Islands in the ruin of Nan Madol

ナン・マトル遺跡の島々

Index
(1)パーンウィ[10]
ウイの木
(2)ケレプゥエル[11]
「土の垣」
(3)イテート[12]
祭りなどの儀式を行なう唯一の島
「鰻(うなぎ)の囲い」
(4)ペイカプゥ[13]
「新しい島」
(5)ワサウ[14]
食料貯蔵の島
(6)パーン・カティラ[15]
ナン・マトルの行政府
(7)タパフ[16]
厨房(台所)
(8)タロング[9]
石垣で囲んだ池
(9)レメンカウ[8]
病院
(10)ペイネリング[7]
ココナッツ・オイルの製造と貯蔵
(11)ウセンダウ[4]
聖職者の住居
(12)カリアーン[6]
城壁を守ってきた石塁
(13)ナン・ムォルーセイ[5]
波風・潮流から守る巨大な石垣
(14)ダウ[2]
警備員が住んでいた場所
(15)コーンデレク[3]
葬儀の際の、儀式の島
(16)ナン・トゥワス[1]
礼拝と祈祷の行なわれる寺院
「神聖にして冒すべからざる所」
Nan Madol Map
(1)パーンウィ[10]
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 ナン・マトルの南西隅にある。そこにあるウイの木(油の多い木)の名をとったも のと言われている。護岸の岩壁は、大きな1本岩を積み重ねて築いている。このような 大きな石材は、チェムエン島のシャウイショから運ばれたと言われ、ナン・マトル最大 のものである。大きなカヌー用船着場があることから、訪問者の上陸地だったものと推 定される。シャウテレウル王朝もイショケレケルも最初にここに上陸したと言われる。 また、この護岸の岩石の中で、 1個だけ特別に大きく突き出たものがあるが、妊婦が、 安全祈願のためにお腹をこすりつけたものと伝えられている。  この島には2つの墓のプラットホーム(土台) [23×8、 16×22、高さ2.5 m]があって、 1つは1896年、F.W.クリスチャンによって、もう1つは1908〜 1910にドイツの探検隊長P.ハンブルクによって、発掘調査が行なわれた。194 2年には日本人もこの墓を堀ったと言われる。出土遺物は、貝製ビーズ、貝製ペンタン ト、貝輪、真珠貝の釣針が出土した。その他推定25〜30才の男性頭蓋骨も、ほほ完 全な形で出土している。

 放射性炭素測定法により、この島の使用時期は、西暦1250年頃であることが判 明されている。

(2)ケレプゥエル[11]
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 パーン・カティラの前の水路の向こう側に位置している。島の意味は「土の垣」、 つまり、土を用いて垣根が造られであったのであろう。 シャウテレウル王朝時代は、召使いたちの住居および来外者の宿泊所(ゲストハウ ス)があった。イショケレケルと333人の家来たちが初めて訪ねてきたとき、つづ いてナン・マトルの征服の間じゅう、軍営を張った所であると言われている。 また丸い大きな石がたくさん堆積していることから、たぶん投げて遊んだものであ ろうと推測されている。

