The ruin of Nan Madol (report by JOCV E.Sato)Digest

ナン・マトル遺跡 1996 ダイジェスト


インデックス
  はじめに
1. ナン・マトルとは?
2. ナン・マトルにはどんな意味があるか?
3. ナン・マトルはいつ頃造られたか?
4. ナン・マトルを造ったのはだれか?
5. ナン・マトルの島々の造りはどうなっているのか?
6. ナン・マトルの岩はどこから運ばれたのか?
7. ナン・マトルを造るのにどのくらいの年数がかかったか?
8. シャウテレウル王朝の崩壊後、ナン・マトルはどうなったのか?
9. シャウテレウル王の系譜
10. 考古学的調査・研究史
11. ナン・マトルの島々
12. 参考文献

はじめに

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 カセレリア!日本のみなさん、謎と伝承の島ポンペイヘようこそ。
 ポンペイを訪れる日本人は、年々増えている。その多くが観光目的であり、とりわけ人気 の高いのが、ダイビングであるという。まだまだナン・マトル遺跡をはじめとした史跡見物 は少数派のようである。ポンペイの史跡はまだまだ調査と整備が十分でなく、多くは深い熱 帯雨林の中に埋没しているのが現状である。例えば、防塁や酋長、高僧の埋葬のための壁塁 などの遺跡は、ポンペイの各地で、特にキチ、マトレニームに多く見られる。なかでもナ ン・マトルは特筆すべき遺跡で、これだけの巨石を用いた大規模な海上都市は世界でも他に 類を見ない。ナン・マトルが欧米人の間では、古くから“太平洋のベニス”と讃えられてい る所以である。
 このガイドによりナン・マトル遺跡を訪れる人が1人でも増え、また遺跡の理解への一助 になれば幸いである。

1. ナン・マトルとは?

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Pohnpei Map
 ポンペイ島の南東部に隣接するチャムエン島の浅瀬に位置している。北東から南西にのび る石で囲まれた長方形のエリア(約1200mX600m、広さにして約70ha、ちなみに 東京ディズニーランドが約8.2ha)に、玄武岩で造られた大小92の人工島がある。丘陵を 背に、周囲を浅瀬に固く守られ、外洋からの入り口は1カ所のみである。これが、古代巨石 文明ナン・マトル遺跡である。

2. ナン・マトルにはどんな意味があるか?

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 ナン・マトルは、ポンペイ語で「Nan Madolと言い、「Nan」は、“〜の中”とか“場 所”を表わし、「Madol」とは“間”を表わす。すなわち、“天と地の間の場所”という意 味である。

3. ナン・マトルはいつ頃造られたか?

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 発掘調査の成果によると、ナン・マトル遺跡の中で最も古い「石組みの年代」を示すの は、ワサウの西暦600年頃というものである。したがって5世紀には何らかの築造が始 まったものと考えられる。
 ナン・マトルが最盛期を迎えるのは、11〜15世紀のことと考えられ、中心的な島々の多 くは、この時期に構築されている。ナン・トゥワス(12世紀後半)、パーヌウィ (13世 紀)、パーン・カティラ(10世紀、また14世紀に拡張)、イテート(13世紀)などが そうである。この時期には、ポンペイ全体を統治するだけのカをもった権力者がいたものと 推定される。これが伝承の世界では、シャウテレウル王ということになる。

4. ナン・マトルを造ったのはだれか?

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 1931年、J‐チャーチワードは、彼の著書「失われたムー大陸」において、太平洋に は、12000年前に水没した超古代文明が存在したと提唱した。ナン・マトルは、その聖 都だというのである。もちろん考古学的見地から彼を支持する人がいないのは当然のことで ある。一般的には、現在のポンペイの祖先が造ったものと考えられている。ではポンペイ人 の祖先はどこからやって来たのであろうか。
 ナン・マトルから出土した頭蓋骨は、イン ドネシア人およびポリネシア人からはかなり遠く、西ミクロネシア人に近く、メラネシア人 に最も近く、区別するのに困難であったということである。  さらに、ニューヘブリデス諸島とポンペイ語が、言語学上、非常に似ていることから、メ ラネシアの中でも、ニューヘブリデス諸島周辺からナン・マトルの祖先にあたる人々がやっ て来たとものと、推測されている。

5. ナン・マトルの島々の造りはどうなっているのか?

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nanmadol constructure
 92の島々の多くは、まず浅瀬に水面から1〜2m 位の高さに玄武岩で外囲いを造る。その中に珊瑚を敷 きつめて平らにし、大きいもので100m四方の島に している。
 昔はこの上に、マングローブの柱に、パンダナスや 椰子の葉を屋根とした木造の家屋が建っていたものと 推定される。
 さらに、墓地や儀式用の重要な島では、五角または 六角の玄武岩柱を、まるで校倉造りのように「井型」 に組んで外壁を造り、高いもので約8mの高さがある。

6. ナン・マトルの岩はどこから運ばれたのか?

