<コンサート きいて、みて>
1998年6月

主にクラシックのコンサートの見聞記です。 感想を書いたもので、決して批評や評論ではありません。 日付は下から上へ、順番に新しいものになっています。 (文中の敬称は省略しています)
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*ミッシャ・マイスキー チェロ・リサイタル
  1998年6月24日(水) 19:00〜 サントリーホール
 ミッシャ・マイスキー、今回の東京でのリサイタルは、この日と来年3月の2回にわたってベートーヴェンのチェロとピアノのための作品を演奏するといった、マイスキーにとって「満を持した」プログラムになっている。
 まず、「魔笛」の主題による12の変奏曲からコンサートは始まったが、これはまだエンジンがかかっていなかったのか、意外に精彩のない演奏にきこえた。 訴えかけるものを感じにくく、またチェロとピアノのバランスも今一つで、焦点を定めきれないうちに演奏が終わってしまった感じ。 これが2曲目のチェロ・ソナタ第1番になると、演奏も落ち着いてきて、いつものマイスキーの美点がききとれるようになってくる。 この曲でのマイスキーはチェロを優雅に歌わせ、音楽を伸び伸びと開放していた。 こういう演奏はきいていてとても心地良く、また適度な緊張感を失することもない演奏なので、手応えもある。
 更に後半のプログラムは後期のチェロ・ソナタ2曲で、作品の完成度としては前半の曲よりも明らかに充実しているため、マイスキーの表現もますます深みを帯びてくる。 きき手も自然に集中力が増していくようなプログラミングだ。 チェロ・ソナタ第4番は、冒頭の序奏部からして音楽が大きく深く呼吸をしており、アレグロ部の、内面のパッションを爆発させるような演奏はマイスキーの真骨頂だ。 第5番も強烈な集中力をもって演奏されて、時折垣間見せる切ないリリシズムが、それ以外の部分と大きく対比されて、こちらも何とも言えない感傷に浸ってしまうこともしばしば。
 この日演奏された作品をマイスキーはアルゲリッチとすでに録音しているが、このコンサートでピアノを弾いたのはダリア・ホヴォラ。 この人もマイスキーとは相性のいい人で、その音楽性はよく似ていると思う。 アルゲリッチとは相反する要素をぶつけて、それが結果的に音楽に大きな幅をもたらして成功していたと思うが、ホヴォラとは同じ方向へ音楽を推し進めようとしている演奏で、その分音楽の幅は狭くなった印象だが、求心力はアルゲリッチとやった時以上で、やはりこれも私には魅力的だ。
 アンコールはさしずめ次回のコンサートの予告編といった趣きで、「魔笛」の主題による7つの変奏曲とチェロ・ソナタ第3番の第2楽章。 どちらもよかったが、特に後者は目を見張るほど素晴らしい躍動感に満ちており、聴衆に次回もききにいきたい欲求をもたせるに充分だったのではないだろうか。



*新国立劇場=藤原歌劇団公演 「ナブッコ」
  1998年6月21日(日) 15:00〜 新国立劇場 オペラ劇場
 新国立劇場の今回のオペラ公演は、藤原歌劇団との共催である。 演目はヴェルディの「ナブッコ」。
 ヴェルディの作品の中では有名な作品のひとつであるが、完成度は他の有名作品と比べて弱いので、充実した公演はなかなか難しいだろうと思うけれど、この日の公演は、まずまずいい公演だったのではないだろうか。
 この「ナブッコ」もザッカーリアが優れていた。 パータ・ブルチュラーゼが歌ったのだが、やや力んだところもあったものの、声量が大きく、しかし大声一辺倒になることもなく、深みのある感情表現が見事。 次にアビガイッレのローレン・フラニガン。 この人も力強い歌いっぷりで、その堂々とした演技も、この役を歌うにはぴったり。 あまりに力強くて、時折単調にきこえるところもあったが、総体的には好演であったように思う。 このふたりに比べると、ナブッコの直野資は存在感がやや希薄だったが、歌唱はなかなかのもので、最後まで上手く歌い切っていた。 イズマエーレの田口興輔は渋味があり、少し変わったイズマエーレで面白かった。
 アントネッロ・マダウ=ディアツの演出はオーソドックスなもので、音楽の邪魔をしない良心的なもの。 舞台美術も同様で、こういった方向であると演奏の良し悪しによって印象も変わってくるのだろうけど、この日の演奏には大きな破綻がなかったため、結果的には成功している演出だったように感じた。
