<コンサート きいて、みて>
1998年5月

主にクラシックのコンサートの見聞記です。 感想を書いたもので、決して批評や評論ではありません。 日付は下から上へ、順番に新しいものになっています。 (文中の敬称は省略しています)
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*新日本フィルハーモニー交響楽団 第265回定期演奏会
  1998年5月28日(木) 19:15〜 すみだトリフォニーホール
 今月のNJPは、レオン・フライシャーが指揮している。 このオーケストラの「指揮者」の肩書きを持っており、約一年振りの登場だ。 この日のオーケストラ配置は、ヴァイオリン両翼型。
 ストラヴィンスキーの「プルチネルラ」組曲は、古典的な響きに満ちた演奏。 快活なテンポ設定で、これがストラヴィンスキーの作品であることを忘れてしまいそうだ。 ビヴラートも控え目で、様式をきっちりと守った(?)演奏と言ってよい。 木管をはじめとする管楽器の澄んだ響きも心地よい。 ある意味で、作品の本質をとらえていたように思う。
 ラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲は、フライシャーの弾き振り。 同じ曲を2日続けてきくことになったが、前日のフィルハーモニア管の透明感のある爽快な演奏とは対照的に、フライシャーとNJPは重みのある音を積み重ね、細部を多少デフォルメしながら、エキサイティングな音楽を作っていた。 音は混濁気味になるが、骨太で重量感を持った推進力に支えられた、独特の魅力を持った演奏になった。 フライシャーは右腕の障害を持ってから、この曲はかけがえのないレパートリーのひとつだったと思うが、その成果がきこえるような深い洞察を感じた。 確かに軽さはなかったけれど、作品の持つアンニュイな雰囲気を強調していて、不気味ささえも漂わせていた。 こういった演奏もこちらとしては耳がはなし難く、重量級のラヴェルを満喫させてもらった。
 メインはドヴォルザークの交響曲第9番「新世界から」。 特別変わった演奏ではなかったが、重たい推進力は、この曲でも持続しており、それがNJPのクリアなサウンドと時折ミスマッチになっていた。 けれどそれは、大きな傷になるほどのものではない。 オーケストラのまとまりはよく、好調だったと思う。 特徴をつかみにくかった演奏だったが、気楽に楽しませてもらえたのは、「新世界から」だからだろうか。
 この「コンサート激戦期間中」の時期の定期公演であるにもかかわらず、聴衆の入りは結構良かった。 NJPはやはり人気のあるオーケストラだ。



*フィルハーモニア管弦楽団
  1998年5月27日(水) 19:00〜 東京オペラシティ コンサートホール
 東京オペラシティではこの5月下旬、現代作曲家ジェルジ・リゲティの作品を交えた一連のコンサートを行なっているが、エサ=ペッカ・サロネン指揮のフィルハーモニア管弦楽団のコンサートは、そのうちの3日間を受け持ち、その2日目をきいてきた。
 リゲティの作品からは、トーン・クラスター様式の代表作とされる、「アトモスフェール」と「ロンターノ」がこの日演奏された。 この2曲はリゲティの管弦楽作品の中でも代表的なものであり、演奏会でも取り上げられることがたまにある。 現代作品に強いサロネンの指揮は、この複雑な音の積み重ねを実に見通しよくまとめ、きき手の集中力をそがない。 フィルハーモニア管はやはり優秀なオーケストラで、恐らくサロネンの要求に適確に応えていたのではないだろうか。 こういった作品で音を混濁させず、さりとて変に分析的になることなく、きき手を自然にリゲティの音楽世界へ、ひいては現代音楽の世界へ誘うことのできるサロネンの手腕は、ますます磨きがかかっていたようだ。
 このリゲティのふたつの作品の間に演奏されたのが、ラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲。 ピアノを弾いたミシェル・ベロフは、さすがにこの作品に対しての造詣は深く、どの楽節をとっても彼の音楽になりきっている。 従って安心してきけたのだが、サロネンの伴奏がやはり素晴らしく、耳はそちらの方へ奪われてしまうこともしばしば。 ここでは、サロネンの若さも楽しめて、中間部のジャズ風な部分のリズムなどは、胸がわくわくする気分になってしまった。 全曲にわたって表出された色彩の豊かさは、この曲の伴奏部の演奏において、かつて経験したことのなかったものだ。 決して精度は極端に高かったわけではないのだけれど。 ベロフは当然、両手のピアニストとして完全復活しており、アンコールで得意のドビュッシー(「沈める寺」)を披露して、これも大変に立派な演奏であった。
 ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」は1947年版による演奏だった。 これはコンサート前半の演奏に比べて、やや重い感じだったが、それは曲の質感によるもので、作品へのアプローチは相変わらず鋭い。 サロネンはかなり耳のいい指揮者のようで、音楽を薄っぺらにしたり、説明的にすることなく、透明感のある音楽を重ねていく。 これはアンサンブルを徹底的に磨く、といった方向とはやや違ったやり方で音楽を生かそうとするもののように思える。 そしてリズム感は抜群で、この日のプログラムのようなものを指揮した時が、現在のサロネンをきく上で最上の条件が整っている、と言えるのではないだろうか。 部分的にどこがどう、というわけではなく、「音楽」を感じさせてくれる指揮者として、重要な存在であると思う。
 アンコールにサロネンみずから「武満さんに・・・」と言って演奏したのは、ラヴェルのバレエ音楽「マ・メール・ロワ」から「妖精の園」。 ため息が出るほど奇麗だった。 ここ数日の東京は、各ホールで有名演奏家、オーケストラのコンサート・ラッシュであり、こんな魅力的なコンサートであるにもかかわらず、この日の聴衆の数は明らかに少なすぎた。 しかし、このコンサートをきいたこの日の聴衆の熱気は相当のもので、熱烈なスタンディング・オヴェーションでサロネンを何度も呼び出していた。 実際、それだけ実のあるコンサートだったので、サロネンがなかなか楽屋に帰れなかったとしても、無理からぬことである。



*ピッツバーグ交響楽団
  1998年5月25日(月) 19:00〜 サントリーホール
 マリス・ヤンソンスの指揮を最後にきいたのはもう随分前で、その時はオスロ・フィルを振っていた。 若手の新進指揮者として、勇猛果敢な指揮姿が印象に残っているが、最近、ピッツバーグ響の音楽監督に就任して、手兵との初めての来日公演だ。 今回の印象は、落ち着いた風格のある指揮振り、といった感じ。 演奏される音楽も然り。 勿論、若々しさはあるので、あくまでも以前と比べての印象だけれども。
 この日はブラームス・プログラムで、ギドン・クレーメルのヴァイオリン、ミッシャ・マイスキーのチェロという豪華ソリストを迎えての、ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲が最初。 クレーメルとマイスキーのソロは、音楽的に同質性の高いものとは言い難い。 ヴァイオリンとチェロの対話も、時々全然違ったやりとりをしたりして、どきっとするようなスリルがある。 所謂、競争型の演奏だったが、不思議なほど充足感が高い。 ヤンソンスの指揮は、この曲では割合直線的で、時としてこの名手ふたりを煽るような場面もある。 かつてバーンスタインがこのふたりとこの曲を演奏した映像を見たことがあるが、ヤンソンスはバーンスタインより直截的だ。 当然、クレーメルもマイスキーも対応が当時と違っていて、私はもう少し円熟した音楽をきけると思っていたのだが、表面的にはあの頃の演奏より若がえっていたよう。 しかし、その音楽が語っているものは、きっとはるかに多かった。 例えば、第2楽章の、快適な速度でのインテンポ気味の演奏は、クレーメルもマイスキーもほんの一瞬毎に次々と、音楽の違った表情を見せてくれて、一所に長く留まらない「時間的芸術」としての音楽の愛おしさを、痛感させてくれるようなものであった。 ただ、オーケストラの調子は今一歩で、特に一部の管楽器に目立った綻びがあったのが残念。
 交響曲第2番の方は、なかなか安定していた。 細部において、ヤンソンスの独特の表情が見え隠れするが、それとて特別に個性的という訳ではない。 テンポも中庸で、オーケストラも協奏曲のときよりもまとまっていた。 しかし、「この人でなければ」、「このオーケストラでなければ」、といったようなサムシングは、私には見つけられなかった。 悪い演奏ではないのだけれど。 来日オーケストラの公演、と言えば、嫌が上にもこちらの期待は大きくなってしまう。 それに最近はベルリン、ウィーンなどで売り出し中の気鋭の指揮者が、音楽監督として振るとなれば尚更だ。 だから、こんな感想になってしまったのかも知れない。
 アンコールにハンガリー舞曲第5番と、ベルリオーズの「ラコッツィ行進曲」。 後者は、ただやたらに派手だった、と言って片付けてしまうにはしのびないような、いい演奏だったと思う。



*ロンドン交響楽団
  1998年5月24日(日) 19:00〜 サントリーホール
 ロンドン響の今回の来日公演は、首席指揮者のコリン・デイヴィスの指揮。 デイヴィスは1995年よりこの地位にいるらしいが、前回(1996年)のロンドン響来日公演で指揮したのは、チョン・ミュンフンであった。 この組み合わせできくのは、私にとって初めてだ。 デイヴィス得意の、シベリウスの曲ばかりのプログラム。
 最初の交響詩「伝説(エン・サガ)」は、ちょっとおもしろい演奏だった。 デイヴィスは遅目のテンポをとって、音のひとつひとつに重みをつけた。 とても腰の重い演奏スタイルで、音楽は意味深長。 これほどのこの曲の要素を引き出すような演奏は、あまりないと思う。 1曲目から大変なききごたえだが、感動的だったか、と問われれば、即座にイエスとは言えない気がした。
