<コンサート きいて、みて>
1998年1月

主にクラシックのコンサートの見聞記です。感想を書いたもので、決して批評や評論ではありません。日付は下から上へ、順番に新しいものになっています。(文中の敬称は省略しています)
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*若杉弘&NHK交響楽団 ブルックナー・チクルス −第3期第T回−
  1998年1月27日(火) 19:00〜 サントリーホール
 このチクルスも最終年を迎えた。過去2年は非常に充実したコンサートを展開してきただけに、ますます楽しみだ。
 メシアンの作品との組み合わせもすっかり板について、この日は「天国の色彩」という作品からスタート。弦楽器は使わず、管楽器と打楽器、それにピアノという編成。(ピアノは木村かをり) 音楽は「メシアン・サウンド」をふんだんに盛り込んだ、煌びやかな印象がここにもあった。メシアンの音楽は私の耳に大概心地よく、好きな作曲家のひとりだが、この曲については、ほとんど予備知識がないため、楽しめたが具体的にどこがどう、とは言えない。ただ、こういった作品に接する機会を与えてくれるということだけで、このチクルスはすでに意義深い。
 ブルックナーは大作、交響曲第5番。これは「熱演」。正に「熱演」と言えよう。若杉弘はこの曲に何か思い入れがあるように感じた。それはいつにも増して大きい身振りと、細かい指示の自信に溢れた指揮振りを見ただけでも分かる。細部にわたって隙がない、というか曖昧なところが見つからないのだ。実に丹念に曲を把握し、自分の物にしている。オーケストラもこういった指示に適確に応じ、質の高いリハーサルを行ったことがうかがえる。しかし、この日に実現された演奏が、私の好みに合うかどうかは別問題だ。
 若杉はこの曲のがっちりとした構成と、ロマンティックな側面を同時に表現しよう、という極めて意欲的な演奏をしようとしていたようだ。それは、全体的にとられた遅めのテンポや、歌い込めそうな箇所でのルバートのかけ方からも感じられた。「ここでこんなことをしてしまったら、再現部で辻褄が合わなくなってしまうのではないだろうか」といった危惧も、しっかり杞憂に終わらせてくれるあたりは、ただ感嘆するのみ。だが「音楽」としての辻褄はどうなる。つまり、何か相反するものが同時に提示されて、感心はするのだが、逆に言うと、どっちつかずのような気がして、私には少々居心地の悪い部分もあったことは否めないのだ。例えばこれは、2年前にこのチクルスで演奏された第8交響曲と同じようなアプローチであったのだが、今回はその時ほど成功していたとは感じられなかった。要するにブルックナーの交響曲の中にあって、第5交響曲の独自性というもの(つまり、それほど強固な構成でできているということ)を図らずも再認識させられる結果となった。しかし、極めて意欲的で、また興味深い演奏であったことには違いない。
 若杉とブルックナーの第5交響曲との関係は、まだこれから先にもうひとつあるような気がする。そしてそれが実現された時、大変な演奏がなされるかもしれない。



