<コンサート きいて、みて>
1998年3月

主にクラシックのコンサートの見聞記です。感想を書いたもので、決して批評や評論ではありません。日付は下から上へ、順番に新しいものになっています。(文中の敬称は省略しています)
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*読売日本交響楽団 ゲルト・アルブレヒト常任指揮者就任披露演奏会
  1998年3月31日(火) 19:00〜 東京芸術劇場
 ゲルト・アルブレヒトが突然、読売日響の常任指揮者に就任すると発表になり、その就任披露演奏会が行われた。早くもオーケストラは高いレベルでの順応性を示し、管楽器に若干の傷はあったものの、弦楽器の立体的で精密なアンサンブルは特筆してよい。オーケストラ側の期待が如実に表れた演奏会で、今後の可能性を感じさせた。プログラムはドイツの大作曲家の手による不朽のハ短調交響曲がふたつ。これを見ただけで、相当の意気込みでこの指揮者を常任に迎えた読売日響の姿勢が見える。
 ベートーヴェンの交響曲第5番で演奏会は始まった。かつての独墺系の大指揮者たちがこの曲に見出した文学的要素を洗い流し、極めて純音楽的なアプローチで演奏された。アルブレヒトは全体的にかなり速いテンポ設定を施し、音楽そのものが持っているドラマをありのまま語らせた。思わせぶりなデフォルメは一切なし。しかし音楽的な充実度はとても高く、一気にきかせてくれた。こういった表現方法をとると、響きが薄くなったり、あっさりしすぎてしまったりする演奏もあるが、アルブレヒトはきかせ所を適確に押さえているので、きく側の集中力を落とさせない。細部においては繊細なデュナーミクをつけていたり、きいたこともないアクセントがあったりしたけれど、これは使用版のせいだろうか。もしそうであったとしても、それがアルブレヒトの表現したいコンセプトと一致したものなのであろう。こういったベートーヴェンも私の中では強烈な存在感を持って、この曲をきく楽しみを広げてくれるものだ。
 もうひとつはブラームスの交響曲第1番。これもベートーヴェンと同じく、純音楽的なアプローチと言っていいだろう。しかしベートーヴェンほど徹底したものは感じられなかったのが正直な感想だ。これはアルブレヒトなりに作品のスタイルの違いを意識したものと想像するが、ブラームスの場合は、よりロマン派に近づいた解釈になっていたように思う。乱暴な言い方だけれど、アルブレヒトの美質である筋肉質な音楽と、妙に「普通」の音楽が無造作に同居してしまったような気がする。これらがもう少し上手く止揚化されれば、もっと感動的な演奏になったのだろうが、それはこれから指揮者とオーケストラがじっくり取り組めばよいこと。就任披露演奏会であるということで、表面的で中身のない歓声を浴びることを目的としなかったアルブレヒトの音楽家としての良心をむしろ評価したい。こんな風に思うのは、アルブレヒトが今後の方向性のひとつを、しっかりと示してくれたからに他ならない。
 アルブレヒトのことを、「ドイツの巨匠」などと評する向きもあるが、ブラームスの第3楽章のトリオできかせた、疾風怒涛のような音楽を耳にするにつけ、私はこの人に、もっとモダンで、「巨匠」などにおさまってしまわないほどの「何か」を直感的に感じてしまう。その「何か」を今後の読売日響との演奏会で見つけることができるだろうか。無論、大いに期待している。