 アントン・グァダーニョ指揮の新星日響も、素晴らしい演奏、と呼ぶにはまだ距離があったが、まあまあ良かったようだ。 後半に行くにつれて、オーケストラからもメリハリのある音がきこえてくるようになっていた。 安定感は今一つだったが。 新国立劇場合唱団と藤原歌劇団合唱部の混成部隊は悪くないのだが、もう少し精密さが欲しい気もした。 有名な「行け、我が想いよ、金色の翼にのって」は、イタリア上演の慣習に従ってか、二度歌われたが、これなら私は一度で充分だ。
 この公演はこの日が3日目。 初日のカーテン・コールは荒れに荒れ、ブーイングの嵐が吹き荒れたときいているが、この日はそんなこともなく、ブーイングがまったくなかった訳ではないが、むしろブラヴォーの方が多かった。 初日の様子をきいたときから、どうなることやら、と不安だったのだが、公演のレベルとしては、まずまずの水準をキープしていた(部分的には高水準とも言える部分もかなりあった)、というのが私の率直な感想である。 果たして出演者側が初日の不評に懲りて何らかの改善を行なったのか、それとも私の耳が甘いのかは分からないが、まあ、そんなことはきっと、どうでもいいことだ。



*新日本フィルハーモニー交響楽団 第267回定期演奏会
  1998年6月20日(土) 19:15〜 すみだトリフォニーホール
 今回は名誉芸術監督の小澤征爾の指揮。 すみだに移ってからのNJPは、オーケストラの配置で試行錯誤を続けている、というよりも指揮者によって配置を毎回変えているといったところ。 この日の弦楽器群は左から、第一ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第二ヴァイオリンで、コントラバスはチェロの後ろ。 こんなに毎回色々と配置を変えるオーケストラは、少し珍しい気がする。 珍しいと言えば、このオーケストラのコンサートマスターはプロパーな奏者以外に「客員」のタイトルを持った奏者、それ以外にもゲストとして外部からコンサートマスターを招いている。 これも何か不思議な気がする。 因みにこの日は「客員」の松原勝也、今月のもうひとつの定期プログラムは「外部からのゲスト」の安芸晶子。 定期演奏会にプロパーのコンサートマスターが登場しないことは、このオーケストラに限って言えば決して珍しくはないのだけれど(特に小澤指揮のときは多い)、オーケストラの独自性を維持していく上で問題は何もないのだろうか。 外野の取り越し苦労、余計な心配なのかもしれないが。 (のっけから演奏会そのものと関係ないことを書いてしまった。 気になっていたことなので、つい・・・。)
 演奏会のことだが、サッカー、ワールド・カップの日本の試合のある日にもかかわらず、ホールはほぼ満席状態だったのは、小澤人気も勿論だけれど、若手のホープ、樫本大進との組み合わせも注目されたからなのだろうか。 樫本はシベリウスのヴァイオリン協奏曲を弾いたのだが、この演奏、私にはあまりピンとこなかった。 ヴァイオリンの音がやや荒れ気味で、安定感に欠けている印象。 私は必ずしも美音にはこだわらないけれど、もし音に美感がなければ、別の何かをきかせて欲しいのだが、どのあたりに主張があるのか分かりにくい、一貫性を欠いた演奏のようにきこえた。 実は私にとって、初めてきいたヴァイオリニストだったのだが、評判の高い人であることは知っていたので、期待が過大だったのだろう。 小澤の協奏曲での指揮は相変わらず巧みで、出るべきところ、引っ込むべきところで、ちゃんとそうしている。
 サン=サーンスの交響曲第3番「オルガン」は小澤の丁寧な音楽作りが耳を惹いた演奏。 第1楽章序奏部のオーボエのうたい込みが、とても素晴らしく、そのせいか、この序奏は大変に意味深いものにきこえた。 その後の展開も、慌てず騒がずといった感じで、小澤も余裕をたっぷり見せた指揮振り。 彼の美点である音楽の瑞々しさは、この演奏でも発揮されていたが、心なしかいつもよりも旋律をたっぷりとうたわせていたようで、リズムも割合重たかったように思われた。 エキサイティングな演奏にはなっていなかったけれど、巨匠然とした演奏に近づきつつあるような印象もあって、古くからの小澤ファンにとっては物足りない演奏であったかもしれない。 私は、いい演奏だったと思うけれど。



*東京都交響楽団 第473回定期演奏会
  1998年6月15日(月) 19:00〜 サントリーホール
