<コンサート きいて、みて>
1998年2月

主にクラシックのコンサートの見聞記です。感想を書いたもので、決して批評や評論ではありません。日付は下から上へ、順番に新しいものになっています。(文中の敬称は省略しています)
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*若杉弘&NHK交響楽団 ブルックナー・チクルス −第3期第U回−
  1998年2月28日(土) 19:00〜 サントリーホール
 ブルックナーのすべての交響曲を演奏しようとすると、初期の交響曲は鬼門になりえるのだが、若杉弘は上手に切り抜けた。一昨年の第3番、昨年の第2番に続き、今回の第1番を含んだプログラムは、きき応えのあるものになった。
 例によって最初はメシアンの曲で、この日は「神の顕現の三つの小典礼」という作品。弦楽器と打楽器中心のオーケストラに、ピアノ(木村かをり)とオンド・マルトノ(原田節)、そして女声合唱(東京混声合唱団)という編成のこの曲は、演奏時間がこのチクルスで演奏された他のメシアン作品の中で最長(30分強)だが、とてもききやすく、分かりやすい曲だ。それはメロディアスな作風と、いくつかの同じ主題やリズムが繰り返されるせいで、難解、晦渋なところはほとんどないせいだ。従ってテクストの内容の割には楽しめる曲で、若杉もこの作品をよくまとめていた。
 ブルックナーは交響曲第1番。この曲は後のブルックナーの作品に比べて、きき劣りのするものであることはいかんともし難い事実だと思うが、後期の作品の美感の萌芽が見え隠れする、大切な曲だ。この玉石混合で粗削りな曲を、若杉は歌謡性に傾斜した解釈できかせた。とにかく、うたう。多少テンポがファジーになっても、うたうことを優先させる。これまでのチクルスでも若杉はブルックナーの「うた」に焦点をあて続けてきたが、この日は特にうたっていた。これは第1交響曲にも後期の交響曲のような美しさが見つけられることを示す手段なのだろうが、結果的にはそれによって作品の弱さをカバーすることが出来た。このような解釈ではアダージョ楽章が最も優れた演奏になるはずなのだが、意外にもこの楽章の冗長さをかえって強調してしまったように思えた。しかしスケルツォ楽章やフィナーレは、うたわせるためにとったと思われる、遅目のテンポが功を奏し、これらの楽章の緩徐部を際立って美しいものにしていた。N響も開放的なサウンドをホールに響かせておきながら、雑にならないところはさすが。堂々とした威容をもって全曲が閉じられたとき、私は充足感を覚えた。
 ブルックナーの第1交響曲で、これだけの演奏に実演で接することは、やはりそうそうあることではない。



*朝比奈隆&新日本フィル ベートーヴェン・チクルス V
  1998年2月26日(木) 19:00〜 サントリーホール
 朝比奈隆と新日本フィルハーモニー交響楽団のベートーヴェン・チクルスの3回目。交響曲第6番「田園」と交響曲第8番という曲目で、この順番で演奏された。特に第6番は、このチクルスの中でもトップ・クラスの演奏になった。
 朝比奈は年齢を重ねる毎に、演奏する曲自体が持っている多様な要素を出来るだけ客観的に、数多く再現しようとする意図が深まって、それに比例して遅いテンポをとることが多くなってきている。それが時々音楽を混濁させたり、重くしたりすることもあるのだが、たまに自らの演奏姿勢を白紙に戻し、若々しい表現をすることも最近になって見受けられるようになった。この日の第6番はそんな演奏だった。第1楽章から中庸のテンポをとり、音の一つ一つの積み重ね方もとても見通しのよいもの。音楽の流れも極めて自然で、それはそのまま第2楽章にも当てはまる。第2楽章はロマンチックだった。と、言っても朝比奈のことだから変な小細工など一切なく、当たり前に音を出させているだけなのだが、中間部での驚くほどの繊細なピアニッシモは、後ろ髪を引かれるような哀愁すら漂わせ、この人の新しい境地を感じた。