<コンサート きいて、みて>
1998年4月
主にクラシックのコンサートの見聞記です。 感想を書いたもので、決して批評や評論ではありません。 日付は下から上へ、順番に新しいものになっています。 (文中の敬称は省略しています)

*NHK交響楽団 第1351回定期演奏会
1998年4月29日(水) 19:00〜 NHKホール
1曲目、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲の冒頭の悲劇的な和音がホールに響いたとき、そのふくよかで、柔らかい響きに強い衝撃を受けた。 この日の指揮者、準・メルクルの音楽に接するのはこれが初めてだが、また大変な若手指揮者が現れたものだ。 このわずか数分の序曲の中でメルクルがきかせてくれたものは、しなやかな旋律の流れと、密度の高い音の質感。 しかも鈍重になる気配は微塵もなく、劇的な要素も事欠かない、素敵な音楽だった。
その次のベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」は、スティーヴン・コワセヴィチのピアノが思いのほか平板だったけれど、バックのメルクル指揮のN饗の伴奏が表現するものの多さといったら、この曲でこんなに充実した伴奏をきいたのは、もしかしたら初めてではないか、と思ったほど。 コワセヴィチはバリバリ弾き飛ばして行くような、さっそうとしたピアノだったが、それが心地良いところと、そうでないところがあって、全体として見たときには少し不満が勝った。 それよりも私はオーケストラに耳が奪われがちで、特に第2楽章の弱音の美しさは、深くこころに刻み込まれた。 決して貧弱にならない、質感の高い音楽的な弱音。 常に音楽全体の一部分としてとらえられている、音のひとつひとつ。 まったく滞ることのない旋律の流れ。 どれも素晴らしい。 しかしこれが災いしてか、協奏曲としては必ずしも成功していたとは言い難い結果になったのは、皮肉なことだ。 コワセヴィチはオーケストラに追い立てられていた感じで、彼の本当の実力を出しきれなかったのではないだろうか。 ここが協奏曲の難しいところで、ソリストとオーケストラのどちらか一方に優れたものがあっても、両者の音楽的な方向の一致がなければ、不思議な演奏になってしまうものだ。 メルクルはもう少し、ソリスト側に寄った指揮をしてもよかったのではないだろうか。
ブラームスのピアノ四重奏曲第1番は、この作曲家の室内楽作品の中で、私がとりわけ好きな作品だが、メルクルはそのシェーンベルク編曲版を演奏会のメインに据えた。 こういう編曲ものは、原曲と同じ種類の感動をききてが求めることに土台無理があって、基本的には別の作品と思ってきくほうがいいかもしれない、と常々思っている。 特にこのシェーンベルクの編曲は、下手に演奏すると必要以上にけばけばしいものになりやすいが、この日の演奏はそうならなかった。 いや、ブラームスとシェーンベルクの両方の美質が楽しめる、模範的な編曲版の演奏だった。 これまで述べてきたメルクルの美点がここでもフルに発揮され、N饗のアンサンブルの素晴らしさとあいまって、息もつかせぬ名演となった。 非常に柔軟性の高いメルクルの指揮は、押さえるところをきちんと押さえ、オーケストラを見事にコントロールし、最上の響きを引き出していた。 バランス感覚も素晴らしく、格調の高さも言うことない。 このような演奏をきかせたら、シェーンベルクも喜んだのではないだろうか。
こういう指揮者を「いい指揮者」と言うのだろう。 今後、目が離せない人がまたひとり増えた。
*チョン・キョンファ ヴァイオリン・リサイタル
1998年4月28日(火) 19:00〜 サントリーホール
この日の演奏曲目の変更は事前に知らされていたが、それとは別に(少なくとも聴衆には)何の予告もなく、J.S.バッハの「アリア」でチョン・キョンファのリサイタルは開演した。 どうしてこういうことになったのかは分からないけど、チョンのヴァイオリンのG線が紡ぎ出す落ち着いた旋律のお陰で、ごく自然にチョンの世界へ入って行くことができた。 やや刺激的なストラヴィンスキーのデュオ・コンチェルタンテで演奏会が始められるよりも。 この変幻自在なストラヴィンスキーをきいて、この日のチョンの気力の充実振りを感じ、いい演奏会になりそうな予感。
そして、チョンの「無伴奏」をきける千載一遇のチャンスが訪れる。 J.S.バッハのパルティータ第2番は、筆舌に尽くし難い演奏になった。 チョンはこの曲を、最高の集中力で弾き切った。 これは彼女の「魂」そのものだったのではないだろうか。 この曲から引き出せる、喜び、怒り、安堵、ため息、その他もろもろの要素をとことん表現しつくしていた。 それは曲の進行とともに、加速度的に深遠なものになっていき、もはや「音楽」というレベルさえ飛び越えていきそうだった。 こういったものに出くわしてしまうと私は、不覚ではあるが、涙を押さえられなくなってしまう。 「シャコンヌ」の中盤ににさしかかった頃には、涙が次から次へ止めど無く流れてしまい、本当にどうしようかと思ってしまったほどだ。 このように、自分の感情を根底から揺さぶるような演奏に出逢うことは、数年に一度、あるかないかであり、その意味で私にとって至上至福の時であった。 これ以上、とても言葉では言い表せない。