 ガリー・ベルティーニが音楽監督に就任後、三つ目のプログラムは、フランス音楽を中心としたもの。 これまでの二回の演奏会は、意欲的なものではあったけれど、やや消化不良の感は否めなかった。 だが、この日の演奏会はそういった欲求不満を晴らすような、充実した演奏会になっていた。
 ベルリオーズの歌劇「ベンヴェヌート・チェルリーニ」序曲からして、すでに指揮者とオーケストラの気合は相当のもの。 この明るく、活発な印象をもたせる序曲の演奏は、気楽にきかれることを拒否しているような、細部に渡って神経の行き届いた出色のものであった。 この曲のこれほど意味深い演奏はそうそう耳に出来ないと思うが、不必要にもってまわった解釈でなく、音楽の重心を低くとった、落ち着いた演奏である上に、重さを感じさせないという見事な配慮で、一曲目からこちらの集中力を全開にさせて、いいコンサートへの期待をかきたてる。
 メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は、ギル・シャハムの明るい、健康的なヴァイオリンの音色と、隙のないテクニックがあいまって、手垢がつきがちなこの作品を、充分過ぎるほどの手応えをもってきかせてくれた。 シャハムは本当に楽々と楽器を鳴らしているような印象で、演奏しているフレーズの、もっとも合理的な音の出し方の手本を示しているかのようだ。 そうかといって無機的になることもなく、音楽は常に人間的な喜びに満ちている。 無論、作品の深い研究から成り立っている演奏だろうけれど、そんなことより、きき手に幸福感を与えてくれるような音楽性は、やはり希有であろう。 アンコールの、J.S.バッハの無伴奏パルティータ第3番の「ガヴォット」の演奏にも、このことは当てはまる。
 ベルティーニの指揮は、協奏曲において、上述したシャハムの音楽性を生かした上で、更に演奏の幅を広げるような「深み」を見せていたが、ラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」で、とうとう真骨頂を発揮した。 いわゆる、フランス的な演奏とも違っていて、オーケストラも前二回のコンサートと比べて状態が良かったものの、決して無傷の演奏ではなかったのだが、そういったことを差しおいても、これはやはり名演であったと思う。 ベルティーニのこの曲に対するアプローチは、基本的にはベルリオーズのところで書いた方向と同じ。 響きはとても深いのだが、音楽が絶対に鈍くならず、リズムはしっかりしているのに、四角四面になることはない。 本当に音楽が息づいているのだ。 テンポの伸縮もこの演奏では見事に決まっており、私はこの演奏の最初から最後まで、わくわくしっぱなしであった。 オーケストラはこの曲で重要な役割を果たす木管が好調で、弦も「ダフニス主題」でのポルタメントなど、随所で美点をあらわにしていた。 ベルティーニをききに来た以上、こうでなければいけない!。 またベルティーニは、曲中何度も立ったり座ったりする合唱団の立たせ方を、音楽に合わせて低音部から(縦割りに並んでいる合唱団の向かって右側から)徐々に立たせていったり、第1部と第2部をつなぐ間奏曲での「海賊の主題」を吹くホルンとトランペットを、ステージ左右両端に立たせて演奏させ、ステレオ効果を狙うなど、刺激的な試みも行ない、またそれらは成功していたように思う。 ベルティーニお気に入りの晋友会合唱団も好演。 「ダフニスとクロエ」の合唱なら、サントリーホールでは通常、ステージ上に配置する演奏会が多いが、この日は思い切って客席(ステージ後方Pブロック)に合唱団を上げて、これも高い効果をあげていた。
 この三つのコンサートで、ベルティーニと都響は確実にお互いの距離を縮めてきた。 演奏がどんどん良くなってゆくことに、私は安堵と喜びを感じた。 ベルティーニの今秋の来演が、早くも今から、楽しみでならない。



*NHK交響楽団 第1355回定期演奏会
  1998年6月13日(土) 14:15〜 NHKホール
 今月はハインツ・ワルベルクの指揮。 N響お馴染みのこの指揮者の定期演奏会登場は、久し振りのような気がする。
 ワルベルクはいい意味での「中庸、堅実」な指揮者である、というのがこれまでの彼の演奏に接した私の印象であるが、この日も最初のシューベルトの「ロザムンデ」序曲から、そんな音楽をきかせてくれた。 安定感のある、安心できる演奏。 何も考えずにきける音楽、といったところか。