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 ナン・マトルを構成している玄武岩は、すべて五角形や六角形などの多角形をした柱状 で、一般に柱状玄武岩と呼ばれているものである。これは地球の内部から火山の爆発によっ て噴出したマグマが、ゆっくりと冷えた時にできる現象だといわれている。ポンペイにも、 こうした現象はあちこちに見られ、地質学上“柱状節理”と呼んでいる。柱状玄武岩は一本 一本が独立して存在するのではなく、大きな塊となって地下に埋没しているが、露出してい る場合も多い。ポンペイのシンボル、ソケース・ロック周辺でも、まるでハチの巣のように、規 則正しい多角形の溝が、岩肌の表面に掘り込まれている様子が観察される。  これらの石材は、イカダのようなものを組んで水中に石材を吊して水路運んだものと、多 くの考古学者たちは推定している。

7. ナン・マトルを造るのにどのくらいの年数がかかったか?

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 仮に一つの島の大きさを50m四方としよう。島は水面上に1m出たと仮定して、周りを 現在のポンペイの人口約3万人から当時の人口を推定しても、2 万人を超えることはないであろう。自給自足をしていた当時、それ以上の人間の数を考える ことは困難である。2万人と仮定すると、女子供や老人を除いて、連日の重労働に耐え得る 労働力は4分の1の5千人ぐらいであろう。そして5人1組とすると、1千組で、1日がか り2千本の玄武岩を海岸まで下ろすことができることになる。しかし、実際はそうたやすく いくとはとても考えられない。また海岸からの海上輸送は遠くて時間がかかるので、ナン・ マトルに運ばれる石は、1日に100本が限界ではないだろうか。大きな筏(いかだ)に、 10本(10トン)乗せて10隻が1日1往復しても、1年間に運べる石はせいぜい2万本 位に過ぎない。海が荒れて運べない日や、労働者への食料補給の問題もあるからである。
 このように考えると、数百万本からなるナン・マトルの建設には、少なくても200年以 上を要したものと推測される。

8. シャウテレウル王朝の崩壊後、ナン・マトルはどうなったのか?

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 最後のシャウテレウルとなったシャウテ・モイがイショケレケルによって滅ぼされたこと によって、16代続いたシャウテレウル王朝は幕を開じた(王朝崩壊は1628年という説 もある)。その後イショケレケルは、ナン・マトルと全ポンペイを支配して大酋長となり、 ナンマルキと呼ばれた。それ以来代々の大酋長はナンマルキと呼ばれるようになって今日ま できている。ナンマルキたちはシャウテレウルと同じように、ナン・マトルのパーン,カラ ィラを宮殿としてそこに住み、ポンペイの首都としたのである。
 ナン・マトルは、代々、マトレニームのナンマルキの住居であったが、19世 紀の初めには放棄されていたことが、当時ナン・マトルを訪れたカトリック・ミッションや アメリカの捕鯨船などの報告で確認されている。その原因として、伝染病による大量の死亡 が考えられている。 19世祖の初めごろに島にやって来た鯨とりの水夫や交易人は、アルコ ールと共に、島の人々にとって有難くない病気まで持ち込んだ。もうひとつの大きな原因と して、ナン・マトルに受け継がれてきた儀式、あるいはポンペイの習慣として、なくてはな らないヤムイモやシャカオがナン・マトルでは育たなかったことも考えられる。どちらも水 気の多い、涼しい場所を好む植物だから、石で築いた人工島では育たないのである。その他 たびたび襲来する台風も島の生活には、大きな脅威であったことであろう。
 こうして海上に造られた巨石文明ナン・マトルは、およそ今から150−200年前に放 棄されてしまったと推定されている。

9. シャウテレウル王の系譜(下の括弧の数字は古い順を示す)

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 伝承に残っているシャウテレウル王を紹介しよう。
 (1)シャウテレウル・オロショ一パ
 兄のオロシーパーと共にナン・マトルを設計し、建造した。オロシーパーはナン・マトル の完成を待たずに死んだが、彼の死後、オロショーパは我こそは全ポンペイの王なりと宣言 し、シャウテレウルの称号を受けて、本島にマトレニーム、ソケース、キチの3州を設定し て、これに君臨した。
 (2)シャウテレウル・ムォーン・ムェイ
 (略)
 (3)シャウテレウル・イネネン・ムェイ
 (略)
 (4)シャウテレウル・サコン・ムェイ
 (略)
 (5)シャウテレウル・サライテン・サブゥ
 (略)
 (6)シャウテレウル・ライプェン・ラン
 (略)
 (7)シャウテレウル・ライブェン・ラコ
 「人喰い王」という意味である。ポンペイ全土から太った人間を捕えてきて、パーン・カ ティラの彼の住居の屋外にあるマンゴーの木につないで飼育した。よく肥えたときに殺して 食べたと言われている。彼は最上等の、最も肥えた人間を見つけることのできる不思議な能 力があり、口は海亀のようだったと伝えられている。
 (8)シャウテレウル・ケティバレ・ロン
 この王の妃は、人間の肝が大好物であった。彼女があまりにも島民たちに肝を献上するよ うに命じたので、ついに住民たちは彼女の父の肝を献上した。これを妃は嘆き悲しみ自殺し た。それを知った王もまた、ネッチのドロニャーの岸から、妃と同じように身を投げて死ん だと言われている。

