[生活を楽しむ人、交流する人=homo victus]について


[ これへの返信を読む ] [ これへの返信を書く ] [ フォーラム目次 ]

記載者:平川國一 on November 04, 2104 at 16:01:42:

 前略、JIAの2004年通常総会に於いて建築家職能原則五項目等の改定について議論となりました。
日頃<まちづくり>やフィールドワークの運動・活動を通して“我々の職能の対象であるべき顧客の主体とは一体どのような人達であり、その内実は如何なるものであろう”と考え続けていたこともあり、“JIAの顧客”について高野常務理事に以下のペーパーをお届け致しました。それは昨今‘NPO法(1998公布)’‘まちづくり三法(2000制定)’に加えて‘美しい国づくり政策大綱(2003)’や‘景観緑三法(2004制定)’等の制定・改定を見届け、JIAが辛酸を味わってきた従来までの国や行政の振舞いと異なった時代の流れを感じて記述したものでした。
2004年JIA東京大会に参加して、一層その思いが深まり、JIA会員諸兄の御高覧を拝する事を決意した次第です。

□ [生活を楽しむ人=homo victus] □
−我国に於ける市民・消費者と[生活を楽しむ人]についての考察(メモ)−

◇ 私の建築家原則四項目 ◇
 東西ドイツ統一の1990年か、前年ベルリンの壁崩壊の1989年であったか、或いはソビエト連邦解体の1991年のことであったか、スェーデンの建築家の事務所で学習を重ねた経験のある友人の話でした。
“平川、スェーデンのボスが建築家の心構えに付いて、繰り返し言っていた四項目があるんだ”といって語ったことは次の様なことでした。
 第一に建築家は良き市民でなければならない。
 第二に建築家は社会に奉仕しなければならない。
 第三に建築家は建築家の団体で活動しなければならな 
   い。
 第四に建築家は「すまい」や「まち」に関心を払わな
   ければならない。
以前より、漠然とその様なことを心掛けて行動をしてきたつもりですが、それ以来友人への借用料の支払いなしに、明確な形で私の〈座右の銘〉の一つとなったものでありす。
 無論、スェーデンに於ける社会や市民としての熟成度及び経済を含めたそれ等の適切なスケールと安定性を考えると、彼我の差は厳しいもので、真に‘日暮れて途遠し’の感がありますが、たといそうとしても職能団体の構成員としてこの事を脇に置いておくことは出来ないでしょう。
 第一と第二の項目についてです。1970年のベンチューリの[複合と対立]との出会い以来モダニズム建築の解体が意識されて、建築の群に対する関心が増大し始めました。タウンスケープや街づくり及びランドケープ等の活動や仕事を通じて、徐々に市民や社会との関係が深まってきたように思います。
がしかし、良き市民であったかどうかは、義務は果たして来たつもりではありますが心細いかぎりです。
第三の項目についてです。以前は広報委員長等を拝命致しましたから多少のお手伝いはさせて頂いたと考えますが、現在は御無沙汰といったところでしょう。
第四の項目についてです。1973年の事務所創設以来、「住宅設計は建築設計行為の原点である」との考えで出来るだけ関わることに努め、特に若い所員には住宅に展開される〈生活〉のスタイル・パフォーマンス・サイクルの意味を追求することを求め、「すまい」や「まち」に関心を払って参りました。
そのような設計と活動(実践)を通じて得られたキーワードは〈市民〉・〈社会〉・〈生活〉・〈交流〉といったものです。
 この四つのキーワードは上記の建築家原則四項目(私の勝手な命名です)の第三項目の建築家やその団体の死命を制する程重要なものに思われます。
このことを議論し尽くすことなしでは、活動が空転して時間を浪費し成果のあがらないものと考えられるからです。