 ブルッフのスコットランド幻想曲は、いつの間にか、若手、というより、中堅ヴァイオリニストになったギル・シャハムの独奏。 これは、かなりいい演奏だった。 シャハムのヴァイオリンの音色はとても艶やかだが、品の良さを失っておらず、きいていて心地良い。 テクニックも素晴らしく、風格すら感じさせ、シャハムは文句無しの一流ヴァイオリニストになっていた。 緩徐楽章は美しい音色で、懐かしい風景が浮かんでくるような、細部に神経を行き渡らせた演奏で、速いテンポの楽章では、むしろ落ち着いてひとつひとつの音をしっかり鳴らし、音楽に奥行きを持たせていた。 このような演奏にワルベルクのサポートはぴったりで、ソロを引き立てる、というよりソリストと一体になった伴奏をつけていた。 アンコールにシャハムは、クライスラーの「レシタティーヴォとスケルツォ・カプリース」のスケルツォ部を披露したのだが、これも大変達者な演奏で、しかもやたらに弾き飛ばすようなありきたりの演奏に留まらない、独創性溢れるものであった。
 後半は、ドヴォルザークの交響曲第8番。 これは本当に「中庸」を絵にかいたような演奏。 最初から音楽がとても落ち着いており、自然に呼吸しているよう。 変わったことが起きたり、何かの楽器が突出したり、各声部を緻密に描き分けたりするようなことはなく、すべてがまろやかにブレンドされているような音楽である。 しかし、テンポや楽想の変わり目の、終結部の処理に丁寧さがなく、機械的に音楽が進行しているような気分になるところもあった。 余韻をあまり感じさせてくれない演奏なのである。 細かいことを気にしなければ、すべてが予定調和的で、力を抜いてきける演奏だったのだが、この演奏が私の記憶に留まっている期間は、恐らく短いものになるだろう。 悪くはないのだが、きいた後に何も残らないのである。
 ワルベルクを定期演奏会でしばらくきいていないうちに、N響はやはり、心に残る演奏を以前にも増してするようになったのである。 ワルベルクはN響に対して、いつもどおりの仕事をしたのかも知れないが、もはや「悪くない」程度のレベルでは、オーケストラもきき手も満足しない状況になっている。 (この点、同じくN響とつきあいの長いサヴァリッシュが昨秋に見せた、がむしゃらとさえ思える指揮振りは、明らかに「いつもどおりの仕事」ではなかった。) 彼のN響客演における過去の功績は勿論大きなものだけれど、少なくともこの演奏会をきく限りは、現在のN響に対するワルベルクの指揮に、特筆すべきものを見つけ出すのは困難だった。



*東京都交響楽団 「作曲家の肖像 Vol.26 ブラームス」
  1998年6月10日(水) 19:00〜 東京芸術劇場
 都響の定期公演の半分が、一時的に東京芸術劇場に移っているために、この「芸劇シリーズ」の影も薄くなりそうな感じもするが、今回のブラームス特集は音楽監督のガリー・ベルティーニが指揮するとあってか、ホール内はなかなかの盛況である。 この日は、堂々とした交響曲プログラムだ。
 まず交響曲第3番。 出だしの管楽器の伸びやかな基本動機が、いい演奏への期待をかきたてる。 つづく弦の音も柔らかく、心地良い。 重厚さに欠けるきらいがあるが、楽章全体の構造をしっかりとらえているので、軽い感じはしない。 しかし、ところどころで細かくテンポが揺れており、それが私には不自然に感じるところもある。 中間の2つの楽章はまずまず。 でも、オーケストラの調子はやはり今一つのようだ。 フィナーレは、ベルティーニが煽っているのか、オーケストラが気負っているのか、何だか落ち着きのない印象。 このアレグロ楽章は、一気果敢に突進するのも悪くないと思うけれど、そうではなく、オーケストラの響きがやせており、楽節のまとめの部分にやや曖昧な感じを残し、焦燥感が先走ったような演奏になっていた気がした。 ここでもベルティーニのテンポは微妙に揺れていて、オーケストラがそれにいちいち反応しきれなかった様子もうかがえた。
 そんな不安な印象は、後半の交響曲第1番にも引き継がれてしまった。 まず、第1楽章序奏のダイナミクス、そしてやはりテンポが少し不安定だ。 これがベルティーニの意図なのかもしれないが、もしそうならば、成功していなかったのではないだろうか。 緩急の大きさは、やはり不自然で、それに伴って響きもアンバランスになっていた。 やや刺激的なこの解釈は、第3楽章のようなところでは成功しており、また第2楽章では、けれんみのないロマンティシズムを感じさせ、都響の瑞々しい響きが引き出されて、なかなかいい演奏だったと思うけれど、がっちりした構成の第1楽章、それから第4楽章では不満が残った。 第4楽章でも、音の切れ目切れ目の処理に甘さや粗さを感じて、どちらかというとベルティーニの指示が徹底していない印象を受けた。 演奏が充分に仕上がっていない感じ。