こんなバッハをきいてしまっては、その後のプログラムをまともにきけないのではないか、と思ったが、それは違っていた。 バルトークのヴァイオリン・ソナタ第2番は、バッハに負けない、素晴らしい演奏だった。 チョンのテンションはまったく落ちることなく、ともすると掴み所のないこの曲のひとつひとつの楽想を意味深く繋ぎ、しかもそれは「知」が勝ちすぎることのない、むしろ強烈なパッションに満ちた演奏をきかせてくれた。 ピアノのイタマル・ゴランのサポートも、ダイナミックにヴァイオリンを引き立てる。 これもとても感動的。
最後にラヴェルの「ツィガーヌ」で、私を含めた聴衆の多くが期待するチョンの姿をみせてくれた。 ここにきけるのは私たちが慣れ親しんできたチョンらしい名演奏。
この日もアンコールでポピュラーな小品を数曲。 いや、アンコールとしては数多くの曲を披露した。
バッハの楽章間で次の楽章を弾き出そうとしたとき、客席からきこえた咳に一旦楽器を降ろし、咳のきこえた方向を思わず睨むチョン。 そして、アンコールの小品で拍手のタイミングを間違えた聴衆に向かって、人なつこい笑顔を見せるチョン。 どちらも素晴らしい音楽家、チョン・キョンファの本当の姿だ。 その懐の広いこと。 そして、その魅力的なこと・・・。
*チョン・キョンファ ヴァイオリン・リサイタル
1998年4月26日(日) 14:00〜 サントリーホール
チョン・キョンファは4年振りの来日公演だ。 今回は盛りだくさんのプログラムを引っさげてリサイタルを数回行なう。
この日のプログラム、前半はシューベルトの作品を2曲。 二重奏曲と幻想曲という組み合わせだ。 チョンの音楽も「成熟」という言葉があてはまるような、貫禄のあるものになってきている。 このシューベルトの2作品も、作品と演奏者としての彼女の距離をほどよく保ち、いたずらに高揚することなく、いい意味で軽い演奏だった。 作品に全力で対峙する演奏姿勢は相変わらずだが、音の重心を高めにとり、軽やかな音で演奏していた。 何か儚いものを、そっと扱うような静けさに満ちており、それは時折現れる激しい楽想の部分においてもそうである。 かつてこの人の演奏に接するたびに味わった息苦しいほどの緊張感は、あまり感じなかった。 むしろきいている方もゆとりを持って、良い音楽をきく幸福感のようなものに浸ることができた。
だが、後半のシューマンのヴァイオリン・ソナタ第2番は、チョンの面目躍如たる演奏。 どの分野においても、シューマンの作品をききごたえのある音楽としてきかせるには、演奏家はかなり強い意志を持っていないと実現できないものだが、チョンにはそんな心配は無用。 それどころか、このとりとめのない曲の隅々まで冷静に見据えて、自己の中で作品を再構築してきかせているよう。 あらゆる点で優れたバランスが保たれ、過不足ない表現は大家の風情だ。 無論、とても高い完成度の演奏であったが、反面、欠けているものがあるとすれば、理性を突き抜けるようなパッションだろうか。 第4楽章の無窮動的な部分は、チョンの真骨頂を伝えるにうってつけのところだが、この日はややおとなしめだったようだ。 しかし、音楽の重みはしっかりと伝わってきた。
最後にJ.S.バッハの「アリア」が演奏されたのだけれど、これはそれまでの高く跳ね上がった気分を静かに着地させてくれるような、やはり静けさに満ちた、滋味溢れる演奏だった。
元々チョンは、無意味な美音で音楽をきかせる演奏家ではないけれど、それにしてもこの日は少しだけ音が荒れているようにきこえた。 音楽にとって大きな傷になる程のものではなかったけれど。 この人も「変化」しているようだ。
伴奏したピアノのイタマル・ゴランは、チョンとの呼吸がぴったりで、伴奏者としての役割を見事にこなしていた。
アンコールにポピュラーな小品をいくつか弾いてくれた。 このような作品に対しては幾分リラックスして取り組んでいたように見えたが、決して手抜きをせず、聴衆を楽しませようとするサービス精神は、芸術家として、そして人間としての彼女の魅力を何倍にもしていると思う。
*マウリツィオ・ポリーニ ピアノ・リサイタル
1998年4月25日(土) 19:00〜 サントリーホール
マウリツィオ・ポリーニの独奏会2日目のプログラムは、ベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタ、第30番、第31番、第32番。 この日もステージ上にはおよそ50人の音大生が座っていたが、今回は聴衆に事情を説明する文書が配られた。 それによると、おおむね初日(4月11日)に私が推察したとおりの理由だった。
