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    いろは歌考

    
                    あ    希    う           わ           色
                   さ (け)  ゐ    川     可     知   ハ
        勢        起   ふ    農  (つ) (が)  (ち)   尓
      (せ)      (き)  こ  (の)  ね     世     利   (に)
        数     し  遊   盈    お    奈     多   (り)   保
      (ず)ひ  ゑ (ゆ) (え) く  (な)  (た)  奴   (ほ)
           も      免   て   山    ら      れ  (ぬ)   へ
            (め)          む     そ   る    と
             美                      を
    
    
               
    
    





    
    いろは歌の起源 
    上記の「いろは仮名47文字」は文献上「金(こん)光明(こうみょう)最勝(さいしょう)王(おう)経(ぎょう)音義(おんぎ)」
    (1071年)に記述されているのが、最初と言われている。この音義とは、経典の字義や発音を解説したもので、大般涅槃経(たいはんねはんきょう)
    という仏典の第十四聖行品の偈(げ)に書かれている、 「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」を和訳したものだといわれています。「いろは歌」は
    音訓の読みとして「万葉仮名」で7字づつに区切り一覧表記されている。おそらくは経典の漢文を読み砕き発音(声音(しょうおん))するためのルビとして
    音の高低、強弱等を示す為に(文字の肩に朱筆で入)用いられたものと思われる。
    「金(こん)光明(こうみょう)最勝(さいしょう)王(おう)経(ぎょう)音義(おんぎ)」の万葉仮名一覧表 
    
    
    以       呂        波        耳        本       へ       止
    千       利        奴        流        平       和       加
    餘       多        連        曾        津       祢       那
    良       牟        有        為        能       於       久  
    耶       万        計        不        己       衣       天
    阿       佐        伎        喩        女       美       之
    恵    比    毛    勢    須
    
    
    その後、文献上変化がみられるのは「悉雲輪略図抄(しうんりんりゃくずしょう)」(了尊1287年)によると「いろは・・・」の末尾に「京」という字が
    加えられる様になり現代においても「いろはカルタ」の最後のことわざとして「京の夢、大阪の夢」として使用されている。
    また、「順」の表記も48番目に「京」を入れて「いろは順」が近世(最初の五十音順の事典は1884年の『日本百科事彙』田口鼎軒編)まで使われてきた。   
    12世紀に入ると、新義真言宗の祖「覚鑁(かくばん)」が著した涅槃経の偈「密厳諸秘釈(みつごんしょひしゃく)」の中で「いろは歌」について
    注釈を記しており『諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽』つまりは涅槃経の偈そのものだと説明している。時代と共に宗教観の確立と政治への
    加担が加速する中、覚鑁(かくばん)の解釈以降「いろは歌」が無常観をあらわした歌として人々の間に浸透し、受け継がれていった。
    いろは歌の解釈
    色は匂へど  散りぬるを  我が世誰ぞ  常ならむ
    有為の奥山   今日超えて   浅き夢見じ   酔ひもせず
    
    (釈文)
    花は咲いても、すぐに散ってしまう。そんな世の中に同じ姿であり続けるものなど存在しない。
    人生という険しい山道を、今日もまた一つ越えてきた。儚い夢は見たくない、酔いもせずに
    註)
    #色は匂へど・・・花が咲いている様  #我が世・・・・・私の住む世界、この世
    #有為の奥山・・・人生(いろいろ紆余曲折ある)を比喩  #浅き夢見じ・・・眠りの浅い夢、#見じは一応否定語
    
