愚行連鎖

■火垂るの墓

“本”のコーナーだけど、殆ど映画のこと…

本作は、ビデオでも発売されており、毎年夏(終戦:敗戦…記念日)の時期になるとこう言った映画はテレビで放映されるのでご覧になっている方は多いだろう。
一年に一回だけ過去の行いを反省する日本人ってとても可愛いと思ふ…。

原作は新潮文庫「火垂るの墓:野坂昭如」

この映画を封切館で見た時、帰りにカミさんと
「きっと来年の8月にTV放映するんだろね」
と話したことを思い出した。(もう何年経ってしまったんだろう…)
封切り当初の劇場の客席には一人で仕事をさぼって来たとおぼしき、何人かの私の親父年代の(5〜60代)の紳士がちらほら目に付いたのが印象的だった。
(当時は通常のアニメーション映画では考えられない事であった)

さて、作品

“あの”宮崎駿の女房役とも言える高畑勳監督作品で、劇場公開時は“国民的漫画映画”「となりのトトロ」との併映。

この「火垂るの墓」は映画化が決定した時点で原作を読み返した。
(最初に読んだのは高校生の頃だったかな?)
私としては、かなり事前より入れこんでいた訳であった。
(もっとも学生の頃は映画を見る前に大抵原作を読んだが…)
とは言うものの、実際初めて「火垂るの墓」、野坂昭如の原作を読んだとき、何度途中で止めようと思ったか知れない。
"独特な関西弁を生かした饒舌体の文体[新潮文庫解説より]"がこれでもか!、と状況をイメージのなかにねじ込み、目を覆いたくなるのだが、事態を確認せずにはいられないと言うジレンマ…
清太と節子が、自分や自分の子供達にまでオーバーラップし、しかし、最後まで読まずにはいられなかった。

他の野坂の作品に関しては、割合"ペーソス"等と言う形容がしっくり来るものが多いように思うが(「エロ事師達」のモンローの葬式の場面などナカナカの物だ)、この2つの直木賞受賞作を収録した「火垂るの墓」1冊に限っては、野坂の『書かざるを得なかった』と言う原体験の表現であり、鎮魂の歌でもある様だ。

野坂は、事あるごと(この映画のパンフレットでも)「ぼくは、作中の少年ほど、妹にやさしくなかった」と、書き、述べている。
その、野坂の思い入れ、そして、読者の思い入れも大きいこの作品を、高畑監督はどんな風に映像化してくれたのだろうと言う期待と不安を持って封切り当時、私は銀幕に臨んだのだった。

あの饒舌でありながらも妙に淡々とした、鬼気迫る世界をアニメーションで何処まで表す事が出来るのか。
妙に奇麗に成ってしまったり、必要以上に残酷に成ってしまったりしはしないだろうか。
そんな懸念は作りの悪い映画館の椅子の上で、いつの間にか消えてい。

元々がこの原作は極めて映像的な文章である。
清太の死からカットバックする冒頭のシーン、横穴のイメージ…
これはもう私が文章から作り上げていた印象その物だった。
映画パンフの中で野坂が

「アニメ恐るべし。おかげで、吹き切れたような気持ちもする。」

と書いている。
本作を見るまで私は、映像作品において「原作付きの物がその原作を凌駕した例をいまだ知らない。」と思っていた。

決して観後感はよくない物の、こう言った作品が商業ベースに載った、そしてそれが興行的にも成功を収めたと言う事に一条の光明を見る思いがした。
是非皆さん原作をお読みになり、ビデオをご覧になることをお勧めする。二時間弱の時間の消費と320円(文庫本:ごめん課税前の価格)は決して高く無いと思う。

しかし、文句無しに楽しい作品を送り出している宮崎の朋友であると同時に師匠とも言える高畑勳のこの作品は「出来れば見たくない」と言った印象を持つことも確かではある。
これはかなり辛く、重たい作品なのだ。