(3)イテート[12]
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 ナン・マトルの祭りなどの儀式を行なう唯一の島であり、信仰の中心地であった。 島の意味は「鰻(うなぎ)の囲い」で、宗教儀式で用いられる鰻が飼われていた。ポ ンペイでは、鰻は神聖な存在と考えられており、一般人とシャウテレウル王の間に立 つものとされていた。  毎年1回、予言により決められた日に、聖職者がプング・エン・サブーとよばれる 服従、祈願、償いの儀式が行なわれた。儀式の最後に、4匹の大きな海亀が持ち込ま れて、イテートとペイカプゥの間の水路にある大きな亀型の岩の上に置かれた。その 4匹の亀は、イテートの丘の上の石のかまどに運ばれた。そして亀を焼いて食道を取り 出し、鰻が飼育されている生ひつに入れた。このイテートの特別の区画に入り、鰻に亀の肉 を捧げるのを許されているのは、 1人の特別な高僧だけである。その僧侶はまず自分自身 のために、次いでシャウテレウル王のため、最後にすべての人のために、その年中に行なっ た悪い行ないを懺悔し、鰻の容赦を乞うのである。鰻が怒ったように水から跳び上がる と、彼は鰻に話しかけては、餌を与えた。そのときの鰻の頭のもたげ方(一説には、跳 び上がった鰻の落ちる方向)で、未来のことがわかったという。もし鰻が餌をとっても下 に沈まず騒ぐときには、お許しは受けられなかったのだという。  1963年、スミソニアン博物館によって、この石かまど跡が発掘された。灰の山の根 元に4つの石があり、これが最初に使われたかまどの跡とされ、伝承の内容が実在した可 能性が高まった。そしてこの中の灰を、放射性炭素年代測定法で調べた結果、西暦125 8年±50年、つまり約700−800年前のものだ、ということ判明した。  またここには、 333個の魔法の石が置かれていた。これらは玄武岩の小片ではなく、 重さが3〜5Kgの丸石で、イショケレケルの333人の家来たちが、コスラエ島から1 個ずつ持って来たものだと言われている。戦争のとき、武運のお守りとして使われた。戦 争のないときときには、安全で神聖な場所であるイテートに納められ、いつも総数を合わ せるため、 1個でもなくなれぱ、すぐコスラエ島から補充された。しかし今日見られるの はものは、そのうちの17個に過ぎない。

(4)ペイカプゥ[13]
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 「新しい島」という意味である。昔、ナン・マトルが築かれる前に、すでに島があっ た。そしてナン・マトルが築かれた時に、周りを玄武岩で囲んで、新しい島が造られたこ とから、こう名付けられたという。  ペイカプゥの周壁に囲まれて内側に2つの池(実際には海水がくぼみに溜まった水溜ま り)がある。大きい方はナムェイアスとよばれ、イテートでの宗教儀式に用いられる亀を 養っていた。イショケレケルが自分の年老いた姿に気付き自殺したのは、この池を覗いた からであると言われている。もう1つはペイロチとよばれる魔法の池である。この池を覗 くことによって、ポンペイ中のできごとや未来のことを見通すことができたという。  南側100m、東側103m、北側105m、西側116mの大きな島には、巨大石垣があ り、不思議な巨岩が2つ立っている。それは大男によって石にされた女たちの姿だとい う。大男とは、ナン・マトル構築以前にここに住んでいたと信じられている有名な巨大神レ ペンコのことである。4人の女たちが、この地で魚を捕り、食料を集めながら、レペンコ に貢物を忘れた。怒ったレペンコは2人を大きい石に変え、 2人をイコイクの木とウィの 木に変えたと伝えられている。

(5)ワサウ[14]
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 食料貯蔵の島である。王のためにポンペイ中の食料が集められ、備蓄された。ただし、 調理はタパフという島で調理された。  また捕えた敵の捕虜や罪人を死刑にする島ともいわれ、ヤシの木の心材で作った木槍で 殺したとされる。  発掘調査では、骨片や土器片が出土している。ただし年代は、西暦600年を示してい る。このことはこの頃には何らかの築造がはじまったものと推定される。