(それにしても90歳近くになって、なお新しいものを聴衆に呈示してくるなんて、まったく驚異的だ。) 第3楽章から第4楽章への流れも重たいものはなく、本当に自然。第5楽章は朝比奈がこの曲の中でいつも最も表現意欲をそそられている所だと想像するが、この日はそれより前の楽章での自然な流れを受けているだけに、いつもながらの清浄感をもった演奏の説得力はより一層強いものとなり、名演となった。これまで朝比奈でこの曲をきくたびに思っていたのだか、ベートーヴェンを得意とする彼でも、私は「田園」だけはちょっと違和感を感じていた。朝比奈の「無骨な」(勿論、こんな単純な言葉だけで彼の音楽を言い表すことは出来ないのは承知しているが)音楽には相性が悪いのでは、と勝手に考えていたのだが、その考えも改めねばなるまい。更に言えば、新日本フィルは元来、非常に透明感のあるサウンドを持っているオーケストラであり、今回は朝比奈がオーケストラの自主性の上に、自分の解釈を上手くのせていった事が好結果に結びついたのではないだろうか。
 後半の第8番も実にさり気なく、堂々とした演奏。基本的にはイン・テンポでの朝比奈らしい演奏は、この曲ではとても好ましい。朝比奈はこの曲を「大シンフォニー」と位置づけているようだが、かといって音楽が不必要に重くなることもなく、こういったやり方での最右翼の演奏と言っていいだろう。ただ第4楽章だけは、さながら「巨人の行進」のような、恰幅のある(本来の朝比奈らしい?)演奏だったが、今回は音と音との隙間が気になって、やや緊張感が後退するという皮肉な結果になった。しかし、それとて私が出来るだけ冷静に、かつ客観的に考えた感想に過ぎない。



*藤原歌劇団 「ラ・トラヴィアータ」
  1998年2月21日(土) 18:30〜 新国立劇場 オペラ劇場
 藤原歌劇団のレパートリーと言っていいヴェルディの「ラ・トラヴィアータ」が、今年は新国立劇場でも上演される。この日が初日。さすがに安定感のある、充実した公演になった。
 大きな収穫は、ヴィオレッタを歌ったクリスティーナ・ガッラルド=ドマス。素晴らしいヴィオレッタにまた出逢えたことを喜ばしく思う。声量も充分、弱音も美しい。そしてドラマチックな声とリリカルな声を併せ持っていて、的確に使い分けることの出来るソプラノ歌手だ。まだ若い人のようだが、この人はオペラ界の逸材ではないだろうか。ヴィオレッタはヨーロッパで彼女がさかんに歌っている役だそうだが、日本の聴衆にその存在をアピールするには充分なデビューとなった。容姿も美しく、演技も堂に入ったもので、最近のヴィオレッタはステージ映えがしないと物足りないのだが、その点からも一流のヴィオレッタの条件を備えている。ガッラルド=ドマスをきけただけで、今回の公演に足を運んだ意味がある。早くも次回の来日が楽しみだ。他の歌手たちも高水準。まずは過不足のない安定した出来だったように思う。
 指揮をしたマウリツィオ・ベニーニも、どうすればこのオペラの演奏効果が上がるかをよく知っている。音の強弱、テンポの緩急を幅広く、上手に使って、今、舞台上で何が起こっているかが音楽をきいているだけで分かる雄弁な指揮。なかでも特筆すべき特徴は、絶妙の「間」のとりかただ。これは音楽としてのオペラと、人が歌いやすいオペラの双方にこころをくだいているようで、歌手も気持ちよく歌える指揮だったのではないだろうか。この「間」で、私も何度となく胸が高鳴ったり、しめつけられたりして、音楽や舞台との一体感のようなものを味あわせてもらった。職人気質あふれる棒だ。東京フィルも立体感のある演奏で、とても立派。「ラ・トラヴィアータ」が一大叙情詩のような音楽になった。
