愚行連鎖

GB音楽史-2-MIDIの曙

それは楽器屋から始まった--1980年代後半

 10数年前、最初の子供も歩き始め、生活にも多少余裕が出てきた頃…学生時代に懇意にしていた楽器店を久しぶりに訪れ、昔の仲間達の消息を尋ねた。

 彼ら−音信不通になっている学生時代からのバンド仲間達−は今でも音楽を忘れずにいるのだろうか?

 我々がいつもお世話になっていた元看板娘はまだ店におり、

「みんなときどき遊びに来る。していく話は昔の仲間、MTR、MSXパソコンとPCミュージック」

だという。

 みんな音楽は忘れられない、しかし、いつまでも仲間達とばかり遊び回っていられないのだ。
 いつのまにかヲヂサンと呼ばれる年代になってしまったかつての音楽少年達は、断片になってしまった自分の時間の中で、それでも音と暮らしたくて、もがいているのだった。


MSXパソコンの事--パーソナルコンピュータの黎明

 当時PC9801(E・F…VM:8086又はV30)を代表とする16bitPCは業務用ステータス、それもかなり高い雲の上の存在だった。
 さらにそれを使って「音楽遊び」をしようとすると、とてつもない出費を強いられるものでもあった。
 そのころ発表されたのがMSX2、当時としても異常とも思える安価なPCであった。

(ディスプレイ・記憶装置等別売り、本体のみ定価で29,800.〜200,000.台位まで。ディスプレイは通常のTVを使うものであり、RF !! とコンポジット、RGBが併用された。当時の8Bitマシンでは通常のTVをモニタに使うことはごく一般的であった。)

 MSXは"2"にVer.UPしてから他の8bitPCと比較してもその環境は整い、ゲームは言うに及ばず、WPやグラフィックなどのアプリケーションも一通り揃っており、それらの価格も競合機と比べて手の届きやすいものになっていた。
 何よりもYAMAHA製のMSX用MIDIのシステムは、完成度から見れば当時一般ユーザー用としては唯一と言ってもいい製品だったのである。
 他メーカーのマシンにもMIDIオプションは有るにはあったが、構築コスト/性能はYAMAHA製の物とは比較にならなかった。
 しかし、いくら廉価だと言っても衝動で買えるほどの価格ではなかったので、将来的なシステムアップをもくろんで、とりあえず一番廉いPanasonicのマシンとデータレコーダを購入した。
もちろんフロッピードライブ等は一般人の手の届くものではなく、データレコーダ(カセットテープを利用するシーケンシャルアクセスデバイス:知ってるかな?)程度の外部記憶装置でも別売当然の時代だったのだ。

ちなみに当時のMSX2は動作周波数4MHzの8Bitチップ、Z80をCPUに持ち、メインメモリはMSXの8KBから拡張され、64KBとなっていた。
(数値、単位は決して書き間違いではない)

 MSXは統一規格と呼ばれ、当時としては画期的なことに、YAMAHA製のマシンで無くともこのシステムは完全に使用可能だったのだ。

全く互換のないマシンが乱立して鎬を削っていたなんて、今となっては想像もつかない世界だな。面白い発想のマシンはたくさんあったけどね。

 8bit機の場合、当時はホームパソコンなる範疇にくくられ、大抵のマシンが何がしかの音源を搭載しており、単体でも「音楽らしき事」をすることがどうにか可能だったのである。
 そして、その指向性はAXやPC9801の屍を乗り越え、Windowsに引き継がれ、現在に至っているのだな。

その代表がPSG(Programable Sound Generator)+BASIC上のMML(Music Macro Langage)という物である。
 これだけでも初めての人間に取っては感動的な出来事であった。
 何しろ、機械が自分の言うことを聞いて3部合唱をしてくれるのだから…
(PSGはピコピコ音楽と後に称された矩形波を合成、同時に3音発生できるチップだった)


FM音源ユニット--音楽性の進化

 MSXにオーディオユニットなる拡張装置が発売になる。
 PSGも音楽(らしきこと)が手軽に楽しめる便利な機能を持ってはいたが、それは俗に言う「パソコンの音」−ピコピコ音楽とけなされたあの音−であった。
 PSGには制約が多く、同時発声は3声、音色の加工にも制約が多く、バリエーションは望めない。
 オーディオユニットと呼ばれるこの装置は本体+装置のみでFM音源、PSG、更にPCMまでを同時に9chを拡張BASIC、あるいは専用ソフトから扱える、と言う当時としては画期的な物だった。
 専用ソフトは設定が極めて大ざっぱではっきり言ってお子様向けの機能しかなく、音楽的には余り面白くないのでお蔵とし、殆どBASIC上での使用となった。
 目標はあくまでMIDIシステムなのだが、この拡張装置は機能から見れば価格が廉く、サラリーマンの小遣いでも購入可能な価格だった。
 既にFDDユニットを入手していた私のマシンはこれでかなり「本格的」な「音楽らしきこと」に一歩近付いたのだ。
(当時は3.5’FDD:もちろん2DD、を持っていることすらステータスに近かった。仕事場では5'5MBのHDDユニットと8'FDDが活躍していた…数値は書き間違いではない。ちなみに仕事場のプリンタ基盤に取り付ける第2水準漢字ROMを求めて秋葉を彷徨したのもこの頃)


