木曾義仲の合戦について紹介します。
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・・・と、いいつつ、まだまだ編集中です。すみません・・・。


合戦一覧表

保元の乱 保元元年(1156)7月11日
平治の乱 平治元年(1159)12月9日
小見の戦い 義仲旗揚げ初期の戦
会田の戦い 義仲旗揚げ初期の戦
伊那谷攻め 治承4年(1180)9月7日
横田河原の合戦 寿永元年(1182)6月11日
火打城攻め 寿永2年(1183)4月17日
般若野の合戦 寿永2年(1183)5月9日
倶利伽羅峠の合戦 寿永2年(1183)5月11日
篠原の合戦 治承2年(1183)6月1日
比叡山牒状 寿永2年(1183)6月10日
水島の合戦 寿永2年(1183)10月1日
法住寺合戦 寿永2年(1183)11月19日
宇治川の合戦 寿永3年(1184)1月18日
粟津が原の最期 寿永3年(1184)1月20日

◇◆保元の乱◆◇

保元元年(1156)7月11日。

◇◆平治の乱◆◇

平治元年(1159)12月9日。

NO.1 小見の戦い

NO.2 会田の戦い

NO.3 伊那谷攻め

治承4年(1180)9月7日。頼朝の挙兵を知った義仲が動いた。そして、其れを封じるため 平家が動く。宇治川合戦(同年5月27日・源頼政&以仁王×平氏)明けの平家側豪族、 笠原頼直(信濃守平維盛の曽孫)が800余騎で義仲追討に向う。 それを迎え撃ったのは義仲方の武将、村山七郎義直と、栗田寺別当大法師範覚の500余騎。 市原で合戦。はじめは頼直の勢力が強かったが、義仲側に片桐子八郎為安が援軍に駆けつけたこ とにより事態は変化する。為安が夜間に頼直の背後に回り挟み撃つ作戦を提案し、翌8日実行。 義仲側勝利。
「凡そ軍は敵の不意に出るに如くはなし。笠原が長途を迂回して押寄するに反し、味方は間道を
経て、直ちに彼れの根拠を襲ひ、焼討にする程ならば、勝利を得む事疑なかるべし。急げ殿原。」
義仲軍は権兵衛峠を超えて、伊那郡大田切郷へ。そして、笠原城を焼き討ち。頼直は越後の城助 長の元へ落ちる。義仲勝利。

NO.4 横田河原の合戦

寿永元年(1182)6月11日。本当は1181年9月に城助長が義仲追討に向うはずだった が、何と急死してしまったのだ。これは義仲にとっては非常にラッキーな事だった。 気を取り直して1年後、その弟資茂(助盛)が2万余騎で出発する。それに対する義仲軍は3千 余騎。千曲河畔の横田河原に陣を構えた。 平家進軍の情報を義仲は小県郡の依田城で聞いた。早速13日には応戦体制に。兵の数で圧倒的不 利に見えたが、馬で千曲川を渡り、木曾軍・佐久軍・甲斐武田軍の3手に別れての奇襲戦法で圧勝。 さらに、翌日14日には、平家の赤旗で偽装させた部隊を送り本陣を壊滅させた。

NO.5 火打城攻め

寿永2年4月17日。ついに平家本陣が動いた。三位中将維盛・越前三位通盛を大将として、10 万余騎の大軍で京を発った。この軍の中に、かの斎藤別当実盛がいた。 さて、この火打城(燧城)を守っていたのは、平泉寺の長吏斉明法師。義仲はそこへ仁科守弘を派 遣し、5千余騎で篭城させた。しかし、平家の大軍をまのあたりにしたとたん怖じ気づき、結局敵 に内応したため、城は安易に陥落する。火打城は義仲にとって越前の防衛線であったため、勢いに 乗じた平家軍はそのま加賀へ侵入し、北陸をじわじわと制覇していく。

NO.6 般若野の合戦

寿永2年(1183)5月9日。斉明法師はさらに平家側大将維盛に、義仲を封じ込め、越中の平 定する策を打ち立てる。加賀を席巻した平家軍は勢いづいていた。木曽軍はその勢いを警戒し、迎 撃体制を図る。まず先鋒として今井兼平軍6千余騎を発動。 兼平軍が平家軍と遭遇するのは、婦負郡の般若野。平家軍の先鋒は越中前司盛俊率いる5千余騎。 戦となればその才覚をあますところなく発揮する今井兼平。平家軍は今井軍の猛攻を防ぎきれず、 死傷者2千余騎を残し加賀へ敗走。木曾軍勝利。