(6)パーン・カティラ[15]
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 面積約10haのパーン・カティラは、ナン・マトルの行政府があり、政治の中心であっ た。ここに在位中のシャウテレウル王やシャウテレウル王朝崩壊後は、代々のナンマルキが 住み、法律を作り、すべての取り決めを行なった。このために、パーン・カティラとは、  “宣言を下す所”とか、 “冒すべからず所”などを意味するとも言われる。王の妻たち はここに出入りできたが、平民の女たちは特別の用向きのあるときだけで、しかも、月経 の期間は絶対に許可されなかった。  この島の高い台地の上には、王の家が建てられ、シャカオを作る石が5つも残っている。 島に上る西側のレレンと呼ばれる階段には、武器(槍)を置く所があって、訪問者は必ずこ こへ置いて、素手で王宮に入らねばならなかった。そのすぐ内側には、王への貢物を置く 石の台があった。来客はこの正門だけを使用し、ほかの出入り口は処刑者用であった。  この島の4階の石塁は、北西にマトレニーム、北東にキチ、南東にソケースのポンペイ 島の3つの集落と、南西にコスラエ島からの4人の呪師によって築造されたといわれ、 「汝の造った1角が崩壊すれば、汝の国も同様になるであろう」という予言がなされた。事 実、南東隅のカイムィン・ソケースは、 1910年のソケースの反乱の直前に崩壊した。 反乱の鎮圧後ドイツは、報復として、ソケース地区の住民を1人残らずパラオの離島へ 強制的に移住させた。それでこの崩壊は、その後のソケース島民の悲劇を予告したもので あったと言われている。コスラエの隅壁もそれ以前に崩壊していた。コスラエには別に戦 争や災害はなかったが、この気味の悪い予言の内容は伝わってきた。やがて、コスラエ島 民の脱出は続き、入口の激減をきたしたそうである。  シャウテレウル王の水浴び場が、ソケースの隅屋に造られてある。周りを玄武岩で囲み、 中には珊瑚岩の砂利を敷き詰めてある。用水はたいていチェムェン島のシャウ,イショか ら運ばれていた。ただ、特に残酷な王の場合は、水浴びのために、タロ芋の葉の露を集め させていたそうである。また水浴び場の近くに、海水を引いた生ひつがあって、調理に先 だってしばらく魚を生かしておくのに使われた。  ポンペイから貢がれた食料を貯蔵する部屋も、マトレニームの隅壁に隣接する区画に あったという。倉庫は10棟もあり、食料はほとんどよそで料理して運ばれた。  ある王は人間の肉を好み、ポンペイ島から太った人間を捕えて来て、王宮の屋外のマン ゴーの木につなぎ食事を与えて太らせ、丸々と太ったころに殺して食べたという。  またシャウテレウル王の時代には、ポンペイで悪いことをした人間を捕えて、玄武岩を 積み上げて造った拷問台に縛りつけた。食料も水も与えられず、熱帯の太陽にさらされる ので、すぐに本当のことを喋ったという。そして罪の軽い者は許されるが重い者は、近く のワサウという島で槍で刺し殺されたと言われる。  この拷問台の隣に畑がある。サトウキビやタロイモなどが植えられていたが、 1963 年、アメリカのスミソニアン博物館の学者が発掘した。その結果、ナン・マトルの他の敷 地では、ごく薄い層にしか土は盛られていないのに対し、約1mの深さまで火山性の土で 盛り土してあることもわかっている。

(7)タパフ[16]
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 伝承によれば、シャウテレウル王とナンマルキのための厨房(台所)だったとされる。 発掘調査によっても、大量の土器が出土している。年代は西暦232年を示すものもあ り、ナン・マトルでは最も古い年代である。ただしナン・マトルとの関係については不明 である。同時に多くのアッズ(手斧)も出土していることから、カヌー製作の地であった ものと推定される。

(8)タロング[9]
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  島の真ん中には、石垣で囲んだ大きな池がある。この池の周りには石で造った11 本の水路があって、外洋と連なり、満潮時にこの水路を通って、魚が出入りしたと言われ る。そして、王や貴族たちはこの池で魚取りの儀式を行なった。特に、泥の底に棲んでい る“レポイ” (ヒリッピサルボオのことで、アカガイの仲間)という二枚貝をヤシの葉を 使って採集した。採った貝は直ちに王に献上された。池の深さは5mだと言われるが、今 日では砂や泥で、かなり浅くなっている。  また池の中央部の底には、外洋と連絡するトンネルがあるという伝説がある。これを実 証するために、潜ってみた日本人もいたが、泥がかなり深く堆積しているため、発見でき なかったという報告がある。  貝は食用に供されただけでなく、網の部分品、魚網のおもり、食卓用の刃物やさじなど にも用いられた。

(9)レメンカウ[8]
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 シャウテレウル王朝時代の病院だったとされる。病人はすべてこの島に運ばれ治療を受 けた。島の西隣にナムェンカウという池があり、治癒した病人は、帰宅前に最後のお清め を受けた。

