The ruin of Nan Madol (report by JOCV E.Sato)

ナン・マトル遺跡


Index
  はじめに
1. ナン・マトルとは?
2. ナン・マトルにはどんな意味があるか?
3. ナン・マトルはいつ頃造られたか?
4. ナン・マトルを造ったのはだれか?
  遺跡建造伝承
5. ナン・マトルの島々の造りはどうなっているのか?
6. ナン・マトルの岩はどこから運ばれたのか?
7. ナン・マトルを造るのにどのくらいの年数がかかったか?
8. シャウテレウル王朝の崩壊後、ナン・マトルはどうなったのか?
9. シャウテレウル王の系譜
10. 考古学的調査・研究史
11. ナン・マトルの島々
12. 参考文献

はじめに

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 カセレリア!日本のみなさん、謎と伝承の島ポンペイヘようこそ。 ポンペイは、伝承の宝 庫である。なかでもナン・マトルにまつわる伝承は多い。その伝承も語る人によっては、食 い違いが認められ、謎はますます深まるばかりである。 また人々は、自分の知っている伝 承をなかなか他人に話そうとはしない。 「自分の知っていることのすべてを話すと呪いに よって死ぬ」という迷信をかたくなに信じているのである。人々は今なお、伝承と迷信の中 に生きているかのようである。ナン・マトルは、その『聖域」として、これからも、人々の 精神世界に君臨し続けていくであろう。
 ポンペイを訪れる日本人は、年々増えている。その多くが観光目的であり、とりわけ人気 の高いのが、ダイビングであるという。まだまだナン・マトル遺跡をはじめとした史跡見物 は少数派のようである。ポンペイの史跡はまだまだ調査と整備が十分でなく、多くは深い熱 帯雨林の中に埋没しているのが現状である。例えば、防塁や酋長、高僧の埋葬のための壁塁 などの遺跡は、ポンペイの各地で、特にキチ、マトレニームに多く見られる。なかでもナ ン・マトルは特筆すべき遺跡で、これだけの巨石を用いた大規模な海上都市は世界でも他に 類を見ない。ナン・マトルが欧米人の間では、古くから“太平洋のベニス”と讃えられてい る所以である。
 このガイドによりナン・マトル遺跡を訪れる人が1人でも増え、また遺跡の理解への一助 になれば幸いである。

1. ナン・マトルとは?

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Pohnpei Map
 ポンペイ島の南東部に隣接するチャムエン島の浅瀬に位置している。北東から南西にのび る石で囲まれた長方形のエリア(約1200mX600m、広さにして約70ha、ちなみに 東京ディズニーランドが約8.2ha)に、玄武岩で造られた大小92の人工島がある。丘陵を 背に、周囲を浅瀬に固く守られ、外洋からの入り口は1カ所のみである。これが、古代巨石 文明ナン・マトル遺跡である。
 西暦1000年〜1600年頃、ポンペイはシャウテレウル王によって統治されていた。 ナン・マトルは、このシャウテレウル王朝の都として、政治・宗教の中心であった。
 92の島々には、それぞれ王の住居、儀式の島、聖職者の墓、来客用ゲスト・ハウス、召 使の住まいなど、異なる使用目的が与えられ、人々は高潮時にはカヌーで、潮の低い時は徒 歩で、島間を往復したと考えられている。

2. ナン・マトルにはどんな意味があるか?

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 ナン・マトルは、ポンペイ語で「Nan Madolと言い、「Nan」は、“〜の中”とか“場 所”を表わし、「Madol」とは“間”を表わす。すなわち、“天と地の間の場所”という意 味である。なお、ポンペイ語では、“do”の音は濁音にはならず、したがって、ナン・マド ルではなく、ナン・マトルになる。

3. ナン・マトルはいつ頃造られたか?

