ファッションとしてわが国に紹介されたバックパッキングがなぜ生き残れなかったか。広大な、そしてバラエティに富んだフィールドを持つアメリカ大陸と違って、アウトドア=山と言う地形構造を持つわが国では大きな背負子は行動を妨げるだけでそのメリットを生かしきれなかった。さらにシュラフをパックの外にくくり付けるスタイルはパッキングは楽にはなるが、湿度が高く雨の多いわが国では、いざ野営の段になると些か具合いの悪いものだった。
- ※最近では米国製でも、外部にシュラフを
- 付けるタイプのザックは余り見
- なくなった。やはり不便なのであろう。
そのうえ、ザックの中身をシステマティックに設定し、パッキングする物、その収納位置までもをきちんと決めてしまったような言うなればシステムザックはよくも悪くもアバウトな我々日本人には少々馴染めないものでもあった。
- ※今日ではシステマティックにマニュアル化
- されていないと物事に対応できない人間が
- 増えたことが問題化しているようではあるが。
また、フィールドそのものも長期の徒歩旅行に耐えるだけの変化を持った所が少ない、あるいは設定しにくいと言う事実もあった。
- ※Peak hanthingを目的とする人や、
- コンクリート舗装で車がビュンビュン
- 通り過ぎる国道を歩いても楽しいという
- 人はまた別ではあるが。
日本列島で自然に分け入ろうと一歩踏み出せばそこはもう山岳地帯の入口なのだ。
元来わが国の野外生活は「山登り」に付随した従属物であり、山登りもまさしくてっぺんに「登る」ことが即ち目的であった。放浪しながら野外生活そのものを楽しむと言った観念は全く一般的ではなかった訳である。
ワンダーフォーゲルと言う言葉は日本語化しているが、大地をさまようにはわが国の地形は急峻過ぎたのだ。
つまるところ、風土と国民性に合わない表面だけのカッコ良さは結局その土地に根を下ろすことはありえない。当時、このバックパッキングを上辺のファッションや方法論として捉えないできちんとその思想までもくみ取ることが出来たなら、私たちの現在の悲観的な環境も幾分かはマシな物になっていたのではないかと考える。
後悔は先に立たない。Back to the Nature.…自然に帰るためには、生きて息づく自然がそこになければ不可能なのだ。
現在のこのアウトドア流行も単なるブームでなく静かではあるが熱く永く続くムーブメントにまで高めて行く方向が必要なのではないだろうか。
何を身につけるか、どんな道具を使うか、といったファッションだけではなく、自分の“ライフスタイル”の中でアウトドアをいかに位置させて行くかと言うことが重要なのである。ファッション先行でもそれはそれで一向に構わないのだが、それだけで終わらせたくないと言う事は願いにも似たものである。
この項終わり To be cont. 乞うご期待
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