*NHK交響楽団 第1346回定期演奏会
  1998年3月28日(土) 14:15〜 NHKホール
 常任指揮者としてすっかり定着したシャルル・デュトワの登場。協奏曲を中心としたプログラムだ。
 最初にロッシーニの歌劇「セビリアの理髪師」序曲。じっくりとロッシーニの明るいメロディーを歌わせた演奏だ。リズムは快活さをほどよく保ち、清潔で健康的な音楽。華やかさにも事欠かない。デュトワのロッシーニは初めてきいたが、もっときいてみたくなった。
 2曲目、マルタンの小協奏交響曲は、何だかつかみ所のない曲、の印象が強く、たとえデュトワの指揮できいてもその印象は変わらない。だがソリストたちの好演もあって何とか退屈せずにきくことができた。
 この日の演奏会の白眉は何と言っても、ブルーノ=レオナルド・ゲルバーを独奏者に招いて演奏された、ブラームスのピアノ協奏曲第1番であったことは間違いない。ゲルバーのピアニズムは、輪郭の明確な音で、ロマンティックな強弱、緩急をつけるもので、それは都響で演奏したシューマンと同じようなものだったが、この日のブラームスの方がはるかに説得力のあるものだった。全曲を通して素晴らしい演奏であり、この曲を初めてきいたときの感激を久し振りに思い起こさせてくれた熱い演奏だったが、とりわけ長大な第1楽章は大変にきき応えのあるもので、この曲に対するゲルバーの思いがひしひしと伝わってきた。楽想の変化のひとつひとつを、恐ろしいほどの集中力と情熱で弾ききって、何度も何度も、胸を締めつけられるような気分になった。無論、技術的にも非常に高度なレベルに達していたが、こういう演奏を耳にすると、音楽というものはただ上手に演奏すれば良いというものではない、ということを逆に強く感じてしまう。そういった意味でもゲルバーは、真の「演奏家」であることを再認識した次第である。デュトワとN響も、曲が進むにつれてソリストの意欲に応えるかのような、熱の入った演奏をきかせてくれた。
 ところで昨年12月の、デュトワ登場時の定期演奏会から、NHKホールのステージ上のオーケストラの位置を客席寄り前方にもってきたN響は、今回の定期でさらにオーケストラを前の方へ配置したように見えた。このことによって直接音がより届きやすくなって、音の分離が明確になったが、音の「奥行き」とか「厚み」といったようなものが後退し、悪い意味で淡白になってしまったようにきこえたことが、少し気にかかる。(弦楽器群が時折見せたアンサンブルの乱れは、このことと何か関係があるのだろうか?) 何しろ広いホールだから、席によってきこえ方が違うだろうし、私の席(1階席右寄り)あたりだけのことなのかもしれないので、一度きいただけで良し悪しを判断するのは早計だろう。いずれにしても、よりよい音を目指しての試行錯誤が繰り返されることは仕方のないことだけれど、できるだけ早く、安定したN響サウンドをきかせてくれるポジションを見つけてほしいものだ。



*新日本フィルハーモニー交響楽団 特別演奏会
  1998年3月22日(日) 14:00〜 すみだトリフォニーホール
 ムスティスラフ・ロストロポーヴィチが芸術総監督を務める<ショスタコーヴィチ・フェスティバル1998>のオープニング・コンサートである。ショスタコーヴィチが生前、自ら組んだプログラムによる一連のコンサートの始まりだ。オーケストラ・コンサートはショスタコーヴィチからこれらのプログラムを引き出したロストロポーヴィチが指揮をする。
 オープニングらしく、交響曲第1番から。この曲はショスタコーヴィチの音楽院卒業作品だけれど、驚くべき完成度を持っており、学生の作品とは思えない名曲だが、そのことを再確認させてくれるような素晴らしい演奏だった。ロストロポーヴィチは音のダイナミクスをフォルテ側に片寄らせたいつもどおりの指揮だが、きびきびとしたテンポを保ち、この才気溢れる作品の、刃物のような鋭い部分部分を見事に拾い上げていた。緩急のつけかたも適切で、勿論、情熱的なものにも事欠かない。偶数楽章が際立ってよく、特に第2楽章のスリリングな運びは忘れ難いものとなった。オーケストラも危ないところはあったにせよ、それがまたスリルを生んで緊張感のある演奏をしていた。
 後半は、歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」のさわりをいくつか。2つのアリアを歌ったニーナ・パヴロフスキは中低音がとても明瞭で美しいが、高い音は少し余裕がない。何よりもカテリーナを歌うには声質が明るすぎないだろうか。声量は充分だったので迫力はあったけれど、アリア2つだけをきいただけでは、どんな歌手だかよく分からなかった。その後、5つの間奏曲が演奏されたが、ストーリー順ではなく、演奏効果があがるように順番を入れ替えたと思われるもの。「組曲版」という言い方もできるけれど、オペラの間奏曲を並べただけという事実は動かせない。これらの間奏曲は、あの強烈なオペラの中にあって初めてその意味合いの深さが分かるように出来ているので、こういう風な形で演奏しても、なかなかききてに満足感を与えるのは難しいだろう。ロストロポーヴィチの指揮の特徴とあいまって何だか派手なデモンストレーションのような演奏になってしまったのは、いた仕方のないところかもしれない。