 演出したのは、ベッペ・デ・トマージという人。カーテン・コールで盛大なブーイングを浴びていた。確かに、とってつけたような、分かりにくい演出もあった。一例だけをあげると、第3幕の幕切れで、ヴィオレッタが蝋燭の最後の炎のような生気を一瞬だけ取り戻す時、唐突に客電が明るくなってゆき、彼女が死んでゆく時にまた暗くなって、さて舞台上のヴィオレッタはというと、寝室の外(?)にある謝肉祭の花の残骸の一輪を手にとり、それをスポット・ライトの下で高くかざしたところで舞台が暗転してオペラが終わる、というような思わせぶりな演出があった。しかし、私個人の感想を言えば、それもブーイングを浴びせる程ひどいものや、センセーショナルなものでもない気がした。



*東京都交響楽団 第465回定期演奏会
  1998年2月20日(金) 19:00〜 サントリーホール
 アダム・フィッシャーが劇的なマーラーの交響曲第6番「悲劇的」を自信たっぷりに指揮した。終演後のホールは大変な拍手と歓声。そして指揮者と楽員たちの満足気な顔。
 A.フィッシャーはカッセルで「マーラー・フェスティヴァル」を主宰しているそうだ。この曲も得意のレパートリーのひとつなのだろう。マーラーの最高傑作とも言われることもあるこの作品を敢えて日本で演奏するだけに、周到な準備をして臨んだに違いない。ともすれば音の洪水になってしまいがちな両端楽章が、とりわけ印象深い出来だった。一言で言えば、マーラーの急進性に力点をおいた表現だ。激しい勢いで演奏されたのだが、冷静な視点を決して捨てず、複雑な旋律から旋律への歌の流れは、まるでこの曲を形作っている一本一本の糸を、丁寧に紡いでいるかのよう。マーラーの楽曲が持つ多面性をひとつでも多く表現しよう、という指揮者の意欲が感じとれた。ダイナミクスはややフォルテに偏っていたので、第2楽章のトリオ部や第3楽章では、もう少しデリカシーのある音色を望みたかった所もあったのだが、方向性がはっきりしているので、それもそんなに大きな不満材料にならなかった。また、そうした音楽作りの中で特筆すべきは、コンサートマスターの矢部達哉がきかせるソロ・パートのぞっとするくらいの美しさであり、それがこの演奏の幅を広げていたように思う。
 A.フィッシャーはどうやら表面的な過激さの中に、高いレベルの音楽性を維持しようとするしたたかさを持った人のようだ。
一週間前の演奏会できいたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲での過激さは、ソリストのテツラフの解釈に歩み寄った結果だと思っていたが、今日のマーラーをきいた限りでは、あながちそうとばかりも言い切れない。あれはA.フィッシャーが主導権を握っていたのかもしれない。(余談だが、弟のI.フィッシャーも昨年、ブラームスのシンフォニーでこういった、過激だけれど味わい深い演奏をしていたことを思い出した。) この人の、もうひとつの得意なレパートリーであるハイドンもきいてみたくなった。
 それから都響。演奏に軽い傷はあったけれど、このオーケストラはマーラーの語法を体で理解している日本で屈指のオーケストラであることを改めて誇示した。ここ10年で、マーラーの交響曲全曲演奏を2回も行なっていることは、思っていた以上にこの楽団の大きな財産になっているようだ。



*ベルリン・ドイツ・オペラ 「ばらの騎士」
  1998年2月15日(日) 15:00〜 神奈川県民ホール
 今回のベルリン・ドイツ・オペラ日本公演の千秋楽はR.シュトラウスの「ばらの騎士」の横浜公演。これもゲッツ・フリードリッヒ総裁の演出だ。この演出のコンセプトはどうやらマルシャリンの「みんなただの茶番劇」という言葉が基本になっているようだ。すなわち、第3幕のパントマイム(これは主要な登場人物とはまったく関係のない人々によって演じられる)は居酒屋の舞台の上で行われ、そこでオックスとオクタヴィアン、ゾフィーのドタバタが繰り広げられ、マルシャリンがおさめるという図式からもうかがえる。私はいつの間にか、これが喜劇の舞台上で演じられていることを忘れそうになるが、オクタヴィアンがゾフィーをとり、マルシャリンをすてるという出来事は、このオペラの中では現実なのだ。どこまでが現実で、どこまでが茶番劇なのかの境目をぼかすことによって、フリードリッヒは何かを訴えたかったのだろう。第1幕のマルシャリンの寝室が、他の部屋と大きなカーテンのようなもの(現実にはカーテンではない。舞台の上の方からつるされていたその紗幕は極めて象徴的だ)だけで仕切られていたのも、今にして思えばこのコンセプトを実現するための布石だったように思う。