演奏の方だが、まず第30番。 やはりかつてのポリーニと微妙に違う演奏だ。 つまり、より歌謡性に傾いた演奏と言えるが、初日に比べて違和感がない。 今回の来日では、ややナーバスになっているように見受けられるポリーニであるが、この日も緊張気味。 しかし初日に比べると若干リラックスしているようで、軽やかな音色と、しっかりした音の積み重ね方が心地よく、爽快な演奏。 第1楽章から遊び心さえうかがえるもので、第2楽章も洒脱。 終楽章の、静けさの中に垣間見える祈りのような演奏はポリーニならではで、全曲を一気に仕上げてフォルムが崩れないところもさすが。
第31番も同様の傾向の演奏。 細部におけるリタルダントのかけ方は今まできけなかったものだが、過ぎることがない。 むしろ、今までがきっちりしすぎていたのかもしれない、と思わせるほど説得力の強いものだ。 よくよくきいてみると彼が失った音楽上の美質は、まったくと言っていいほどない。
第32番は圧倒的だった。 今回の来日公演でポリーニが初めて全開になった感が強く、細部の一点一画をおろそかにしない、強靭な構成力を持った音楽だった。 旋律の歌わせ方も素晴らしく、正に「鬼に金棒」のような演奏。 特に第2楽章は彼の独壇場で、フーガの扱いにおける、音が立ってくるような明確さ、高音部のトリルのこの世のものとは思えない美しさ、緩急のリズムの使い分けの適切さ、そしてその中に潜んでいる素晴らしい歌たち、どれをとっても最上のものだった。 決して重くなることがなく、かといって軽薄にもならず、この曲の等身大の姿を見たようだった。
だが、サントリーホールの音響はポリーニのようなピアニストにはあまり向いていないのではないのだろうか。 やはり音は混濁気味で、彼の明確なピアニズムが後退したように思えたのはそのせいかもしれない。 学生をステージに座らせるなど工夫をしているものの、当初はあまり効果がなかったように思えた。 この日のリサイタルの後半で、そういった不満が大分解消されてきたのは、ポリーニがこのホールの満席状態での音のならし方のコツをつかんだからではないだろうか。
ここから先の話は余談で、私のあまり根拠のない想像や予測に過ぎないが、ポリーニが今回の来日で一番やりたかったのがシュトックハウゼン(私は今のところ興味がないが)であり、ベートーヴェンではソナタが「ききもの」だと思っていた。 けれど、今のポリーニのスタイル、ホールに対する慣れ等を考慮すると、次回のベートーヴェンのバガテル、変奏曲のプログラムはソナタ以上の名演が期待できる気がする。 ききに行く予定はなかったのだが、とても気になるので、ききに行くことにした。
*新日本フィルハーモニー交響楽団 第263回定期演奏会
1998年4月23日(木) 19:15〜 すみだトリフォニーホール
およそ一ヶ月にわたって開催されてきた<ショスタコーヴィチ・フェスティバル1998>も、いよいよ最終プログラムだ。 大変充実した音楽祭だったようで、私もいくつかのコンサートをきいたが、みんないい演奏会だった。 室内楽の公演をまったっくきけなかったのが残念だった。 この日はオーケストラ・プログラムで、指揮はフェスティバルの主役、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ。 午後10時近くにようやく終演するという長いコンサートだったが、長さを感じさせないものだった。
まず、映画音楽「ハムレット」組曲。 ショスタコーヴィチは映画音楽をいくつか作曲しているが、この作品もショスタコーヴィチらしい作風で、劇的なもの。 しかし彼の他の素晴らしい作品に比べると、まあこんな曲もある、といった感じだった。 音楽的につまらない作品だとは思わないけれど、もっといい曲がたくさんある。 演奏も、可もなく不可もなしといったところか。
ピアノ協奏曲第1番は、若手のコンスタンチン・リフシッツの独奏。 演奏は軽快に弾き飛ばす、といったこともなく、じっくり構えた落ち着いたテンポで。 テクニックも高水準。 この曲に対してこういったスタンスをとることによって、かえってアイロニカルな側面が強調されて、今まで気がつかなかったものが、色々な楽想からききとれた。 これもまた、ひとつのスタイル。
この日のシンフォニーは、交響曲第11番「1905年」で、なかなかいい演奏に出逢えない曲のひとつだが、今回は名演だったと思う。 ロストロポーヴィチはショスタコーヴィチの音楽を理解している、と言うより、もっと直感的に、ロストロポーヴィチの体がショスタコーヴィチの語法を覚えている、と言った方が適切ではないだろうか。 どういう風にすればショスタコーヴィチの音楽が息づくかを、まったく驚くべき反応のよさで、次々にきかせてくれる。 細部を注意深くきいてみると、この曲に出てくるたくさんの主題の扱い方、またそれらがポリフォニックにからむときの立体的な音楽の作り方など、これが最良の答えだと思わせるような瞬間が休む間もなく訪れる。 しかもそれらを、これ見よがしなところはなく、当たり前のように音にしてしまうので、きいていて疲れることもないどころか、ききすすむうちにこちらの集中力も増してくる。 確かにオーケストラは万全とは言えず、はっきりミスと分かるような部分もきこえた。 技術的なレベルでこれ以上の演奏はたくさんあるだろう。 しかしロストロポーヴィチの意図をかなり忠実に表現しようという意思は強く、それで全体的にはとても密度の濃い音楽になっていた。 これこそ「生演奏」。