(10)ペイネリング[7]
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 ココナッツ・オイルの製造と貯蔵が行なわれた島だと言われる。この島に集められたコ コナッツを皮むき・等級分けし、オイルを精製した。そして儀式用・灯火用に、ナン・マ トル中へ供給した。  また1カ所住居跡がある。家の付近には2つの墓跡があって、ともに露天にさらされた ままになっている。穴の底には枯れ木のような人骨が見られるが、墓には2通りの方式が あって、 1つは死体を埋葬するところとしてある場合、もう1つは拝むために骨を家の側 に埋める場合である。おそらくこの島の墓は、後者の例であると推測される。

(11)ウセンダウ[4]
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 シャウテレウル王朝時代の聖職者の住居であったと言われる。王朝崩壊後は、ナンマル キの住居がここにあった。初期のナンマルキ時代に建てられた「コの字型」のナース(伝 統的宴会儀式場)の跡があり、形態変化を考える上で重要である。  発掘調査では、土器片が多数出土している。年代は、西暦750〜800年を示す結果 が出ている。

(12)カリアーン[6]
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 ナン・トゥワスの外壁から数十m離れて、太平洋の波よけに大岩石を無数に配列して、 今日までその城壁を守ってきたのが、このカリアーンの石塁である。みごとなたくましい 構築であるが、波が荒くてめったに近づくことができない。  ある伝承では、シャウテレウル王一族の住居とされるが、別の伝承では、聖職者の墓、 王一族の墓であったという説もある。  全体の構造が、ナン・トゥワスに非常に似ている。ポンペイにおける特徴的な墓の形式 “lolong”であることから、墓と考えた方が妥当である。  巨木“ケチエウの木’,は、シャウテレウル王朝時代からのものだとされる。

(13)ナン・ムォルーセイ[5]
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 波風・潮流からナン・マトルを守る巨大な石垣である。 「航海の終着地」を意味し、外 壁にある門は唯一の外洋からの入り口である。  この門が聖なる海底都市“カーニムェイソ” (実際に海底に石積みがある)ヘ通じる道 とされ、 2匹のサメに守られ、初めてここを訪れる者は自分の勇気と幸福を誇示するた め、海へ飛び込んだと言われる。ただし飛び込む前には、頂上から大きい石を海中に投げ てみなくてはならないとされる。サメが現われてその石が固くて呑み込めないとわかる と、後から飛び込んだ人を襲わないけれど、サメが現われなかったとか、石を投げなかっ たときに、うっかり飛び込むと、たちまちサメに食われてしまうそうである。

(14)ダウ[2]
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 伝承では、ナン・マトルの警備員が住んでいた場所だとされる。また、この地下には、 儀式用のウナギがいると信じられている。  女性は、この島には入ることができなかった。また、調理場と魚の調理跡が見つかって いる。砥石もあり、現在でも見ることができる。

(15)コーンデレク[3]
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 ナン・マトルの葬儀の際の、儀式の島であると言われている。  ナン・マトルの住民が死ぬと、遺体はココナッツオイル、いろいろな花、きれいな魚骨 などで飾られ、所持品をいくらか添え、カヌーに乗せて、故人が生前訪れたナン・マトル の小島を全部巡回させるのであった。その道中ずっと死者の傍らで、シャカオの宴と伝統 のダンスが捧げられた。死者の体は最後に、この島のナーシに運んで来られて、ここでい よいよ、最も重要とされる最終回の、ひとしきりのシャカオの宴とダンスが催されるので あった。  この最終行事が終わると、葬式の列は、死者の身分によって、それぞれの小島へと運ん でそこに埋めたといわれる。

