a letter from JOCV in Pohnpei

隊員からの手紙全文 1995/10/9

    インデックス
  1. はじめに
  2. のどかなポンペイ
  3. 1st.FSM Games
  4. 遺跡調査
  5. 遺跡のなぞ
  6. 日本統治時代のポンペイ
  7. ポンペイの戦後50年
  8. ミクロネシアの将来は?
  9. 日本人観光客のために

1995年10月に当時青年海外協力隊員の斉藤弘之氏から作者宛に届いた常夏の国からの 残暑見舞い

はじめに

インデックスへ  Next
 皆様におかれましては、ますます御清栄のことと、お喜び申し上げます。 今年の夏は、梅雨明けから一変して、猛暑続きと聞いていますが、いかがお過ごしでし ょうか。夏バテなどされずに、お元気でお過ごしになられていることを、太平洋の彼方か ら願って止みません。
 さて、私は、ここポーンペイの常夏の気候にもしっかり馴染み、元気に暮らしています。 現在まで、健康上の大きな問題を抱える事無く、無事やってこられたことは、幸運だった と思います。今年初めには、5kgほどスりムになっていたのですが、最近では、着任時の 体重に近付きつつあります。この間、肩や腕の筋肉はスリムになったままで、肉が付いた のは腰回りというのは、実に情けない限りなのですが。

のどかなポンペイ

インデックスへ  抜粋  Next
 早いもので、私が、ここボーンペイヘ青年海外協力隊員として赴任して以来、1年4ヶ 月余りが過ぎました。2年間の隊員活動の中では、すでに折り返し点を回り、いよいよ活 動全体の総まとめを念頭に入れながら、日々業務を行うという段階になりました。任期中 にぜひやりたいこと、また必ずやらなけれぱならないことを思い浮かべると、自分に残さ れた期間で出来上がるものなのか不安になり、焦りさえ感じてしまいます。とは言え、こ こは南の楽園。太陽の光を浴びてキラキラと輝く青い海と、抜けんぱかりの青い空とを見 つめていると、そんな不安や焦燥、危機感などはどこへやら。ポンペイ人が、自分たち の国の将来に対して、危機感を強く抱かない気持ちに、共感さえできてしまいます。南の 島には、眉間にしわを寄せた顔など似合いません。彼らの楽天的な価値観こそ、ポーンペ イの最大の財産かもしれません。ただ、来年の春には、日本の社会に復帰するつもりの私 としては、それでは困るのでしょうが。

 海の彼方から伝え聞くところでは、今年前半の日本は、大事件が頻発し、大変だったの ではないでしょうか。関西大震災に始まって、地下鉄サリン事件とオウム真理教の一連の 事件、驚異的な円高(最高で$1=79円!?私たちの現地生活費がドル立て払いなの が残念です)、東京都・大阪府知事選、東京の2つの信用金庫の不正融資事件、日米自動 車摩擦などなど。米大リーグ・ドジャースの野茂の活躍は、数少ない嬉しいニュ一スでは なかったでしようか。

 ただ、ここポーンペイでは、関西大震災を除き、どれも遠い彼方の出来事でしかありま せん。閑かで平凡な南の島の一日が、ただ過ぎていくだけです。こんな所にいても、1カ 月遅れの新聞などを貪るように読んで、時代に後れまいとするのは、文明人の悲しい性格 なのでしょうか。ポーンペイ人のほとんどは、海の彼方で何が起こっているかなど、ほと んど知りません。それでも彼らは一向に気にしません。毎晩のようにサカオ〈木の根を砕 いて搾った“酒”。南太平洋で広く見られるカヴァ酒の一種。アルコール分は含まれてい ませんが、麻酔成分のために飲むといい気持ちになる)を飲んで酔っ払えば、それで幸せ なのです。文明の力で世界中の情報を集めても、 (ここでは、決してそのことを否定する つもりはないのですが)不安や危機感が高まるばかりで、何ら個人個人の幸福にはつなが っていないような気がしてなりません。人生における本当の意味での幸福とは、いったい 何なのでしょうか。

 それでも、さすがに関西大震災の時は、様々なポーンペイ人から心配していただきまし た。曰く「お前は、日本の何処から来たのか。」、 「そこは、神戸に近いのか。」、 「お 前の親戚や友人で、被害に遭った人はいなかったか。」などなど。地震の話題が、まるで 挨拶のようになっていた時期もありました。地震のないポーンペイに住む人々にとっては、 地面が数分間揺れることで、5500人以上もの人々が亡くなってしまうことなど、まさ に想像を絶する出来事なのでしょう。地震の恐ろしさを、子供の時から機会があることに 教えられた日本人の私でさえ、今だに実感が乏しいくらいなのですから。