最終楽章の最後の鐘の音が鳴り響き、全曲が閉じられたときのホール内にはしばしの沈黙が訪れ、ロストロポーヴィチが完全に手をおろした後、おもむろに起こった拍手の中で私は、本当に凄いショスタコーヴィチをきいてしまった、と心底思った。
*マウリツィオ・ポリーニ ピアノ・リサイタル
1998年4月18日(土) 19:30〜 サントリーホール
マウリツィオ・ポリーニの3年振りの日本でのリサイタルだ。 今回はベートーヴェンの後期のピアノ独奏用の作品をそろえたプログラムと、シュトックハウゼンの作品を集めたプログラムで、4回のリサイタルを行なう。 この日は初日で、ベートーヴェンのソナタを3曲。
ポリーニが日本公演でいつも使うホールのひとつである、東京文化会館は現在改修中である。 そこでサントリーホールを使うことになったようだ。 ステージ上にはポリーニの「強い要望」で、およそ50人の日本の音楽大学の学生が座っていた。 後進の指導に意欲的なポリーニらしいが、ピアノ・リサイタルを行なうには「響きすぎる」サントリーホールの音響を、調整する意味もあったのかも知れない。
さて、この演奏会をどうきくか。 無論、人によって様々な意見があろう。 ポリーニの「変容」については、ここ10年のうちに行われた彼の来日公演をきいても感じられたことであり、多くの人が指摘してきたことでもある。 つまり、ある程度完璧さを犠牲にしても、音楽の自然な流れを重視し、作品により近づこうとするような演奏を行なうようになってきている、ということである。 この日の演奏をきいて、この傾向がいよいよ強くなってきていることを感じた。 かつての透徹したピアニズムは、もうほとんど見えない。 技術的にも、もう完璧とは言えなくなってきている。 ただ、失ったものより、得るものの方が大きければ、この変化は歓迎すべきことだ。 ここで、ききての意見が分かれてくるだろう。
この日演奏されたのは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第27番、第28番、第29番だが、ポリーニの変化を如実に感じ取れたのは、巨大な第29番「ハンマークラヴィーア」である。 この曲はポリーニが日本でも何度かきかせたことがある作品、という記憶があるが、この日は「うたごころ」に満ちた演奏だった、というべきか。 最終楽章のフーガのきかせ方など、かつてのポリーニらしいところもきかれたが、全体的には作品の構造を透けて見せるようなやり方というより、その瞬間瞬間で、もっとも効果的にきこえるピアノを弾いているように思えた。 第27番、第28番をきいたときに、何かいつものポリーニらしくない、居心地の悪さを味わったが、「ハンマークラヴィーア」をきいて原因が分かった気がした。 ポリーニをきいて、「打ちのめされた」感覚を味わわなかったことは、多分、初めてのような気がする。
私は、演奏家が変わってゆく過程を見ることは、大変興味深いことだと思っている。 だから単純に「ポリーニは変わった。もうだめだ。」などと言うつもりはないが、やはり今は変化の途上にあることを感じた。 人間は常に変化してゆくものだけれど、ポリーニの場合はかつての姿があまりにも完成されたものだったために、ついつい比較をしてしまう。
このやり方だったら、他にもっとうまい人はいる。 今はまだ、どっちつかずだ。
結局私は、この日の演奏会に、過去にきいたポリーニほどの満足感を得られなかった訳だけれど、絶賛する人がいても不思議ではない。 事実、聴衆の熱狂はこれまでと変わらなかった。
*NHK交響楽団 第1349回定期演奏会
1998年4月18日(土) 14:15〜 NHKホール
ウルフ・シルマーは、何年か前にウィーン国立歌劇場と一緒に日本に来て「こうもり」を指揮したのをきいた覚えがあるが、その指揮振りはあまり印象に残っていない。 今回、N響を指揮するために来日したが、私にとってこの人の音楽に接するのは、事実上初めての気分だ。 今月度のN響は若手指揮者に定期演奏会を任せているが、シルマーは若手と言うにはかなりの実績を重ねている指揮者のようだ。
モーツァルトの歌劇「魔笛」序曲で演奏会は始まった。 まあ普通の演奏だったが、中間部で奏された3つの和音の間の取り方が独特で、ゆっくり、丁寧に響かせていたことが耳を引いた。
サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番のピアノを弾いたのは、ジャン・フィリップ・コラール。 力強い打鍵による明確な音は、単に「フランス風」と言い切れない、様々な要素を持っているピアニズム。 第2楽章の軽やかさはしっかりと表現し、終楽章のやや悲劇的なアレグロ・スケルツァンドもまったく妥当。 とりたてて際立った何かはなかったが、音楽的な充実度は高い。 シルマー指揮のN響も、暗い色調の中で場面に応じて微妙なグラデーションを醸し出すような演奏で、コラールのピアノとよくマッチしていた。