*シュターツカペレ・ドレスデン
  1998年1月24日(土) 19:00〜 サントリーホール
 シュターツカペレ・ドレスデン(ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)は、独特の響きを持っている。この日の演奏会をきいてそのことをまず、再確認した。何というか、軽やかな弦の音と、少しくすんでいて深々とした管の響き。それがあいまって、このオーケストラ固有の何とも味わい深い音色が奏でられる、そんなことを感じさせてくれる数少ないオーケストラだ。響きだけをきいて、そのオーケストラをきく喜びを私に感じさせてくれるのは、この他にウィーン・フィルハーモニーくらいだ。指揮者はお馴染み、首席指揮者のジュゼッペ・シノーポリ。
 前半は、R.シュトラウスの交響詩「ツァラストゥラはかく語りき」。R.シュトラウスに思い入れの深いシノーポリはこの曲の「意味」を自分なりに消化し、分析的に再構築した。実に厳しい演奏で、この曲をこんなに厳格に演奏した例は他に知らないくらい。曲が本来、哲学的な内容だけに、こんな演奏はひとつの正しい形なのかもしれない。ここにはかつて、カラヤンがやったような「陶酔感」は希薄だ。しかし、シュトラウスの交響詩に、ぞっとするような美しさや耽美的なものを求めてしまいがちな私には、このシノーポリの醒めた演奏に、最後までどこか共感しきれなかった。同時に考えさせられた。もしかして、私のこの曲に対する姿勢は誤っていたのかもしれない、と。ともあれ、一筋縄ではいかない演奏であったことは確か。シノーポリの面目躍如といったところか。
 後半には、シューマンの交響曲第3番「ライン」。第一楽章から「いきいきと」という指示からやや離れ気味の、意味ありげなスタート。しかしこれはこのオーケストラの音色とマッチし、どこか寂寥感をもった、いい味があった。これが第3、第4楽章に至る頃には、切ない美しさを伴った素敵な演奏になった。そういえば10年程前に、彼の指揮でシューマンの第2交響曲をきいた時もこんな感想を持ち、忘れられないシューマンとなったが、その時のことを思い出した。シューマンの交響曲のきかせ上手はそんなにいないが、シノーポリにとって、シューマンはやはりマーラーと並んで、昔から取り組んできた核となるレパートリーと言えるだろう。
 この後、アンコールにワーグナーの楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」から第1幕への前奏曲が演奏された。これが素晴らしかった。最近流行の「見通しのいい」ワーグナーと一線を画していたのは、この指揮者にしては意外だったが、音楽が生気に溢れ、情熱的な演奏となった。オーケストラもこの曲でやっと全快になった感が強い。この曲でこれ程の演奏は(少なくとも実演では)今まで接したことがない。充足感で一杯になってホールを後にした。シュターツカペレ・ドレスデンの演奏会には、過去何度か足を運んだが、「おまけ」であるはずのアンコールで、ワーグナーの序曲、前奏曲が演奏された時、結果的にそれがそのコンサートのハイライトになってしまうことが多い、と感じるのは私一人だろうか。



*新日本フィルハーモニー交響楽団 第259回定期演奏会 
  1998年1月22日(木) 19:15〜 すみだトリフォニーホール
 高関健がベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」を振るときいたときから、ベーレンライターの新しい版を使うのだろうな、と予想をしていたのだが、果たしてその予想は的中した。今や高関は、この分野(版にこだわるということ)での我が国のオピニオン・リーダーであろう。ききてとしては、どの版を使おうといい演奏をしてくれればそれでいいのだが、高関はその点でも期待に応えてくれた。
 ベートーヴェンの交響曲なら版の違いはあっても、聴感上の違いは大してないだろうと思っていたのだが、実際はブライトコプフ版ではききなれないアクセントやデュナーミクが続出してたいそう面白かった、と同時に説得力も充分だった。これはひとえに、高関の功績が大きいと思われる。このコンサートで彼は指揮棒を一切使わず、素手で指揮をしたが、その表情のつけかたは、「棒が音楽を語っている」、いや「手が音楽を語っている」ようだった。オーケストラはこの指揮に敏感に反応していた。とにかく見ていて、何をしたいのかがはっきりと分かる指揮だ。テンポは総じて早め。贅肉は削ぎ落とされ引き締まった音楽が展開された。ここにはスケールの大きさや、「英雄」の雄大さといったものはない。しかし、それで音楽がつまらなくならなかったのは、細部がとことん磨き上げられ、各主題が有機的に再現されていたからだ。このバランス感覚は絶妙で、この曲の構成の緻密さがよく分かった。きき慣れているはずのこの曲だが、私に新たな発見をたくさんもたらしてくれた。オーケストラの配置で、このところ試行錯誤を続けているNJPだが、この日の配置は左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンで、コントラバスは管楽器群の後ろ、最後尾のひな壇に横一列というもの。これはNJPの試行錯誤の過程というより、高関の意志によるものだろう。各パートの分離がより一層、はっきりききとれた。また、彼はその配置を生かした指揮をした。高関は着実に力をつけている。随分といい指揮者になった。
 ベートーヴェンの前に、メゾ・ソプラノの白井光子をソリストに迎えて、ベルリオーズの歌曲集「夏の夜」が演奏された。(こちらは小編成の曲だけに、さすがにコントラバスがチェロの後ろにきていた。) 最初の「ヴィラネル」でオーケストラとの呼吸が合わなかったものの、白井は持ち前の美声をこのフランス語の歌曲集ときれいに溶け合わせ、尻上がりの好演となった。
 充実したコンサートだった。