1st.FSM Games

インデックスへ  抜粋  Next
 さて、ポーンペイで起こった大きな出来事といったら、7月上旬に、日本の国体にあた る“1st FSM Games”があったことでしようか。国体と言っても、国全体で人 口が12万人、ポーンペイ州では3万人といった規模ですから、むしろ市民体育大会の方 が適切でしょうか。それでも、栄えある第1回目の開催を首都のあるポーンペイ州で行う ということで、事前からの盛り上がりは相当なものでした。特に問題と思われた資金集め でしたが、様々なチャリティーショウや、ミス・ポーンペイ及ぴミス・FSMコンテスト  (一番多くの寄付金を集めた人がミスに輝くという、一種の寄付金集め競争。よって、ミ スの候補者のほとんどが、大統領の孫娘とか、金持ちの一族とかいう人たちばかり。ただ、 ここで最も大切なのは、資金を集めてFSM Gamesを成功させることであるのだか ら、その意味では、このミス・OOOコンテストは名案と言える)などによって、なん とか賄ったのは、立派でした。何かというと、すぐに外国の援助に頼る傾向がある人々が 自分の手で資金を集めて運営したこの大会から、久しぶりに将来への希望というものを感 じ取りさえしました。「なんだ、できるじゃないか。」と。

 この際、競技のレベルなどあまり関係ありません。自分たちの手で運営した大会に、ミ クロネシア連邦の各州から選手と応援団が駆け付け、期間中、大いに盛り上がったという のですから大成功といえるでしょう。もっとも、グランドや体育館の周囲は常に人集り、 道路は大渋滞(渋滞するほど、この国に自動車があったとは!)、レストランは満員、お まけに同僚たちは「親戚のOOOOが、試合に出るから応援に行く。」と言って仕事には 来なくなる有様。ポーンペイでは、 “親戚”の示す範囲が、日本の場合よりはるかに大き いので、ほとんど毎回のように応援に行ってしまうことになります。その間、当然、通常 の仕事はストップ。こういうところは、 「やはり、ポーンペイ人だなあ。」と思わずには いられません。

 競技内容は、一般的な陸上競技、バレーポール、バスケットボール、野球、卓球、テニ ス、水泳などの他に、スペア・フッシング(銛による魚取り)、伝統的なカヌーでの競争 といったものもありました。さらに“ミクロネシア5種競技”と呼ばれたものは、素潜り、 鈷投げ、水泳、ココナッツの皮剥き、ココナッツの木登りをそれぞれ行い、その総合得点 を競い合うというものです。各種目のユニークさがおもしろいでしよう。ちなみに、陸上 競技の10種競技の優勝者は、“The King of Athletes”と呼ぱれるのですから、ミクロ ネシア5種競技の優勝者は、“The King of Micronesian”とでも呼ばれるのでしようか。 はてさて。

 また、他の出来事で特記すべきことと言えば、6月の未より、ここポーンペイでも、N HKの衛星放送が見られるようになったということがあります。もっとも、どの家庭でも 見られるというわけではなく、ケーブルテレビを見ることのできる、一部の上流家庭とホ テルや高級レストランなどだけです(これは、衛星放送の受信契約が、NHKと地元のケ ーブルテレビ局との間で行われているためです。また、番組も日本の衛星第1、第2とは 異なる別編成です)。私のホームステイ先では見られませんが、週末などは、協力隊の現 地事務所に行っては、ついつい見てしまいます。
 “NHKニュース”の存在は、従来の1 カ月遅れの新聞に比べて、情報の迅速さ、映像の持つリアリティーという点では、比べも のにもなりません。しかし、ブラウン管の前で、ふと「今、自分は何処にいるのか」と考 えてしまうことが度々あります。この瞬間、高度情報化社会でよく言われるところの、 「 地球が小さくなった。」という言葉の重みを感じずにはいられません。まさに、電波が、 地球を一つにしたと言えるでしょう。ただ、逆に、それは、 “世界の辺境の地”に憧れる (?)協力隊員にとっては、少々寂しいことでもあるのですが。