メインの曲は、R.シュトラウスの家庭交響曲だったが、やはりこの演奏がシルマーの個性をもっともよくあらわしていた。 シルマーは緩急の幅を広くとり、きかせ所はテンポをぐっと落として、各声部を過不足なく浮かび上がらせた。 その手腕はかなりのもので、スコアを相当入念に研究していることをうかがわせた。 自分の持っている音楽的資質を、このようないい形でオーケストラにぶつけられたのは、N響が優秀なオーケストラであるからに違いない。 特にこの日は木管楽器が素晴らしく、音色、バランスとも最良のものであり、シルマーの指揮に完璧に応えていたようだった。 また、テンポの早い所は一転してオーケストラを煽り、情熱的なスタイルをとった。 実にメリハリのある、分かりやすい音楽が演奏され、シルマーの美点を聴衆にアピールするには充分な演奏会になったのではないだろうか。
これだけ変化に富んだ指揮に対し、アンサンブルの面でも破綻することなく、その状況においてベストの演奏を当たり前にできるN響も素晴らしい。 こういう若い指揮者を受け入れ、何を要求されてるかをきっちり理解し、そしてもしかすると要求以上の完成度を持った演奏ができるN響の実力は、正に一流オーケストラのそれだ。 今更、言うまでもないことだけれども。
*東京都交響楽団 第469回定期演奏会
1998年4月17日(金) 19:00〜 サントリーホール
ハイドンのオラトリオ「天地創造」は、古典派の作品の中でもロマンティックな側面を持っている曲だが、若杉弘の指揮はかなり思い切ってその側面に踏み込んだものだった。 これは現代楽器のオーケストラで演奏したから、という理由だけでは片づけられないものがあったように思う。
序奏の「混沌」からオーケストラは全開。 そしてそれは終曲に至るまで維持された。 とにかくオーケストラをカロリー過多ではないか、と思わせるほど鳴らし、劇的な表情付けを全曲にわたって施し続けた。 熱気溢れる演奏、と言えるが、第1部あたりまではこの熱気が空回り気味の感があり、オーケストラも少し粗かった。 しかし、第2部から第3部にかけて徐々にまとまりを見せ、若杉のこの曲に対する想いをききてに伝えていた。 各部の終結部の出来がもっとも優れていて、その迫力ある開放的な音楽は圧巻だった。
ただ、逆に全体的に一本調子だったような印象を受けたことも事実で、せっかくのロマンティックな表現なのだから、もう少しデリカシーが欲しいと思った部分もあった。 テンポは、このやり方をとるとすれば概ね妥当だったが、時として音楽が重くなってしまう瞬間もあった。 全曲が休憩なしで一気に演奏されたことも手伝ってか、きいていて少し疲れた。 この曲をきくたびに味わう、ある種の「爽快感」が希薄だったことは、このことと無関係ではなかろう。
独唱陣は、多少、出来にムラがあったが、全体的な印象としてはまずまずだった。 晋友会合唱団もよくまとまっており、若杉の手際のいい合唱の扱いで、この演奏の方向性と合致した、エネルギッシュな合唱をきかせていた。
終演後の聴衆の反応は、この演奏と同様にとても熱いものだったけれど、私の好みからすると、細部をもう少し引き締めた、それでいて温かい演奏をききたかった。 こういった方向へ向かった「熱さ」は、さほど重要ではない。
*読売日本交響楽団 第360回定期演奏会
1998年4月16日(木) 19:00〜 サントリーホール
<ショスタコーヴィチ・フェスティバル1998>の一連の演奏会の中で、この日のプログラムは他と毛色の違うものである。 それは取りも直さず、ショスタコーヴィチが「編曲」した作品が2曲演奏されるからだ。 ショスタコーヴィチ一色のこの音楽祭の中で、ほんの少し、他の作曲家の色が混ざるのが、この演奏会である。
まずシューマンのチェロ協奏曲のショスタコーヴィチ編曲版。 芸術祭総監督のムスティスラフ・ロストロポーヴィチがチェロ独奏を受け持った。 シューマンの原曲は、ほの暗いロマンティシズムに満ちており、どちらかと言えば深く沈潜してゆくような曲だが、ショスタコーヴィチが編曲すると、一転して明るく、という訳にはいかないにしても、かなり派手な管弦楽法を用いている分、オーケストラが開放的に響くはずである。 ロストロポーヴィチは正に悠揚迫らぬ、堂々としたチェロをきかせてくれた。 しかし、シューマンの原曲を弾くときと、どのように音楽が変化しているのかはききとれなかった。 あるいはまったく同じ音楽を奏でて、よしとしたかったのかも知れない。 ショスタコーヴィチが編曲したのは、あくまでオーケストラ・パートであり、独奏チェロの音符は触っていないからである。 とすると、オーケストラだ。 沼尻竜典の指揮は手堅く、音楽のフォルムを崩すことのないものだったけれど、こういう作品である以上、ソロ・チェロと拮抗する場面がもっとあってもいいと思った。 ロストロポーヴィチは沼尻を信頼しているようだが、沼尻は見事すぎるほどこれに応えていたため、ショスタコーヴィチの編曲の妙を味わうというより、ロストロポーヴィチの安定したシューマンの演奏を違うアレンジできいた、という印象が前面に出てしまったような気がする。 難しいものだ。