 長い期間の遠距離恋愛期を経て、蜜月期に入ったベルティーニと都響は、意外に苦しそうだ。 この日の演奏も、もしベルティーニの意図が完全に実現されていたならば、また違った感想を持てただろうことは想像できる。 もう少しリハーサルの時間が長ければ、解決したことなのだろうか。 慌てて答えを出さずに、またまた次の演奏会を期待したい。



*ニューヨーク・フィルハーモニック
  1998年6月6日(土) 20:00〜 サントリーホール
 音楽監督クルト・マズアの指揮でのニューヨーク・フィル東京公演。 土曜日の午後8時という、異例とも言っていい開演時刻にもかかわらず、場内はほぼ満席。 マズアの来日も久し振り。
 一曲目はドヴォルザークの交響曲第8番。 第1楽章は速めのテンポ、と言うより何かせかせかとした印象をうけるような演奏。 旋律の息も短いし、響きも浅い。 アンサンブルもやや粗い感じで、先行きが不安だったが、第2楽章以降はまあ持ち直し、音楽が進むにつれて落ち着いた演奏になっていった。 最終楽章はもうどっしりとした演奏になっており、出だしの不調(?)はマズアの解釈だったのか、オーケストラのせいだったのかは判然としない。 それに、持ち直したと言っても、ニューヨーク・フィルは絶好調と言うところまでにはまだ距離がある感じで、何とか水準をキープしていたといった程度。 オーケストラのメンバーの中にはかなりのテクニックをきかせてくれた人もいるが、ぱっとしない人もいて、演奏レベルが統一されていない。 素晴らしい音楽がきけた部分と、平凡な演奏だった部分の混在。 そして、その差の大きさ。 マズアのアプローチはインターナショナルなもので、オーケストラを開放してゆくのはいいのだけれど、時々持て余していたようにも思えた。
 後半は、まずメンデルスゾーンのピアノ協奏曲第1番。 ピアノを弾いたヘレン・ホワンは、以前にベートーヴェンの協奏曲第1番をきいたとき、タッチが軽すぎて貧弱な音楽だった記憶があったのだが、この日はそういった問題点はかなり解消されていた。 若いだけあって、成長ぶりは著しいが、まだまだ音が平板なところがあり、音楽的な深みに欠けるところもある。 だが、そもそも作品自体がそれほど深みのあるものではないので、これは一概に言えることではないのかもしれない。 ともあれ、テクニックは高度で、マズア指揮のニューヨーク・フィルも手堅いサポートで、息のあった音楽をきかせていた。
 最後にラヴェルのボレロ。 同じメロディーを繰り返しながらリレーされてゆく各楽器のソロは、質感がバラバラだったけれど、個々をきいてみれば相当上手い人が多い。 バラバラであっても「すべて」のソロが上手ければいいのだが、残念ながらそういう訳ではなかったところがやや辛い。 しかし終結のトゥッティでは、このオーケストラのパワーが結集されて、豪快な締め括りであった。 この作品はこういうことがあっただけで、ききてを興奮させることが出来るので、ホール内はたいそう湧きかえった。
 アンコールに何と、バーンスタインの「ウエスト・サイド・ストーリー」からの「マンボ」。 少し生真面目な感じの「マンボ」だったが、マズアの楽しそうな指揮が印象的。 更に、金管楽器だけ(指揮者なし)で、トゥーリンの「ザ・ジャズローク」という曲が演奏されて、アメリカのオーケストラらしいところを見せた。 楽しい演奏で、ステージそでできいていたマズアも満足そう。
 このコンサートでは、ニューヨーク・フィルらしい「じゃじゃ馬」的な演奏をきけたが、それはそれとして、オーケストラ一丸となった、燃えるような演奏をする本気のニューヨーク・フィルを、次に日本できけるのは一体いつになるのだろうか。



*東京都交響楽団 第472回定期演奏会
  1998年6月5日(金) 19:00〜 東京芸術劇場