(16)ナン・トゥワス[1]
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 この地は現在、ナン・マトル遺跡の中でも、最も多くの人が訪れ、最も印象的な小島と 言われている。意味は「酋長の口の中」で、つまり酋長の口の中を自由にみることはでき ないことから、 「神聖にして冒すべからざる所」となる。
 戦争があるときは、ナン・トゥワスは最後の避難場所としての要塞の役割を持った。 また礼拝と祈祷の行なわれる寺院でもあり、代々のシャウテレウル王と初期のナンマル キの墓がある。ナン・トゥワスは戦時には最も重要な場所であった。戦功と勝利への祈り がこの地に葬られているシャウテレウルの霊に捧げられた.するとその霊は上級の精霊へ の祈りを取り次いで、最後には最上位の大精霊ナニソーンサップヘと呼びかけられるので ある。
 ナン・トゥワスは内外壁の二重構造である。外壁は高さ8m、外寸64mX54m、 厚さ3mである。五角形と六角形の柱状玄武岩を22段も積み重ねて造られている。また ナン・マトルの他の建造物と異なって、上部の石材がかぶるように構築されており、それ が敵がよじ登るのを肪ぎ、またすぐれた物見台になっているという。外壁正面中央部には 幅4.3mの入り口があって、中央に設けられた石室まで通じている。これは、いわば正面 参拝道にあたり、伝承によれば、王および貴族または高僧でないと、ここを通ることがで きない。一般の住民は、外壁の北角を回った所にあるトンネルから頭を下げて入らなけれ ばならなかった。
 正面に向かって右側にある巨大な塊状玄武岩は一段と大きく、長さは 5.5m、高さは0.6m、幅は1m余りもある。またナン・マトルでは最大といわれる南角 の巨岩は、長さ6.25m、高さ2.7mもあって、重さは100トンと推定されている。
 外壁から内壁までの距離は約11mで、その間は小石を敷き詰めた広場となっており、 日本統治時代に植えられたと言われるパンの木の巨木6本と、ヤシの木7本やバナナな どが、大空を覆うように繁茂している。
 正面通路を、3段ほど上ると、12段積みの内壁がそびえる。内壁は高さ4.5m、外寸 30mX24m、厚さ1.8mである。中央の入り口は2.7mとかなり狭まり、壁の厚さも 1.6mと薄くなる。内壁の右側にも平民が入るための地下トンネルが造られている。
 ナン・マトルでは、多くの島で墓が発見されているが、ナン・トゥワスの中央石室ほど 立派なものは、他に見られない。中央石室の大きさは、長さ7.25m、幅6.54mで、地 表から1.13mほど立ち上がり、いずれも柱状玄武岩によって造られている。そして石室 は長い8本の石によって天井部は覆われているが、この石の最大のものは太さ66cm、 長さは実に5.3mもあって、1本の重量は3〜5トンもある。
 石室は、半地下式の構造 になっていて、入り口は小さく、幅1.4mくらいしかない。昔はこの入り口は、大きな 珊瑚石灰によってふさがれていたと言うが、 19世紀の発掘時に取り去られたまま、今 日に至っている。石室の内部は縦横3.45m×2.76mの広さで、天井から底面までの高 さは、2.10mである。そして地表からは、75cmほど掘り下げられている。
 日本統治 時代の発掘調査によると、中はこぶし大の珊瑚石灰岩からなっており、その下には砂が詰 まっていたということである。そしてその中から人骨や貝で作られた装飾品が多量に出土 したという記録が残されている。また石室の前は、かなり広い広場になっている。おそら く王や僧侶たちは、ここで祈りを捧げたことと推測される。
 中央石室(墓)に向かって左(北)、右(南)にも、墓がある。これらは中央石室より かなり小さく、また低く造られている。この側室は、王の妃やお供の高僧など、王に近い 親族の墓と考えるのが妥当であるが、伝承では生首になった人々の墓とされる。中央墓の 内壁を隔てた裏側にある小さな穴は、捕虜や犯罪人を入れたと言われが、瞑想の場所とい う説もある。
 ナン・マトルの番兵はトワシ・ポエ(上見張所)、 トワシ・パー(下見張所)の両側に 立った。シャウ・ポーン・トワシの称号も持つ将軍がナン・トゥワスの公認の管理者で、 この人だけが、城壁の上に上がることを許された。番兵たちが使用した料理用の台石が今 日でも見られる。

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1996年
青年海外協力隊  在ミクロネシア連邦ポーンペイ州
執筆・製作 佐藤 悦夫
Pohnpei Historic Preservation Office(Phone:320-2652)
All rights reserved. ETSUO SATO 1997


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