公開質問状 JIA次期会長 出江寛氏に問う


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記載者:新庄宗昭 on May 12, 2108 at 18:58:10:

2008年4月30日
日本建築家協会
次期会長 出 江 寛 様
エーアンドエー都市デザイン研究所
新 庄 宗 昭

公 開 質 問 状
JIA次期会長 出江寛氏に問う(5月号インタビュー記事を拝読して)

当該インタビュー記事が、短時間のインタビューであり、しかもそれをまとめてしまったものでしょうから、持論について次期会長が十全の説明を出来なかったであろうこと,十分に推察できます。しかしそれを割り引いてもなお、腑に落ちない点があり、このまま「全会員、諾」として進められることに大いに疑問を感じますので,数点質問をさせていただきます。

1 「設計業務環境の改善が改革の軸」は本末転倒ではないのでしょうか?
次期会長の命題を簡単に言えば「お金がいただければちゃんとしたものを創ります」ということのようですが、これが本意だとすると本末転倒していませんか?
「ちゃんとしたものを創りましたので、お金をください」が本来の姿では無いのでしょうか?お金がないからちゃんとしたものが創れない、とは建築家が口に出していうような言葉では無いように思うのですが。
抑々、金の多寡で建築設計の質が上がったり下がったりするものなのでしょうか? 建築家の性として、美学哲学を表出しようとする建築家が無償の仕事と、有償の仕事で質が変わるのものなのでしょうか? 有償だから設計の質を上げる、無償だから下げる、値切られた分だけ質を落とす、そんなことが器用に出来るのでしょうか? 恐らく、そんなことは出来ないから「金をください」となったのでしょうが、短絡し過ぎではないでしょうか。
なおかつ、直截、お金が欲しいとは言わずにゼネコン等に対して「あなたがたもお金をもらってよ。そうすれば我が方にもお金が入ってくるから」とは何とも恥ずかしい言い分ではないでしょうか?インタビュー記事はこのように読めるのです。何かの間違いか勘違いではないかと思うのですが。もう少し詳しくお教え願えれば幸いです。同じ道を行くプロフェッショナルとして情けない感じがいたしますので。
お金が入らないから若い人が建築家を志さないと次期会長は言われます。が、そんなことはないでしょう。高名な建築家のアトリエに門前市をなすように無償に近い形で修行に行く。よく見る光景です。あれは一体なんなのでしょう?これは特殊解なのでしょうか?もし仮にそうだとしてもいいではないですか。建築設計の世界は人が有り余っているのですから。
いずれにしろ、ちゃんとしたものを創り続ければお金が付いてくる、そういう構造を作ってゆくことが正道だと思いますが、いかがでしょうか。迂遠なようでも速いのではないかと愚考します。残念ながら、先にお金の話があることに大いに戸惑いを禁じ得ません。インタビューの最後の方に「哲学」の話をされておられます。これが建築家の建築家たる所以、つまりお金が欲しい理由のように読みましたが、違和感を覚えました。そのことについては最後にわたくしの愚説とともに述べたいと思います。

2 5会協働歩調の矛盾
次期会長は初代会長の3万人会員構想がうまく行かなかった過去を挙げられました。次期会長の目標は同じようなところにあるようですが,ではお尋ねします。次期会長の説かれる「建設会社も設計料を無償に出来ない法制化」を5会協働で進めるとして、これに一体何名の賛同者が得られるとお考えでしょうか? 各公益法人には法人としての主旨目的と行動規範があります。各会員はその目的遂行のためにその会に集まっている、ということでしょう。もちろんJIA以外の会からも本件に対する賛同者はあるでしょう。でもそれが3万人になるのでしょうか?次期会長が言われる「統括設計士」を目指すプロフェッショナルはすでにほとんどJIAに入っておられるのではないのでしょうか?
協働のイメージの対象としてゼネコンの設計部員を念頭に置いておられるようです。然し、彼らにとっては迷惑な話ではないのでしょうか?「俺たち、ちゃんと給料貰ってるもん」。そう応える彼らに「建設会社も設計料を無償に出来ない法制化」を持ちかけるのは茶番ではないでしょうか? かえって彼らの立場を悪くするような状況も考えられるのではないでしょうか。
日本建築学会にしてもそうでしょう。確かに膨大な会員数です。然し、かれらは「学」としての建築については多くを語ります。学としての設計料のあり方についても語ること、議論を深めることは可能でしょう。しかし、学として統一してあるいは多数決で賛同するということは学の本義からしてありえないのではないでしょうか。ましてや「金が欲しい」ということが建築学会の存在意義と素直にマージするとは思えません。「それはあなたがた建築家の仕事でしょう」となるのではないでしょうか?
人数が足らないから法制化できない、だからとにかく関係団体と恊働歩調をとる、というのは以上ふたつの小さな例えのように無理があるように感じますが、いかがでしょうか。