*東京都交響楽団 第462回定期演奏会
  1998年1月21日(水) 19:00〜 東京文化会館
 都響1月の定期は、例年どおり『日本の作曲家シリーズ』で、今回は小山清茂作品集。今回のプログラムは私にとって全曲初めて耳にするものだが、小山はいわゆる「現代音楽」とは一線を画した、日本の民謡などを素材とした、メロディアスな作風の作曲家のようだ。したがって、音楽は同時代(現代)の他の作曲家に比べて非常に分かりやすい。しかし、同時に演奏会でまとめて曲をきいた時に、少し慣れすぎてしまい、きき手として緊張感を欠いてしまいそうになることもまた事実だ。何だか気持ちはいいのだが、悪く言えば何も残らない。もっともこれは、一度きいただけで判断することはできないけれど。
 管弦楽のための「信濃囃子」、テープを伴った管弦楽のための「鄙歌」第1番、管弦楽のための「鄙歌」第2番、交響組曲「能面」、管弦楽のための「木挽歌」が演奏された。この中では「能面」がもっともきいていて面白かった。
 指揮は矢崎彦太郎。この人は前回の都響の定期で、ロベルト・アバドの代役として、急遽、ストラヴィンスキー他のプロを振ったのだが、その時にオーケストラをいい意味で存分に鳴らし、成功を収めた。今回もオーケストラをよく鳴らし、曲への共感溢れる見事な指揮ぶりだった。



*新国立劇場会場記念公演 「アイーダ」
  1998年1月18日(日) 15:00〜 新国立劇場 オペラ劇場
 昨年10月にオープンして以来、色々と物議をかもしている新国立劇場に、遅ればせながら初めて行ってきた。「建」の失敗(と言っていいのかな)、「ローエングリン」も演出が今一歩、という批評をあちこちで見かけていたので、ヴェルディのこの一大スペクタクル「アイーダ」は劇場側としても「背水の陣」で臨んだのかもしれない。
 一言で言って「視るオペラ」の醍醐味を味わえた。その功績は演出のフランコ・ゼッフィレッリにあると言っていいと思う。「何を今更ゼッフィレッリ」という前評判が高く、一部のオペラ・ファンには必ずしも好意的に受けとめられていなかったのだが、誰が何と言おうと「自分のオペラはこれだ」とばかりに力でねじふせるような、贅沢尽くしの新演出だった。確かに解釈上での新機軸はまったくない。しかし、このグランド・オペラの最大公約数的な解釈を可能な限り拡大した演出として、評価をしていいと思う。ここまでやってくれると、もうこちらとしても、ひとまず難しいことを考えるのは後にして、楽しんでしまった。賛否両論は必至だが、私は自分でも呆れるほど素直に圧倒された。
 最大の見せ場は当たり前に約束されたように、第2幕第2場の「凱旋」となる。あれこれ言うのも馬鹿らしくなるほど、真正面から「凱旋の場」を見せてくれた。金のかけすぎ?無駄だらけ?エンターテイメント性が強すぎて芸術性に欠ける? 色々言うのは簡単だが、当日の観客の喜びようはどう説明しようか。この事実は「建」に対して浴びせられた嵐のようなブーイングと同様に、考えてみる価値のある問題を含んでいるのではないだろうか。ある意味でオペラの極めて正しい楽しみ方の一つをゼッフィレッリは提示してくれたのだと思う。この劇場の機構の優秀さをデモンストレートし、それを楽しんでいるゼッフィレッリの顔が目に浮かぶようだ。
 この日の出演者は、いわゆる「ウラ」側で、タイトル・ロールのノルマ・ファンティーニ以外は日本人キャストによる。ラダメスの水口聡が終盤にいくにつれ息切れ気味だったが、歌手たちはよくまとまっていたと思う。ガルシア・ナバッロ指揮の新星日響は、この舞台に対して、時としてもう少しスケール感のある表現を求めたくなる時もあったが、総じて好演だった。どの出演者に対してもブーイングは聞き取れなかった。
 新国立劇場は細かい不満を言うときりがないが、日本で初めてのオペラ劇場として、いい劇場だと思う。



