レインボー・ブリッジ再発見の歴史  レインボー・ブリッジのトレイル
 その後のレインボー・ブリッジ  
 レインボー・ブリッジに向かう  

レインボー・ブリッジ再発見の歴史

レインボー・ブリッジの近くには2000年前のかまど跡が発見されていたり、ブリッジ・キャニオン近くには岩に描かれたアナサジの象形文字や食糧貯蔵容器などが発見されている。 おそらく彼らはレインボー・ブリッジの存在を知っていたのだろう。 その後この地に数世紀にわたりパイユート族が居住し、1860年代に入り彼らはナバホ族によりこの地から駆逐されていった。 ナバホ族の中にはこのレインボー・ブリッジを見たもの、あるいはそのうわさを聞いたものがいた。
Rainbow Bridge and the dry creek白人で最初にナバホ・マウンテン近くの巨大なナチュラル・ブリッジについて耳にしたのはメサ・ベルデ Mesa Verde の発見者リチャード・ウェザリル Richard Wetherill の息子ジョンの妻、ルイ-ザ・ウェザリル Luisa Wetherill といわれる。 ジョンとルイーザは1906年ナバホ・インディアン居留地内のユタ州のオルジェート Oljeto (モニュメント・バレーの西北西)に交易所を開設した。 ユタ大学学長のバイロン・カミングス Byron Cunnings は1908年にツギ Tsegi の断崖住居の調査のためその交易所に本部を置いた。 彼はそのときここでそのナチュラル・ブリッジのうわさを聞いたのだろう。 まもなく彼はジョン・ウェザーリルとそのナチュラル・ブリッジの探査に向け翌年の計画を練り始める。  まもなく2人のパイユート族、ナスジャ・ベゲイ Nasja Begay とその父が巨大なナチュラル・ブリッジのあるところに行ったことがあること、また喜んでガイドを引き受けることをルイーザに言ってきた。
時を同じくして合衆国政府の調査官であるウィリアム・ブーン・ダグラス William Boone Douglass もそのナチュラル・ブリッジについてのうわさを聞き、マイクス・ボーイ Mike's Boy (後にジム・マイク Jim Mikeと呼ばれる)というそのナチュラル・ブリッジについて多少の知識を持つパイユート族の男を彼らの一行に加えてその調査を開始しようとしていた。
オルジェートを出発したカミングスの11歳の息子マルコルム Malcolm とジョンを含む一行7名と、マイクス・ボーイを含むダグラスの一行6名は合流して探査をすることになった。 彼ら13名は1909年8月10日最初のキャンプをオルガン・ロック近くに張った。 翌日はカッパー・キャニオン Copper Canyon を下り、ノカイ・キャニオン Nokai Canyon に達する。 翌日はパイユート・メーサ Piute Mesa に登り、パイユート・キャニオンの険しいトレイルを下った。 パイユート・キャニオンのナスジャの家に着いてみると彼は家にはいなかった。 一行はその日さらに進んでチヤ・キャニオン Cha Canyon の現在のトレイルの上端部分に3日目のキャンプを張った。 翌日一行はルートが見つけられず、マイクス・ボーイも戻ることを希望し、ダグラスもこの探検の中止を口にするほどであった。 一行は斜面の最もきつい場所では馬をおり、何とか彼らが後にサプライズ・バレー Surprize Valley と呼ぶ地にたどり着き4日目のキャンプを張った。 彼らの多くが帰路につきたいと思っているところへ、その焚き火を頼りにナスジャ・ベゲイが現れ、ここがすでに巨大なナチュラル・ブリッジ近くであることを告げた。 翌朝彼らはアウル・ブリッジ Owl Bridge をやり過ごし、昼食後ブリッジ・キャニオンを下った。 そしてついに彼らはレインボー・ブリッジに達した。 8月14日午後のことであった。 レインボー・ブリッジの下を最初に通り抜けたのはウェザリルであった。

その後のレインボー・ブリッジ

翌1910年5月30日、レインボーブリッジはウィリアム・ハワード・タフト大統領 William Howard Taft により、レインボー・ブリッジ・ナショナル・モニュメント Rainbow Bridge National Monument として保護されることになった。 そして1913年には後に大統領となるセオドル・ルーズベルト Theodore Roosevelt がこの地を訪れている。
ドイツで生まれジュネーブで教育を受けたチャールス・ベルンハイマー Charles L. Bernheimer はジョン・ウエザーリルのガイドで1920、1921、1922そして1924年にこの地を訪れている。 この2人はシャベルやドリルの他、ダイナマイト、TNTや黒色火薬を持ち込みベルンハイマー・トレイルを作り上げる。 このトレイルが出来て2年後の1924年にはレインボー・ロッジが建設され1963年までに25,000人が利用したと言う。 現在はその遺構が残るのみである。
第2次世界大戦後にはコロラド川をゴム・ボートを利用してレインボー・ブリッジにアプローチする者が現れ、1950年代初頭にはリース・フェリー Lees Ferry からジェット・ボートを利用してレインボー・ブリッジを訪れることが出来るようになったが、これとて3日間を要した。
1963年にグレン・キャニオン・ダムのゲートは閉じられ水かさが増し、ワーウィープ・マリーナ Wahweap Marina からのボート・ツアーが可能となった。 現在ではそのダムのおかげで年間30万人もの人がレインボー・ブリッジを容易に訪れることが出来るようになっている。