NO.7 倶利伽羅峠の合戦

寿永2年(1183)5月11日。義仲は、般若野での兼平勝利を知ると、ここで一気に平家軍を 畳み掛ける策を立てる。 このころ、義仲軍に叔父・源行家や楯六郎親忠らが援軍として参加していた。 平家軍は、全軍を2手に分けた。一隊は能登志雄山方面に向う平通盛・知度を大将とする3万余騎。 もう一隊は砺波山方面に向う平維盛・行盛・忠度らを大将とする7万余騎の、両方義仲からすれば 大軍で、一気に砺波平野を掌握してしまおうという作戦であった。
砺波山方面軍が砺波山山頂に到着したのは5月11日の昼頃。 義仲は、平家軍が砺波山に到着し、そのまま待機しているのを見届けると、行家・楯の兵を志雄山 へ向けた。また、同時に義仲軍を分割させた。兼遠・兼光・巴らを敵の後方あるいは側方へ移動さ せ、夜半を待ち一斉挟撃のため待機させた。
日中は、簡単な小競り合いでやりすごした。平家軍はそれを、義仲軍に積極的な戦闘意志のないも のと判断し、日没とともに休止令を出した。それこそが、義仲の狙いであったのだ。 夜半。義仲軍の轟音に平家軍は驚愕した。例の「田単火牛の策」である。義仲は数百頭の牛の角に 松明を括り付け、敵中に荒れ狂う牛を追い入れる。まさかの襲撃になんの構えもない平家軍はあっ という間に総崩れとなる。倶利伽羅峠での敗戦を知ると、志雄山の平家軍も浮き足立ち、潰走した。 木曾軍勝利。

NO.8 篠原の合戦

寿永2年(1183)5月21日。倶利伽羅峠の敗戦で、平氏軍は加賀の篠原で 立て直しを図る。平家軍は、京都に閉じ込めていた元源氏軍の畠山庄司重能、小山田別当 有重の兄弟を300余騎で正面に進める。迎え撃つは今井四郎兼平300余騎。照りつける 太陽、無風の中で今井方が、多くの兵を失いつつも勝利。
次に、高橋判官長綱500余騎に対し、樋口次郎兼光・落合五郎兼行の300余騎の対戦。 しかし、高橋軍はいわば各地からの寄せ集め軍だった為一騎も戦いの場に出る事はなく、 どうしようもない高橋軍はやむなく撤退する。
また、平家軍、武蔵三郎左衛門有国が300余騎で追随、対して仁科・高梨・山田次郎が 500余騎で応戦。有国は、多くの木曾軍を討ち取ったが、矢を7、8本刺され、立った まま討死する。その姿を見て、有国軍はみな逃走した。
6月1日。配色の濃厚な中、ただ一騎引き返して来たのは、 斉藤別当実盛。 彼は、この戦で討死にを覚悟していた。手塚太郎金刺光盛との一騎打ちとなり、 実盛は結局名乗りをあげず討死。大将軍でもないのに錦の鎧を着、追随の兵も持たず、名を 名乗らないこの不思議な武将の首を取り、義仲に問うたところ、幼少の頃、自分を悪源太 義平の手から救ってくれた恩人であると判明。ただ、それにしては髭や髪が黒いのは おかしい、と、同じく彼をよく知る樋口に確認すると、間違いなくこれは実盛であると 断言。髪の黒いわけは、本人からよく聞かされていた「60過ぎての戦では、髪を黒く 染めて若く見せ、先駆けようと思う。老武者と馬鹿にされたくないからな」と。実際、 その首を洗うと、その髪は白髪になってしまったのである。

NO.9 比叡山牒状

寿永2年(1183)6月10日。義仲軍は、比叡山の近く、越前の国府 (福井県武生市)で協議をする。何でも、比叡山の山僧は、そうとうの兵で、これを 打ち破らなければ入京できないわけだが、相手が僧侶である。仏法を無視した焼き討ち や僧侶殺害を繰り返す平家の二の舞と思われる可能性がある。どうしたものか。
そこに、手書である大夫房覚明の、「山門3千、 必ず一味同心とは限らない。源氏に同心しようという僧侶に働きかけるべく牒状を 差し出し、その反応を見ましょう。」という意見に義仲は同意、牒状を書かせた。 その内容は、「山門牒状」に記す通りである。
この牒状により、山門を源氏に同意させる事に成功、戦火を交えることなく、義仲は 入京を果たす。平家軍は、遅れて同様の牒状を山門へ差し出すが、すでに結論が出た 後のことで受け入れられず、7月25日、そのまま、西国へ、一門ごと移動してしまう。 平家物語の「一門都落」の段である。