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 発掘調査の成果によると、ナン・マトル遺跡の中で最も古い「石組みの年代」を示すの は、ワサウの西暦600年頃というものである。したがって5世紀には何らかの築造が始 まったものと考えられる。ただし、ナン・マトルのちょうど真ん中に位置するタパウという 島から、西暦232年(誤差不詳)という生活痕が発見されている。すでにこの時期には、 ナン・マトルの建設が始まっていたのか、ナン・マトル以前に、ポンペイ人がこの地で何ら かの生活をしていたのかは、不明である。
 ナン・マトルが最盛期を迎えるのは、11〜15世紀のことと考えられ、中心的な島々の多 くは、この時期に構築されている。ナン・トゥワス(12世紀後半)、パーヌウィ (13世 紀)、パーン・カティラ(10世紀、また14世紀に拡張)、イテート(13世紀)などが そうである。この時期には、ポンペイ全体を統治するだけのカをもった権力者がいたものと 推定される。これが伝承の世界では、シャウテレウル王ということになる。そして、その強 力な力によってナン・マトルを大きく発展させたものと考えるのが妥当であろう。
 ナン・マトルは、16世紀半ばまで続いたとされるが、これ以降急速にカが衰え、荒廃し ていくことになる。伝承では、イショケルケルによって滅ぼされたということになってい る。しかし、考古学的な見方をすると、各地にシャウテレウルに反抗する勢力が台頭し、こ れまでポンペイ各地からの貢ぎ物で成り立っていたナン・マトルの経済基盤が大きく崩れ、 その生活を維持することが困難になったものと考えたい。実際この時期には、これを裏付け るように最近、ポンペイ各地から、砦跡などの戦略的に意味のある遺構や、投石(ポンペイ の伝統的武器の一つに、投石機,スリングがある)の出土が認められる。このことは、シャ ウテレウル王の一元的支配による平和な時代から、勢力の分散によって各地で争いの起こる 時代へと変化していったことを示しているものと推定したい。

4. ナン・マトルを造ったのはだれか?

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 1931年、J‐チャーチワードは、彼の著書「失われたムー大陸」において、太平洋に は、12000年前に水没した超古代文明が存在したと提唱した。ナン・マトルは、その聖 都だというのである。もちろん考古学的見地から彼を支持する人がいないのは当然のことで ある。一般的には、現在のポンペイの祖先が造ったものと考えられている。ではポンペイ人 の祖先はどこからやって来たのであろうか。
 長谷川言人(ことんど)は、人種を区別するのに頭蓋骨の長さと幅を比較する顕示数とい う概念を示したことで知られる。またその中でも、頭長に対する頭幅の百分率が最も使わ れ、頭長幅示数と呼ばれている。これによれば、ナン・マトルから出土した頭蓋骨は、イン ドネシア人およびポリネシア人からはかなり遠く、西ミクロネシア人に近く、メラネシア人 に最も近く、区別するのに困難であったということである。ちなみにポンペイ州にあるカピ ンガマランギとピンゲラップ島民の数値は、最もポリネシア人の特徴を示し、この島民の住 民は、その昔ポリネシアから移住してきたことを物語っている。
 次に生活習慣から考えて見たい。ナン・マトルの各島の建物や墳墓の入り口には、しばし ばシャカオの儀式に周いた石が残されているが、これは当時からこの習慣が行なわれてきた こときとを示している。つまりポンペイにやって来た人たちがもたらした習慣である。とな るとこの習慣をもたらした地域は限定される。つまりメラネシアでは、フィジーかニューヘ ブリデス、ポリネシアではサモアである。またかつてポンペイで行なわれていた食人の風習 からも、メラネシアが有力であることは疑いないことである。
 さらに、ニューヘブリデス諸島とポンペイ語が、言語学上、非常に似ていることから、メ ラネシアの中でも、ニューヘブリデス諸島周辺からナン・マトルの祖先にあたる人々がやっ て来たとものと、推測されている。
 しかし、詳細については不明である。最近までポンペイには言葉があっても文字はなく、 そのため記録は一切残されてこなかったからである。伝承によると……“・