レインボー・ブリッジに向かう

レインボー・ブリッジ Rainbow Bridge へはワーウィープ・マリーナからのボート・ツアーを利用するのが唯一のアクセス方法だ。 2003年夏にはレインボー・ブリッジ近くの桟橋からレインボー・ブリッジへの往復時間1時間から1時間半を入れて、合計7時間から8時間の長旅だ。
船は出港後、ゆっくりとグレン・キャニオン・ダムのほうへ向かって進む。 アンテロープ・アイランドのTo Rainbow Bridge南を回り、スピードを上げてレインボー・ブリッジを目指す。 湖の両岸には次々にすばらしい景色(上写真)が展開する。
船内にはトイレがあるほか、水、コーヒー、そしてレモネードが置いてあり、自由に飲める。 食べ物は船上でも、またレインボー・ブリッジ近辺でも一切販売されていないので事前に用意しておくことになる。 私たちは上甲板に席を占めた。 眺めは良いのだがなんとも暑い。 その結果ひっきりなしに水分を取ることになる。 後で気がついたのだが、上甲板の場合最も船室に近い場所に席を取るのがベストだった。 そうすれば多少日陰の恩恵にあずかることが出来たのだ。 The Tour Boat
ツアー・ボートはグレン・キャニオン・ダムから約80kmほどの所から南へフォービドゥン・キャニオン Forbidden Canyon に入り、スピードを落とす。 ボートはやがて左手にブリッジ・キャニオン Bridge Canyon に折れ、その年の水位によって移動して設置される桟橋(左写真)に接岸する。
2003年7月には満水時より89フィート(約27m)も水位が下降したと言うことで桟橋の位置が大幅に後退し、船上からレインボー・ブリッジを見ることはできなかった。
この桟橋にはレインボー・ブリッジのパンフレットが置いてあったり、めずらしい湖上のトイレが設置されていたりする。
レインボー・ブリッジはグレン・キャニオン・ナショナル・レクレーション・エリアの中にあるように見えるが、別組織のレインボー・ブリッジ・ナショナル・モニュメント Rainbow Bridge National Monument に属す。 したがってこのパンフレットはここ以外では手に入らないようだ。

Rainbow Bridge from farレインボー・ブリッジへのトレイル

桟橋を出発しよう。 桟橋の先少しの間湖の左岸に沿って歩き、やがて湖に注ぐ枯れ沢に沿った道を歩く。 このトレイルは幅も広く良く整備されているので、約1マイルを20分もあればレインボー・ブリッジに到着できるだろう。
日光の照りつける中を歩き続けると、やがてレインボー・ブリッジが見えてきた(右写真)。
さらに歩くこと数分でレインボーブリッジの前の広場(写真下)に到着する。
ここには「アメリカ先住民族にとってレインボー・ブリッジは神聖な宗教的場所です。 この長期間続いている信仰を尊重し、レインボー・ブリッジに近づいたり、それをくぐったりしないよう皆さんの自発的協力をお願いします。」という立て札(下写真)が立っているので尊重しよう。
なお先にレインボー・ブリッジはボート・ツアーが唯一のアクセス方法と書いたが、これは実は正確でない。 陸路をナバホ・マウンテン Navajo Mountain の近くを通ってレインボー・ブリッジに至る2つのトレイルがあるがそうだ。 ただしこの道をとる場合には事前にナバホ・ネーションのパークス・アンド・レクレーション・デパートメントの承認を取らねばならない。
Rainbow Bridge
このレインボー・ブリッジは世界最大のナチュラル・ブリッジと言われる。 その高さは約290フィート、約87m、上写真中央部に写っている人の大きさと比較すればその大きさがお分かりいただけるだろう。 そのスパンは275フィート、82m、アーチ頂上部の厚さ42フィート、その幅33フィートととてつもなく大きい。
レインボー・ブリッジはどのようにして出来上がったのだろうか。 このあたりの土地はナバホ・サンド・ストーンと呼ばれる比較的柔らかな砂岩がより硬い砂岩およびケイエンタ頁岩層の上に乗っている構造となっている。 ナバホ・マウンテン方面からやってきた水流が谷を作り、レインボー・ブリッジ近辺でほぼ180度曲がり半島状の地形を作り出した。 そして水流は次第により柔らかいナバホ・サンド・ストーンにトンネルを作ることに成功する。 そして炭酸カルシュウムの溶解や、アイス・ウェッジング ice wedging (岩の柔らかい部分に水分が浸透しそれが凍結して体積を増し、くさびのようにして岩を崩壊させること)などがあいまってレインボー・ブリッジを作り上げていったのである。

上写真は帰路船上からとったもの。