ムソルグスキーの「死の歌と踊り」のショスタコーヴィチ編曲版は、メゾ・ソプラノのラリーサ・ジャチコワの独唱が素晴らしかった。 ジャチコワはこの曲を完全に掌中におさめており、テクストの一言一句をかみ締めるように、深い感情表現のもとでの名唱をきかせてくれた。 その集中力は弛緩する瞬間が全曲を通して皆無で、この曲から指揮をしたロストロポーヴィチの、やはり楽曲を知り尽くした指揮とともに、とても感心した。 特に弱音部における表現の幅の広さは、ジャチコワ、ロストロポーヴィチの両者とも、卓越したものがあった。 ショスタコーヴィチのオーケストレーションもムソルグスキーの曲に対する深い理解の上に立った、素晴らしいもの。 この日の演奏をきく限りでは、シューマンよりムソルグスキーの方に強い説得力を感じた。
最後は、ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」。 ロストロポーヴィチはこの曲では全体をしっかりと見通し、過度な表情付けを避けて、作品の音楽的本質を明らかにしようとしていたようにきこえた。 アタッカで演奏される全4楽章は、有機的な繋がりを失わず、それゆえこの曲の交響詩的な側面を存分に示していた。 それにしても読売日響の弦楽器セクションの立体的なアンサンブルはどうだろう。 先月、アルブレヒトできいたときも感じたことだが、この日も特に第1楽章の出だしのアンサンブルなど、ぞくぞくするほどだった。
*ホール・オペラ 「ナブッコ」
1998年4月12日(日) 18:30〜 サントリーホール
サントリーホールが主催して毎年催されている「ホール・オペラ」は、国内にまだ専用のオペラ劇場がなく、オペラのできるホールも限られていた(この状況は今も同じ)頃、苦し紛れにコンサート・ホールでオペラをやろうという試みに見えたのだが、なかなかどうして、これはこれで独特の良さをもった「オペラ公演」として定着した感がある。 今年はヴェルディの歌劇「ナブッコ」が演奏されたが、劇場のオペラとは別の次元で、とても感動的な公演となった。
キャストは世界的に見ても一流の歌手を揃えた豪華メンバー。 その中でも、この日の公演でまず第一にあげねばならないのは、ザッカリーアを歌ったベテラン、フェルッチオ・フルラネットだったことは、この日の公演をききにきた聴衆の間では異論がなかろう。 オペラが始まってすぐに歌われるアリア「望みを捨てるのではない」での輝かしくも深みのある歌唱で、すでに聴衆のこころを捉え、当夜の公演の成功を予感させてしまった。 その後も要所要所で歌われるザッカリーアのアリアは、いつも表情豊かで安定した歌唱であり、第3部終盤に歌われた「悩める者達よ、立ち上がりなさい」での力強い歌声は、忘れられないものとなった。 公演をきく前は、私の期待はむしろ他の歌手達にあったのだが、正直言ってフルラネットがここまでやってくれるとは思わなかった。 彼の存在感で、他の出演者が何度もかすんでしまいそうになった。
他にはアビガイッレを歌ったマリア・グレギーナが、やや一本調子のところもあったものの、この役柄をよく演じきっており、歌声もとてもパワフル。 ナブッコを歌ったレナート・ブルソンは、かつての艶のあるベルカントはやや後退したように思え、さすがに歳をとったな、と思わせたが、ナブッコの心理描写を歌唱に反映させる力は随一で、声の調子も尻上がりに良くなり、やはり印象深いナブッコをきかせてくれた。 イズマエーレのファビオ・アルミリアートや、フェネーナのエレーナ・ザレンバも高い水準の歌唱だったが、他の出演者たちに比べると印象は薄い。
この作品は合唱にきくべきものの多いオペラだが、合唱団に東京オペラシンガーズを配するという贅沢さのお陰で、「行け、わが思いよ、金色の翼に乗って」をはじめとする合唱曲において、(多少、大袈裟な言い方かもしれないが)もうこれ以上はないのでは、と思われるほどの素晴らしい合唱をきくことができた。
オムリ・ニッツアンの演出は、ステージ後方のスクリーンに映像を随時映し出すという、このスタイルではよく見る手段を中心にしたもの。 ステージ前方や客席までも使った演出はなかなか楽しかった。 バビロニア軍の侵入時にスクリーンに映し出された「げんこつ」は、バビロニア帝国の暴力の象徴として、バビロニア軍の合唱団の衣装にあしらわれ、第3部でナブッコの椅子(王座)として現れ、第4部では偶像として破壊される。 この「げんこつ」の絵の安っぽさには、少し辟易したけれども。
今年に入ってヴェルディのオペラを2つほどきいて、その指揮者やオーケストラに好意的な感想をこのページで述べた覚えがあるが、この日のダニエル・オーレン指揮の東響は段違いによかった。 ヴェルディの作品の中でも格別高い音楽性を持っているわけでもない「ナブッコ」を、まるでヴェルディ絶頂期の作品のように響かせていた。
あらゆる意味で、満足度の高い、素晴らしい「オペラ公演」だった。
*紀尾井シンフォニエッタ 東京 第14回定期演奏会
1998年4月11日(土) 18:00〜 紀尾井ホール