 出演した歌手たちは、誰かが突出していたということもなく、とてもバランスのよい配役だった。マルシャリンのカラン・アームストロングは元帥婦人といっても、特別な存在感をあからさまに示すことをせず、ひとりの女性としてのマルシャリンを演じていたし、オックスのギュンター・フォン・カンネンは卑しい感じを極力おさえて、男爵としての知性をうかがわせるもの。オクタヴィアンのイヴォンネ・ヴィートシュトルックと、ゾフィーのフィオヌーラ・マッカーシーは声がやや細身だったけれど、若々しい繊細さは感じとれた。みんな控え目に、それでいてしたたかに、それぞれの役どころを押さえた歌唱だ。「タンホイザー」の時と同じような感想だけれど、この辺のバランス感覚によって、常設のオペラ・ハウスならではのアンサンブル・オペラを味わえた。
 指揮をしたのは首席指揮者のイルジー・コウト。昨年、N響を振った人だが、この日はまた別人のような入魂の指揮。何かこのオペラに特別の思い入れでもあるのだろうか、唸り声まであげての熱演。オーケストラもそれにつられたのか、時として合奏が荒かったり、耳障りな音を出したりしてしまっていたが、総じて生気に満ちた、気迫溢れる演奏をきかせた。ティーレマンの時より、コウトはオーケストラの自主性に任せた指揮をしていた。それが今回は、まあ好結果を生んだのではないだろうか。どちらのやり方が今のベルリン・ドイツ・オペラにとって本当に良いのかは、もう少し後になってみないと分からないことだけれども。
 それにしても「ばらの騎士」は本当に素晴らしい作品だ。私はこのオペラに初めて接した時から、作品全曲を、涙一滴もこぼさずにきき終えることは自分にとっては不可能に近いことではないか、と本気で思ってきた。今回、やはりその思いが正しかったことを再確認させられてしまった次第である。



*紀尾井シンフォニエッタ 東京 第13回定期演奏会
  1998年2月14日(土) 18:00〜 紀尾井ホール
 KSTの今回の定期は、「現代」を挟んで「古典」と「新古典」の小規模の作品をいくつか。まず清新なヘンデルの合奏協奏曲作品3−5で幕を開けた。相変わらずKSTの弦は美しい。尾高忠明の指揮は、このようなバロック音楽では流行の古楽器奏法を行わさせず、あくまでも現代楽器奏法を小振りなものにした感じ。たとえヘンデルであろうと、歌うところは歌う。しかし抵抗はない。
 次のテレマンのトランペット協奏曲も同様のやり方。ソリストとして招かれたオーレ・エドワルド・アントンセンは、とても達者なトランペットを吹くが、このテレマンはどこか、作品との間に違和感を持った。上手いのだが共感していないように感じた。
 レスピーギのリュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲は、音楽が少し重かった。オーケストラはきれいな音楽を作っていたのは確かだけれど、この作品に対しては少しカロリー過多ではなかったか。ここで1曲目のヘンデルを思い出したのだが、音楽の質感が2曲とも同じように感じられた。作品成立の経緯から考えれば、こうなることもあるのかもしれないが、一夜のコンサートの同じ土俵に上げるのならば、もうひと工夫欲しいように思う。