◇ J I A建築家憲章・倫理規定・行動指針 ◇
 実は、J I A の2004年通常総会出席の折り、建築家職能原則五項目等の改定が問題となりました。その際、私用・建築家原則の三項目・団体の活動のことについて心に掛かり、やはり意見は申し上げるべきだと考えるに至り高野常務事務局長あてにメモをお送りすることにしました。
 その要点は以下の様なものでした。
1 私の見解
 ◇ 評価すべき点
 1)市民や消費者等の曖昧な、誤用や誤解の基とな    
   るような用語の使用を避けたこと
 2)平明で解り易くなったこと
 ◇ 留意すべき点
 1)建築家憲章に於いて、依頼者と社会の用語を同 
   文章で構成したのは論理的な自己矛盾となりやす 
   いこと(建築家職能原則五項目も同じでした)   
 2) イ、建築家憲章に於ける信条や覚悟
    ロ、倫理規定に於ける精神や心構え
   ハ、行動指針に於ける具体的な指針
     の構成に尚一層の格調性と役割分担の明解
性が求められること
 ということでした。その上それを補足するものとして
次のことを挙げました。
2 市民・消費者の用語についての若干の説明
1) 市民について
 イ,その国の歴史的事情(革命等の)によるがその属
性は〈自己責任を堅持した人〉という意味に考え
られること
 ロ,イギリスに於いては、R I B Aは称号独占のみで、
原則として誰でも設計出来るものであること
 ハ,フランスに於いては〈noblesse oblige〉と言わ
れる様な成熟した 内容を持つものであること
 2) 消費者について
 イ 消費者とは、アメリカ流マーケット用語であり、
市民という用語に代用さるべきものでないこと
 ロ、アメリカでは移民を自由に受け入れ、W A S P等
の上部構造とのヒエラルキーを構成して国益を追
求しており、その為消費者は弱者として法的に保
護されなければならず、日本も同様に法整備を進
めつつありますが、我国の場合生産者側の問題が
大きく厳密な意味で消費者かどかは議論のあると
   ころでしょう。
 従って、消費者保護を心掛けることは論を俟ちませんが、安心・安全性等は格調高かるべき建築家憲章ではなく、他の規定等にまわして然るべきものと考えられます。なによりも建築家憲章・倫理規定・行動規範(ガイドライン)はそれぞれ役割分担して、メリハリのついたものであるべきものだからです。
前掲した私用・建築家憲章四原則は、自分自身ではそうあるべく心掛けて参ったつもりですが会員それぞれです。いくつかの項目を集中的に行動・活動をされている会員もおられることでしょう。要は、会員個人・グループの活動や業務を職能団体として集積出来るよう、J I Aがそれぞれ役割分担して取組むべき問題だと考えられるのです。それは、簡潔に申して次の様なこととなります。
1) 我々の顧客としての用語を社会・地域・市民・家族・生活者・消費者・依頼者・使用者・利用者・子供・身体障害者・高齢者等のように意味を適切に理解して使用する事が望まれること
2)業務の推進にあたっては、顧客及び複数のそれを明確にした上で、それぞれに焦点の合った対応をする必要があること
3)J I Aは団体として、顧客に対するそれぞれの対応を複合的かつ横断的に構成して運動・活動なさるべきものであること
以上のことを通じて、我々の団体活動・建築活動・市民活動やフイールドワーク及び交流・対話が行はれ、少しでも市民社会が醸成されるよう努力を傾けることが望まれます。