遺跡建造伝承

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 ある日、二人の兄弟オロシーパとオロショーパが、大勢の家来を引き連れて、西の島カ チャウ・ペイティ (直訳では、“太陽の沈むところ”、人類学者の問では、ヤップであると か、コスラエであるとか言われている)から、カヌーでやってきた。これは、シャカレン・ ワイオからサプキニィをリーダーとする16人がやって来て、小さな陸地に石を積み重ね て、ポンペイ(石の上の祭壇という意味)という島を造ってから数えて、7回目の航海で あった。ポンペイには政治のシステムがないことを知った兄弟は、政治,信仰の中心地を造 ろうと決意した。どこにするか考えた末、最初はソケースに造り始めた(実際に石組みが残 されている)が、工事が進むにつれて、北西風の荒波のため、適地でないことがわかった。 その後場所を変えるがうまくいかず、転々として5番目にやっと兄弟はマトレニームに理 想的な地形を発見したのであった。これが現在のナン・マトルであると言われている。チェ ムエン島と沖の珊瑚礁との間の、いくつかの砂州を含んだ、波の弱い礁湖(ラグーン)を うっとり眺める兄弟の姿が想像される。
 工事は、強い潮流にはばまれ困難を極めたが、神々のカを借りて建造を続けた。計画が大 きすぎて、兄弟の家来だけでは手に負えなかったが、そうするうちに、ポンペイ中の人々が みんなで協力するようになった。
残念ながら兄のオロシーパーは、ナン・マトルの完成を待たずに亡くなってしまった。彼 の没後、弟のオロショーパは我こそ全ポンペイの王なりと宣言し、シャウテレウルの称号を 受けて、本島にマトレニーム、ソケース、キチの三州を設定して、これに君臨した,そして 王位継承の系統が決められ、 16代のシャウテレウルたちが、全ポンペイを治め続けた。最 後の王シャウテ・モイ時代、ポンペイの神のナーン,シャプエが幽閉され、コスラエに逃げ る。悪政を知ったナーン,シャプエの息子イショケレケルは、打倒シャウテ・モイに立ち上 がり、 333人の兵士とともにナン・マトルにやってきた。戦いの末、イジョケレケルが勝 ち、ここにシャウテレウル王朝は崩壊したことが知られている。

5. ナン・マトルの島々の造りはどうなっているのか?

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nanmadol constructure 92の島々の多くは、まず浅瀬に水面から1〜2m 位の高さに玄武岩で外囲いを造る。その中に珊瑚を敷 きつめて平らにし、大きいもので100m四方の島に している。
 昔はこの上に、マングローブの柱に、パンダナスや 椰子の葉を屋根とした木造の家屋が建っていたものと 推定される。
 さらに、墓地や儀式用の重要な島では、五角または 六角の玄武岩柱を、まるで校倉造りのように「井型」 に組んで外壁を造り、高いもので約8mの高さがある。

6. ナン・マトルの岩はどこから運ばれたのか?

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 「ナン・マトルの岩はどこから運ばれたと思いますか」と、ポンペイ人に尋ねてみまし ょう。きっと彼らは、「マジック・パワーによって運ばれた」と答えることでしょう。ポン ペイの歴史に携わっている人でもそう考えているのだから、一般の人はなおさらのことであ ろう。伝承によると、「オロシーパーが呪文を唱えると、次々に岩が空を飛んで来て、決め られた場所に落ちていった」とされている。
 ナン・マトルを構成している玄武岩は、すべて五角形や六角形などの多角形をした柱状 で、一般に柱状玄武岩と呼ばれているものである。これは地球の内部から火山の爆発によっ て噴出したマグマが、ゆっくりと冷えた時にできる現象だといわれている。ポンペイにも、 こうした現象はあちこちに見られ、地質学上“柱状節理”と呼んでいる。柱状玄武岩は一本 一本が独立して存在するのではなく、大きな塊となって地下に埋没しているが、露出してい る場合も多い。ポンペイのシンボル、ソケース・ロック周辺でも、まるでハチの巣のように、規 則正しい多角形の溝が、岩肌の表面に掘り込まれている様子が観察される。つまりナン・マトルを遣っ た人々は、角柱状に削る必要はなかったのである。その他ネッチ、ウー、特にマトレニーム湾の東岸の 日本統治時代に三角山と呼ばれていたチャカイウ山付近でも、露出した柱状玄武岩を豊富に見い出すこ とができる。実際チャカイウ山の奥には、崩れ落ちた所から、かなりの大量の石が採集された跡がある ということである。
 これらの石材は、イカダのようなものを組んで水中に石材を吊して水路運んだものと、多 くの考古学者たちは推定している。

7. ナン・マトルを造るのにどのくらいの年数がかかったか?