 随分と待たされた。 東京都交響楽団に新音楽監督が就任してから二ヶ月余りになる。 そしてこの日、ようやくその新音楽監督が、オーケストラに向かってタクトを振った。 就任後すぐにでも指揮して欲しかったのに、二ヶ月も待ったのだ。 ガリー・ベルティーニはこのオーケストラとのつきあいが長いが、今後は今までとまったく違った、緊張感のある関係を築いていく気なのではないだろうか。 この日の音楽監督就任披露演奏会は、そんな予感に溢れたものとなった。
 都響にとっても、ベルティーニにとっても、特別な意味を持つ作曲家、マーラーの交響曲第2番「復活」が、この日の曲目。 これは極めつけのマーラーがきけるのではないか、という期待が開演前の満席状態のホールに満ちていた。 ふたを開ければ、そこには厳しいマーラーの世界があった。 ベルティーニは丁寧に、ひとつひとつの楽想を取り扱い、マーラーの曲に隠されている精神のひだのようなものを鮮烈に呈示してくるところは、マーラー指揮者としての彼の面目躍如と言ったところ。 都響もこういったものを演奏するのは、もう慣れきっているはずなのだが、意外にも演奏の傷が見え隠れしていた。 注意深くきいてみると、全体的にテンポを速めに設定して、必要以上のうたい込みを慎重に避けており、イン・テンポのようにきこえながら、実は細かいところでテンポを揺らしている。 そして所謂「勢い」は相当のもので、一直線に全曲を駆け抜けた感すらあるのだけれど、無味乾燥にならなかったのは言うまでもない。 やたらにドラマティックだった訳でもない。 作品の原形を出来るだけ尊重しながら、細部に主張を加えてゆく演奏だった様に思う。 その主張とは、言ってみれば快活なアーティキュレーションと引き締まったフレージングであり、このことは作品全体を通して気を配られていたので、一貫性の高い演奏になっていた。
 ベルティーニは音楽監督として確固たる信念を持って、いきなり強烈な主張をオーケストラにつきつけていたが、都響はまだ十全にこれに応じられていなかった。 ベルティーニのこのやり方は、若杉、インバルによってたたき上げられたマーラー・オーケストラの機能性の上に乗って、それにみずからの主張を加味してゆく、といったような生やさしいものではなく、一度その機能を白紙に戻し、ベルティーニ自身の色を作り上げようという、並々ならぬ彼の意志にのっとったものであるように感じた。 ベルティーニほどの指揮者なら、もっと安全で、ききごたえのある演奏も出来たはずだ。 しかしもう「客演」ではない。 そのことをオーケストラに宣言しているようにも見えた。 ある意味で「戦い」なのである。 ベルティーニは本気で都響を鍛え直すつもりだ。 都響の定期会員は、興味深いその過程に今後立ち会える、という幸運を手に出来たのだ。 どう転ぶかは、まったく予想がつかないけれど、今回の彼の残りの演奏会をきくことによって、ある程度のことは見えてくるかもしれない。
 この日の声楽陣について。 独唱者はまずまずの出来。 晋友会合唱団は見事にコントロールされていて、素晴らしかった。
 いよいよ、ベルティーニ路線のスタートだ。 大きな期待に満ちた高揚感の中で、最初の演奏会は閉じられたのであった。



*朝比奈隆&新日本フィル ベートーヴェン・チクルス X
  1998年6月4日(木) 19:00〜 サントリーホール
 朝比奈隆の指揮するベートーヴェンの交響曲第9番をきくのは、もう何回目だろう。 朝比奈みずから、「一生、演奏し続けていきたい曲」と言っているとおり、深い思い入れが、演奏されるたびに別の形で現れるので、こちらも何度でもききに来続けたのだが、この日の演奏を一言で言うと、「浄化」されたベートーヴェンとでも言おうか。 朝比奈の解釈は今なお、一所に留まっていない。
 第1楽章からゆったりとしたテンポの、巨大な音楽を予想していたが、意外にもテンポは中庸に近く、音も重すぎることがない。 金管をはじめとする管楽器の鳴らしっぷりはいつもどおりだが、朝比奈にしては音の長さを短めにとり、きびきびと音楽が進んでいく錯覚(?)にとらわれる。 第2楽章も速め。 オーケストラは比較的清涼な響きをキープし、リズムが鈍くなる感じもない。 いつもの朝比奈らしいスケールの肥大した音楽も、この曲においては目覚ましい効果をもたらすけれど、この日のような演奏も、私はまた戸惑いながらも惹かれてゆく。 勿論、朝比奈のことだから薄っぺらい響きはないのだが、それでも音の混濁が今回はあまり感じられない。 肩の力が抜けている風情なのだ。 「巨人ベートーヴェン」ではなく、もっと絶対的な音楽としての第9交響曲を響かせているようだった。