*東京都交響楽団 第467回定期演奏会
  1998年3月20日(金) 19:00〜 サントリーホール
 3年間、都響の首席指揮者の任にあった小泉和裕が今シーズン限りで退任する。首席指揮者としての最後の定期演奏会になった。
 シューマンの「ゲーテの<ファウスト>からの情景」序曲は、よくきいてみるととても複雑な音響構造をもっている曲だが、小泉はオーケストラを充分に鳴らし、快活な演奏。アンサンブルもよく整っていて好調な滑り出し。
 同じ作曲家のピアノ協奏曲はロマン性を強調した個性的な演奏。それはソリストのブルーノ=レオナルド・ゲルバーの解釈によるものと思われた。ゲルバーは思い入れたっぷりのルバートを多用し、音楽を大きく伸縮させる。その割には音の輪郭は明確でメリハリもある。ベートーヴェンではこの特性を生かした演奏が、ひとつのスタイルとしてかなりの成功をおさめているが、シューマンの場合は少し違和感を覚えた。元々この曲はロマンティックに出来ているので、演奏に必要以上のロマンを加味するとややくどくなって、時には音楽に停滞感をもたらしかねない。ゲルバーは自分の中でこの曲へのスタンスを明確にしているので恣意的だとは感じなかったが、それにしてもぎりぎりのところだ。小泉と都響はソリストを尊重し、よくつけていたと言えるが、全体的には満足感を今一つ得られなかった。
 ブラームスの交響曲第1番は、うってかわって小泉のやりたい音楽の方向性が表面に出た演奏。目新しい解釈や、奇を衒うような細工はなく、音楽を自然に呼吸させた秀演となった。どちらかと言えば古典派寄りの解釈で、重厚な音響を損なうことなく、混濁を慎重に避けた演奏で、とどのつまり美しい。この曲のききどころになる様々な部分はバランスよく整い、構成感も見事。若々しいブラームスとなった。これほどの有名曲になると、何かもうひとつ、つきぬけて欲しいと思うこともあるが、逆にこういった音楽作りが小泉の美質なのだろう。こういう指揮者もとても大切である。
 オーケストラにとっても指揮者にとっても、この3年間はある意味で難しい時期だったはずだが、小泉も都響も一定の成果をあげることが出来たと思う。この日の演奏がそのことを裏付ける最良のものだった。地味ながら小泉が都響に残したものは、新音楽監督を迎えて大きな飛躍が期待される次シーズンに花開くに違いない。そしてこれで終わりではなく、小泉は都響の首席客演指揮者として引き続きこのオーケストラと共同作業を行なうという。ほっとした。両者の、より一層の発展を心から望む。



*朝比奈隆&新日本フィル ベートーヴェン・チクルス W
  1998年3月16日(月) 19:00〜 サントリーホール
 このベートーヴェン・チクルスは後半になって朝比奈隆とオーケストラの気力が充実してきて、尻上がりにいい演奏会になってきた。今回は交響曲第4番と交響曲第7番という、(朝比奈が指揮すると)重量級のものだが、チクルス最上の演奏になっただけでなく、両曲とも近年、私が接した同曲の演奏で、もっとも感銘深いものとなった。
 両曲とも、第1楽章の序奏部がとても滋味あふれる演奏で、こういった序奏をきかされれば、いやでもその後の音楽に強力な集中力をもって引き寄せられてしまう。遅いテンポで、響きが豊潤。ひとつひとつの音を丁寧に処理し、それでいて音楽的な流れも自然で意味深い。もうこの時点で名演が約束されたようなものだ。
 第4番は、終楽章まで一貫して遅い。けれども、一時として緊張感をそがれることがない。音と音のつながり、そして間の取り方が自然で絶妙なためだ。いつもは「遅すぎる」、と感じる第4楽章も前の楽章までの流れを断ち切ることのない程度の遅さであったため、違和感はまったくなかった。中間のふたつの楽章も、とても滑らかで、明暗の対比がこの上なく美しい。オーケストラのもっとも良い状態を引き出していたように思う。
 第7番も同じ。リピートをすべて行なったのはいつもどおりだが、長さはまったく感じない。(この曲では特に、今までは、どこかしらで「長いな」と感じることがままあった。) 長大な第1楽章や第3楽章ををきいた後で、もう一度ききたい、と思ったのは、この指揮者の演奏では随分しばらく振りのように思う。第2楽章は形式を尊重したやり方が、かえってこの楽章の情感を美しく表現していたし、第4楽章の開放感は、巨匠のこの楽章の解釈の集大成をきかされたよう。
 どうにかこうして両曲の個別の感想を書いてみたのだが、われながらいつもにも増して歯切れが悪い、もどかいしい文章になってしまった。朝比奈の演奏会で感動すると、私の中にこういった文字どおり、「筆舌に尽くし難い」気持ちがおきるのである。このところ、朝比奈の演奏会に感動させられることが以前に比べると少なくなってきていたのだが、この日は、遅いテンポも、金管の派手な鳴りっぷりも、いきすぎたと感じることがなく、逆に必然性を持った自然さを感じた。アインザッツの乱れも少なかったように思うし、楽節の終結部の弛緩も今回はなかった。いつも朝比奈の指揮で気になっていたところが、見えなかったのだ。これは新日本フィルの状態がとても良かったせいもあろう。
 私はこのベートーヴェンが、唯一無二の、これ以外考えられない、最高のベートーヴェン演奏だ、とまでは思わないけれど、長年ベートーヴェンに真摯に取り組み続けてきた巨匠が、オーケストラと一体となり、ともに最高の気力で演奏に当たれば、それはやはり「音楽として」唯一無二の素晴らしい成果を上げられるのだ、とは言える気がする。幸せな一夜だった。