MIDIの夢広がる

 暫くFM音源で遊んだが、やはり当初の目的はMIDIであった。

 そんな頃、生産完了間近のSONY製F-900と言うマシンが廉く手に入ることになった。
 このマシンはMSX2ながら256KBの巨大なメモリと2DD-FDDをなんと2基(しつこいが、数値は書き間違いではない)を本体に実装し、使い勝手の良いWP、簡易データベースをバンドルし、更に本体にスタックして使う専用ユニットにより画像処理−ビデオ画像編集、テロッピング、取り込み−等が出来ると言うMSX2の最後のあがきの様な重装備機であった。

 今にして思えば、System/アプリケーションはROMカセットとはいえ、4MHz駆動の8Bit CPUに720KB×2の記憶装置でこれだけの事をやっていたのだから、無謀と言っても良い行動である。

 このマシン入手と同時にモデム(300bps!の最新型ですぜ!旦那:くどくとも数値は書き間違いではない)と憧れのYAMAHA MIDIインターフェイス+音源システムSFG-05も先のPanasonic用と併せて2セット購入した。

 やはり、けた違いの表現力である。(と当時は本当に思った!)
 PSGにしろ、オーディオユニットにしろ、どちらにしてもスタンドアロンなシステムである。データはそのマシン内で完結する。
 MIDIは工夫によって拡張は殆ど限りが無いし、データはことMIDI経由で有ればどんなマシン−PCでなくても…元来楽器間の通信規格である−利用が可能になる。

 当時は、まだGM等の統一規格が策定されていなかったので、異なるメーカーの音源ではデータに問題が出たのだが…

 その後SFG-05とコンパチブルの音源ユニットFB-01各1台とリズムマシンRX-21(共にYAMAHA製)をつないだ私のPCはどんどん楽器寄りに、様相としては古いSF映画に登場するコンピュータのごとく、はたまたメデューサの髪の様にズルズルとワイヤの束をまとった姿と化して行ったのであった。

(SFG-05、FB-01とも当時の最新鋭MIDIモジュールでFM音源同時8声を発音出来た)

 丁度ローランドがMT-32と言う新鋭ユニットを発売した頃である。デモンストレーションはその素晴らしい音に圧倒される物だったが、単体のMT-32は本体を見てもカタログを見てもどうやって動かしたら良いのか皆目見当が付かなかった。

この頃憧れの的だったMIDIインターフェイスをRoland MPU-401と言い、その仕様は現在のWindowsのMIDI入出力インターフェイスの標準として健在である。


ミュージくん登場

強力なマルチティンバーユニットMT-32を特別専門の知識なしに自由自在にドライブできる…それがミュージくん、PC9801用コンポーネンツだった。
 雑誌記事を読み、店頭デモを見てしまった私はもう矢も盾もたまらない。
 当時発表されたEPSON PC-286V(PC9801互換機で価格が廉く、性能が高かった。当時最先端の80286 10MHzマシンである。思えば私のバルク優先主義はこの頃既に発生していたのかも知れない)とミュージくん獲得のために必死に画策する悲しきサラリーマンと化したのであった。
 (何処も同じ、カミさんの承認を得るために努力、また努力である)

 いままでMSXに多種多様な拡張を施し、楽器、音源を追加しても実現できなかった完成度の高い音楽が1台の16Bit PCとこのセットだけで出来てしまうのである。それも至極簡単に…

 YAMAHAのMSXシステムでは単体8声+8ch2台をつないでマスター、スレーブとした場合でも16声+16ch。それにリズムマシンは別にデータを起こしてデータレコーダからロードし、更に外部音源ユニットを接続した場合データ上の音色設定を工夫し、ユニゾンで違う音色を使用して厚みを出すと言った力技(ああ、書いているだけでうっとおしい…)が必要となる。
 この場合マシンの背後はMIDI THRU BOX経由でケーブルがスパゲッティ状態となってしまう。

 ミュージくんではPC本体に挿入したインターフェイスボードから引き出したMIDIケーブル1本をMT-32に接続するだけでMT-32の名の通り最大32声8ch+リズム楽器(ドラム・パーカッション)とケーブル1本の追加で外部音源用の1chを出力することが可能になる。

 間違え易いのがこの「最大」32声と言う表現で、当時のLAと呼ばれる音源はFM音源等と違って32個の音の要素(パーシャルと言う)を持ち、通常はそれらを1〜4個組み合わせて音色を作り出すので、音楽的な音色を使用すると少なくとも2つ以上、多い音色では4個ものパーシャルが消費される。
 そんなわけで、最大発生音数は16以下と考えた方が無難である。(実際には16声の同時発生も難しかった)