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 仮に一つの島の大きさを50m四方としよう。島は水面上に1m出たと仮定して、周りを 囲むだけでも太さ約30cmの玄武岩が5千本も必要となると考えられる(白井祥平氏の試 算による)。全部で92の島があるから、これだけでも46万本の石を運ばなければならな い。実際は島の周囲だけでなく、階段や家の基礎はもちろん、石垣、墳墓などすべて柱状玄 武岩で築いているのだから、この2倍以上の石を要したと推定される。ナン・トゥワスだけ でも10万本や20万本は使われているから、数百万本というのが実際の数と考える。1本 の石が仮に1トン(ナン・トゥワスには1つで10トン以上、なかには1つで100トン近 い石もある)として、トラックで運んだとしても、10トン積みトラックで数十万台を要す る。これを並べると東京から名古屋くらいまでトラックがつながってしまうことになる。  次に、この石を運ぶのに要した時間を計算してみよう。1本の石を平均1トンとすると これを山から海岸まで下ろすのに、5人1組として10kmの道のりだから最低5時間はか かるものと考えられる。
 労働力はどうだろうか。現在のポンペイの人口約3万人から当時の人口を推定しても、2 万人を超えることはないであろう。自給自足をしていた当時、それ以上の人間の数を考える ことは困難である。2万人と仮定すると、女子供や老人を除いて、連日の重労働に耐え得る 労働力は4分の1の5千人ぐらいであろう。そして5人1組とすると、1千組で、1日がか り2千本の玄武岩を海岸まで下ろすことができることになる。しかし、実際はそうたやすく いくとはとても考えられない。また海岸からの海上輸送は遠くて時間がかかるので、ナン・ マトルに運ばれる石は、1日に100本が限界ではないだろうか。大きな筏(いかだ)に、 10本(10トン)乗せて10隻が1日1往復しても、1年間に運べる石はせいぜい2万本 位に過ぎない。海が荒れて運べない日や、労働者への食料補給の問題もあるからである。
 このように考えると、数百万本からなるナン・マトルの建設には、少なくても200年以 上を要したものと推測される。

8. シャウテレウル王朝の崩壊後、ナン・マトルはどうなったのか?

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 最後のシャウテレウルとなったシャウテ・モイがイショケレケルによって滅ぼされたこと によって、16代続いたシャウテレウル王朝は幕を開じた(王朝崩壊は1628年という説 もある)。その後イショケレケルは、ナン・マトルと全ポンペイを支配して大酋長となり、 ナンマルキと呼ばれた。それ以来代々の大酋長はナンマルキと呼ばれるようになって今日ま できている。ナンマルキたちはシャウテレウルと同じように、ナン・マトルのパーン,カラ ィラを宮殿としてそこに住み、ポンペイの首都としたのである。またイショケレケルの死 後、偉大な指導者を失ったポンペイの人々は動揺した。その結果マトレニームの他にウー そしてキチの3つの地区に分裂し、それぞれの地区にナンマルキを名乗る者が現われた。さ らにドイツ統治時代に、ソケースとネッチ地区も設定され、ポンペイは5つの地区に分裂し 今日に至っている。そのため現在ポンペイには5人のナンマルキがいるが、なかでもマトレ 二一ムのナンマルキは、イショケレケル直系のナンマルキとして特別にランクされ、イシパ ウと尊称されている。 “ニン・ニン・ナンマルキ’と呼ばれる貝製の古代から引き継がれた 王冠と首飾りを儀式に着用できるのも、マトレニームのナンマルキに限られていることであ る。
 このようにナン・マトルは、代々、マトレニームのナンマルキの住居であったが、 19世 紀の初めには放棄されていたことが、当時ナン・マトルを訪れたカトリック・ミッションや アメリカの捕鯨船などの報告で確認されている。その原因として、伝染病による大量の死亡 が考えられている。 19世祖の初めごろに島にやって来た鯨とりの水夫や交易人は、アルコ ールと共に、島の人々にとって有難くない病気まで持ち込んだ。もうひとつの大きな原因と して、ナン・マトルに受け継がれてきた儀式、あるいはポンペイの習慣として、なくてはな らないヤムイモやシャカオがナン・マトルでは育たなかったことも考えられる。どちらも水 気の多い、涼しい場所を好む植物だから、石で築いた人工島では育たないのである。その他 たびたび襲来する台風も島の生活には、大きな脅威であったことであろう。
 こうして海上に造られた巨石文明ナン・マトルは、およそ今から150−200年前に放 棄されてしまったと推定されている。
そしてナン・マトルに住んでいた人々は、本島に散ら ぱっていったのであろう。ナンマルキは、ナン‐マトルに最も近いチャムェン島の小高い丘 に居を構え、毎日遺跡を桃めながら日々を過ごして、今日に至っている。
 現在ナン・マトルは、その大半が鬱蒼とした深いマングローブに覆われている。あたかも 訪間者の侵入を拒絶し、自らの歴史を秘匿するかのように・・・