 ヴァイオリン協奏曲は、今や八面六臂の活躍振りを見せている竹澤恭子をソリストに迎えた。 彼女が弾くこの曲は、昨年もデュトワのサポートによるものできいているが、この日はまた、朗々と歌う演奏。 音量はかなりのもので、ロンドン響のパワーの前にもまったく屈することなく、みずからのこの曲に対する思いの丈をぶつけるように弾いていた。 デイヴィスの音楽作りも、このいき方に賛同したもので、とてもダイナミックなヴィルトゥオーゾ・コンチェルトであった。 竹澤は多分、デュトワの時よりのびのびと弾けたのではないか、と想像するが、私の好みはデュトワとやった時の方。 この日はロマンティシズムを優先しすぎたように思えた。 その結果、陰影がきつくなりすぎ、儚い味わいを犠牲にしていた。
 メインの交響曲第2番をきいて思ったのは、デイヴィスってこんなに鳴らす指揮者だっただろうか、ということ。 デイヴィスはこの曲もテンポを遅くとり、スケールの大きな表現を目指していたように思えた。 ロンドン響は、イギリスのオーケストラの中でも機能性に優れたオーケストラだと思うが、それにしても大きな音をバンバン出すものだ。 前回のチョンとの公演のときは、指揮者の特質だろうと思っていたのだが、名匠デイヴィスにしてこの音響とは、やや意外。 旋律が必要以上に粘ることはさすがにないので、音楽的な厭味はなかったのだけれど、デイヴィスはここぞというときには乾坤一擲のような大見得を切り、優秀なロンドン響はそれに応えたものだから、演奏効果は著しく上がり、聴衆は大喜び。 でも、これはシベリウスだ。 こんなシベリウスもある、と思わせてくれるような説得力には欠けていたような気がする。 また、ロンドン響も、やや粗かった気がした。 確かに熱い演奏ではあったし、デイヴィス入魂のシベリウス、と言えなくもない。 しかし、デイヴィスはそういう指揮者だったのだろうか。 私の記憶の中のデイヴィスは・・・。 いや、いけない。 こういう先入観や、思い込みは、時として音楽をきく際の妨げになる。
 しかし、そう思っても後の祭り。 戸惑ってしまったコンサートだった。 アンコールに「悲しきワルツ」。



*マルタ・アルゲリッチ/ギドン・クレーメル/ミッシャ・マイスキー
  1998年5月23日(土) 19:00〜 すみだトリフォニーホール
 現代版「夢のトリオ」が遂に東京で実現した。 ピアノのマルタ・アルゲリッチと、ヴァイオリンのギドン・クレーメルやチェロのミッシャ・マイスキーとのデュオには接したことがあったが、この3人のトリオ演奏は世界中でもまだ片手で数えられるほどしか行われていないはずだ。 ロシアの新旧の名曲をプログラムに据えたことは、意表をつく感じもするが、それぞれ個性の強い3人の名人の音楽的な共通項を見つけようとすると、案外このあたりに落ち着くのかもしれない。 ステージ上にはポリーニのリサイタルの時と同様、音大生が着席。 この日は約100名。 クレーメルだけが立って演奏した。
 まず、ショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第2番。 この3人にしては、妙に禁欲的な演奏。 クレーメルとマイスキーの緊張感のある音の対話を、目立たない様にアルゲリッチがサポートしているといった風情で音楽は進む。 ところどころで、3人の才気がぶつかりそうになる瞬間があるが、それぞれが衝突を注意深く避けているように見えたので、意外に音楽は安定感の高いものとなった。 この作品の作風を適確につかんだ、緊張感のある名演と言えるかもしれないが、ステージ上の演奏家が緊張している様子も、同時に伝わってくる。
 そして、チャイコフスキーのピアノ三重奏曲「ある偉大な芸術家の思い出のために」。 3人とも少しずつリラックスしてきたのか、持ち味が徐々にはっきりと出てくる。 だが、決して情に流されたり歌いすぎることなく、フォルムを大切にする辛口の演奏だった。 3人の集中力は当然、演奏が進むにつれて増していき、音楽の密度は高まる一方。 第2楽章後半には、それぞれが丁々発止とやりあう場面も見られる。 でも、まったく崩れないところが、3人の高い演奏能力を裏付けている。 3人が3人とも、出るべき所、引くべき所を完全にわきまえており、出るべき所の三人三様のインスピレーションに満ちた演奏が、音楽に大きな広がりをもたらしていた。 常設のピアノ・トリオがきかせてくれる、緊密な室内楽演奏とは違っていたけれど、これだけの名人たちがバラバラにならずにひとつの方向に向かえば、やはり名演がきけるということだろう。 ここまでが本プログラム。
 アンコールで演奏されたのは、恐らくクレーメルが「やろう」と言い出したのだろう、キーゼヴェッターの「タンゴ・パセティック」。 チャイコフスキーの有名な旋律が色々出てくる短いユーモラスな曲だが、とても楽しくきくことができ、3人からの素晴らしい贈り物を受け取った気分。 これでコンサートは終わり。 客電が点いても聴衆の拍手は鳴り止まず、何度も何度も呼び出される3人。 実は、コンサートのクライマックスはここから始まったのだった。
