天下無敵の義仲の仲間たちを紹介します。
相変わらず字の多いページばかりでごめんなさい・・・。


○幼少からのお付き合いの人々・木曾の人々

今井四郎兼平 義仲の生涯のベストフレンド。
中原兼遠 兼平の父親。義仲の養父。
樋口次郎兼光 兼平の兄。木曾四天王の一人。
兼平の妹。義仲のスペシャルガールフレンド。
落合五郎兼行 兼平の弟。義仲にとっても弟分。
○人生の出会い・旗揚げからのお付き合いの人々
大夫房覚明 京都から逃げてきたお尋ね者のボウズ

○特別なご縁の方々

斎藤別当実盛 幼い義仲を助けてくれた人の一人

幼少からのおつきあい・木曾谷の人々

【今井四郎兼平】

義仲が中原の家に来てから、ずっとベストパートナーのポジションをキープした人。彼らの人生たったの30年しかないのに、こんなに強い絆で結ばれた人間に、巡り合い、ほぼ一生一緒にいることができたなんで、本当に義仲と兼平は幸せ者だと思います。
兼平は、義仲と年もとても近く、小さいときから大の仲良し。成長して、お互いに元服してもその仲は違うことなく、戦でも木曾四天王の一人といわれる重要な役割を果たした。彼の性格うんぬんは良く分からんとしても、義仲への何ともいえない愛っていうんですか?信頼っていうんですか?そういうものは、嫁さんたち以上に強かったというのは文章の端々からいたいほど感じられます。すごいことです。逆に義仲もこの兼平については、他の誰とも違った感情を抱いているってこともチョンバレっていうから、なんなんだろう・・・このころの主従関係は今ではもう失われてしまったような感情で強く結ばれていたわけですけども、それがさらに乳母子ともなると、もうパートナーとかじゃなくて、魂なんですよ、お互いが。その証拠に、彼らは出会ってから死ぬまで一度も決裂したり、遠くに離れてしまったりしたことがない。なんせ、死ぬときだって、義仲の後兼平が死ぬまでにいったい何分の時間差があったというのか。ね、魂同志だから、片っ方が死んじゃうと、その後もう一つも死んじゃわないといけないの。彼らはそういう関係だったんですよ、多分。


【中原兼遠】

兼平・兼光・兼行らの父親であり、義仲の育ての親である彼は、信濃の権守。彼の奥さんは昔義仲の乳母であったので、その縁で義仲を義平・義朝の手から守ってくれたわけです。昔に都の大学で勉強して、国司にまでなったというから、そこそこ頭のいいおじさんだったと思います。そんな彼から授業を受けていた義仲が今日、字が書けないというウワサを残しているのは何故だろう・・・でもなんとなく想像できるが・・・。彼は、義仲が自分のところに来たときから、自分の描いた未来像を仕込んで行こうと心に決めていたらしく、挙兵するのに役立つ経験や知識をどんどん教えたと想像されます。授業には自分の息子娘も絶対参加してたんでしょうね。そんで、義仲がくだらんぼけをかますと、兼平がツッコミをいれ、おやじからせっかん食らって授業はお開き・・・私が通ってた塾みたい。ホントかどうかはわからないですけども・・・。

【樋口次郎兼光】


兼平の兄。たぶん義仲にとっても兄貴分。義仲が家にやってきたころをきちんと覚えてるというのが、平家物語の斎藤別当実盛の一件からも伺えます。年寄りと馬鹿にされるのを嫌った実盛は白髪を墨で黒く染めて、戦に挑みますが、実盛は最初からこの戦を最期と決めていたので、その戦い振りはとても勇猛でさばさばしたものでした。その黒髪の御仁の名に気がついたのは兼光あんちゃんだったのです。彼は義仲が死んだとき、別働班で行家追討に向かっていたのですが、京都へ戻って弔い合戦でもやって死んだろうと思っていたところに、昔馴染みの児玉党の人たちに、「あんたほどの腕の男なら、きっとおかみも許してくれるさ、もったいないから降参しちまいな」と誘われついうっかり乗ってしまう。けれども最終的には許されることなく斬首された。





【巴】

義仲ファンクラブ名誉会長。というは私の持論ですが、正妻ではないけれども義仲の嫁さん。女性なのに戦の現場立ち会いのほか、現場監督、すなわち大将まで勤めちゃうんだから、どんな女の子も彼女にはかないまへーん。そのうえごっつい美人!!(、と、平家物語には書いてあります)義仲の大ファンだから、義仲の為ならたとえ火の中水の中。人生すべてを義仲のためにささげていました。そんなに彼のことが好きなのに、正妻として扱われたことがあまりないのは何故だろう。適当な資料には彼女を義仲の正妻にしてるときがありますが、たいていは愛妾として扱われてますよね。どっちでもいいんですけども、本当はどっちだろう・・・。とにかく巴は自分が義仲ファンクラブ名誉会長を名乗っていたことはまず間違いないだろう。多分。ファンクラブだから義仲が他に女作っても、別に浮気されたわけではないんです、彼女にとっては。惚れたハレたとかの世界にいる二人ではないものですから、なんともいえない余裕というか優越感というか、そういうものが彼女にはあったと思います。
地域伝承もいろいろありまして、たとえば巴淵の龍の化身だとか、そういうものがあります。長野県にお住まいで、夏休みの研究課題にねたをつきさせているアナタ!学校ウケもよく、楽しい研究材料がここにありまっせ!で、メールで教えてね!

【落合五郎兼行】

兼光・兼平の弟。1160年生まれなので義仲よりも6歳年下。美濃国恵那郡の落合に配されたことより、落合姓を名乗る。義仲が入京したときは、彼は23歳ということですが、ここで紹介している中原兄弟は巴を除いて全員1184年に死んでしまいます。義仲のためにみんな最期まで一緒に戦ったわけです。兼行は、兄弟の中で一番最初の犠牲者となります。義仲は、都を守るために主要地へ軍を分散させていましたが、ご存知義経の攻撃にそなえ、兼平のいる瀬多というところへ全軍を集結させようと、兼行の元へも使者を出すのですが、時既に遅く、蒲冠者範頼の3万5千の大軍にやられてしまうのです。兼行が率いていた軍勢は1万にもみたないものでした。1184年1月18日のことです。ちなみに、義仲はその翌々日、1月20日に亡くなります。兼行の死は、義仲の士気を奪うには十分すぎるほどのダメージがあったと思います。

人生の出会い・旗揚げ後のお付き合い

【大夫房覚明】

義仲チームの参謀を努めた元おボウサン。そもそもは儒家の出身で、蔵人道広と言う名前で勧学院に おりましたが、出家して、最乗房信救と名乗るようになります。高倉宮が園城寺に入った時に、 牒状を彼のいた興福寺へ送られてきました。その返牒を信救が書いたのですが、内容が、 「清盛は平家の糟糠、武家の塵芥」と書いたものだから当然平家一門からのお尋ね者となってしまう わけです。彼は奈良から脱走し、顔に漆を塗って誰だか分からないようにし、北国へ落ち、木曾義仲 の元へたどりついたのです。その後、出陣前に神仏に提示する願書や、比叡山越えに重要な役割を 果たした木曾山門牒状などを書きました。
その後、都でもしばらく義仲の元で都の案内やしきたりを教えたりしていたのですが、いつのまにか いなくなってしまいます。その後の彼の足跡について、文学的歴史的資料を見たことはないのですが、 飯野山治さんという人のかいた「たそがれ法師の物語」は、なかなか興味深い物語で、大夫房覚明 が主人公のドラマティックストーリー。彼について興味がある人は是非御一読ください。

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