 再びアントンセンの登場で、ジョリヴェのトランペット、弦楽とピアノのためのコンチェルティーノ。これはテレマンで感じた違和感は覚えず、むしろ演奏者が共感しきった秀演だった。やはりアントンセンはレコーディングもしている近現代の作品の方が、まだ適性があるようだ。ジョリヴェのこの曲は10分程の小品だが、様々なドラマがおり込まれ、とても楽しい作品だ。楽しいと言えばアンコールでアントンセンが吹いたフリードマンの「ファンファーレ」(無伴奏)も変幻自在な作風で、楽しい。
 最後にストラヴィンスキーの「ミューズをつかさどるアポロ」が演奏されたが、これは名人揃いのKSTの弦楽器セクションがバリバリと弾いて、素敵な演奏に仕上がっていた。でも、もうひとつ何かが欲しい。結成後3シーズン目で、定期演奏会も13回目。そろそろこのオーケストラにもマンネリズムの波が押し寄せてきたのかどうかはよく分からないが、コンサートがパターン化してきた気がしなくもない。KSTの演奏会はいつも音楽をきく喜びの原点といったようなものを私に思い出させてくれる。それはこの日も同じだったけれど。



*東京都交響楽団 第464回定期演奏会
  1998年2月13日(金) 19:00〜 東京文化会館
 クリスティアン・テツラフで、これまでシェーンベルクと
先日のN響でのバルトークのヴァイオリン協奏曲をきいてきた。今回は遂にベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲をきく。今世紀の作品をとても楽しくきかせてくれたテツラフがベートーヴェンをどのように弾くか、興味津々だ。フタを開ければ、大変に刺激的なベートーヴェンだった。
 冒頭から速めのテンポをとり、この曲が潜在的に持っている「典雅」とか「優雅」とかいった部分には一切目もくれず、攻撃的な演奏が繰り広げられる。バルトークの時よりも、ある意味で現代的な解釈だ。例えばベートーヴェンが第3交響曲や第5交響曲できかせた、革命的というか、闘争的な部分がふんだんに表現されていた。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲はそういった要素から最も遠いところにあるものだ、と思っていた私にとって、新たな発見をたくさんもたらしてくれた。音の切れ込みは鋭く、速い所はとことん速い。バルトークであれだけ美音をきかせていたテツラフがベートーヴェンでは多少の音の汚れは厭わず、厳しい音楽を作ったのは予想外のことであり、また充分想像できたことでもあった。アダム・フィッシャー指揮の都響もソリストと拮抗する形で応じたものだから、スリル溢れる演奏となる。第1楽章のティンパニ付きのカデンツァ(誰の作? これが例のピアノ編曲版のカデンツァか?)や、第3楽章では通常カデンツァの入らない、音楽の切れ目の部分でソロを長めに弾いたりと、これまできいたことのない試みもあって、息をつく暇もない。私はこのベートーヴェンに戸惑い、感心し、そしてやはり、楽しんだ。へたにこのような解釈をきかされると辟易するものだが、テツラフの演奏をきいた後には爽快感すら残るのは、彼の音楽が深い裏付けの上に成り立っているからだろうか。この日もアンコールに「現代的な」バッハの無伴奏曲が2曲、演奏された。
 後半は、A.フィッシャーが得意であると思われる、バルトークの管弦楽のための協奏曲。前半のヴァイオリン協奏曲の勢いがそのまま持続したのか、好調な演奏だった。今度は指揮者の出番、とばかりに、A.フィッシャーは堂に入った解釈をきかせ、極めて安定度の高い、きいていて安心できる演奏になった。特別に変わったことはしていないのだが、やはりこの曲の独特のアクセントや音色感はきっちりと表現していた。オーケストラも全般に好調で、各パートはそれぞれの持ち役をしっかりこなしていた。あのようなベートーヴェンの後には、こんなバルトークがいい。



*ベルリン・ドイツ・オペラ 「タンホイザー」
  1998年2月11日(水) 17:45〜 NHKホール