    
    一般的に「夢見じ」と濁音であるとされ、解釈も否定文であると現在では大方の評価。根拠としては「いろは歌」成立時は通常濁点を付けない習慣で
    あったこと17世紀の僧 観応(1650-1710)が著した真言声明の音義「補忘記(ぶもうき)」(1687)の中でも「いろは歌」の最後の「ず」以外はすべて清音で
    読まれると解説しており空海が声明を伝えて以来、脈々と伝えられたことであり信に値する。清音の場合に終止形は「夢見き」となるが、「夢見し」
    とした場合「有為の奥山」は煩悩世界の紆余曲折「浅き夢」は邯鄲の夢の如し儚い人生、「見し」だから見てしまった酔いしれる暇もなくあっという間に
    ・・・となり肯定文。ただし、終止形の「し」が使われるようになったのは鎌倉時代以降と言われており、かの覚鑁(かくばん)の解釈も当時の世相・宗教観と
    相まって「諸行無常偈」と結びついたのだろう。従って「夢を見た」と取り煩悩(諸行無常の)世界を今日越え、人生というものの儚さを見てしまった。
    まだ酔いもせぬうちに・・・となる。
    いろは歌以前 同様の手習い歌として「天地(あめつち)の詞(うた)」「大為(たい)爾(に)の歌」が元禄元年(970)源(みなもと) 為(ため)憲(のり)が著した
    「口遊(くちずさみ)」に掲載されている。この「口遊(くちずさみ)」は、藤原為光が当時7歳の松雄君(のち誠(さね)信(のぶ))の為に源 為憲に
    「手習学問書」を依頼天文・時節・官職・人倫・習慣等19節に分けて記述あらゆる知識を暗唱しやすいよう、短句に纏めたものである。
    
    
    「あめつちのうた」          「天地の詞」
    あめ つち ほし そら         天 地 星 空
    やま かは みね たに         山 川 峰 谷
    くも きり むろ こけ         雲 霧 室 苔
    ひと いぬ うへ すゑ         人 犬 上 末
    ゆわ さる おふせよ          硫黄 猿 生ふせよ
    えのえを なれゐて          榎の枝を 馴れ居て
    「たゐにうた」            「大為爾の歌」
    たゐにいて なつむわれをそ    田居に出て 菜摘む我をぞ
    きみめすと あさりおひゆく    君召すと  漁り追いゆく
    やましろの うちゑへるこら    山城の   うち酔へる子ら
    もはほせよ えふねかけぬ     藻葉乾せよ  え舟繁けぬ
    
    
    《大為璽伊天 奈従(徒)武和礼遠曾 支美女須土 安佐利(於)比由久
    也末之呂乃 宇知恵倍留古良 毛波保世与 衣不弥(祢)加計奴》
    この「大為爾の歌」は五七調で構成され 源 為憲 の作とも伝えられる。
    また平安時代初期の作と言われる「天地の詞」は「いろは歌」が登場するまで
    手習い歌の基本であった。
    