 (9)シャウテレウル・シャウテ・モイ
 「戦う人」という意味である。この王については、詳しい話しが伝えられている。イショ ケレケルによって減ぼされた、最後のシャウテレウル王であったからである。
 伝承によると王は、ポンペイの神の1人である雷神ナーン・シャプエが妃と密会したのを 非常に嫉妬して、雷神をパーン・カティラに幽閉し、悶死させようとたくらんだ。雷神は命 からがらコスラエ島に逃れ、そこで運よく同族の女と会った。彼は、彼女に男の子を生せ、 王に復讐しようと決意した。しかし女が年をとりすぎてとても子は生めないと告げたので、 彼はライム果汁の汁を彼女の目に注いでやった。すると間もなく、女は妊娠して男の子イ ショケレケルを生んだという。
 雷神の命を受けたイショケレケルは、腐敗したシャウテレウル王朝を倒して、ポンペイを 専制な圧政から救おうと決意し、 333人の家来を率いてコスラエを出航した。イショケレ ケルは敵意のない来貢者を装って、パーン・カティラに近いケレプェルに宿営した。初めの うち、主客の間は平和であったという。やがて家来たちはかねて隠していた武器を手にして、 何くわぬ顔で応対しているイショケレケルのもとに集結し、彼の合図により、一挙にシャウ テレウルー族に襲いかかったのである。

10. 考古学的調査・研究史

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1835年 アメリカ人L・H・グリックにより報告される。
1852年 E・W・クラーク師により、ナン・トゥワスの図面を描く。この時初め て「ナン・マトルは、ボンペイ人の祖先によって築かれた」との考え方が示された.
1870年代 ドイツ人の人類学者であるJ・S・クパリーにより、初めて簡単ではあ るが、遺跡全体の測量が行なわれる。
彼が表面採集も含めて発見した遺物
1896年 イギリス人F・W・クリスチャンにより、遺跡全体の測量およびナン‐ トウアス中央墓の発掘が行なわれた。
出土遺物
1911年 ドイツ人P・ハンブルクが、 ドイツ南海探検隊の一員として、発掘調査 および測量調査を実施した。彼の遺跡全体図は、半世紀以上経過した現在でも、広く引 用されている。
出土遺物
1915年 村松瞭は、サパティクで貝製ビーズを発掘した。同時に長谷川言人 は、パーンウィでイモ貝製腕輪を発見した。
1929年 八幡一郎が、表面採集であるが、土器片を初めて確認した。
採集遺物
1942年 ビショップ博物館(ハワイ)の村立岩吉が調査した。
採集遺物
1963年 スミソニアン博物館(アメリカ)が、ポンペイの民俗調査と平行して ナン・マトルの発掘調査を実施した。
イテートのカマド跡の中の灰を、放射性炭素年 代測定法(C14年代測定法)で調べたところ、西暦1285±50年という結果を 得ることに成功した。
1978年 サクセ(オハイオ大学)、アッセン(グアム大学)が保存のための アプローチを開始した。アッセンは表面採集ながら、土器片を採集した。
1977年から現在に至るまで エアーズ(オレゴン)大学が、継続的な調査を 実施している。今日私たちが知ることのできる考古学的調査結果のほとんどは、工 アースの調査によるものである。

11. ナン・マトルの島々

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 ナン・マトルはポンペィ人にとって聖地であり、彼らの中には、そこに人間が出入りす ることを嫌う者もおり、旅行者は態度を慎まなければならない。シャウテレウル王朝の崩壊 後、 ドイツ、日本時代公有地のような取扱いを受けたこともあったが、それでも収穫物の専 有権がナンマルキに認められていた。少なくても、この地は歴代ナンマルキの居城であっ た。それで、この地を訪れる者は、チェムエン島の彼の現住所の視界内では、敬意を表わ し、許可を乞うつもりで、ポンペイの習慣にしたがって、高い姿勢にならないように、ボ ート内では立たないのが望ましいとされている。

参考文献

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Islets of Nan Madol(Pohnpei Government State)
Upon a Stone Alter(David Hanlon)
Man ' Conquest of the Pacific(P.Bellwood)
ナン・マトル遺跡(塚田 清美、斎藤 弘之)
巨石文明の出現と消滅(斎藤 弘之)
民族文化の世界(阿部 年晴他)
ポナペ島 (渡壁 三男)
呪いの遺跡ナン・マタール(白井 祥平)
環太平洋考古学(八幡 一郎)

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1996年
青年海外協力隊  在ミクロネシア連邦ポーンペイ州
執筆・製作 佐藤 悦夫
Pohnpei Historic Preservation Office(Phone:320-2652)
All rights reserved. ETSUO SATO 1997


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