KSTの定期演奏会、今回は弦楽合奏曲のみで構成されたプログラム。 この日の曲目も盛りだくさんで、近現代の曲を5つ並べた。 こういったパターンのプログラムで行われるKSTの演奏会は、ひとつひとつの演奏は高水準であるにもかかわらず、全体的に散漫な印象を受けたことがしばしばあったのだが、今回は休憩を2回とり、3部形式で行なわれたため、シンメトリックな曲目配置がはっきりと浮き出てきて、一夜の演奏会としては極めてまとまりのある、ききごたえ充分のものとなった。 指揮はいつもと同じ、尾高忠明。
コンサートの中間部にあたる部分は、弦のロマンティックな響きを堪能できる曲を3つ。 ペルトの「フェスティーナ・レンテ」とマーラーの「アダージェット」はとても美しい曲だ。 これらは大オーケストラで演奏されたときのような、音の渦の中に巻き込まれるような陶酔感はなかったが、室内オーケストラの機能性をよく生かした演奏だった。 各奏者の音の運びがはっきりと分かり、まるでスコアが透けて見えるような演奏で、それでも「知」に走りすぎることがなく、心地よい陶酔にききてを誘う。 ハープを控え目に扱ったのも好ましい。
新実徳英の新作、「沈黙(しじま)へ」は、美しい部分が少なくなく、音響的にもステレオ感の強い作品だったが、一度だけきいた限りの印象を言えば、同じようなパターンの繰り返しが少し冗長な気がした。
コンサートの両端に置かれたいわゆる「編曲もの」で、KSTは密度の濃い演奏をした。 はじめのベートーヴェン=マーラーの弦楽四重奏曲第11番では、KSTの自主性の高い弦楽合奏が音楽に活気を与えて、とても若々しい、緊張感に満ちた音楽になった。 弦楽四重奏を弦楽オーケストラ用に編曲したものは、ともすれば原曲の構造を壊してしまうこともあるのだが、尾高が注意深く演奏を引き締めていたので、そんな失敗とは無縁だった。
最後のショスタコーヴィチ=バルシャイの室内交響曲も同じ。 ここでは更に、演奏に深みが加わり、ソロ・パートの出来も秀逸で、一瞬の弛緩もない、素晴らしい演奏になった。 「編曲もの」でここまでの成果をあげることは容易ではなかろう。 2曲ともKSTの張りのある弦楽合奏はいつもどおり。
「いいコンサート」は、「いい曲」を「いい演奏」で聴衆にきかせるだけでは成立しないようだ。 勿論、この日は「いいコンサート」だった。
東京都交響楽団 第468回定期演奏会
1998年4月10日(金) 19:00〜 東京芸術劇場
都響の新シーズン最初の定期演奏会は、前音楽監督の若杉弘の指揮。 例によって凝ったプログラムだ。
まずデュティユの交響曲第1番。 若杉はこの美しい作品の精密な構造に焦点を当てた。 と、言っても四角四面に演奏するのではなく、ひとつひとつの主題のどこに重点が置かれているかを見極め、その旋律を中心に音楽を組み立ててゆくやり方。 この曲の持っている、ある種の軽妙さは希薄になるが、瞬間瞬間にどの旋律に重点を置けばきれいにきこえるかを研究し尽くしたような指揮ぶりだ。 音楽の重心は下がってゆく。 この人がフランス音楽を振ると、何かドイツ的になることがあるのはおもしろい。 だからといって、ドイツ音楽が必ずしもドイツ的になるとは限らないのだけれど。
三善晃のヴァイオリン協奏曲の独奏者は、都響のソロ・コンサートマスターの矢部達哉だったが、このヴァイオリンは見事だった。 矢部もこの曲の繊細なロマンティシズムを充分に吟味し、それを骨太でかつ軽く、美しい音色を使って表現していた。 若杉のサポートも手慣れたもので、この作品を掌中におさめていることをうかがわせる名演奏。 こういった素晴らしい演奏できくと、日本の音楽作品もかなりの水準のものがあると感じる。 やはりこの曲は、三善の傑作であることを印象づけた。
ベートーヴェンの交響曲第7番の演奏をきき始めると、このコンサートに若杉が仕掛けたものが分かってきた。 デュティユのところで書いたとおり、主題となる旋律を明確にすることによって、曲のがっちりとした構成を浮き彫りにしようという意図が見えてくる。 三善作品も含めて、そのように演奏することによって、3曲の構成上の類似点がききとれてくる。 ベートーヴェンも柔らかい音で、管楽器に独特のデュナーミクやアクセントを目立たないように施し、表面的な印象とは裏腹の、かなり主張の強い演奏をしていたようにきこえた。 ただリズムが甘く、テンポ感も曖昧な箇所があったことは少し残念。 (特に第3楽章の中間部の前と後で、テンポが微妙に違っていたことには違和感を覚えた。)
演奏会場に来る前に、何だかとりとめのない組み合わせのプログラムだな、と思っていたのだが、こうして3曲を一夜のうちにきいてみると、しっかりとまとまった、ききごたえのある演奏会だったように感じるから不思議だ。 やはり若杉は並の指揮者ではない。
*NHK交響楽団 第1348回定期演奏会
1998年4月8日(水) 19:00〜 NHKホール
メシアンのトゥランガリラ交響曲はもはや「古典音楽」の範疇に入る作品になったのだろうか。 そんなことを考えてしまった演奏会であった。 常任指揮者シャルル・デュトワの指揮。