NO.10 水島の合戦

寿永2年(1183)閏10月1日。義仲は、山野でのゲリラ戦には すばらしく長けていたが、舟戦はまったくといっていいほど経験がなかった。 その点、平家軍は水軍を巧みに操り、海での戦は大得意であった。
平家軍は、西国へ落ち、九州まで落ち延びたが、その後勢力を巻き返し、すでに 四国讃岐まで制圧してきたのだ。これに焦った義仲は、9月20日、急遽兵を 西へ進める。10月1日、義仲は播磨で、先鋒の矢田判官代義清・海野弥平四郎 行弘の軍が、備中の水島で平重衡・通盛の軍に大敗し、両名討死を知る。
平家軍は、宋との貿易で得た「太平御覧」で、その日に日蝕がある事を知っていた。 日蝕で動揺する義仲軍を一気に叩きのめした、平家得意の筏での舟戦であった。

NO.11 法住寺合戦

寿永2年(1183)11月19日。義仲西国出兵で不在の間に、後白河は 頼朝に接触していた。10月4日、後白河は頼朝へ征夷大将軍の宣旨を下す。 義仲入京で、やっかいだった平家を退散してもらったはいいが、今度は、その 義仲軍の都市中での狼藉に辟易としていたのだ。しかし、自分には平家を失った今、 近くに居て頼れる軍隊は山門しかない。しかし山門も源氏に同意している。そこで、 最後の頼みとして、頼朝へ征夷大将軍という武士にとっては他にない、とっておきの プレゼントをすることで秘密裏にアプローチをかけたのである。しかし頼朝はすぐには 動こうとしなかった。頼朝は、鎌倉を完全に固めきるまで動くつもりもなく、また、 後白河にしてみれば坂東で必要以上に勢力を伸ばす分子を、甘い餌でおびき寄せ、 都を守護させその勢力を散らしてしまえという腹があった。義仲をめぐって、二人の 探り合いが始まったのである。
義仲が宣旨の噂を知って、黙っているはずが無かった。頼朝なぞ、一滴の血も流さず、 ただ鎌倉であぐらを掻いているだけの人物に、何故、平家追討の立役者である自分を さしおいて、征夷大将軍が与えられるのだ。納得がいかない。しかも、東海・東山の 荘園を頼朝に支配させる許可を出すとは、どういう事だ。北陸道は割愛されたとて、 もともと北陸道は義仲が戦により手に入れた土地であり、割愛折衝したとは、はたして、 勘違いもいいところである。そして、その宣旨に従わない者は、頼朝が院の命に従い 追討するとある。何故頼朝にそこまでの権力を与える?納得がいかない。義仲のはらわたは 煮えくり返るばかりである。

さてそんな宣旨を手にしてしまうと、さすがに逆らって鎌倉から動かないと言うわけにも 行かなくなった頼朝は、弟義経に、「義仲牽制」の命を下し、500余騎で上京させる。 やはり、自分はまだ動かない。
10月15日。義仲軍が西国から都に戻った。新宮十郎行家に、義仲追討の院宣が下された との報告が入り、平家どころではないわと、飛んで引き返したのである。もし、行家に 本当に院宣が下ったとなると、義仲が逆賊になってしまう。しかしこれは、故意に流された 虚報で、当の行家が驚いた。義仲がその噂をまともに信じて自分を討ちに来るに違いない、 冗談じゃない、と、彼は1000余騎で都を発ち、平氏追討の名目で播磨へ勝手に出陣した、 都からさっさと離れたのである。
都から行家が離れたのはよいが、義仲は鼻息荒く都へ戻ってきた。一触即発の危機である。 都中に緊張が走る。誰かこれを制する武力を持つ守護団はおらぬのか。
そんな時に、到着したのがなんと、義経500余騎だったのである。・・・噂の出所は、 鎌倉であったのだ。
義仲は、10月の宣旨に対し、「院の北陸遷幸」「頼朝追討の宣旨」「義仲関東下向」 を要求したが、悉く拒絶。北陸道は死守したものの、逆に早く平家を追討せよと、西国 出兵を要求された。都に居てくれるなと、言う事か。