*東京交響楽団 第444回定期演奏会
  1998年1月17日(土) 18:00〜 サントリーホール
 『モーリス・ラヴェル印象派の原像』と題されているように、今回はオール・ラヴェル・プログラムと言っていいだろう。指揮をしたフィリップ・アントルモンはこのタイトルどおりのコンサートを目論んだ。1曲目の「マ・メール・ロワ」組曲は洒落たフランス音楽そのものだった。オーケストラに常に余裕を与え、いたずらに声高にさせず、安心して音楽に身をまかせられた。「いい音楽をきいたなぁ」と感じる。
 次のピアノ協奏曲はアントルモンがピアノも弾いた。弾き振りなので、その分音楽の精度が落ちたが、そんなことより「ノリ」で勝負、とばかりにピアノとオーケストラの掛け合いが続く。ラヴェルがジャズに影響されてこの曲を書いたのなら、こういう風情もいいものだ。生演奏の楽しみを感じることができた。以上、前半の2曲はラヴェルの色彩感もそれなりに発揮されて楽しかった。
 こうなると後半の「展覧会の絵」もムソルグスキーのロシア的表現より、ラヴェルのオーケストレーションの妙を味あわせてくれる演奏になることは、はっきりと予測できる。しかし、休憩をはさんだ後、オーケストラは「魔物に憑かれた」としか言いようがない。冒頭、「プロムナード」のトランペットは派手に音を外し、「小人」の弦楽アンサンブルは揃わず、「ブィドロ」のチューバはメロメロ。「キエフの大門」にいたっては、釣り鐘がはずれて奏者が手に持って叩く始末。(当然、音はミュートされてしまっていた。) この様にミス、事故が続出では流石に楽しむどころではない。いくらなんでもこんなに下手なオーケストラではないので、これはもう気の毒としか言いようがない。まあそれを度外視したとしても、アントルモンは、通常はアタッカで繋げられるこの組曲の一曲一曲の間に、微妙なパウゼを置いたのはどういう意図だろう。このような演奏は初めてきいたが、私にとっては説得力不足であった。残念な結果に終わった。



*NHK交響楽団 第1341回定期演奏会
  1998年1月17日(土) 14:15〜 NHKホール
 ハンス・ドレヴァンツ指揮でオール・マーラー・プログラム。晩年の作品でまとめられた。ドレヴァンツは5年前、「サロメ」をN響できいた時、大変に感銘を受けたことを覚えているので、大いに期待して出かけた。まず交響曲第10番から「アダージョ」。ドレヴァンツはマーラーの様々な「不条理さ」を表出することをほとんどしない。いかにも純音楽的な表現で、流れは自然だ。マーラーのオーケストレーションの美しいところは色々なところで現れてくる。しかし同時にアンサンブルを整えることには無頓着のようにきこえるので、この方法だと何だか中途半端におもえる。うまくいったところは美しいのだけれど、マーラーってこれでいいのかな、と思ってしまった。この曲のクライマックスでもカタストロフは遂に訪れず、淡々と終わった。
 「サロメ」のときにそうだったのだけれど、こういういき方は声楽付きの劇的な作品に対しては、とても分かり易い表現になることがある。後半の交響曲「大地の歌」が始まったときにそう予感させるに充分な、快調な滑り出しを見せたが、それも終楽章の「告別」に至る頃にはかなり辛くなる。もともと私は「告別」はよっぽどの演奏でないと退屈してしまうのだが、今日も正直言って後半にいくにつれ退屈してしまった。「音楽」として成立しているとは思うのだが、その向こう側に何を仕掛けているのか、が見えない。マーラーでこれがないと、満足度はかなり後退してしまう。N響のアンサンブルはこのオーケストラにしては悪い方に属していたと感じた。指揮者が別の所に力点を置いているのなら、これでもいいのだろうが、前述のとおり、何を伝えたいのかがとうとう見えなかった。テノールのロバート・ガンビルは深く、太い声で、声量も十分。「大地の歌」ではキンキンしたテノールをきかされることが多いのだが、ガンビルはその点見事。アルトのドリス・ゾッフェルは貫禄すら感じさせる歌唱で、この曲を手の内にいれていることがはっきり分かった。



*バッハ・コレギウム・ジャパン
  1998年1月10日(土) 18:00〜 東京オペラシティ コンサートホール
 かねてから日本最高の古楽アンサンブルとして評判のBCJの演奏会に初めて行ってきた。
 この日の曲目は、バッハのクリスマス・オラトリオの第4部〜第6部まで。いわば「新年」向けのプログラムである。演奏は流石と思わせるもので、何よりもオケ、合唱とも響きが「澄んでいる」印象が強い。テンポも現代オーケストラより当然早く、キビキビとしたものだ。指揮の鈴木雅明は勿論この分野では、世界のトップクラスのひとだが、非常に自信にあふれた指揮ぶりできいていて安心できる。このホールのオープニングで「マタイ受難曲」を演奏した小澤征爾と、ある意味で対照的な解釈であったが、私にはどちらもとても楽しめる。ソリストの水準も極めて高く、ソプラノのモニカ・フリンマーのアリアが特に印象に残る。人気の米良美一も好演。古楽の分野のことは、あまり明るくない私だが、新春らしく楽しめたコンサートであった。



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