◇ [こども環境学会]の理念・仕組み・狙い ◇
 格好の事例を御紹介いたします。J I Aマガジン[建築家]5月号のトップページに掲載されているものです。
日本建築学会の仙田満前会長が中心となって[こども環境学会]を立ち上げ本年の五月四日(火)・五日(水)に設立総会を開催致しました。
 その会員構成(仕組み)は都市・建築・造園・社会工学・発達心理・発達社会・発達体育・発達医療・保育・教育・保健・福祉・N P O・N G O・実践者・こども達・教師・行政等となっております。
その設立の主旨(理念・狙い)は
1)[こどもの環境]に関わる上記の学問領域の学際的
  な連携をめざすこと
2)研究者や実践者の横断的な協働を目指すこと
3)[こどもの環境]に関わる行政機構の縦割りに分断 
  された仕組みを超えて総合的な施策の提言と推進を 
  目指すこと
等ということになります。
 我々の顧客の重要な部分を占める子供達の社会・環境は危機に瀕しています。
国や行政の縦割り的仕組みや都市・社会・地域・家庭等に於ける分断、そしてI T社会のエコノミー・オリエンティドな歪んだ進行等難問山積みではありますが、[こども環境学会]はその解決を目指しているのです。
 特に少子化は大変深刻な問題です。
女性が育児に専念するべく勤務先を退職して家庭のみに埋没することは、色々な意味で大きな損失です(もっとも、人によって異なるでしょうが)。
まず、第一に国の将来を担うべき人材・人口が減少しま
     す(アメリカと違い我国にとっては深刻な問
     題です)。
   第二に三位一体の改革等で地方の自立がお望まれ
     ますが、減収によりその自立の為の財源が不
     足することとなります。
   第三に母子や父親の社会的・政治的参画が前進し
     ません。
   第四に子どもとコミュニティの関係が濃密化しま
     せん。
 この様に、[こども環境学会]が取組む問題は子供を中心としたものですが、その範囲は広いものです。J I A が抱える顧客は多岐に渉りますが、問題の所在とその解決の道は全く同じです。J I Aは腰を据えて問題に取組み、その険しい解決に向けた道を歩み続けなければならないと思われるのです。

◇ 〈生活〉と言うことについて ◇
 扨、前にJ I Aの顧客を構成する一つに生活者を挙げましたが、常々この用語は厳密な意味で不明瞭な内容のものと思っております。
 〈生活〉をその周縁も含めて考えた場合、生活者も消費者と同様その実体と意味を厳密に適用しているとは思われません。
その〈生活〉の中身は社会・地域・家庭・勤務・余暇・買物・学習等いろいろですが、むしろその隙間と思われる領域に濃密な何ものか(生活に関わる新しい意味や様態)が横たわっている様に思われます。
 突然の様に思われるでしょうが、
今は亡き内井昭蔵さん達と食べ歩いた“ペルセポネの会”別名“食能の会”は、今思い出しても楽しいJ I A〈生活〉の大切な一部でした。
長年に渉るフイールドワークを通して考えたことは、国や行政の機構不全や制度不良については問題が大き過ぎるので直接の言及を避けるとして、社会・都市・まち・地域・学校・家庭に於ける〈生活〉の歪みの問題は、その解決のある程度の前進なくしてJ I Aと顧客との良い関係が構築叶いません。
それは、〈生活〉及びその周縁の健全な成熟こそが自己責任を堅持した〈市民〉の醸成に繋がり、ひいては国や行政の機構や制度の改革(市民や実践者による選挙や‘まちづくり’の運動等を通じて‥‥‥この事は実に大切な事です)に結びつくものと考えられるからです。
〈生活〉のパフォーマンスが展開される領域や空間は多様ですが、そこに通底することは〈対話と交流〉だと思われます。
話が飛びますが、1980年、アルビン・トフラーの[第三の波]は“人はみなコンピューターで情報を操作し自宅でエレクトリック・コテージとして仕事をする様になるだろう”予言していました。その時も“そうはなるだろうけれど問題も出るだろう”と感じていましたが、それから24年、この6月着工した低層賃貸集合住宅には、そのフェースの位置にS O H Oが占めていす。
まさにエレクトリック・コテージという訳です。しかしI T社会のコミュニケーション手段は魅力的で新しい価値の〈対話と交流〉の創出に繋がりますが、一方最近の特に児童が巻き起こした悲劇的な事件に見るように実に危険な側面を孕んでいる様に考えられます。〈生活〉が展開される〈領域や空間〉とそこに通底する〈対話と交流〉の問題であると断言させて頂く所以です。