9. シャウテレウル王の系譜(下の括弧の数字は古い順を示す)

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 伝承に残っているシャウテレウル王を紹介しよう。
 (1)シャウテレウル・オロショ一パ
 兄のオロシーパーと共にナン・マトルを設計し、建造した。オロシーパーはナン・マトル の完成を待たずに死んだが、彼の死後、オロショーパは我こそは全ポンペイの王なりと宣言 し、シャウテレウルの称号を受けて、本島にマトレニーム、ソケース、キチの3州を設定し て、これに君臨した。
 (2)シャウテレウル・ムォーン・ムェイ
 「統治の夜明け」の意味である。彼はオロショーパの死後、ポンペイ全土を統治した人と 言われている。優しくて良い人であったが、そのため統率カがなく、この期間はナン・マト ルの築造が中止された。
 (3)シャウテレウル・イネネン・ムェイ
 「最良の時代」という意味である。貴族崇拝の観念がこのころ最高となり、貴族たちは住 民に尊敬され、王制は確立された。
 (4)シャウテレウル・サコン・ムェイ
 「残酷の時代」という意味である。この王は残忍かつ圧制的で、好物のしらみを献納しな いで、自分で消費した者は死刑にしたと言われる。また住民を多数殺害したとも言われる。
 (5)シャウテレウル・サライテン・サブゥ
 この王についての詳しい伝承はない。ただ呪(まじない)を信じ、呪述を上手に利用して 統治したことがしられている。
 (6)シャウテレウル・ライプェン・ラン
 彼は莫大な富みを蓄え、豪華な帯皮を着けていた。2羽のココ椰子インコをかわいがってい たことでも有名である。またポンペイでとれるすべての初物は、まず王に献上する制度を定 めた。
 (7)シャウテレウル・ライブェン・ラコ
 「人喰い王」という意味である。ポンペイ全土から太った人間を捕えてきて、パーン・カ ティラの彼の住居の屋外にあるマンゴーの木につないで飼育した。よく肥えたときに殺して 食べたと言われている。彼は最上等の、最も肥えた人間を見つけることのできる不思議な能 力があり、口は海亀のようだったと伝えられている。
 (8)シャウテレウル・ケティバレ・ロン
 この王の妃は、人間の肝が大好物であった。彼女があまりにも島民たちに肝を献上するよ うに命じたので、ついに住民たちは彼女の父の肝を献上した。これを妃は嘆き悲しみ自殺し た。それを知った王もまた、ネッチのドロニャーの岸から、妃と同じように身を投げて死ん だと言われている。
 この王については謎も多く、一説によれば、妃の母がワニであったことを知った王は驚い て建物に火を放って殺した。婦ってそれを知った妃は悲しみのあまり、その中に飛び込んで 自殺し、王も同じように死んだとも伝えられている。
 このように1人の王についての2つの伝承が残されている。
 (9)シャウテレウル・シャウテ・モイ
 「戦う人」という意味である。この王については、詳しい話しが伝えられている。イショ ケレケルによって減ぼされた、最後のシャウテレウル王であったからである。
 伝承によると王は、ポンペイの神の1人である雷神ナーン・シャプエが妃と密会したのを 非常に嫉妬して、雷神をパーン・カティラに幽閉し、悶死させようとたくらんだ。雷神は命 からがらコスラエ島に逃れ、そこで運よく同族の女と会った。彼は、彼女に男の子を生せ、 王に復讐しようと決意した。しかし女が年をとりすぎてとても子は生めないと告げたので、 彼はライム果汁の汁を彼女の目に注いでやった。すると間もなく、女は妊娠して男の子イ ショケレケルを生んだという。
 成人したイショケレケルは同族の家来333人と絶えず武技に励んだので、その兵力の卓 越はコスラエじゅうに知れわたった。
 雷神の命を受けたイショケレケルは、腐敗したシャウテレウル王朝を倒して、ポンペイを 専制な圧政から救おうと決意し、 333人の家来を率いてコスラエを出航した。イショケレ ケルは敵意のない来貢者を装って、パーン・カティラに近いケレプェルに宿営した。初めの うち、主客の間は平和であったという。やがて家来たちはかねて隠していた武器を手にして、 何くわぬ顔で応対しているイショケレケルのもとに集結し、彼の合図により、一挙にシャウ テレウルー族に襲いかかったのである。
 王の最後については2通りの説がある。イショケレケルの軍勢に追われた王は、本島に逃 れたが、マトレニーム村のボウナウランという所で捕まり、殺されたというもの。
 もう一つは、山に逃げ込んだが、これ以上逃げ切れないと観念した王は、近くの滝に飛び 込んで魚に化けてしまった、という説である。