 それが、もっとも素晴らしい形で実を結んだのが、やはり第3楽章だ。 この楽章も粘らない。 約10年前のNJPとのベートーヴェン・チクルスでの、目一杯ゆったりとした、懐の深い音楽に私は大変な感銘を受けたのだが、この日の演奏で受けた感銘はまた別のもので、一切の余計なものを削ぎ落としたような演奏は、恐ろしいほどに美しかった。 音楽が次から次へと、天に舞い上がってゆくような清々しさを覚えた。 これほど音楽を裸にしてしまっても、きき応えのある演奏を繰り広げられるのは、朝比奈ならではだろう。
 フィナーレは、第3楽章の浄化された世界をそのまま引き継ぎ、とても興味深かった。 この緊張は、オーケストラのみで演奏されるダブル・フーガのところで途切れてしまい、個人的には残念だったが、その後は祝祭的な面を押し出した演奏となり、またいつもの朝比奈的な巨大さの片鱗も覗かせ、聴衆に充実した聴後感を与えるように、全曲を閉じた。
 独唱陣は、バリトンの多田羅迪夫以外は精彩を欠いていたように思う。 栗友会合唱団は、必ずしも精度やバランスが完璧だったわけではなかったが、朝比奈の解釈にそった合唱をきかせた。 オーケストラも、朝比奈指揮時にきかれる特有の乱れが散見されたが、それもまあ少ない方だったのではないだろうか。
 まもなく90歳。 朝比奈はまたまた、ベートーヴェンの交響曲全曲演奏を完遂してしまった。 にもかかわらず、また次の展開を見たい気にさせるとは、恐るべき指揮者である。



*ウラディーミル・アシュケナージ ピアノ・リサイタル
  1998年6月3日(水) 19:00〜 NHKホール
 広いNHKホールに、やや遅れた聴衆がぱらぱらと席に着いている最中に、ウラディーミル・アシュケナージが小走りで登場した。 彼は、無造作に置かれている(ように見える)ピアノの前に座り、客電が落ちるか落ちないかのうちに、モーツァルトのピアノ・ソナタ第8番を弾き出した。 その切ない旋律が流れ出すと、ホール内は直前までの客席の慌しさが嘘のように、アシュケナージの世界へと変わってゆく。 一ヶ月ほど前にきいたポリーニが、聴衆が全員整然と着席した後、いつまでたっても現れなかった様子と、まったく対照的だ。 アシュケナージの独特のステージ・マナーは相変わらず。 そして、ピアニズムの美しさも健在である。
 前半は、そのモーツァルトのソナタから始まったが、とてもバランスのとれた音色とテクニックで、この曲の魅力を過不足なく引きだしていた。 ともするとヒステリックになりがちなモーツァルトの短調だが、過度に感情を移入して音楽を壊してしまうことなく、この曲に潜む悲しみの感情をさり気なくきかせてくれるところは、さすがである。 アシュケナージのピアノはいよいよ若々しく、そしてその表現力はいよいよ深い。 このことは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」においても言える。 特に第2楽章の、やさしさと安堵に満ちた音楽は、この人の音楽に対する姿勢そのものを見たようで、きいていてとても安心できる。 ベートーヴェンもモーツァルトも、とても親密な音楽なので、ホールの広さがうらめしかったけれど、アシュケナージの、ききてに語りかけるような演奏をきいていると、徐々にステージとの距離が縮まってゆく感じがする。 しかし、後半のショパンになって、ホールの広さに起因していたと思われる散漫な印象は、かなり解消されていたように思う。 夜想曲第15番や、幻想曲をきくにつけ、アシュケナージは硬質のタッチで、甘ったるい感傷にひたるようなショパンではなく、もっと透明で、凛とした趣きのある叙情性を表出しようとしていたのがききとれた。 健康的なショパン、というと少し違うのだが、要は余計な思い入れを極力排した、純音楽的なショパンだったと言うべきだろうか。 だが、一音一音が表現しているものはとても多く、音楽の底の部分での切れ味はとても鋭い。 2つのマズルカや、スケルツォ第2番では、それにスケール感も加味されて、大変に立派な演奏になっていたように思う。 きいていてスリルや、ときめきのようなものはあまり感じられないが、安心してきけて、それできいたあとに何かが残るという、味のある演奏だった。 アシュケナージもこういう演奏をするようになった。
 アンコールに、ラフマニノフの前奏曲とショパンの夜想曲。 もうこれ以上は、何も付け加えることはないだろう。



*バーミンガム市交響楽団