 それでも10種以上のリアルな楽音とリズム楽器が奏でる音は内蔵のリバーブ(多少のノイズには目をつぶろう)とあいまって無敵のシステムだと、当時は思われた。


人間ってワガママだ…

 MT-32では、ミュージくんのソフト上で入力できたデータでも先に述べたパーシャルが不足すると発生しなくなる音が出て来る。
 楽器編成の大きなデータを作製するときには、パーシャル計算のためのメモ用紙か電卓が必携となった。

嗚呼、懐かしきシングルタスクの古き良き時代。

 又、このみゅーじ君の添付ソフトでは、入力中に全パートの確認演奏をしながらデータをスクロールすることが出来ない等の問題もあり、兄貴分と言われるソフト「バラード」と2台目のMT-32を購入するに至った。
 MT-32にはオーバーフローアサインの機能があり、パーシャル不足で発声出来なかったデータを次のユニットに送り出すことが出来たのだ。

(凄い苦労だね、先人を敬いたまえ!)

 使い始めると最高だと思った物にも必ず、いろいろと不満が出て来るものである。

 こうしてシステムアップを始めた頃「ミュージ郎」発売の情報を得る。
 これはミュージくんのアッパーバージョンで、MT-32に更にPCM音源を積んだ物であると言う。

 新しいユニットはデザインも一新されたCM-64。これ1台でLA音源+PCM音源最大64声(これも「最大」値である、お間違え無きよう)が使用できる。

 Ver.UP料金15,000.は余りと言えば余りだと思ったが…ミュージくんユーザーにはこのソフトVer.UP料金の他にCM-64からMT-32の機能とSE(波風や銃声などのプリセットトーン)の部分を除いたCM-32Pが必要となる。(しかし、このシステムではVer.UPしたソフトに含まれるデモデータの一部、SE部分は発音しないのだ)

 その後CM-32Lと言うCM-64からPCM部分だけを省いたユニットも発売され、これとCM-32Pを組み合わせるとCM-64と同機能が実現する。全く無駄な出費は多いが、その後結局私のシステムのMT-32とこのCM-32Lとが入れ替わった。
 いろいろと文句はあったが、このVer.UPのおかげでパーシャル数の呪縛からは多少なりとも逃れることが出来たし、なんと言ってもPCM音色のクオリティは感動的ですらあった。
 初めて聞いたときには「これ以上の物は要らない」とまで思ったLA音源の音色が霞んで見えるほどの素晴らしさだったのだ。

 しかし、ソフトに関してはミュージくんとバラードの関係と同様に編集上の使いにくさはミュージ郎にもある。
 そう思っていたら案の定バラードからバラード2へのVer.UPである。
 当時からほとんど欲望には限界の無い世界である。
 当然のようにVer.UPの手続きを行った。

 バラードの最初のバージョンはプロテクトの掛かった、HDでの使用は全く考えられて居ないものだった。
(当時はパーソナルユースではFDのみのシステムがあたりまえだったのだ)
 ミュージくんと比べ機能が多くなった分だけ重たくなったバラードはどうしてもHDで使たかった。ユーザーの権利として某コピーツールを使ってプロテクトを外してHDで使用していた。
 バラード2ではプロテクトはあるもののキーディスク方式でHDでの使用は可能になった。
 さらに重くなったのだから当然ではある。
 しかし、ユーザーの利便、HDと言う装置の機能を考えた場合、これはどういう物であろう?いい加減、正規ユーザーに「だけ」不便を強要するコピープロテクト等という悪習はおしまいにして頂けないだろうか?と、当時は本気で憤慨していた。
 流石に最近はなくなったようだが、暫く前まではHDDにインストールした後でも起動するたびに正規のシステムフロッピーを挿入しないと立ち上がらないソフトがたくさんあったのだ。


さらにワガママは続く…--1990年頃

 セカンドマシンとして当時画期的に小さく、廉かったPC9801互換携帯マシンEPSON NOTE f(V30CPU FDD/1.25MB RAM 1.25MB MemoryCard System ROM)を手にいれた私はここでも音楽がしたくなった。
 内/外部スロット等、後付けや拡張性を犠牲にして小型化していた当時のNOTEタイプでは、当時既に標準規格となっていたローランドインターフェイスの使用が不可能で諦めかけていたら、RS-232Cを利用するMIDIソフト+インターフェイスが発売された。
 書を捨てよ、町へ出よう。と、NOTEを持って勇んで歩き出した私なのであった。

 まだコンピュータはスタンドアロン。GM規格さえ、世に出ていなかった古の世界であった。

…続く

この項はEPSON PCの専門誌Value UP(株マディ刊:現在休刊)に掲載した原稿に加筆したものです。


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