どうしてそうなのかは分からないが、トゥランガリラ交響曲は若手指揮者の登竜門として、有能な若い指揮者が取り上げることの多い作品のように思う。 私が過去に接した実演はたいがいそうだった。 気鋭の若手が、みずからの表現意欲のありったけをふりしぼり、音楽の形式とか、バランスとかいったものに多少目をつぶってでも、生気に満ちた演奏をくりひろげる場面に出くわすことが多かった。 結果的に思わぬ名演に出逢ったことも、しばしばあったりしたものだ。 しかしデュトワは若手指揮者ではない。 それどころか世界的にも成功している人だ。 フランス音楽に特に素晴らしい適性を見せてきていることは、今更言うまでもないことだ。 それで、どんな演奏になったか。
序奏の激しい低弦の唸りは、マーラーの第2交響曲の冒頭を思わせる音楽だが、デュトワはとてもスリムに響かせた。 この出だしの印象はその後、全曲を貫き通す。 フランス音楽の伝統的系譜の上にのったメシアンをきかせたのだ。 今まできいた若い人たちの、それこそ「討ち入り」のような勢いは希薄だ。 しかし逆に、今まで気がつかなかったこの作品の美点を数多くきかせてもらった。 オーケストラの咆哮はほとんどなく、バランスよく、実に滑らかに音楽は流れる。 音色もドビュッシーを思わせるところもあれば、ラヴェルを思わせるところもあり、この作品はフランス音楽であることを思い出した。 とても洗練されていて、メシアンの管弦楽法も透けて見えるようだ。 こうなると同時代の作品という意識も、私の中でかなり薄くなってくる。 これも一つのこの作品の解釈として、立派に成り立つものであろう。
独奏者について。 オンド・マルトノの原田節はいつもながらの余裕の演奏。 ピアノのピエール=ロラン・エマールは私がこれまで実演で接したこの曲のソリストとしては最高の出来だったように思う。 知的で、リズムや音の強弱、音色についても見事にはまった演奏だった。
デュトワのよかった点は、それでも決して説明的、分析的な音楽にならず、作品の持っている熱のようなものをしっかりと表現していたところだ。 ただこの凹凸の少ない解釈は、それが正しいものだと仮定すれば、メシアンの最高傑作と思っていたこの作品も意外に弱い面を持っているのかもしれない、などと考えてしまった。 それは、この演奏が、もう一歩で面白味のない演奏になってしまいそうだった、と思ったからだ。 また、私がこれまできいてきた、粗削りだけれど若々しくて生気のある演奏が与えてくれたインパクトに及ばなかったからだ。
いや、まだまだ歴史の浅い作品である。 色々な可能性が、今後のこの作品の演奏から引き出されてくるのだろう。 慌てて判断することで、音楽をきく喜びをひとつ失ってしまってはつまらない。
*東京都交響楽団 「作曲家の肖像 Vol.25 グリーグ」
1998年4月5日(日) 14:00〜 東京芸術劇場
都響は4月から新シーズンである。 指揮者陣の顔ぶれが変わり、プログラム誌には久し振りに「音楽監督」のポストが見られる。 都響は元々、優秀なオーケストラだが、最近になって一時期懸念された安定感の欠如が見られなくなり、かなりレベルの高い演奏をコンスタントにきかせてくれている。 この日の演奏会もとても充実したもので、このオーケストラが再び上り調子になってきていることを強く印象づけた。 大きな飛躍に向けての第一歩を確実に踏み出しているようだ。 グリーグの作品だけで構成されたプログラムを指揮したのは若手の注目株、沼尻竜典。
組曲「十字軍の騎士シグール」で沼尻はオーケストラを存分に鳴らし、旋律をよく歌わせ、歯切れのいいリズムを刻み、グリーグの音楽に対する自らの考えを明確に示した。 スケールが大きく開放的なサウンドは、それでいて散漫にならず、求心力の高い音楽を実現していた。
この日のプログラムでもっともよく知られた曲であるピアノ協奏曲は、やはり大変有望なピアニストである田部京子をソリストに迎えた。 田部は定評のあるテクニックに裏付けられた、魅力的なピアニズムで演奏を引っ張って行く。 沼尻と都響との呼吸もとても良く、瑞々しい演奏はこの作品にとってふさわしいもの。 沼尻の導き出すオーケストラの音が、勢いあまってピアノの音をかき消す瞬間もあったが、それとて生き生きとした音楽の前では悪い印象にはつながらない。
圧巻は最後に演奏された、4つの交響的舞曲だった。 開放的なサウンドはこの曲でもきかれたが、更に磨きがかかり、オーケストラは作品のタイトルどおり、シンフォニックな響きのする音楽をきかせてくれた。 各々の曲の性格を分かりやすく描き分け、緩急の幅を広くとってダイナミックでスケール感のある演奏。 その上アンサンブルやバランスも見事なもので、元来別々の4曲を、うまくまとめて、まるで交響曲を一曲きいたような、ききごたえのあるものだった。 アンコールで演奏されたホルベルク組曲からの前奏曲も、弦楽アンサンブルの響きの良さは変わらず、全曲ききたくなるようなものだった。 こういったある意味で難しいプログラムで、高い水準の演奏をした沼尻の手腕は相当なものである。 今後も注目していきたい。
北欧の美しいメロディーを堪能した、心地よい日曜日の昼下がりだった。
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