    参照:いろはうた・小松英雄

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    江戸回文



    なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな


    江戸回文

    :釈文:
    長き夜の 遠の睡(ねむ)りの 皆目醒(めざ)め 波乗り船の 音の良きかな
    
    :現代読み:
    ながきよの とおのねむりの みなめざめ なみのりふねの おとのよきかな
    
    意味・解釈 
    
    進みゆく船は心地良く波音を立てるので、過ぎ去る刻の数えを忘れてしまい
    ふっと「朝はいつ訪れるのだろう」と想うほど夜の長さを感じた。
    調子良く進む船が海を蹴立てゆく波の音に、覚めてしまう。
    (夜が永遠に続いてしまうのではと思うほどの心地よさから)
    思わず眠りも長い世の中の遠い戦いの記憶から皆よ目を覚ましなさい。
    波が(乗っている船に)ぶつかる音の状況はよいのだろうか。
    言葉遊びとしての要素を多く含んだ歌で、「なみのりふね(波乗り船)」と
    「みのり(実り)」が掛けられているのをはじめ、「とおの(遠の)」と
    「とおの(十の)」、「長き夜(夢見が続く)」や「長き世(長寿)」
    または「長き世(時代の波)」「船(宝船)」と「不音(静かな)」など
    音や意味合いなどの言葉遊びが随所に用いられている。
    正月2日(地方によっては3日)の夜、上記の歌が書かれた七福神の宝船の
    絵を枕の下に置き、歌を3度読んで寝ると吉夢を見られるという風習がある。
    また、歌を歌いながら千代紙や折り紙などに歌を書き記しその紙を帆掛け
    船の形に折って枕の下に置くことで良い夢が見られるとも。なお、悪い夢
    を見た場合はその船を川に流すことで邪気を払い縁起直しした(水に流す)
    江戸時代には、正月早々に「お宝、お宝」と声を掛け、歌が書かれた宝船の
    絵を売る歩く「宝船売り」がおり暮れどきになると庶民は買いに走っていたとされる。
    この廻文歌の記述は「日本風土記」(AD1200~1800)巻五の文辞に廻文詞として
    残っているのが最初である。ちなみに作者は不詳。(運歩色葉集より)
    ながきよの・・・の他にも、
    「草々の 名は知らぬらし 花守も 名は知らぬらし 花の咲く咲く
    (くさくさの なは しなぬらし はな もりも なは しなぬらし はな のさくさく)」、
    「桜木の 訪ひし 香りは 花の園 縄張り侵し 人の気楽さ
    (さくらきの とひし かおりは はな のその なは はりおかし ひと のきらくさ)」
    などが知られています。
    ?俳句では、
    「岸に咲く 色気も軽い 草にしき(きしにさく いろけもけろい くさにしき)」
    「啄木鳥の 飛ぶや小薮と 軒つづき(きづつきの とぶやこやぶと のきつづき)」
    「消ゆる子の 片目に見たか のこる雪(きゆるこの かたみにみたか のこるゆき)」
    、などが代表的なものです。
    ?最も長い回文は、江戸時代、1661年(寛文元年)、水車集(紙屋川水車集、第一、詞書)にある
    「はれけき先の つま香を求めむ 色白い梅とも 岡松の木 咲きけれは
    (はれけきさきの つまかをもとめむ いろしろい むめとも をかまつ のき さきけれは)」
    というもので、41文字もあります。 
    ?吉原の妓楼(ぎろう)大文字屋の主、村田市兵衛(1754〜1828)は、狂名を加保(かほ)茶(ちゃ)元成(もとなり)
    といったが、ある人が放屁をした時、かたえの人が腹をかかえて笑い、これを回文の歌に詠めと注文すると
    へ々々々々々々々々々々々々々々々々 へ々々々々々々々々々々々々々々々々、と詠んだという。
    (徳(とく)和歌後(わかご)万歳集(まんざいしゅう)より)
    

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    初 夢 考

    一富士二鷹三茄子
    江戸時代に最も古い富士講組織の一つがある駒込富士神社の周辺に鷹匠屋敷があった事
    駒込茄子が名産物であった事に由来する。「駒込は一富士二鷹三茄子」と川柳に詠まれた
    「一富士二鷹三茄子」から「四扇五(しせんご)煙草(たばこ)六座頭(ろくざとう)」と続きます。
    「富士」は日本一の山、「鷹」は威厳のある百鳥の王、「茄子」は“生す”“成す”で
    物事の生成発展するさまを言い表わしているらしいです。
    別の解釈に、徳川将軍家とゆかりの駿河の国(静岡県)と関係づけるものがあります。
    富士はいわずもがな、鷹は富士のすそ野の鷹狩り茄子は初茄子「扇」は涼をとるだけではなく
    祭礼や舞踊の小道具となり、「煙草」は酒とともに、祭りや祝い事など、人々が集う席には欠かせません。
    座の雰囲気を盛り上げたり、和ませたりするからです。「座頭」は琵琶法師の座に所属する剃髪した盲人の称で
    中世には琵琶法師の通称となり近世には琵琶や三味線などを弾いて歌を歌い、物語を語り、按摩、鍼治療、金融
    などを業としました。四扇、五煙草(多波姑)六座頭「俚言集覧(りげんしゅうらん)」に記載があり
    同内容を挙げた辞典類の多くはこれを出典としている。一説として一富士二鷹三茄子と四扇五煙草六座頭は
    それぞれ対応しており富士と扇は末広がりで子孫や商売などの繁栄を、鷹と煙草の煙は上昇するので
    運気上昇を、茄子と座頭は毛がないので「怪我ない」と洒落て家内安全を願うという。
    