*若杉弘&NHK交響楽団 ブルックナー・チクルス −第3期第V回−
  1998年3月13日(金) 19:00〜 サントリーホール
 チクルス最終回。ホール内はほぼ満席の盛況。このチクルスは今回と、2年前の第8番のときに満席になったほかは聴衆の入りが悪かった。指揮者もオーケストラも企画もそんなに悪いものではないと思うので、これは少し不思議だった。チクルス全体を通して、「はずれ」のコンサートがなかったことは、とても素晴らしいことだ。敢えて言えば、メシアンのまだあまり知られていない作品を数多くきけたことはよかったが、ブルックナーの交響曲と組み合わせたことの意義が、どこまであったのかは解りづらかった。意欲的な企画であったかもしれないが、作曲者がカトリックの信者であったことによる音楽的な共通点は、少なくても私にとっては見つけにくいものだった。従ってこのチクルスは、コンサートの前半と後半のプログラムが分断されていた感があった。
 この日のメシアン作品は「輝ける墓」という曲。作曲者自身が破棄していたに等しいこの作品は、形式的にとても平易でききやすいもの。N響はそつなく演奏していた。
 メインのブルックナーは交響曲第9番。若杉弘の指揮はこの日も「うた」に力点を置いていたようだ。テンポは中庸だが、息の長いメロディーの部分はテンポを思い切って落とし、縦の線がくずれたり、リズム感が甘くなっても、たっぷりとうたわせていた。やはり美しい演奏だったというべきなのだが、反面この解釈が演奏の欠点にもなっていたような気がする。それは音楽に停滞感をもたらしていたことで、この曲を総体としてとらえたとき、アンバランスさが気になってしまったのだ。(ブルックナー休止ではないところでの)長めのパウゼの多用が、この印象をさらに助長した。これはこの日のオーケストラの若干の乱れと無関係ではないような気がする。それに対してスケルツォ楽章は重心の軽い演奏で、これもまたちぐはくな印象を残した。個性的なブルックナー演奏と言っていいだろう。
 若杉はブルックナーの「うた」に焦点をあてる、独自の解釈を呈示してきた。その傾向はチクルスの終わりにいくにつれて(後期の曲になるにつれて、ではない!)より顕著になっていったことは極めて興味深い。だから今、チクルス初回の第7交響曲などを演奏すれば、恐らく当時と違った演奏になることだろう。若杉のブルックナー解釈の変遷を見るようなこのチクルスは、今後の彼のブルックナー解釈を占う上で、やはり示唆に富んだものだった。私はこの若杉のやり方に、まだまだ未消化なものを感じるのだが、それは必ずや次のステップへの大きな糧になるに違いない。その意味でも彼に継続的にブルックナーを取り上げて頂くことを望み、いつの日か超絶的な演奏を実現してもらえることを願ってやまない。
 この3年がかりの、一連の演奏会は、やはりとても重要なものだった。