◇ 〈生活を楽しむ人〉、〈幼・高・障・健の広場〉、〈縁日常と超日常〉 ◇
 現在、私は〈こどもは地域が育む〉、〈幼・高・障・健の広場〉、〈複合的・横断的〉、〈市民=生活を楽しむ人=homo victus〉をキャッチコピーとして〈対話と交流〉の為に駅前広場(スペース)・空き地・空き店鋪を利用してソフト・ハードのプログラムを組んで展開しています。その広場等の運営と経営を地域の〈生活を楽しむ人〉達に自主的にやって頂こうというものです。
詳細は省きますが、祭り・イヴェント・フリーマーケット・朝市・ガーデニング・清掃・対話・交流を行う為の〈幼・高・障・健の広場〉という訳です。
 このようにして、幼年者・高齢者・障害者・健常者の交流を見て参りますと、日常と非日常の中に、実に濃やかで多様な〈生活〉がある事に気付かされます。そして、ここでも異義を申し立てたいのですが単に日常と非日常という言語だけでなく、その中と外に縁日常と超日常を組み込みたいのです。
 日常 ⇔ 縁日常 ⇔ 非日常 ⇔ 超日常の構図となります。
 縁日常の縁とは地縁・血縁・周縁・縁日・縁側の縁ですが、失われたコミュニティと言われる地域社会に於いては特別重要なアイテムで、この〈縁性〉の中に於ける〈生活〉の追求・研究・実践を通じてこそ、先ほどから申し上げている〈対話と交流〉を刺激して、国や行政の機構不全・制度不良及びJ I Aと顧客の分断を解決する道となるものと考えられるのです。
 地域社会に於けるこの縁日常性の〈生活〉に於けるパフォーマンスの追求・研究・実践は顧客の分断の解決のみに止まりません。〈生活〉を濃密化・多様化して、市民とも消費者とも異なった新しい型のコミュニティの構成員の出現を予感させるのです。この様な主体たるべき人々を、自分の勝手な造語ですが表題の様に〈生活する人、生活を楽しむ人、交流する人=homo victus〉と呼ばせて頂いております。今後、実践や学習を通じて確認していく事が必要だと考えているところです。
 そして、ここで特に強調したいことは子どもの参画が必要な事です。
ユニセフの依頼により世界での子どもの地域社会への関わりの実態を著書・「子どもの参画」にまとめたロジァ
ー・ハート(ニューヨーク市大教授・環境心理学・発達心理学)は“子どもは市民であり、主体的に生きたがっている”と言っています。私には、高齢者や身障者の参画も同様に重要です。なによりも“市民として、主体的に生きる”祝福された道であろうと思われるからです。

◇ ネットワークが被さる縁コミュニティの創出 ◇
コミュニティについてです。A I Jの「建築雑誌」(2000・10)でコミュニティに関して、社会学者の上野千鶴子教授が「熊本県営保田窪第一団地」設計の山本理顕さんと対談していました。
そのなかで、“居住を基本とする新しい地域コミュニティは必要だと思わない”といい、専門の介護保健に於ける生協系の「福祉ワーカーコレクティブ」のネッワークを「地域福祉の構築」の柱として「選択的コミュニティ」を提唱しておられます(私にはニヒルとも思われるこの言説は、自らの研究と他を峻別し過ぎてのことでしょうが)。‥‥が、私の意見はそれと異なります。
 介護でも公共・民間・ボランティアのネットワークがありますし、極端ですがチァット・ネットワークもネットです。学問や考察のリアリテイ獲得の為に、他のそれからの差異を強調することよりも、異種分野のコラボレーションによる複合的・横断的な仕組みと狙いを追求すべきだと思うからです。
それらの縁性ネットワークが縁日常的〈生活〉として展開される地縁コミュニティに被さり、〈対話と交流〉が複合的に繰り広げられることが、種々の問題解決に向かう道であろうと考えます。
 磯崎新さんのマニエリスムへの言及以来、チァールズ・ジェンクスのポスト・モダニズムと同時にバブル的状況に遭遇して建築も加速し、飛翔してアートとして地上に舞い降りました(そのことはまあいい)。その時コミュニティの名と実ともに崩壊したものと考えております。
コミュニティという言語は死語となりタブーとなりましたが、ただ一人愚直に(失礼)コミュニティを考え続けたのが山本理顕さんでした。
 それにしてもコミュニティ構築への道は、一筋縄でいかない至難のそれですが、これも先程事例として御紹介した[こども環境学会]に於ける方法論が参考になるものと思われます‥‥分析的よりも総合的・複合的・横断的にです。
 最近、山本さんの設計により竣工した、東雲キャナルコートCODAN(新建築2003・09)は、中廊下方式とし要所にパブリック・テラス(外部に貫通)と透明性の高いラボ機能を配して、デッドな部分に寝室を、外壁面にプライベート・テラス、サニタリー、キッチンを配置したものです。〈生活〉を外に向けた縁日常の豊富化を求めて、コミュニケーションとアソーシェーションの狙いを建築側から提案したものですが,その評価の推移を見守りたいものです。
                    