10. 考古学的調査・研究史

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1835年 アメリカ人L・H・グリックにより報告される。
1852年 E・W・クラーク師により、ナン・トゥワスの図面を描く。この時初め て「ナン・マトルは、ボンペイ人の祖先によって築かれた」との考え方が示された.
1870年代 ドイツ人の人類学者であるJ・S・クパリーにより、初めて簡単ではあ るが、遺跡全体の測量が行なわれる。また彼が表面採集も含めて発見した遺物は、以下 のとおりである。
(なお、 1874年、環礁の水道での座礁のため、約100箱の収集品のすべてを失った)
採集遺物:
シャコ貝製斧、タケノコ貝製ノミ、アカザラガイ製貝貨、イモ貝製腕 輪・チョウガイ製釣針、人骨
1896年 イギリス人F・W・クリスチャンにより、遺跡全体の測量およびナン‐ トウアス中央墓の発掘が行なわれた。
出土遺物:
パラ色丸型ビーズ、真珠貝製釣針柄、大型貝製アッズ(チョウナ)、 細密な彫刻の施された貝輪、古代貝針、ペンダントに使用された大型 円形貝、人骨(頭蓋骨を含む)、貝製のノミ、棺先のような鉄製品
1911年 ドイツ人P・ハンブルクが、 ドイツ南海探検隊の一員として、発掘調査 および測量調査を実施した。彼の遺跡全体図は、半世紀以上経過した現在でも、広く引 用されている。
出土遺物:
ナン・トゥワス東石室
貝製貨幣、貝製首飾り、貝製腕輪、貝製指輪
ナン・トゥワス化石室
貝製貨幣、貝製首飾り、貝製腕輪、貝製指輪、貝製パッグル、鯨歯製首飾り
ナン・トゥワス左石室
貝製貨幣、貝製首飾り、貝製腕輪、貝製指輪、貝製カフスボタン、人骨(後頭部、前胸部、胸骨、鎖骨)
ナン・トゥワス中央石室
貝製貨幣、貝製首飾り、貝製腕輪、貝製指輪、貝製斧、鯨歯製首飾り、石製斧、石製ナイフ、人骨製釣針、人骨(前腕部、腰骨、膝蓋骨、踵骨、足骨、歯)
1915年 村松瞭は、サパティクで貝製ビーズを発掘した。同時に長谷川言人 は、パーンウィでイモ貝製腕輪を発見した。
1929年 八幡一郎が、表面採集であるが、土器片を初めて確認した。
採集遺物:
貝製斧、研磨貝(チリボタン貝)、貝製腕輪、素文薄手土器片、鉄片(船具)
1942年 ビショップ博物館(ハワイ)の村立岩吉が調査した。
採集遺物:
貝製玉、石灰岩製玉、有孔貝殻、無礼員殻、貝製腕輪、貝製耳輪、有孔木葉形製品(首飾り?)、有孔フカ歯(2小孔あり)、シャコ貝製斧、シャコ貝製濫、人骨(頭蓋骨)、歯(門歯)、シャコ貝製棒
1963年 スミソニアン博物館(アメリカ)が、ポンペイの民俗調査と平行して ナン・マトルの発掘調査を実施した。
イテートのカマド跡の中の灰を、放射性炭素年 代測定法(C14年代測定法)で調べたところ、西暦1285±50年という結果を 得ることに成功した。
1978年 サクセ(オハイオ大学)、アッセン(グアム大学)が保存のための アプローチを開始した。アッセンは表面採集ながら、土器片を採集した。
1977年から現在に至るまで エアーズ(オレゴン)大学が、継続的な調査を 実施している。今日私たちが知ることのできる考古学的調査結果のほとんどは、工 アースの調査によるものである。