3 「建設会社も設計料を無償に出来ない法制化」は抑々、無意味ではないでしょうか?
ゼネコンの設計料有償化がターゲットになっているようですが,ゼネコンは痛くも痒くもないのではないでしょうか。抑々、ゼネコンの設計作業が無償だなどと、信じているところにボタンの掛け違いがあるように思います。工事の請負金額には、直接費としては計上していなくても,一般管理費の中にしっかりと納まっていることは周知の事実でしょう。設計料が有償化されたとしても設計料が、間接費から引っ越しして直接費として表に出てくるだけのことで、総計としての請負金額に変化が起きるというのはありそうも無いと思うのです。従って、ゼネコンの設計業務とサシで競争するというのはそもそもナンセンスではないかと思いますが、いかがでしょうか。
「仕事の取り合いになるとサービス設計になる」とゼネコン設計を糾弾されますが,設計入札に於いて組織事務所がダンピングする悪弊とどこが違うのでしょうか?ことは建設会社の設計施工の問題に極限できないのではありますまいか。
次期会長が、建設会社の幹部も法制化に賛同してくれているという意味の発言をされていますが,勘ぐれば彼らにとって法制化が痛くも痒くもないからではないのでしょうか。クライアントにしても、設計施工を選択する理由は、設計料の問題だけではなく、総合的なコンサルテーション能力にあるのではないかと思いますが、どうなのでしょう。