    *俚言集覧(りげんしゅうらん)
    江戸時代の国語辞書。26巻。太田全斎著。成立年未詳。主として俗語・俗諺などを集め、五十音の横の段の順序に
    配列して語釈を加えたもので、明治33年(1900)に、井上頼圀(いのうえよりくに)・近藤(こんどう)瓶(みか)城(き)が
    現行の五十音順に改編、増補して「増補俚言集覧」3冊として刊行。
    *近世、石川雅(まさ)望(もち)『雅言集覧(がげんしゅうらん)』、太田全斎『俚言集覧』、谷川士(こと)清(すが)
    『和訓(わくんの)栞(しおり)』といった辞書が出た(以上が三大辞書といわれる)。
    
    
    胡蝶の夢
    
    
    中国の戦国時代の宋国(現在の河南省)に生まれた思想家で、道教の始祖の
    1人とされる人物の荘子(荘周)による説話である。荘子の考えが顕著に表れている説話として、またその代表作として
    一般的にもよく知られている。夢の中で胡蝶(蝶のこと)としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが
    はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話である。
    この説話は「無為自然」「一切斉同」の荘子の考え方がよく現れているものとして有名である。
    「無為自然」を荘子の言葉でいえば「逍遥遊」となり、それは目的意識に縛られない自由な境地のことであり
    その境地に達すれば自然と融和して自由な生き方ができると荘子は説く。
    
    (原 文)
    昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
    自喩適志与。不知周也。俄然覚、則遽遽然周也。
    不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
    周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
    
    (釈 文)
    昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。
    自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 
    俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
    知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
    周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。
    
    (訳 文)
    以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
    自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。
    はっと目が覚めるとこれはしたり、荘周ではないか。ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶と
    なったのか、自分は実は胡蝶であっていま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
    荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く
    これが物の変化というものである。
    
    
    #栩栩然(くくぜん)・・・・ふわふわするさま、
    #遽遽然(きょきょぜん)・・にわか、突然
    
    
    宝 船
      
    壽海波平紅旭鮮 遙看寶字錦帆懸
    同乘七福皆含笑 知是金銀珠玉船
    (釈文)
    壽(じゅ)海(かい)波(なみ)平らかにして 紅(こう)旭(きょく)鮮やかなり 遙かに看る宝(ほう)字(じ) 
    錦(きん)帆(ぱん)にかかるを同乗の七福 皆笑を含む 知る是れ金銀 珠玉の船
    
    (訳文)
    寿海は波が穏やかで、真っ赤な朝日が昇っている。海の遥か彼方から宝の字を書いた錦の帆を掲げた船がやってくる。
    船には七福神が乗っており、皆笑みを浮かべている。御存じの通りこれが金銀財宝を載せた宝船である。
    
     
      # 藤野君山(くんざん) 1863−1943
    
     	    名は静(しず)輝(てる)。東京に生まれる。宮内省式部職に勤務
                退官後大正天皇より賜った菊にちなんで賜(し)菊(ぎく)園(えん)を主宰した。漢詩をよくする。
                昭和18年11月没す。年80。 
    