この作品が何故宮崎駿の「となりのトトロ」と抱合せだったのか未だに疑問である。


「火垂るの墓」においては映像以上に音楽がでしゃばる事が許されない雰囲気があり、音の無い静寂が素晴らしい効果を作り出していた。
又、挿入歌のアメリータ・ガリ=クルチの"埴生の宿"もラストシーンの悲しさ、そして明日への希望(これからの日本、兄妹の来世)を暗示させ、何とも言えないものだった。

"埴生の宿" と言えば、これも名作「ビルマの竪琴」がある。
原作付きと言え、この市川崑監督の全く同じ脚本による2本の映画も戦うことの空しさを伝える秀作だった。

封切当時に映画ファンの大学生とこの作品について話し合ったとき

「あの時代でドロップが簡単に手に入るかどうか…」

と言う疑問を提示された。
兄妹の父親は海軍の高級将校である。
未亡人の科白でも分かるように、当時軍人、特に海軍の高級将校辺りになると割合物資が自由に入手出来、家族も比較的裕福な暮しをしていたようだ。
それは、回想シーンでの美しい母親との海水浴での「カルピスのある休憩」や、妹の前で泣く清太を節子がなだめるシーンの

「お医者さん"呼んで"…」

と言う科白にも表現されている。
(当時は往診は普通の家では余り出来なかったと思う)
唯、ドロップ等と言うものが大変な貴重品である事も分かる筈である。
何故なら他の備蓄品と一緒に庭の穴にしまうと言う行為によって、その価値が充分表現されていると私は考える。
この物語に於いて"サクマ式ドロップス"の缶は、とても大きな役割を果たしている。
兄妹はドロップスの缶によって生を確認し、そして死をも知るのだ。

それまで、当時としてはドロップに象徴されるように、かなり裕福な生活をしていた兄妹がどん底まで落ちてしまう、と言う所にもこの作品の悲しさがあるのではないだろうか。

そして、今も殆ど変わらないデザインで市販されているこの「缶入りドロップ」、今となっては素朴にして単純−−はっきり言って「美味」であると断言は出来かねるこのトラディショナルな菓子によって、私もこの二人の兄弟の−−いや、空しい戦いの中に飲み込まれて言った全ての人々−−の生と死を平和の中で再確認するのだ。
この作品に対する評価として、「かわいそう」とか「悲惨な」とか「救いが無くて見ていて嫌になった」(これは、私の同僚「二児の母」の感想)「大嫌い!二度と見たいとは思わない」(我がカミさん)と言った感想が表に出て来る事が多い。

確かに野坂実体験に基づくこの物語は悲惨としか言い様がない。
しかし、あの美しいラストシーンを思い出してみよう。
あれは、一体何の暗示だろう。
あの救われるような美しくも悲しいシーンは原作にはない。
野坂の自伝(本人は否定しているが)とも言われる原作は、もっと客観的に、投げ捨てたように終わっている。
このラストの脚色に依って高畑監督は一体何を言おうとしたのだろう?

仏教には輪廻転生(Reincarnation)と言う思想がある。カソリックの信者である知り合いに聞いたところ、キリスト教にも同じ発想がある、すべからく宗教は現世から来世に救いを求めるんじゃないかな。と言われた。
私は残念ながら仏教徒でもクリスチャンでもないのだが、この作品のエンディングは彼ら(清太と節子)から、来世(現代に生きる私達、そして、未来へと繋がる子供達)への優しいメッセージなのではないだろうか。
はかなくも悲しく消えていった小さな命…
彼らのため、そして、未来の子供達のために、この平和を私たちは守って行かなければならないのではないだろうか?

封切り時のメイン作品はどちらかと言えば「となりのトトロ」だったと思われる。
その「トトロ」を目当てで来た幼い子供達(ばかりではなかったけれど…)に「火垂る」は衝撃が大きすぎると言う意見も多くあった。

しかし、あの松郷の初夏の日ざし色とともに、昭和20年の真夏の空の色…

届けられた「忘れ物」確かに受け取りました。

 

※松郷:トトロの舞台となった集落の名前

届けられた…:封切当時の宣伝コピー


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