4「建築家は哲学を持て、そのためには設計料はただではいけない」とはどういう謂々?
良く解らないのです。説明していただけると助かります。次期会長はインタビューの最後で「設計業務の重要さを広く社会に理解してもいたい」と言われます。その重要な設計業務の中身が表題のような哲学だということなのでしょうか? 建築家を哲学、特に美学を持つという意味で、画家、音楽家、彫刻家と同列に並べて論じておられます。しかし、かれらが「金が欲しい、金がないといい芸術が生まれない」というようなことを言っているとは寡聞にして知りません。
臥薪嘗胆、苦節50年こそ、かれらの勲章のように世間は見て来たのではないでしょうか?だから、その人生を埋め込んだ作品が高い評価、高額な商品価値を持つのではないのでしょうか?しかし、その高額はあくまでも市場の商品価値です。もしも、建築家がその美学で商品価値を測られるとすれば,美術界の単価表「美術年鑑」の向うを張って「建築年鑑」を毎年更新して、建築家の設計単価を建築家別に掲載してゆけばいいでしょう。それでいいのでしょうか? 建築家にはそういう物差しで測れない側面があるのではないでしょうか。
世間には「画家の社会的責任」なんて言葉は無いのです。建築家にだけ「建築家の存在意義と職能の確立」ということが声高に言われるのです。あるいはJIAもことあるごとに「建築家の社会的責任」をいうのです。しかし、何故かその中身が判然としません。解ったようで解っていないのです。共通の理解が無いと言えばいいでしょうか。次期会長は「哲学」から職能の確立を説かれます。しかし、その中身は失礼ながら「美学」重視です。芸術と言い換えてもいいでしょう。市民からすれば、芸術に社会的責任は似つかわしくないと映るでしょう。芸術には社会的なコンセンサスを得た金が出るわけはないのです。市民からすれば「勝手にすれば...」でしょう。市場価値とは設計入札や設計施工の無償奉仕と競争する世界です。芸術至上主義はわたくしたちが求めている世界とはますます乖離してゆく方向ではないのでしょうか?
次期会長には、「建築家の社会的責任」について「金が欲しい」との関係をもう少し現実的な話に持っていってもらいたいものです。社会的責任が市民になるほどと納得できる内容であれば、金が欲しいと言わずとも金が入ってくる構造はそう難しくなく構築できるのではないでしょうか? 
先に設計の質は金の高によらないと申しました。わたくしは「無償の設計行為であっても社会的責任は果たせる」この命題の中にこそ、多分わたくしたちの依って立たなければならない礎があると思うのです。
市民に理解してもらえる社会的責任、わたくしはそれは「歴史に対する責任」であろうと思います。建築が50年100年200年保つ耐久文化財であり、市民が生活する都市を形成する部材であるからです。建築家はその時代に「連続する歴史」の中でほんの一握りのその時代の証を、クライアントと共同して、あるいはクライアントの付託を受けて、植え付けて後世に遺してゆくものだと思うのです。クライアントもその意味で社会的責任を負っていると理解すべきでしょう。設計料はそのことからも歴史への責任として設計者を介して歴史にたいして支払うべきものだと思います。都市形成に責任の持てるプロフェッションは何か? 政治家でも市民でもなく、都市に対して深い洞察を持った建築家を措いてほかにないでしょう。都市の形成は歴史的なスパンで捉えられるものでしょう。
建築家の社会的責任それが歴史に対する責任と同義であること、わたくしたちはよくよく理解しなければなりません。
だからこそ、市民は全幅の信頼をおいて都市形成の部材としての建築一つ一つに敬意を表し、まちをそして都市を大事にしてゆくことにつながってゆき、建築家にたいして尊敬を持ち建築家に社会的責任があることをよく理解し、結果としてお金の問題が社会の問題として解決してゆく、そう思うのですが、いかがでしょうか。
あるいはこうも言えるでしょう。都市に部材としての建築を建てる市民は、金を出すから何を建てても言い訳ではなく、都市を設計し、後代に遺してゆくという意味で社会的責任があり、設計料を建築家に付託することによってその責任を果たす、こういう構造こそが、次期会長の言われる「金と社会的責任」の辻褄なのではないのでしょうか。そう、わたくしは愚考します。

5 出江寛氏を会長候補に推挙し、支援した会員諸兄姉の責任最後に出江寛氏を次期会長に推挙し、支援した会員諸兄姉に申し上げます。
出江寛氏が会長職にある間は、市民とのコミュニケーションにおいて、関連団体との連携に於いて、そして国との関係に於いて、いろいろ問題が発生するような予感があります。
「金が欲しい」が改革のテーマだとすると、市民からは「あんたよりわたしのほうが欲しいのよ」と笑われ、関連団体からは「それは建築家の問題でしょう」と無関心を装われ、国からは「意思統一してください」と一蹴されそうな予感です。
「金が欲しい」に見えるように、発言が唐突で価値観に妥協性がないような印象を受けるからでしょうか。心配しています。
従って、出江寛氏を推挙し、支援した会員諸兄姉は万難を排して彼をサポートし、社会的に築いてきたJIAの立場が少なくとも後退しないようにバックアップして差し上げてほしい。それが推挙した諸兄姉の責任であろうかと存じます。
出江寛氏の任期中はUIAの大会準備が佳境に入っているでしょう。市民に対しても、関連団体との協調においても国との関係においても大変重要な時期です。彼を推挙し、支援した会員諸兄姉のサポートは必須です。この段、衷心よりよろしくお願いいたします。

以上、若輩が失礼を顧みず不躾に申し上げました。今,建築家の存在意義が問われています。そのことを片時も忘れず申し上げました。意のあるところをお汲み取り願えれば幸甚です。

追伸
本質問状は会員諸兄姉に公開することを念頭にしたためました。どういう場が適当か、検討賜れば幸いです。わたくしはJIAのウェブ上の「会員の声」欄あるいは「機関誌」がいいかなと、思っております。よろしくご指導ください。いずれにしましても、然るべきタイミングに公表したいと存じております。


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