 ベルリン・ドイツ・オペラは今回、ワーグナーの作品を2演目持ってきている。私は「タンホイザー」をきいた。使用版は「パリ版」に拠っていたようだ。指揮のクリスティアン・ティーレマンは、
オーケストラ・コンサートのときと同様、序曲から細かいアクセントや音の強弱の指示を出し、相変わらずだ。ただ、今回はオペラ。コンサートの時より、説得力があった。この人はやはりオペラの指揮者なのかも知れない。そうは言っても、昨秋、バレンボイムがベルリン国立歌劇場できかせたような求心力にはまだ及ぶべくもない。ベルリンのオペラ・ハウスだということだけで、こんな比較をすること自体、無意味だろうけれど、ティーレマンは音楽総監督になってまだ最初のシーズンだし、何よりもまだ若い。歌劇場の共感を得て、これらを掌握するには、まだ時間がかかるだろうし、彼ならそれができるだけの実力があると思う。次回の来日に大いに期待する。
 ゲッツ・フリードリッヒの演出は、第1幕でヴェーヌスベルクに幾何学的な赤い電飾を施したり、第2幕の幕切れで歌合戦の大広間を、タンホイザーと、彼を非難する人々の間で上下に2分割したり、また第3幕ではローマ帰りのタンホイザーに「schuldig(有罪)」という札を持たせてみたりと、色々やっていたが、現代においてはそう衝撃的な目新しさは感じられず、むしろオーソドックスな演出に近いものであったような気がした。
 歌手陣はまず、ヴェーヌスのカラン・アームストロングが「官能的」な部分より「魔女的」な部分を強調したやり方。エリーザベトのエヴァ・ヨハンソンは、清純さよりもタンホイザーを守る女性の力強さに力点を置いていた。ヴォルフラムのペーター・エーデルマンは典型的な善人で多少頼りなげ。演出がどこまで介入しているか分からないが、それぞれにこれらのキャラクター通りの歌唱を繰り広げた。
 だが、何と言っても当夜の公演のレベルをひとつ上に押し上げたのは、タンホイザーのルネ・コロの功績が大きい。この役は彼の当たり役だろうが、それにしても見事だ。こんなタンホイザーは、そうちょくちょくきけるようなものではない。最大のききどころは、勿論第3幕の「ローマ語り」だが、ここは何という表現力だろう。歌も演技も、ローマから失意に満ちて帰ってきたタンホイザーそのものだ。コロは大ベテランの歌手で、ここの部分だけでも何百回と歌ってきたのだろうけれど、2時間以上の出番の後に、更に第1幕、第2幕以上の歌をきかせるところはもはや驚異的だ。少なくとも私には、彼に「衰え」というものを微塵も感じられなかった。オペラはやはり主役の歌手の出来が、公演の出来を大きく左右する。当然のことだけれども。
 こんなに素晴らしいヘルデン・テノールが、日本に忘れられない「タンホイザー」を遺し、引退しようとしていることは、とても寂しいことだ。



*NHK交響楽団 第1343回定期演奏会
  1998年2月6日(金) 19:00〜 NHKホール
 ホルスト・シュタインが帰ってきた。病に倒れ、しばらく日本に姿を見せなかったが、大手術の甲斐あって健康を取り戻しつつあるようだ。久し振りに接する彼の指揮ぶりは足元がおぼつかなく、アクションも小さくなったように見受けられたが、音楽的には完全復活とまではいかないまでも、衰えはどうやら最小限ですんでいる。まずは復帰を喜びたい。
 この日は渋いプログラムだったが、まずクリスティアン・テツラフを迎えてのバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番。テツラフはかつてクリーブランド管弦楽団とシェーンベルクの協奏曲をきいた時に、随分楽しかった覚えがあるが、この日のバルトークもとても楽しめた。テツラフは太い音色でヴァイオリンを鳴らし、それでいて決して汚い音にならない。音楽の読みは深く、然るにどんな時でも絶妙のバランス感覚を保ち、見事にこの難曲をまとめた。彼の美音はこのような晦渋な楽曲を抵抗なくきかせるのに、かなりプラスに作用する。シュタインとN響もソリストにぴったりついた好サポートを見せた。テツラフは今世紀の音楽を楽しくきかせることのできる、希有な才能の持ち主だ。アンコールではバッハの「無伴奏」から2曲を弾いたが、こちらはバッハを現代に引き寄せた、独特の演奏をきかせ、興味深かった。