 何度目かのカーテンコールで、とうとう3人は楽譜を持って現れた。 そしてチャイコフスキーのピアノ三重奏曲の第1楽章をもう一度弾き始めた。 3人の様子は本プロと明らかに違っていて、かなり本気でそれぞれの個性を出し始めた。 その見事なこと。 火をつけたのはアルゲリッチ。 情熱的なピアノにつられ、まずクレーメルが切れ、マイスキーも後を追った。 演奏は本プロで演奏したものよりも、ききごたえのあるものになった。 3人とも、ようやく肩の力が抜けたのだ。
 長いアンコールになった。 再度、客電が点燈。 聴衆の拍手は鳴り止まないが、帰り出す聴衆もかなりいる。 さすがにこれで終わりである。 普通は。 何度目のカーテン・コールだったろう。 3人はさっきまで演奏していたポジションにまたまた、着いたのである。 そして今度は、ショスタコーヴィッチのピアノ三重奏曲第2番の第2楽章を、凄まじい勢いで弾き出したのだ。 これは圧倒的だった。 アルゲリッチの稲妻のようなピアノに、鋭利な刃物のようなクレーメルのヴァイオリン。 そして、その中でとことん歌い込もうとするマイスキーのチェロ。 3人とも体を大きく揺らし、白熱の演奏だった。 そう、これがききたかったのだ!。 この演奏をきけただけでも、帰途に就かずに長い拍手を送っていた聴衆は、報われた、と思ったに違いない。
 この2曲は、明らかに本プロで演奏された同曲と別の曲のようにきこえた。 ライヴ・レコーディングをしていたドイツ・グラモフォンはどちらのテイクをベースにするのだろうか。 同じ演奏家が、同じ曲を二度演奏して、明らかに出来が違っていた。 この日、ホールに居合わせた聴衆以外の人には、にわかに信じてもらえないかもしれないが、こういうことは本当にあるのである。 興奮のるつぼと化したホールで、コンサートは午後9時45分、ようやく終演した。
 3人の「偉大な芸術家」に、大きな拍手を送りたい。



*東京都交響楽団 第471回定期演奏会
  1998年5月22日(金) 19:00〜 東京芸術劇場
 ジェイムズ・デプリーストは、やはり独特の個性を持った指揮者だ。 改めてそんな感想を強く持った都響定期。 そして、その個性はこの日、とてもいい方向に発揮されていた。
 ファリャの「三角帽子」第2組曲から、しなやかな響きに魅了された。 明るさの中に渋味が混ざったような個性的な演奏だったが、やや腰の重い音楽作りは、本来この曲には似つかわしくないのだけれど、少しも違和感がない。 むしろ柔軟なオーケストラ・サウンドが、普段この曲をきいたときに起こる感興とは別の楽しさを誘発してくれる。 最初からききごたえ充分。
 ジェラール・コセーをソリストに立てての、バルトークのヴィオラ協奏曲は、このヴィオリストのやはり柔らかい音が、デプリースト指揮のオーケストラのサウンドとマッチして、とてもききやすかった。 コセーはこの曲の前衛的なにおいを感じさせずに、非常に整った音の強弱と確かなテクニックで一気にきかせた。 コセーはソリストとしての強烈な個性はあまり感じられなかったが、デプリーストのサポートがとても大柄で、ソロを包み込んでしまったかのようだった。 協奏曲に関しては、デプリーストはあまり上手い指揮者ではないと思うけれど、この日はこのやり方がとても上手くいっていたように思う。 コセーはアンコールでバッハの無伴奏チェロ組曲からの楽章を、勿論、ヴィオラで弾いた。 これも協奏曲同様、柔和な演奏。 悪くない。
 サン=サーンスの交響曲第3番「オルガン」は、これまできいたデプリーストの演奏の中でもっとも感心し、同時に私がこれまで接した同曲の実演の中でもっとも感銘を受けたものであった。 デプリーストは遅目のテンポで、音楽をじっくりと語らせる。 この曲も遅いのは私の好みではなかったはずなのだが、この日のこのテンポはとても意味深く、極めて妥当に思えたから不思議だ。 第1楽章序奏部から、いっときも耳を離せない。 都響の弦も管も乱れがほとんどなく、デプリーストにぴったりついて、美しい。 第1楽章後半は胸をしめつけられるような憧憬に満ちていて、第2楽章も勢いにまかせた演奏に陥ることなく、しっかりとした足取りで進む音楽が、とても素晴らしい。 こういう風に、音楽を骨太にすることによって、この作品の構造がとてもはっきりと見えてきて、私はこの曲に対して、これまでいかに偏った先入観にとらわれていたかがよく分かった。 そして、しなやかな響き、遅くても鈍らないリズムが名演奏を作る手助けになっていた。 作品によっては、このやり方が必ずしも私の好みに合うことがなかったのだけれど、サン=サーンスでデプリーストに開眼するとは思ってもみなかった。
 指揮者としてのテクニックを云々する以前に、デプリーストは指揮者として強力な武器になりえる、「カリスマ性」のようなものを持っている。 オーケストラも聴衆も、それに乗っていければ、その日の演奏会は多分、とても有意義で素晴らしいものになるはずである。



*クリーヴランド管弦楽団
  1998年5月20日(水) 19:00〜 サントリーホール