*イツァーク・パールマン <ヴァイオリン>
  1998年3月8日(日) 18:00〜 サントリーホール
 イツァーク・パールマンの独奏会の名目だが、実際は彼の娘でピアニストのナヴァ・パールマンも出演しての協奏曲のコンサートだ。
 ナヴァはモーツァルトのピアノ協奏曲第21番を弾いた。彼女の音は、軽く、澄んでいて透明感のあるものだが、それ以上の特徴はこれといってなく、テクニック的にも万全なものではない。この日の演奏はそれでもまあ無難にこなしたと言ってもよいが、ソリストとしての魅力は発見できなかった。どんなピアニストなのか私はよく知らないけれど、あるいは不調だったのかもしれない。
 何と言っても当夜の主役はイツァーク・パールマンで、おだやかなベートーヴェンのロマンス第1番の後に演奏された同じくベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、私を含めた聴衆の期待を裏切らない、磐石の演奏であった。パールマンは持ち前の、明るくて健康的な美音を駆使して、まったく隙のない、無類の安定感をもった演奏を披露した。刺激的な要素はないけれど、この曲に万人がもっているイメージにもっとも近い表現方法できき手に感銘を与えることができる、というのは、やはり並大抵のことではない。名人にのみ可能な、正統的で上質の演奏だ。もうこのレベルになると、どこがどうだった、などということを言うのも無意味(困難?)な気がする。現在、実演できける、もっとも安心できるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲と言って差し支えないだろう。あまりの完成度に、感動することを忘れてしまうくらいで、この演奏の欠点を敢えて探せばそういうことになる。(正直に告白すると、この演奏をきき終わった後の私の心は意外に醒めていた。) パールマンは依然として健在である。
 サポートしたのは佐渡裕指揮の新日本フィルだが、佐渡は協奏曲の伴奏においては普段より大人しい指揮に終始した。相手がこれだけの大家であるなら仕方のないことだろう。むしろソリストにピッタリと寄り添い、好サポートをきかせたことは賞賛してよい。だけれども、この演奏会のオープニングに演奏されたベートーヴェンの序曲「コリオラン」では、この人らしい個性をしっかりと主張していた。



*東京交響楽団 第446回定期演奏会
  1998年3月7日(土) 18:00〜 サントリーホール
 毎年度末に声楽入りの大作を取り上げることの多い東響が、今年はベルリオーズのレクイエムを演奏した。指揮は秋山和慶。
 秋山のいつもながらの丁寧な音楽作りは、このような変則的な大オーケストラが相手でもまったく変わることなく、それが功を奏すことは過去の演奏をきいた経験上知っていたが、この日もとてもよくまとまった演奏をしていた。グロテスクな感じもするこの作品の細部に至るまで、秋山は目を光らし、大音響の山を無意味なものにすることもないので、きいていて自然に音楽に身をまかせられる。
 ホール四方に配置されたバンダに、3人の副指揮者を置き、アンサンブルの上で万全を期そうという意図なのかどうかは分からないが、この試みはあまり成功していたとは思えなかった。今までにもこの曲の実演を何度か体験しているが、こんな試みをみたのは今回が初めてだ。初めてと言えば、<ラクリモサ>の演奏後に休憩をとった演奏会も初体験で、これも首をひねってしまった。秋山は<ラクリモサ>にクライマックスを置こうとしていたようだ。それは音の重さを十分にとって、遅いテンポで念を押すようにシンコペーションのリズムを刻んでいたことからでも分かる。オーケストラも長めの音を多用して、重量感のある<ラクリモサ>だった。これはこの曲がレクイエムである、という当たり前のことを明確にきき手に分からせてくれて、緊張感の頂点で曲が閉じられたのだが、その緊張感を持続しつつ、次の<オッフェルトリウム>へ入っていくのがやはりこの曲のコンセプトと照らし合わせても妥当だと思う。事実、休憩後は少し緊張感がそがれた気がした。クライマックスとして築いた「ラクリモサ」の後に、聴衆や演奏者の疲れをとり、気分を新たにするための配慮だったのか。だとしても、やはり良い措置とは思えない。
 <サンクトゥス>でのソロはテノールの市原多朗で、貫禄があり深みのある歌唱だった。(冒頭の一節だけ、譜割りが変だった。なぜだろう?) 東響コーラスは優れたアマチュア合唱団であることに異論を挟むつもりはないけれど、もう少し余裕のようなものが欲しいと思うこともある。オーケストラは立派な演奏。



