GBのアームチェアCinema見ist:オズの魔法使い

オズの魔法使い

オズの魔法使い:

監  督 ヴィクター・フレミング
音  楽 ハロルド・アーレン
主  演 ジュディ・ガーランド
助  演 レイ・ボルジャー/ バート・ラー/ジャック・ヘイリー
製 作 年 1939/米
シナリオ ノエル・ラングリー/フローレンス・ライアソン/エドガー・アレン・ウルフ
原  作 ライマン・フランク・ボーム


日本経済新聞2003.12.27.(夕刊)に載った武蔵大学教授 アダム・カバット氏のコラム
明日への話題
国民的な番組とは?

日本での正月は連続23回目となる。この時期に日本から離れられないのは『紅白歌合戦』が見たいからだ。もちろん、海外でも放送されているが、やはり現地で見ないと気がすまないのである。

中略

アメリカには『紅白』に匹敵するような国民的な番組があるか。今は分からないが、子供のころ、映画『オズの魔法使い』がその役割を果たしていた。年に一回だけテレビで放送されていたので、私と同じ世代のアメリカ人は20回以上見ていると思う。その人気の理由は簡単に説明できないけれど、遠い国に幸せを夢みて旅するが、その幸せが意外にも殺風景な故郷にあるという結末は、多くのアメリカ人の心を打つのである。

後略

と言う一文が載っていた。
実は、アメリカだけではなく、イギリスでも大晦日にはこの“オズの魔法使い”は放映されるのだそうだ。
名曲として今なお、多くの音楽家に演奏される主題歌“Over The Rainbow(虹の彼方に)”が何故あんなにも愛されるか。確かに名曲だが、欧米人にとっては、単にそれだけではないようだ。

原作はライマン・フランク・ボームによる童話(1900年)だが、映画のラストは原作と大きく違う。
これについての評価は別れるだろうが、本作が名作であると言うことは間違いないだろう。
視覚的特記事項としては、本作はパートカラーである。
演出上必須の構成ではあるが、パートカラーとはいえ本作は恐らく、最初の「総天然色ミュージカル映画」ではないだろうか。
モノクロの現実世界から空想世界に移動したとたんに、目眩を覚える程の色彩に溢れた画面になる。
福音館版の邦訳で再現されているが、原書でもドロシーが訪れるそれぞれの土地それぞれのイメージカラーで印刷するという凝った試みがされていた。
その色彩に対するこだわりは本作でも再現されている。
「総天然色映画」の創生期ともいえる1930年代終わり、原色を多用した派手でコントラストの強い色彩映像は、私の中では「テクニカラー」のイメージとして定着している。
そもそもが「テクニカラー」の発色は現在のカラー映画とは全く異なる独特な印象を持ったものなのではあるが。
(「テクニカラー」と言えばまさに「総天然色」。この“オズ”と、あの“風と共に去りぬ”の降り注ぐような色彩イメージなんだな。私にとっては…)

いささか下品にも近い鮮やかな色彩は、逆に空想世界を明確に認識させるし、原作の「カンザスは何もかも灰色」という記述に合わせた現実世界のモノクロ表現も、モノクロそのものの美しさで両極の対比を見せる。
(そう、モノクロ映像はまた別の意味で美しく、イメージを強く喚起するのだ)
今見てもその強烈な対比の衝撃は決して「色褪せ」てはいない。
今から60年以上昔、多様な特殊技術・合成技術、ましてやCG・FSXなど思いも寄らない時代…
手作業でこんな娯楽作品を作った人々のなんと偉大なことか。
感動はテクノロジーでは語れないと言うことなんだろうな…


参考資料:映画の誕生と総天然色映画について

アメリカでは映画の歴史の始まりをエジソン(米)、ディクソン(英)が35mmカメラ、キネトグラフを開発し、イーストマンが35mmパーフォレーション付きフィルムと映画フレームサイズを決定した1889年としているが、フランスではリュミエール兄弟がパリで世界初のスクリーン映写公開し、シネマトグラフと命名した1895年を映画誕生の年としている。

世界で最初に商業的に成功したカラー映画プロセスはキネマカラーと名付けられ1908年英国で初公開された。
これは回転円盤に取り付けられた赤、緑、青のフィルタを通して撮影し、映写する。順次黒白映画の1コマを3コマに記録するので、撮影や映写の速度は通常(当時は16コマ/秒)の3倍の48コマ/秒の高速になる。3コマ分をスクリーン上で重なるように映写する上に順次記録方式なので、移動する被写体はタイムラグのためにずれた位置に撮し込まれ色像のズレが生ずることと特殊な映写機を必要とすると言う難点があった。

テクニカラーは1916年に開発されたが、映写上の問題のために劇映画1作品のみで終わり、1919年、さらに1928年に3度目の方式転換を行い、この方式による最初の映画は1928年公開のオールトーキー映画“On With the Show”だった。
この映画の成功でカラー映画は急速に増加し、テクニカラーはWB、ゴールドウィンなどの全ての大手映画会社で採用されるに至った。4度目の方式転換は1932年に行われ、新開発のカメラを使ってディズニーは漫画映画”Flowers and Trees”を製作、公開した。初の長編劇映画は1935年公開のパイオニア映画作品「虚栄の市(Bercky Sharp)」。
テクニカラーはプリントに染料を転写して色を付ける方式だった。

1935年春、イーストマンコダック社はそれまでの方式と全く異なる、撮影したフィルムそのものに色が付き、撮影、映写に特別の装置を付加する必要がないカラーフィルム「コダクローム」を発表した。
続いて1936年アグファ社から更に進化した「アグファカラーノイ」が発表され、このフィルムは現在のカラーフィルムの出発点となったと言われる。

日本映画では富士フイルムが1940年頃には実験的なカラーフィルムの開発に成功していたが第2次世界大戦のため実用化には至らず、戦後1946年に2色パートカラー作品を実験的に公開した。初めて劇場映画に採用されたのは1951年公開の「カルメン故郷に帰る」だった。

ウシオ電機 /山領貞行氏論文(富士フイルム)より抜粋要約



return目次へ戻る