11. ナン・マトルの島々

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 92あると言われているナン・マトルの島々の中で、意味もわからない島々もかなりあ る。これは文字のなかったポンペイの歴史は、伝承として世襲的に伝えられてきたものであ るから、口伝者の死亡などによって途絶えてしまったことによるものと考えられる。文字ど おり“遺跡の謎”として、歴史の間に消え去ってしまったものであろう。
 遺跡全体の南半分をマルトパ(下のマトルいといい、シャウテレウル王の住居、行政機 能、そして様々な儀式をとり行なう場所になっている。北半分はマトルポウエ(上のマト ル)といい、墓と聖職者の住居などがある。
 ナン・マトルはポンペィ人にとって聖地であり、彼らの中には、そこに人間が出入りす ることを嫌う者もおり、旅行者は態度を慎まなければならない。シャウテレウル王朝の崩壊 後、 ドイツ、日本時代公有地のような取扱いを受けたこともあったが、それでも収穫物の専 有権がナンマルキに認められていた。少なくても、この地は歴代ナンマルキの居城であっ た。それで、この地を訪れる者は、チェムエン島の彼の現住所の視界内では、敬意を表わ し、許可を乞うつもりで、ポンペイの習慣にしたがって、高い姿勢にならないように、ボ ート内では立たないのが望ましいとされている。
 ボートでナン・マトルを訪問するには、高潮時を見測らなければならない。水深1m以上 なら、ほとんどすべての小島に到達できるが、ほとんどの島が深いマングローブに覆われ、 整備されていないので、上陸可能な島は限られている。順路としては西側から入る,域内全 般を見たいならぱ数時間が必要であるが、ナン・トゥワスだけなら30分だけでも足りる。  ではこれから、謎の巨石文明遺跡“ナン・マトル”の主な島々を案内する。 ([ ]の数 字は、地図中の番号を示す。)

ナン・マトルの島々(詳細)

参考文献

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Islets of Nan Madol(Pohnpei Government State)
Upon a Stone Alter(David Hanlon)
Man ' Conquest of the Pacific(P.Bellwood)
ナン・マトル遺跡(塚田 清美、斎藤 弘之)
巨石文明の出現と消滅(斎藤 弘之)
民族文化の世界(阿部 年晴他)
ポナペ島 (渡壁 三男)
呪いの遺跡ナン・マタール(白井 祥平)
環太平洋考古学(八幡 一郎)

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1996年
青年海外協力隊  在ミクロネシア連邦ポーンペイ州
執筆・製作 佐藤 悦夫
Pohnpei Historic Preservation Office(Phone:320-2652)
All rights reserved. ETSUO SATO 1997
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