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    千字文雑記

    千字文雑記
    千 字 文
    千字文(せんじもん)は、子供に漢字を教えるために用いられた漢文の長詩である。1,000の異なった文字が使われている。
    南朝・梁(502 - 549年)の武帝が、文章家として有名な文官の周興嗣(しゅうこうし)(470 - 521年)に文章を作らせたものである。 
    周興嗣は,皇帝の命を受けて一夜で千字文を考え,皇帝に進上したときには白髪になっていたという伝説がある。
    文字は、能書家として有名な東晋の王羲之の字を、殷鉄石に命じて模写して集成し、書道の手本にしたと伝えられる。
    王羲之の字ではなく、魏の鍾よう(しょうよう)の文字を使ったといった異説もあるが、有力ではない。完成当初から非常に珍重され
    以後各地に広まっていき、南朝から唐代にかけ流行し宋代以後全土に普及し、千字文はかつて多くの国の漢字の初級読本となった。
    注釈本も多数出版されている。 また、書道の手本用の文章に使われ、歴代の能書家が千字文を書いている。 
    中国では智永(隋)、猪遂良(唐)、孫過庭(唐)、張旭(唐)、懐素(唐)、米元章(北宋)、高宗(南宋)、趙子昂(元)
    文徴明(明)などの作品が有名で、敦煌出土文書にも千字文の手本や習字した断片があり、遅くとも7世紀には普及していた。
    日本でも巻菱湖(江戸)市河米庵(江戸)、貫名菘翁(江戸)、日下部鳴鶴(明治)、小野鵞堂(明治)などの作品がある。
    その後、「続千字文」(侍其良器、宋時代)、「集千字文」(徐青藤、明時代)など類似本が創作されたが、周興嗣作の千字文が最も普及している。
    千字文は“天地玄黄”から“焉哉乎也”に至るまで、天文、地理、政治、経済、社会、歴史、倫理などの森羅万象について述べた
    4字を1句とする250個の短句からなる韻文である。全て違った文字で、一字も重複していない。ただし、数字では「一」「三」「六」「七」
    方角では「北」、季節では「春」、地理では「山」が無いなど、初学者に必要な漢字が抜けている。書道の手本としては
    智永が楷書と草書の2種の書体で書いた「真草千字文」が有名である。その後、草書千字文、楷書千字文など、様々な書体の千字文が作られた。
    また、篆書、隷書、楷書、草書で千字文を書いて並べた「四体千字文」などもある。
    『古事記』には、百済の和邇吉師が応神天皇(270 - 310年)の治めていた頃の日本へ千字文と『論語』10篇を伝えたとされているがこれは千字文が成立する
    以前である。この矛盾については記事自体をただの伝説であると捉えられたり、いくつかの事実を反映しているという意見や別の千字の文が伝えられたという
    説がある。正倉院へ光明皇后が寄進したときの目録「国家珍宝帳」(751年)には「搨晋右将軍羲之書巻第五十一眞草千字文」があり
    国宝の「眞草千字文」がそれだと推定されている。正倉院文書にも千字文を習字した断片があるので、8世紀には習字手本として使用されていた。
    最澄が延暦寺に納めた図書目録にも、唐から持ち帰った拓本の千字文が記録されている。平安時代の日本国現在書目録(890年頃)には
    6種類の注釈本が記載されている。南北朝時代には注釈付本が出版され、天正二年(1574年)には習字のための「四体千字文」も刊行された。
    江戸時代には多数の注釈本が刊行された。類似本も、12世紀の三善為康の「続千字文」以後、生田萬(江戸時代)の「古学千字文」
    無名氏「和千字文」などが作られた。
    近年の訳著には、『千字文』(小川環樹 ・木田章義訳解説、岩波文庫 1997年、ワイド版2001年)がある。
    
    和邇吉師  (わにきし)                              
    王仁(わに、生没年不詳、? - ?)は、記紀に記述される百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる人物。
    『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。
    
    百濟國 若有賢人者貢上 故 受命以貢上人名 和邇吉師 即論語十卷 千字文一卷 并十一卷付是人即貢進 此和邇吉師者、文首等祖? 『古事記』
    
    訳:百済にもし賢人がいるのであれば献上せよとの(応神天皇の)命令を受け、(百済が)献上した人の名前は
    和邇吉師(わにきし)という。論語十巻と千字文一巻のあわせて十一巻をつけて献上した(王仁によって『論語』
    『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。ただし、千字文は王仁の生存時まだ編集されておらず
    この記述から王仁の実在には疑問符がつけられることも少なくない。帰化した複数の帰化人学者が、『古事記』
    編纂の際にひとりの存在にまとめられたのではないかとされる説もある。 
    
    古今和歌集の仮名序に見る王仁の作とされる歌
    なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな
    