 後半は、リストの「村の居酒屋の踊り(メフィスト・ワルツ)」と、交響詩「レ・プレリュード」が演奏されたが、これらの曲は私には、音楽的になんて言うことのない曲のように思える。だが、シュタインは充分に音の「長さ」と「重さ」を保ち、スケールの大きな、雄渾な表情を見せ、充実した出来映えとなった。幾分、統率力に陰りの見えたシュタインだが、N響が指揮者の意図を積極的にくみ取り、潜在的に持っている強靭な合奏力できき応えのある演奏に仕上げていた。やや陳腐な言い方になるかもしれないが、「指揮者とオーケストラの幸福な関係」は、ここにも確かに、ある。



*ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
  1998年2月3日(火) 19:00〜 サントリーホール
 クリスティアン・ティーレマンは前回のベルリン・ドイツ・オペラの来日公演でも指揮をしたのだが、この時はききに行かなかった。だから、私にとってこの指揮者を初めてきくことになる。今回は
オペラ公演にも足を運ぼうと思っているが、その前にコンサートが先になってしまった。オーケストラの配置は既に彼のCDでお馴染みのヴァイオリンを両翼に振り分けた対向配置である。
 1曲目は当初ブラッヒャーの「協奏的音楽」と発表されていたはずだが、フタを開けてみればR.シュトラウス「祝典音楽」に変わっていた。いつ変更の発表があったのか知らないが、いずれにしても私にとってきいたことがない曲なので、よく分からなかった。1940年に日本政府が依頼してシュトラウスが作曲したものである、というエピソードは知っていたが、こんな形で出逢うことになるとは思ってもみなかった。
 次にベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。第1楽章の序奏部からして既に表現意欲旺盛な演奏をしたティーレマンだが、ソリストのエリザベス・グラスは音の線は細いものの、指揮者に負けない程、意味ありげな演奏に終始した。ティーレマンのような指揮者が協奏曲を演奏すると、ソリストはさぞ大変だろうと思っていたのだが、結果は破綻もなく、音楽性の方向が一致した、ひねりのきいた演奏が展開された。ソリストの選択という意味では成功していたように思う。
 当夜の目玉は当然、ブラームスの交響曲第1番なのだろうが、これはティーレマンらしい演奏だった、と言うべきか。彼の指揮ぶりは、見た目に決して滑らかなものではなく、棒を下から上へ突き上げるような(昔風な?)ものであったが、音楽も少し前の指揮者がよくやった浪漫的なものである。緩急、強弱の幅や変化が大きく、エキサイティングな効果を狙っているようだ。中でも第2楽章が緊張感溢れる美しさを出していたが、ヴァイオリン・ソロを弾いたコンサート・マスターが力みすぎていて興醒めなところもあった。一方、終楽章のホルンのファンファーレのように、伝統的なパッセージの変更を施さず、最近の若い人たちがよくやるような、原点に忠実な演奏をするあたりは今風だ。この自在な解釈にオーケストラは戸惑っていたのか、アインザッツの乱れをしばしば耳にした。少し、荒っぽかったかな。
 アンコールで演奏されたブラームスの「ハンガリー舞曲」第1番は、更に緩急の変化が激しく、きいたこともない音楽のように仕上げられていた。何だか少し疲れた。
 長いコンサートだったけれど、今回は面白かった。でも、この人にはこの先、まだまだ長い指揮者生活がある。



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