◇ 再び〈生活〉ということについて ◇
2003年度J I A新人賞の佐藤光彦さん設計・「西所沢の住宅」は〈生活〉ということについて考えさせられます。
何故か、ファサードを見てベンチューリの「母の家」を連想しましたが、その記述に‘フツウの建物’という用語があったからかも知れません。
こちら側に引き寄せて申しますと、ベンチューリが母の〈生活〉への心配りの故にモダニズムの紐縛を逃れて‘フツウの建物’(尤も彼の場合フツウとは様式的なものでしょうが)に踏み出したように、佐藤さんも若い家族の〈生活〉と建築との折り合いをつける為のそれだったと考えられます。 
 何かの雑誌で拝見しましたが、写真のインテリアがオモチャ箱をひっくり返した様でしたが、これもその狙いの大きな理由でしょう(重要なことです)。
子供の成育は大変悲劇的な状況に置かれています。繰り返すことは避けますが、家庭である程度の成育・教育環境を整えようしたら、家を園庭付き幼稚園にしなければならないこととなります。その後個室(成人用)に変容のプロセスを経て、それまでの二倍の期間(50年間)を夫婦で過ごすこととなるのです。
「西所沢の住宅」の場合二階が個室群のようですから、上記の様になるとは限りませんが、何れにしろ幼稚園の様な前期、設計意図である外部との交流の中期、夫婦の老後に即した後期に渉ってライフスタイルとライフサイクルに通用するならば、これこそ持続可能な住宅と言ってよいでしょう。
 〈生活〉に於ける縁日常性が濃密化して、ジョン・ポートマンばりのロングカウンターとそれがエクステンションするハーフコートがその時のライフスタイルと良い関係を築くことが出来るならば、この先クライアントのミニマリズム的なものに対する理解の深まりも期待したいものです。
 妹島和世さんの「梅林の家」(新建築2004・03)も魅力的です。何しろ人物・家具・道具・オモチャがこのように生き生きと紙面を飾ったのは、新建築史上初めての事ではないかと思われます。この住宅の特徴は、オーナーの‘ワンルームのような開放的な住宅’の要求に、逆に多数の空間を用意したことです。そして空間相互を繋ぐ空間を互いにバッファーゾン(生活の縁空間)としながら、その狙いの遂行の為に界壁を薄くして鉄板構造とし、ドアなしにして一気に解決しています。このような楽しい空間は、〈生活〉の縁日常性の豊富化を内部空間的に求められた結果だと考えられるのです。

平 川 國 一20040617 



これへの返信を読む



これへの返信を書く

お名前:
Eメール:

タイトル:

コメント:
・・・・・・・・

あなたのHPのURL:



[ これへの返信を読む ] [ これへの返信を書く ] [ フォーラム目次 ]