義仲が、法住寺殿を討つという噂が流れる。噂だけならよかったのだが、それを聞いた 山門座主・明雲は、大衆詮議もせぬうちに、法住寺殿守護に出兵する。市中にものものしい 雰囲気が立ち込める。11月17日。院の「西国討伐へも行かず、頼朝を攻め討つわけ でもない。義仲謀反を企む由その聞こえあり、退京を命ずる」との発言に義仲激怒。 西国へ行けば手薄になる都に頼朝勢が攻め入るは必至。もちろんそうなれば、義仲と 頼朝は一戦交える事になる。都はいつまでたっても平常にならない。院の目的は何なのか。 国を乱す事か?回答待つ。との伝言を院使に伝え、返事を待つ。しかし、その回答は来なかった。 巴がその返事を法住寺殿へ催促に行くと、鼓判官平知康が応対した。 知康は、義仲の使者である巴に挑発するような発言をし、巴の要求を聞こうともしなかった。 そしてついに戦となった。戦が始まると、挑発していた当の知康はさっさと逃亡、法住寺殿 守護側は早々と崩れ去る。そこへ、義仲の猛威が襲い掛かってきた。怒りは頂点である。 勇猛な義仲軍にとって、法住寺殿守護軍など、もともと敵ではなかった。火のついた矢を 放ち、法住寺殿はみるみる炎上する。義仲軍圧勝。義仲は院に「征夷大将軍」 「頼朝追討」「三種の神器奪回の為の西国御幸」「新天台座主に俊尭権僧正を」の4つを 要求、12月15日、義仲は、征夷大将軍となる。

NO.12 宇治川の合戦

寿永3年(1184)1月18日。ここまで、決して勝ち戦ばかりであったわけ ではない義仲。木曾を出発した時には頼もしい同志もたくさんいたけれど、あの時の勢いは 京にいる長さに反比例するかのように衰えていくような気がする。義仲自身、そもそも京で の自分の使命とはなんだったのか、もともとどうして京へ来ようと決起したのか、どうやら 一時的に怪しくなりかけている気配もあるそんな中。
義仲は、とりあえず後白河法皇に勝利しているので、目下の敵は、頼朝と考えていた。 そのため、「頼朝追討」を要求した際、その命を、奥州藤原氏へも送るように指示した。 奥州藤原氏といえば、頼朝の弟、九郎判官義経の育ての親、あるいは後見者であるわけだ が、そこへ追討の命を送る事になる。
義仲の運は、法住寺合戦を期に、急落していくように思える。正直、敵にするには法皇は 強大すぎたのであろう。これ以降の義仲の歴史を語るのは大変心痛いものがある・・・。

義仲にとって平家とは、京を乱す悪い権力者、特に個人的に怨みがあるわけではない。そ れに対し頼朝は、同じ源氏でありながら、頼朝の兄に義仲の父は殺されるわ、自分の愛児 義高は献上させられるわ、ハッキリイッテ、怨みのカタマリである。ここに来て義仲の 敵は頼朝であると、明確になった今、何で平家を討たなければならない?手勢もすっかり 減ってしまって、正直そんな暇はない。それならば、共に手を取り戦い、頼朝を滅ぼし、 再び平穏な京を取り戻す方がずっといい。どうであろう?
義仲にとってはそうかもしれないが、平家にとってはやはり義仲は怨みの対象に間違い なかった。そういう風に誘われても、素直に従う事はできない。特に行家は未だ平家に 戦を仕掛けてくるではないか!とりあえず、この行家の首をよこしてもらおう!という 平家の反応、ごもっともである。
平家との和平交渉も難航極める中、ついに頼朝が来た。
1月13日、法皇を引き連れて西国へ向かおうとしていた矢先、頼朝軍が、すでに美濃国 ・伊勢国に数万騎で押し寄せてきたとの情報が入り、急遽中止せざるをえなくなる。 すっかり少なくなった義仲軍の、再構成が敷かれる。宇治川・勢田川の橋板をはずして、 戦の正面と予想される勢田へ今井四郎兼平を八百余騎で配備。宇治川へは、根井行親・ 楯親忠・仁科・高梨・山田次郎らを五百騎で配備。 一口(いもあらい:木津川と淀川の合流点あたり)へは志太三郎先生義憲を三百騎で配備。
迎え撃つ敵機は、大手が蒲の御曹司範頼、搦手が九郎御曹司義経。主立った大名が30余り、 総勢六万余騎とのウワサが流れる。
この時の有名なエピソードで、「宇治川の先陣争い」がある。実際、この頃の宇治川は、 上流の雪解け水で、かなり増水しており、流れも速く、水底には乱杭も打たれ網も はられている、危険な状態であったにもかかわらず 敵軍は、 頼朝から授かった名馬の名誉にかけて命懸けで先陣争いをする。見事宇治川を 渡りきった頼朝軍は、勢いに乗り、はじめは何とか防戦を繰り広げた義仲軍を敗退させる。 勢田も敗退。義仲軍ほぼ壊滅。行親討死。その他武将、みな行く方知れずとなる。

NO.13 粟津が原の最期

寿永3年(1184)1月20日