 例年より少し遅目の、(私にとっての)春の外来オーケストラ来日公演ラッシュの始まりだ。 たまたま、そうなっただけだろうけれど、このシーズンは英米のオーケストラばかり来日する。 まず、クリストフ・フォン・ドホナーニ率いるクリーヴランド管弦楽団をきいた。 ドホナーニがこのオーケストラの音楽監督になってもう長いが、来日の度に指揮者とオーケストラの関係が素晴らしいものであることを実感させてくれるような演奏をきかせてくれる。 今回もこれまで以上の充実振りをみせ、どこまでが指揮者の音楽性で、どこまでがオーケストラの美点なのか、判然としないほど密度の高いコンサートだった。
 アイヴスの「答えのない質問」で開演したが、この繊細な音楽のあらゆる要素を、何ひとつ壊すことなく再現したオーケストラの演奏能力は、驚嘆に値する。 そして、ドホナーニのバランス感覚は最良のものだ。 きこえてこない音がまったくない、ような気がするほど明晰で、音楽的な感興にも事欠かない。 この驚きは、この曲の演奏に対してだけではなく、この日演奏された他のすべての曲の演奏に対しても同様に起こった。
 モーツァルトの交響曲第40番で、このオーケストラの、いぶし銀のように上品にくすんだ音色に触れて、久し振りにきいたクリーヴランドの響きに喜んだ。 ドホナーニは古典的造形を重視したやり方で、きびきびとした音楽を作っていた。 しかし、メヌエットだけがややロマンティックで、音をレガート気味に捌いたり、トリオに移ったり、トリオから戻る際のパウゼを長めにとる、あるいは、終結部にリタルダントをはっきりとかけるなどの解釈をきかせたのは、全体の流れから見れば意外な気がして、不自然な印象もあった。 繰り返しを励行したこの演奏は、総じて好演だったが、この曲のときだけ、ホール内に断続的に響いていた補聴器のハウリングのような音は、つくづく残念だった。 ホール側が休憩時間中に手を打ったようで、昨秋の朝比奈=都響のような混乱はなかったようだったけれど。
 そして、ブラームスの交響曲第2番。 まず、第1楽章提示部から、私の耳はクリーヴランド管の管楽器の、まったく自然なリレーと、それを支える弦楽器の瑞々しさに奪われっぱなしだった。 これはオーケストラ全体がひとつの楽器のような同一性を持っているからで、その音響バランスはこれ以上ないと思われるほど素晴らしい。 明晰さと、くすんだ音色の対比が絶妙で、誰かのソロが突出することなく、すべからく巧い。 ここでも長い提示部は反復されたが、頭に戻るときに、私は「ああ、もう一度今のがきけるのだ。」という喜びを感じた。 この曲でここを繰り返されて、こんな気分になることは滅多にない。 音楽が進むにつれても、強引さはまったく見られず、音楽を楽に呼吸させている印象。 だが、あらゆる楽器の音の処理には細心の注意が払われ、フィナーレのクライマックスに至っても咆哮がきかれることはなかった。 ブラームスをきいた、という感慨は薄かったけれど、極めて高いレベルの音楽的再現が行なわれていて、きいていてとても心地よかった。
 アンコールのドヴォルザークのスラヴ舞曲は、言わずもがなの名演。 ドホナーニもクリーヴランド管も、作品を知り尽くしている。
 ドホナーニは、だてに長く音楽監督の地位に固執しているわけではなく、長い時間かけた分だけの成果を上げているのだということが、よく分かった気がした。



*NHK交響楽団 第1353回定期演奏会
  1998年5月15日(金) 19:00〜 NHKホール
 前回の定期演奏会のモーツァルトに続いて、この日はハイドンとベートーヴェンを取り上げたアンドレ・プレヴィン。 しかし、そのプログラムはひとひねり加えられたものだった。
 ハイドンは交響曲第102番。 この後に続く第103番、第104番というニックネーム付きの有名曲の直前の番号を持つ、渋い交響曲である。 プレヴィンのハイドンは、彼のモーツァルトと同じく、音楽を自然に語らせるスタイルで、当然のことながらハイドンにとってこのようなスタイルは好ましい。 演奏は現代オーケストラで再現される最良のハイドンで、大袈裟にならず、瑞々しい音色と躍動感に満ちた文句のつけようのないもの。 表面的には無為無策に見える音楽作りだが、まったく当たり前に演奏される音楽の素晴らしさというものも、とても魅力的だ。 勿論、ただ音を鳴らしているだけではこういった演奏にはならないはずで、プレヴィンの綿密な楽譜読みと、充実したリハーサルが行なわれているはずである。 それを何事もなかったかのように演奏するプレヴィンとN響を見ていると、これぞ本当の一流、と思えてくる。
 ベートーヴェンは交響曲ではなく、何と、弦楽四重奏曲第14番の弦楽合奏版である。 この曲をミトロプロス編曲版と言ってよいのかどうか分からないが、こういった編曲ものは原曲と同質の感動を得るのは無理で、まったく別のものである、という考えは以前にも述べた。 編曲ものには編曲ものの良さがある、という意味のことを言ったつもりだったのだが、この日の演奏は原曲の弦楽四重奏をきいたときに得られる感動に極めて近いものがあったし、編曲ものの楽しさも同時に味わえた。 ここではN響の弦楽器奏者ひとりひとりの自主性がいかんなく発揮され、とても美しい音楽を奏でた。 プレヴィンは音楽の方向性、室内楽的な親密な味わいを失わないように要所要所を引き締め、演奏が進むにつれて音楽はどんどん密度の高いものになっていった。 オーケストラをきいている、という感覚は薄れ、良質の室内楽でプレヴィンがピアノを弾きながらアンサンブルをまとめているかのような錯覚にすらとらわれる、指揮者とオーケストラが一体となった演奏であった。 本来なら、スリル満点の演奏になる可能性のある選曲だが、プレヴィンの指揮できくと絶対にそんなことは起こらず、それでも飽きのこない音楽がきけるのが嬉しい。 でも、これがロマン派音楽や標題音楽、ロシア音楽となると、また違ったプレヴィンの魅力があるのだろうけれど。