*新日本フィルハーモニー交響楽団 第260回定期演奏会
  1998年3月6日(金) 19:15〜 すみだトリフォニーホール
 佐渡裕の指揮に久しぶりに接したが、「静」の部分に新境地を、「動」の部分に従来の佐渡らしさを見出せた。結論を言えば、とても楽しいコンサートだった。
 「静」はフォーレ。組曲「ペレアスとメリザンド」で幕を開けたコンサートだった。弱音が非常に重要な役割を果たすこの曲で、佐渡はとてもきれいな音をきかせた。悲しくも儚い、と言うといささか安っぽいかもしれないが、それは確かに肉感的な弱音だったとでも言おうか。軽い音ではないのだけれど、きいている方が思わず吸い寄せられるような、本能的な感覚に訴えかけてくるような弱音を駆使して、耽美的ともいえる音楽を奏でた。まだ未消化に終わっている部分もあったが、なかなかここまで踏み込めるものではない。こういった曲でも、佐渡はしっかりと個性を発揮できるようになっていて、しかも今後この方向をどのように発展させてゆくのか、とても楽しみ。ピアノの児玉桃をソリストに迎えた「バラード」という曲は、小品で表面的にはさり気ない曲だけれど、音楽的におもしろいものもかなり含んでいる作品だ。それをどこまで表出できるかは、演奏家の腕次第なのだが、佐渡も児玉も、この曲に関しては今一歩という感。サロン音楽と紙一重のこの曲から、普通以上のものは引き出せなかったようだった。私は、この曲は大変な難曲だと思っていて、だからこそ演奏頻度が低いとも思っている。この曲を演奏するには、ふたりはまだ若すぎた、と言ってしまっては酷だろうか。
 「動」の方はプログラム後半のラヴェル。「ボレロ」は予想通り、一直線に盛り上げていった。速めのテンポで、必要以上に旋律をうたわせることなく、何よりも快適なリズムを保って、一気にきかせた。きかせ所ではダイナミクスの振幅を大きくとり、リズムやメロディーは崩さないところは、この作品の本質と合致していて、非常に好ましい。ストレートに興奮させられる「ボレロ」で、これもまた本能に訴えてくる。「ダフニスとクロエ」第2組曲は、音が生々しく、少し現実的に過ぎて、私のこの曲に持っているイメージとずれていたけれど、終始動的な演奏で、<全員の踊り>に至る頃には、オーケストラも白熱し、力でねじ伏せられてしまった。きいたあとの高揚感は相当なもの。
 佐渡はやはり、音楽を「感覚」に訴えかけさせる点で、とても才能のある指揮者だ。誤解を恐れずにあえて言うと、指揮者は棒の技術など二の次だ、ということを実証できる指揮者ではないかと思う。この人は本当にこれからが勝負で、行く末を見守ってゆくのが楽しみでもあり、少し恐くもある。



*東京都交響楽団 第466回定期演奏会
  1998年3月4日(水) 19:00〜 東京文化会館
 オール・メンデルスゾーン・プロ、と言ってもあまり演奏されない2曲で構成された演奏会。首席指揮者の小泉和裕の指揮。
 最初はメンデルスゾーンの「若書き」、弦楽のための交響曲第10番。出だしのアダージョはとても美しかった。都響の弦楽器群の美質が発揮されたが、アレグロの主部に入るととても堅実な演奏になった。この安定した流れは、終結部で加速するところまで続き、きっちりとまとめられたが、こういった曲ではもう少し踏み込んだ解釈をきいてみたい。この辺が小泉の持ち味でもあるのだろうが、少し安全運転しすぎた感がある。乱れはほとんどなかったが、若きメンデルスゾーンの才気のほとばしりは、あまりききとれなかった。
 だが、後半の交響曲第2番「讃歌」では、この小泉らしさがよい方に作用して、まとまりのないこの曲を退屈させないできかせてくれた。小泉はこの曲を古典派末期の曲としてとらえているようだった。過度のテンポの収縮や、強弱をつけずに、むしろきびきびとしたイン・テンポ基調の流れで、音楽的な緊張感を最後まで保ちきった。スケールも決して小さいものにならず、響きも厚すぎず、薄すぎずで爽やかだ。この作品もメンデルスゾーンの初期の作品であり、その若々しさが、今度はよく出ていた。合唱の晋友会合唱団は、いつもながらの好演で、ソリストはテノールの近藤政伸が不調だったけれど、女声ふたりはまずまず。この曲は作品としての出来は必ずしも良くないと私も思うが、メンデルスゾーンらしい、美しく溌剌とした音楽には事欠かないので、作品の弱さをカバーするためにいろいろ細工を施した演奏よりも、この日の演奏のような直截な演奏の方がかえって楽しめるものだ。空席がもっと埋まってもいい。
 ところで、この日の演奏と直接関係のないことだけれど、東京文化会館が4月から改修工事にはいるため、私にとってはこのホールと暫しのお別れだ。東京にホールが乱立している昨今、くせのない響きの東京文化会館の存在はやはり貴重だ。よいところは残すように、丁寧に改修して頂けたら、と願っている。



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