  1998年6月2日(火) 19:00〜 東京オペラシティ コンサートホール
 マーラーの交響曲第7番のフィナーレ、壮絶なコーダをききながら、「これは大騒ぎになるな」という強い予感がしたが、やはりそのとおりになった。 最後の一撃がホールに轟くと、満席の聴衆からの熱狂的な拍手と、耳が痛くなる程の大きな歓声があがった。 オーケストラがステージから消えても喝采はおさまらず、このコンサートを指揮したサイモン・ラトルは、演奏中は暗譜していたので使わなかったマーラーのスコアを手に、何度もステージに出ていかねばならなかった。 各方面から大絶賛を受けたコンサート、ということになろうか・・・私は冷静にこのシーンを眺めながら、そんなことを考えていた。 いや、呆然と立ちつくしていた、と言うべきか。
 すでにレコーディングしており、そのCDは極めて高い評価を受けていることは知っていたのだが、ラトルのマーラーの第7交響曲のCDはまだきいたことがない。 でも、この人の音楽性を考えれば、この曲のようなものに高い適性を見出せるだろうということは想像がつく。 だから、このコンサートは普段にも増して、とても大きな期待を持って出かけたことをまず言っておかねばならない。 そして、実際演奏をきいてみて、私が想像していた以上に、ラトルは彼自身の切り口を以って、この曲を完璧に自分のものにしていた。 マーラーの交響曲の中で、効果的に演奏することが、もしかしたらもっとも困難なこの作品を、実に明快に解きほぐしてくれる。 百鬼夜行の趣きも、音をこれだけ分析的にきかせてもらえれば、新しい発見がたくさんあって、目から鱗が落ちる瞬間は数知れない。 その上、ダイナミズムに事欠かず、演奏効果もきわめて高く、大向こうを唸らせるにも充分である。 後半の3つの楽章に関しては特にそれが当てはまり、速めのテンポをとりながら、マーラー特有の凸凹の管弦楽法を刺激的に再現してゆく様は、快刀乱麻を断つが如し、だ。 まったく無理や強引さを感じさせずに、上辺だけが整った音楽に陥らないところは、文句のつけようがない。 バーミンガム市響はラトルの意図を完璧に理解しており、ラトルの棒のとおりに音がでてゆく様子は、見ていて快感さえ覚える。 この曲のあらゆる要素を、これだけ自在に表出させた演奏をやはり他に知らないのだが、私はどうしてもこの演奏に同化できなかった。 こんなに見事なのに。 なぜだろうか。
 帰途の車中で、このことを考えていた。 しかし、明快な答えが見つからない。 この演奏を思い出せば思い出すほど、素晴らしかった部分しか浮かばないのだ。 演奏会で、たまにこういう不思議な体験をする。 こういう場合は、こちらの心身のコンディションのせいにしてしまうのが簡単なのだけれど、強いて答えを探してみたら、この演奏の「間(ま)」、という言葉に思い当たった。 私の個人的な好みの中での、テンポ感と上手く合っていなかったと思ったのである。 つまり、もっと伸縮させて欲しかったところでそうならなかったり、その逆であったり。 もっとゆっくりうたってほしかったところでそうならなかったり、その逆であったり・・・。 これらの意外性は演奏会の中で割合日常的に起こることだし、それが良い刺激になることが多いのだが、この日はそうならなかった。 そう言えば、何年か前に、ラトルとこのオーケストラでマーラーの第9交響曲の演奏会をきいたときにも同じような感想を持ったことを思い出した。 となると、マーラーがひとつのキーであり、ラトルのマーラーは私の波長に合わないのかもしれない。 これも、もっと色々きいてみないと、言い切れないことだけれど。
 この演奏会の冒頭に演奏された曲にも触れておくが、ナッセンの交響曲第3番であった。 はじめてきく曲なので、あまりコメントできないが、上述したラトルのマーラーでのアプローチがそのまま当てはまる演奏で、これはこれで考えすぎることなく、結構楽しめた。 この演奏をきいて、ラトルの冴えを確信し、続くマーラーへの期待が一層膨らんだのであった。
 最後にもうひとつ、言っておきたいのだが、私にとってラトルという指揮者は大好きな指揮者のひとりで、多くの音楽ファン同様、今後も大いに期待し、注目していきたい音楽家であると思っている。 この演奏会をきいた後でもその思いは変わらないどころか、更に強いものになったのであった。



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