 前回のモーツァルトと併せて、これほどN響が指揮者に共感していることが客席に伝わるような演奏会は随分久し振りである。



*東京都交響楽団 第470回定期演奏会
  1998年5月13日(水) 19:00〜 サントリーホール
 このところショスタコーヴィチの作品に接することが多いが、この日もオール・ショスタコーヴィチ・プログラム。 そして、都響今月の指揮者はジェイムズ・デプリースト。 
 まずは、ピアノ協奏曲第1番。 ピアノを弾いたディーナ・ヨッフェが爽快なピアノをきかせた。 軽やかな音で、流れるような演奏だったから、この曲に含まれてる毒のようなものが薄められる。 しかし、これはこれでこの作品の再現方法のひとつの可能性だろう。 デプリーストのサポートも、スケールを大き目にとり、この解釈を支えていたため、協奏曲としては成功していた。
 そして、交響曲第11番「1905年」。 どうしたことか、冒頭の弦合奏がやや美感を欠いていた。 ピッチが微妙にずれていたためなのか、音が強すぎたのか、不気味な静けさを表現しているはずの楽節が生きていなかった。 やや、不安な出だしだったけれど、管楽器群の好演や、演奏が進むにつれて増していったオーケストラの集中力のお陰で、よくまとまった演奏に仕上がっていた。 デプリーストは音のひとつひとつを、よく鳴らそうとする指揮者だ。 音価をしっかり見極め、充分に音を伸ばす。 テンポは必然的に遅目になるが、リズムが割合としっかりしているためか、鈍い演奏にはならない。 よく歌い込んでいる演奏、という訳でもない。 重たさも感じない。 音を自然に、開放しているといった趣きだ。 しかし、無造作にそうしている訳でもなく、音楽全体を見通しているスケール感も持ち合わせている純音楽的な指揮者だと思う。 だからショスタコーヴィチをきいても、彼の作品をきいた後にいつも味わう「ほろ苦さ」のようなものも感じない。 これはデプリーストの美点であり、欠点にもなりうることだと思う。 私としては、こういったやり方も嫌いではない。
 それにしても、何か物足りない。 デプリーストは都響初客演の頃から来日の度にきいているが、いつもこんな感想だ。 良心的ないい指揮者であることは分かるのだけれど。 これは単に、ききてとしての私の個人的な好みの問題に過ぎないだろう。 あまりに音楽がしっかりしていて、こちらのイマジネーションをあまり刺激してくれないのだ。 でも、没個性的な指揮者という訳ではないし、いつかこちらの感性が追いつくかもしれない、と思っているので、何度もききに行くのだ。 今回も、ききどころは結構あったので、「もう止めよう」とは遂に思えなかった。



*歌劇 「ペレアスとメリザンド」
  1998年5月10日(日) 15:00〜 オーチャードホール
 勿論、これは小澤征爾が指揮をするはずだった公演である。 小澤は体調を崩し、この公演を降板してしまったが、代役としてピットの中の指揮台に立ったのは、ジェラード・シュワルツであった。 小澤が指揮をしたらどうなっていたのかは、もはや知る由もないが、代わって指揮をしたシュワルツの棒は冴え、この公演のレベルを落とさなかっただけでなく、とてもききごたえのある音楽をNJPから引き出した。 正直言って、これは私にとって期待以上の成果であり、急な代演にもかかわらず、公演のピンチを救って余りある活躍をしたシュワルツは、きっと賞賛されていいと思う。
 ドビュッシーの歌劇「ペレアスとメリザンド」は、その静かな展開がオペラの中でも独特なものだけれど、一歩間違えれば退屈を誘いかねないこの音楽を、シュワルツは実に解り易く演奏した。 繊細な音が、最小限の積み重ねで意味深く流れる曲だけれど、シュワルツは場面場面でその美しさを作っているもっとも重要な旋律に力点を置き、音楽的な流れが切れない演奏をした。 ただし、この曲の特徴である、象徴的でかつ抽象的である部分を侵してしまうことはない。 すべてを白日にさらしてしまうような愚挙は犯さなかった。 これはシュワルツがこのオペラを確実に自分のものにしているからであろうし、よくよく考えてみると、そうでなければこのような曲で、日本での小澤の代役など引き受けなかっただろう。 たびたび日本に来ている人である。 日本の聴衆や、ホールの雰囲気などはもうかなり知っているのであろう。 今回の代役のリスクは、かなり高かったはずだ。 そんなことを思い出し、考えたのは、もうオペラも後半にさしかかっていた頃だった。
