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ブレードランナー 2049

ブレードランナー 2049(原題:Blade Runner 2049)

監督 ドゥニ・ヴィルヌーヴ
脚本 ハンプトン・ファンチャー/マイケル・グリーン
出演 ライアン・ゴズリング/ハリソン・フォード/アナ・デ・アルマス/シルヴィア・フークス
音楽 ハンス・ジマー/ベンジャミン・ウォルフィッシュ
原案 ハンプトン・ファンチャー
原作 キャラクター創造:フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
製作年 2017/米


1982年制作の映画『ブレードランナー』の続編であり、前作の主演ハリソン・フォードが引き続きリック・デッカード役で出演し、前作の監督リドリー・スコットは製作総指揮を務めた。

まぁ、映画ファン、SFファンなら、取り敢えず観とけ作品。
と、言う訳で行ってきた。

P.K.ディックこと、フィリップ・キンドレド・ディック(Philip Kindred Dick, 1928年12月16日 - 1982年3月2日)は、アメリカのSF作家である。

生きているうちは晩年近くまでもう殆ど三文文士でしかなかったのだが、1982年の映画“ブレード・ランナー”からじわじわと評判になり、その他の作品も多数の映画になっており、今ではSFマニアの必修科目化している。
80年代、私も読みまくった。なんだか、ディック位読んでいないと本読みの沽券に関わる様な気がしていた。
しかしながら、“ブレード・ランナー”にしても、封切り当初はほぼ駄作扱いだったはずである。
更に、今をときめくリドリー・スコットは本作を作る時、原作すら読んでいなかったという。
そもそもディックの作品には「レプリカント」という名称は出てこない。
確かにこの“電気羊”の映像化は、ディックの世界からかなりは離れた所にある様な気がする。
その他の映画か作品もほぼ同様に、あのディックの暗く陰鬱で救いのない世界観を表現しているとは思えない。

が、文章と映像は別物なのである。
前作、“ブレード・ランナー”は、それ以降の未来映像を根本から書き換えてしまった様な作品。
また、難解で理屈満載な作風は、それはまさしくディックであった。

まぁ、前作が解り辛い作品で、その難解さが評価の対象となったことも否めない。編集の異なる版が何種類もあることもそれに輪を掛ける。

さて、本作。
「取り敢えず観とけ」作品だが、あぁ、金を払って昼寝をすることになるかもと劇場の椅子に沈んだ。

所が、である。
いやいや、こりゃ何と解りやすいんだ。
上映時間163分と、かなりの長尺だが、速度感もあり、一気にエンディングまで到達した。
内容に関しては何を書いてもネタバレになってしまいそうなので差し控えるが…

のっけが埃臭い広漠たる大地の、蛋白質栽培?農場。
(ソイレント・グリーン程醜怪ではないが…)
あの、リドリー・スコットが構築した混沌雑然の未来としてはなかった事が一瞬座り直して銀幕に整体する姿勢を作らせるきっかけとなる。
もちろん、あの混迷を極める未来都市(強力わかもとは見つけられなかった)は重要な位置づけとして出てくる。
が、物語の核は冒頭の荒涼たる土地や、人間を拒否する様な崩壊した都市。

Blade Runner 2049  Blade Runner 2049
レプリカントを狩るレプリカント…

正に「追憶売ります」

魂がない存在…

そうなのか?
作中で、レプリカントもAIも皆切ない。
アナ・デ・アルマス演じるジョイ…
もの凄く可愛いからもう、後はどうでも…等と言ってはいけない。


結末ね、リドリー・スコットはインタビューで『デッカードもレプリカントなんだよ』等と言っていた様だが、待て!ドゥニ・ヴィルヌーヴ、それを否定したのか?

自分探しの途中でAIから名前を貰った「警官」はおのが最期に「流れよ我が涙、と言った」のだろうか。

作劇から観るに、まだ続編を作ろうとしてないか?これ。

本編を見る前にこれ↓を観ておくとより理解が深まるかも知れない。


渡辺信一郎監督による前奏アニメ「ブレードランナー ブラックアウト 2022。




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