    王仁塚 大阪市 北区大淀中3丁目(旧大淀区大仁町)
    名称 一本松稲荷大明神(王仁大明神・八坂神社)王仁の墓と伝えられていた。
    また王仁大明神の近辺に1960年代まであった旧地名「大仁(だいに)」は、
    王仁に由来していると伝えられている。
    枚方市 大阪府史跡 伝王仁墓 枚方市藤阪東町三丁目
    o	1616年(元和2年)、藤坂の山中にオニ墓と呼ばれる2個の自然石があった。      
        歯痛やおこりに霊験があったとされた。禁野村和田寺の道俊は王仁の子孫と自称し、  
        『王仁墳廟来朝記』を著した。藤坂村字御墓谷のオニ墓は王仁墓の訛ったものと表した。 
    o	1731年(享保16年)、京都の儒学者並川五一郎が上記文献により、墓所中央の自然石を
        王仁の墓とし、領主・久貝因幡守に進言「博士王仁之墓」の碑を建立。 
    o	1937年(昭和12年)、北河内郡菅原村村長が大阪府に史跡指定を申請。 
    o	1938年(昭和13年)、大阪府は申請に従い史跡13号に指定  
    

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    漢字の起源

    漢字の起源
    漢字の起源
    一般に漢字の起源は三皇五帝の神話時代の黄帝(こうてい)の代(B.C.2510〜2448)に
    吏官の倉頡(そうけつ)が砂浜を歩いた鳥の足跡を参考に作った鳥(ちょう)跡(せき)文字とされる。
    (説文解字)又、易経によれば聖人が漢字を作ったと記述している。
    最近では、約6000年前の半坡(はんぱ)遺跡で、50種あまりの符号が発見され、
    それには一定の規律があり、簡単な文字の特徴を持っている。
    「これは漢字の萌芽である可能性が高い」と専門家たちは見ている。
    #半坡遺跡は紀元前5000〜4500年の住居址で,堀を巡らした環濠集落
     
    考古学的に現存する最古の漢字は、殷に於いて卜(うらない)の結果を書き込むために使用された
    (亀甲獣骨文)、殷墟(いんきょ)から発掘される甲骨などに刻まれた甲骨文字である。
    その内容は殷王朝第22代武丁(ぶてい)(紀元前1600頃−1046)の頃から
    書かれたものであり、文字として使用できる漢字が出来上がったのは
    約3300年前のこの頃だと考えられる。絵に近い象形ではあったがすでに
    指示文字や会意文字も存在していた。
    その後、青銅器に鋳込まれた金文という文字が登場し商(殷)時代末期から
    戦国時代まで約1200年ほど使われた。
    
    金文 は東周・春秋戦国時代に生まれ、大篆(だいてん)(籀(ちゅう)文(ぶん))とも呼び中国最古の
    石刻であり、周が混乱の時代を迎えると漢字は各地で独自の発展を遂げ
    春秋戦国時代には、地域ごとに通用する字体、意義、形等の抽象化が進み複雑になっていった。
    金文から石鼓文を経て次に現れてくる小篆文字は秦が全国を統一すると
    今までばらばらであった文字の字画、また書の表現も統一された。
    秦の始皇帝(B.C.246〜210)の命で李斯が大篆を基礎に省略して作った字体を篆書(小篆)と いう
    これが皇帝や官僚の使用する正式な書体とされた。
    
    漢代に入り難解で使いにくい書体の小篆を簡略化し成立した文字を隷書と
    いい、毛筆の発達と共に生まれた。蔡倫によって蔡候紙が生まれ紙の発展
    と共に書物や石碑が多くなり、次第に走り書きした書が草隷と呼ばれ、
    この隷書を早書きし最も簡略化の進んだ文字が草書になった。
    行書は隷書をやや連書きした中から生まれてきました。
        
    後漢の第4代皇帝、和帝のとき(紀元100年/永元12)に許慎により
    説文解字(最古の部首別漢字字典)成立。叙1篇、本文14篇。所載の小篆の見出し字9353字、重文1163字。
    漢字を540の部首に分けて体系付け、その成り立ちを「象形・指事・会意・形声・転注・仮借」の6種
    (六書;りくしょ)に分けて解説し、字の本義を記す。
    また楷書は一点一画を明瞭に書く書体で草書や行書より少し遅れて成立しました。
    楷書は三世紀中ごろには成立し、科挙制度の発展と共に「正字」という由緒正しい文字が求められています。
    その後現在まで正式書体として使用され続けています。
    宋代には、木版技術が発展し楷書を基礎に「宋朝体」が生まれ後の明・清代には「康煕字典」が編纂され、「明朝体」も生まれた。
    
    

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    最終更新日2019.01.21

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