 NJPも、近来きいたことがないくらい、柔らかくていい音を出していた。 アンサンブルも見事なもので、一体この非常事態でどうやってこんなにいい音を作ったのだろうと思われるほどだ。 ちぐはぐになるところなど微塵もなく、とても軽くて、心地よい音楽をきかせてくれた。 このオペラにおけるドビュッシーの語法を完璧に理解していた。 これも多分、指揮者の功績が大きいだろう。
 この公演の舞台装置、美術はサンフランシスコ・オペラ協会のプロダクションによるものだそうだが、音楽にぴったりの、幻想的で、とても美しいもの。 デイヴィッド・ニースの演出は、音楽と、この美術の美しさを尊重したもので、とても良心的ないい仕事のように思えた。 このステージを見ながら、ドビュッシーの音楽をきいていると、何だか夢の中にいるよう。
 歌手たちも素晴らしい。 ドゥエイン・クロフトの若々しさはペレアスを歌うには持ってこいだし、テレサ・ストラータスの、儚さの中にのぞく妖しい魅力はメリザンドのそれそのもの。 ホセ・ファン・ダムは、オペラの中でゴローがどんな役回りであるかを知り尽くしており、ゴローの精神状態を歌に反映させる力は、驚異的なものだ。 アルケルのロバート・ロイドの貫禄も見事。 イニョルドを歌ったマイケル・デノスだけが、テクニックに走りすぎていて、変にオペラチックな歌唱であり、やや異質。 この少年、少し巧すぎた様だ。
 一時はどうなるかと懸念された公演だったが、(恐らく現場の大変な結束力があったからであろう、)素晴らしい公演になったことに関しては、本当にほっとした。



*NHK交響楽団 第1352回定期演奏会
  1998年5月9日(土) 14:15〜 NHKホール
 今月は、アンドレ・プレヴィンが指揮者として登場。 この日はモーツァルトの名曲ばかり4つ。 そして結果は、期待通りのいいコンサートだった。
 プレヴィンは、曲の様式によって適確な表現を使い分けることの出来る名指揮者であると思うが、モーツァルトでも例外なくそれが当てはまる。 音楽の作り方は、声高に何かを主張するような演奏はせず、音楽を自然に呼吸させる裏側で、目立たないようにスパイスをきかせてきき手の注意を逸らさない、もはや職人的な芸術の域だ。 安心して音楽に身をまかせられる。
 歌劇「フィガロの結婚」序曲で幕開けとなったコンサートは、その堅実な演奏の中に息づく生気が、演奏会の成功を予感させる。 ディヴェルティメントK.138では、この10分程の曲の中に、どれほど優雅な味わいがあるのかを如実に示した演奏。 何だか実際より長く感じたが、それは疲れたり、退屈したりしたためではなく、むしろとても密度の濃い時間を過ごしたからだ。
 プレヴィン得意のピアノ協奏曲第24番は、彼の余裕しゃくしゃくの弾き振りで。 プレヴィンのピアノは突出することはまったくなく、オーケストラの中のひとつの楽器として響く。 しかし、ピアニズムはかなり骨太で、明確でエレガントなモーツァルトとしてとても気持ちがいい。 木管楽器とのやりとりが素晴らしく音楽的で、室内楽のような味わいに富んだ演奏になった。
 交響曲第39番も、変わったところや、派手なところは一見ない。 しかし、実はアーティキュレーションや強弱のつけ方にやはり独特なものがある。 それが少しも不快にならず、まったく適正に思えるのは、音楽を生かす方法をプレヴィンが熟知しているからだろう。 多分、より冷静な耳で(例えばCDで)きいてみれば、好奇心が刺激されるような先鋭的な試みがなされていることが、かなりはっきりと分かるに違いない。 例えば、何年か前に彼がウィーン・フィルと来日した際にきかせた、この曲の終楽章の第一主題の下降音形を吹く管楽器を強調させたりしているところはこの日も同じであり、当時と同じように、はっとしたのだけれど、全曲きき終わってみれば、刺激的な印象よりも、滋味深い音楽をきかせてもらった感想の方が強い。
 プレヴィンの指揮は、動きが必要最小限で、見ていても落ち着く。 しかし、体全体であらわしている情報量は多分大変なもので、これがオーケストラや聴衆を静かな感動に巻き込んでゆくのだろう。 オーケストラを指揮しているというより、室内楽のひとつのパートをこなしている、という印象。
 N響も絶好調。 さすがにこのホールで、モーツァルトばかりというのは厳しいものがあったが、何よりも本当にいい音楽をきけたのだから、私はとても満足した。



*新国立劇場公演 「魔笛」
  1998年5月6日(水) 18:30〜 新国立劇場 オペラ劇場
 新国立劇場の通常公演が始まって2演目め、モーツァルトの歌劇「魔笛」の公演。 「蝶々夫人」はきけなかったけれど、この劇場の本公演はどんなものなのか、期待して出かけた。 この日が初日。
 きいてみたら、これは感想を述べるのにとても苦労する公演だった。 一言で言ってしまえば、深く印象に残ったものがほとんどないのだ。 まず、出演した歌手たちの存在感が希薄だった。 タミーノも、パパゲーノも、モノスタトスも、ザラストロも、キャラクター的に訴えてくるものをあまり感じ取ることが出来なかった。 歌は、まあ水準から上だったと思う。 演技は、上手とは言えないが、それなりにやっていたと思う。 何かが足りない。 いや、それぞれの歌手たちに突出した要素が何もなかったことが、こういった思いに至った原因だろうか。 女声陣は、それに比べるとまだましで、ひとり気を吐いていたのは、夜の女王を歌った崔岩光で、これは貫禄十分の出来。 パミーナやパパゲーナも安定した歌唱だったと思うが、突き抜けてくるものがない。
