィーミCalatafimiの駅につく。 劇場から約4kmというところだろうか。 私は運良く劇場入口付近のT字路の先で親切な人に駅まで車で送ってもらってしまった。 このカラタフィーミには1987年冬にはトラパニ行きが日に8本,パレルモ行きが11本停車していた。 したがってこの駅を利用してセジェスタ見物をするのも良いのではないかと思う。
旅行日 : 1987年12月7日