二〇〇二年八月七日。梅雨が明け、からっとした夏の熱気あふれる夜、七夕祭りの賑やかな灯りに見送られ、私は杜の都・仙台を発った。会社に入って三年目、嘘つきばかりの世の中に耐えきれなくなってきて、これではいけない、と思って取った長期休暇。気分一新、元気な自分に戻るため、貯金を叩いて決行した海外旅行だった。初めての海外への期待と不安を胸に、私が向かったのは欧州。イギリスから始まり、東欧を経てイタリアに終わる、気ままな一人旅だった。
香港経由でロンドンに到着したのは、翌八日の夜のこと。長旅の疲れで、ホテルに着くなりぐっすり眠った次の朝、私は「霧の都」の名が伊達ではないことを知った。煉瓦造りの街並みにたちこめる、乳白色の霧。一寸先が見えないといった類のものではなく、クラシックな街並みを柔らかい光が包み込むような、そんな不思議な風景だった。その中を、時計台の鐘の音がどこからともなく優しく響いてきて、私はそれに聴き惚れた。その後三日間の滞在の間にテムズ川や大英博物館も見たけれど、私の心に刻み込まれたロンドンは、この、異国の地で迎えた最初の朝の世界だった。もうしばらく滞在していたくなる気持ちを押さえて、私はロンドンを後にした。 ドーバー海峡をくぐって一路南へ。私が次に訪れたのは、パリの街である。「芸術の都」と呼ばれるだけあって、人も言葉もとっても優雅。自分だけ浮いているような感じもしたけれど、「外国だから当然」と気にしないことにする。私のパリでの目的は、美術館巡り。ルーブルに二日、オルセーに一日を費やして、古代オリエントからの様々な傑作の匂いを次々と肌で感じ取っていった。並ばずに入るための早起きは辛かったけれど、ルーブルもオルセーも、私はもう、大満足。毎日、帰りの地下鉄に乗っている間もしばらく興奮が冷めやらず、その日に見た作品たちを思い出してはドキドキしていた。どちらの美術館も十八歳未満は入場無料。思わずちょっとだけ若返ってみた三日間だったけれど、これだけ感じさせてくれるんだったら、お金を払ってもよかったかな。三日目は移動日も兼ねていて、パリを深夜発。光に浮かぶ凱旋門、煌くエッフェル塔。そんなパリの姿を目に焼き付けつつ、私は旅日記のページをめくった。 パリを出発してから実に二十時間。ひたすら東へ走った列車は、チェコの首都、魔法の都・プラハへと滑り込んだ。「宝石の都」「金の都」などの異名をあわせ持つ、百塔居並ぶ神秘の地。そして、私のあこがれのミュシャの故郷。プラハ城内の聖ヴィータ大聖堂内には、ミュシャのステンドグラスだってある。まさしく私のための観光地…なのだけど。ここでの出来事は、とーっても長くなるので、今回は省略。いずれまた、この辺のことを書く機会もあるだろうから、そのときまでのお楽しみ。ドイツ語、しっかり勉強しとけばよかった。 そんなこんなで思わずプラハに長居してしまったので、お金も時間もそろそろ限界。お金の方はクレジットカードがあるから多少はなんとかなるとしても、時間の方は、さすがにね。表面だけ撫でるのは嫌だから、回れるのはあと一都市ってところかな。残っている候補地は、音楽の都・ウィーン、水の都・ヴェネチア、花の都・フィレンツェ、そして永遠の都・ローマ。うーん、最後の一つ、どこにしよう。 一晩悩んだ末に私が選んだのは、水の都・ヴェネチア。アドリア海の花嫁とも呼ばれるそこは、しかし、今回の旅のしめくくりの地として期待していた以上の味わいを私にもたらしてくれた。街の隅々までくまなく編み込まれた運河に浮かぶ、黒いゴンドラたち。大きさもほぼ統一されているようで、どことなく小気味よい。「コンニチハ!」いかにもイタリア人らしい陽気な兄ちゃんが、停留してあるゴンドラの上からカタコトの日本語で話しかけてくる。これまでの旅でだいぶ元気を取り戻していた私は、早速値段の交渉に入り、三十分三万リラ(大体二千円くらい)で乗せてもらうことにした。路地裏のような狭い運河を通り、年季を感じさせる石造りや煉瓦造りの建物(どの建物も、出窓の花がとっても綺麗!)を眺めているうちに、どうにもこうにもうずうずしてきた。そう、私は生来、見ることよりもやってみることの方が大好きなのだ。今回の旅はただ見るだけのことが多かったから、いつの間にか欲求不満になっていたのかもしれない。早速、縞シャツの兄ちゃんとの交渉、第二弾! 旅の恥はかき捨てとばかり、精一杯かわいこぶっておねだりをして、ちょっとの間だけゴンドラを漕がせてもらった(とは言っても、もちろん彼のサポートつきではあったけれど)。そうしてしばらく貴重な体験をさせてもらった後、ゴンドラはもとの岸に戻り、ゆったりとした水上の旅は終わった。「チャオ!」お礼の投げキッスをしてゴンドラの兄ちゃんと別れたが、今になって思い返すに、さすがにこれはちょっと恥ずかしかったか。夜には、「アル・マスカロン」という有名な(その割には小さめの)レストランで、イタリア民謡のカンツォーネを聴きながらヴェネチアの食を楽しんだ。ヴェネチアの食の魅力は、何といっても新鮮な魚貝料理。日本にいた頃から狙っていたイカ墨のスパゲティはもちろん、相席のイタリア人が食べているのを見て思わず頼んだソリオーラ(魚介のミックスパスタ)と海鮮サラダも、私の舌とお腹を十分に喜ばせてくれた。 翌日は軽い朝食を取った後、旅の記念にエメラルドとマリンブルーのヴェネチアングラスをひとつずつ買って、そのまま空港へ。小さくなっていく街を眺めていたら、不覚にも目が潤んでしまった。もうちょっと、もうちょっとだけ、時間とお金が欲しかったな。 久しぶりの我が家に帰ると、田舎のおばあちゃんに頼んでいた「八つ橋」と、寺やら神社やら舞妓さんやら、千年の都・京都の魅力満載の写真が届いていた。あっ、わざわざ日付変えて撮ってくれたんだぁ。おばあちゃん、ありがとう〜。さぁって、これでアリバイもばっちり。明日から会社だ。頑張るぞっ! |
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