 演出は、世界的な演出家のひとり、ミヒャエル・ハンペ。 ところどころ細かい部分で、私の頭では理解できないところもあったが、これも総じて非常にオーソドックスな演出だった。 例えば、第2幕の最後で、タミーノとパミーナが太陽系の模型を持って、後方の地球に向かって歩き出し、民衆(フリーメーソン?)がそれについていく中、ザラストロだけが、意味ありげに手帳のようなものを開いて座っている部分とかは、何だか分かりにくかった。 しかし、大筋で定石どおりだったので大きな不満もないが、満足感もさほど感じない。
 大野和士の指揮は、速めのテンポをとり音楽を前に倒してゆくようなもので、快活で、引き締まっており、これはよかった。 新星日響は、細かいパートでほころびもあったが、アンサンブルはまずまず。 大野の棒によくついていったと思う。 新国立劇場合唱団にも、強い不満はない。
 終演後は、拍手と程々のブラヴォー。 この劇場の名物(?)であるブーイングは、はっきりとききとれたのが、指揮者へのひとつだけ。 演出家に対してはきこえてこなかった。 カーテンコールも程々に、幕となった。 平凡な公演。 歌劇場のレパートリー公演とは、こんなものなのだろうか。 いや、これは「新演出プレミエ公演」だったはずだ・・・。



*マウリツィオ・ポリーニ ピアノ・リサイタル
  1998年5月2日(土) 19:00〜 サントリーホール
 今回の日本でのリサイタル、3日目のマウリツィオ・ポリーニ。 ベートーヴェンの晩年のピアノ作品からの選曲である。 これまでの2日間のリサイタルは、私に少し戸惑いをもたらしたが、今の彼なら、この日のプログラムはソナタよりよくなるのではないか、と期待して出かけた。 その期待は半分当たり、半分ははずれ、というより、また意外なものがきけた、というべきか。
 まず「11の新しいバガテル」だが、これはひとつひとつの曲にこめられている小宇宙を、なめらかな弧を描くようなスタイルで演奏された。 強弱のつけかたが明確で、かつ無理がなかったため、こんな印象をもった。 この11の曲は、とても短いものばかりだが、それぞれが日本の俳句を思わせるような広がりを持っており、ポリーニはそれらを注意深く拾って表現していた。
 「6つのバガテル」は、より充実度の高い作品だが、方向としては「11のバガテル」と同じような演奏で、とても質の高いもの。 ただ、偶数曲のダイナミックさと対比される奇数曲に、あまりデリカシーを感じなかったのが意外だったが、よく考えてみると、こういったことはこれまでポリーニの演奏からしばしば感じていたことだ。 逆に、音楽の構成は感じ取りやすく、何のことはない、ポリーニらしい演奏だったのだ。 ポリーニらしい?。 「ポリーニの変化」はどこへ行ったのだろう?。
 メインの「ディアベッリ変奏曲」の演奏をきいたら、その答えが見えた気がした。 この曲を彼は、さっと一筆で書き下ろすように、一気に弾いてしまった。 それは時として「豪放」と思える瞬間もあり、バリバリ腕に任せて弾きまくる、名人ピアニストのような演奏になっていた。 いや、ポリーニはまぎれもなく名人だけれど、唸り声をあげながら鍵盤を強打する様は、少し前の「名人タイプ」のようだった。 曲の節々に、ロマンティックな要素が介在してくるところは、ここ10年くらいの間にポリーニがよくやるようになったことだが、それでも全体を通してきくと、かなり即物的な要素が勝った演奏になっていた。 音のダイナミクスはフォルテ側に寄っていて、ソナタのときにきけたデリケートなピアニッシモは遂にきけなかったけれど、音が潰れてしまうことがかなり少なくなって、今までポリーニの演奏で感心してきたものが、今回のツアーの中では初めてきけた。
 やはり、結果的にこの3回のリサイタルの中では、もっとも満足できるものとなったが、それは事前に期待していたものとは違う形で現れ、いよいよ訳が分からなくなってきた。 この日はミス・タッチも格段に少なくなって、上述のように、弾き方を変えたように思えたので、前のスタイルに逆行したかのようにも思えるが、きっとそうではないのだろう。 ポリーニがサントリーホールの鳴らし方のコツを掴んだ、というか、もっとも適した弾き方を探し当てたのではないだろうか。 彼の音楽の本質を失わない範囲で。
 ポリーニの今回の日本でのリサイタルは、残すところあと一回。 シュトックハウゼン作品集だったのだが、「(ポリーニ)本人の強い希望」で、何と、さらにリストの無調の小品をいくつかと、シェーンベルクのピアノ曲を追加演奏することが発表された。 この演奏会(5月11日)は、チケットが余っている様で、この速報を聞いた聴衆の一部はチケットを買いに走ったようだ。 私は・・・もう、打ち止めにしておこう。



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