遺跡調査

インデックスへ  抜粋  Next
 さて、協力隊のOBやOGの体験談によると、皆、口を揃えて「2年目は忙しい。」と 言います。この点においては、私も例外ではなく、現在、まさに“忙しい2年目”の真只 中にいます。  まず、その取り掛かりは、2月の末からの、島の反対側、キチ村のパーレン地区の山奥 にある遺跡の測量調査でした。ポーンペイ州観光局が、この遺跡を観光向けの史跡公園と して整備するための事前調査と、その公園整備の計画立案を目的としたものでした。これ には、個人的にも、ポーンペイヘ来て初めて取り掛かる本格的な考古学的な仕事とあって、 たいへん意気込んで取り掛かりました。  この遺跡は、標高40数mの丘の上にあり、太平洋の巨石文明で有名なナン・マドール 遺跡を小さくしたような、石を組み上げた構造(日本の城の石垣に近い)をしていまます。 この丘が海に近いこともあり、遺跡の最も高いところからの、太平洋を一望することので きる眺めはまさに絶景で、単に純粋な意味での史跡公園というだけでなく、景勝地として も十分価値を持っています。

 さて、この遺跡の大きさ(石造部〉は42×17mで、北側と東側には、丘の斜面をな だらかにして作った、奥行4〜6mの“前庭”状の部分があります。石組みの高さは最高 で7mにもなります。方角は、石造部の長辺が、ぽぽ正確に真東一真西(地球の自転上の 東西)を向いています。  地元では、この遺跡を、

“Dolen Long”   (ドレン ロン      天国への丘)
“Dolen Ekiek”   (ドレン エキエック   秘密の丘)
“Dole Mwekidikid”(ドレ ムエキティキット 動く丘)
“Dole Tikitik”  (ドレ ティキテイク   小さな丘)
と呼んでいます。人によっては、 “パーレンのナン・マドール”とさえ言います。

 この調査、当初の考えでは、 1カ月間で終了する予定だったですが、不覚にも3倍近い 期間を要してしまいました。これは、まず、現地の雨の多さにに大きく影響されたという ことがあります。ポーンペイに、約一年住み、ここの気候を知ったつもりでいたのが、実 は非常に甘かったということです。特に今回調査をしたキチ村のパーレン地区は、ポーン ペイ人によれば、 「歴史的に(古くからの伝承では)、ポーンペイで最も雨の多い場所。」 とのこと。彼らの折角のアドバイスにもかかわらず、調査を始めた当初、幸い天候に恵ま れていたため、 「歴史は変わったんだ。」と大口を叩いていると、まもなく面目が丸潰れ になってしまうこととなりました。やはり、歴史(伝承)は正しかったのです。何しろ雨 が多く、ウンザリさせられました。コロニアタウンでは、年間降水量が5000mm(東京では 1500mm)なので、パーレンでは、8000〜10000mmは降っているかもしれません。コロニアタ ウンが青空なのに、パーレンは土砂降りという日が何度もありました。また、朝パーレン に着いた時は天気が良くとも、日に2、3度は、にわか雨(スコール)がやってきます。 最悪な日には、一日5回のにわか雨に襲われ、作業はほとんど進まず、ただ濡れにいった だけの時もありました。相手が雨では、ただため息をつくしか仕方ありません。
 また、いきなり“日本並み”に細密な図を描こうとしたために(これは、私自身の「気 負い」と「リキミ」が原因)、本来手伝ってくれるはずの同僚に逃げ出されてしまう有様 (結局、補助的な仕事を、地元の人々や子供たちに手伝ってもらいました)。さらに、道 具の問題(ここでは長さの単位が、全てインチ・フィート)や、私のポーンペイ語の力不 足から、コミュニケーションがうまく取れないといった問題もあったでしよう。しかし、 何よりも、考古学の測量調査をする上で最も重要な点の欠落、つまりポーンペイの遺跡に 対しての知識不足、勉強不足、認識不足があったことも否めません。これまでに見たこと もない遺構を前に、ほとんど予備知識がなく、手探りで作業を進めるというのも恐ろしい ものです。まさに、戸惑いの連続でした。

 現地での測量調査自体は、 5月中旬には終了させることができました。今となっては、 「様々なよい教訓を得ることができた」と、軽く言えるかもしれません。しかし、測量調 査中、特に当初の当初の予定をオーバーしてからは、上司からの「いつ終わるのか」の問 いに答えるのに、ヒヤヒヤしてばかりの毎日でした。  さて、この遺跡の年代は、石組みの型式から、 16世紀頃のものと推定されます。 11 〜15世紀に全盛期を迎えたナン・マドールが、そのポーンペイ全島を支配した中央集権 的なカを失い、各地に力が分散していった時期にあたります。(これらは、FSM連邦政 府のStaff Archaeologist,Dr.Rufino Maurisioの御助言によるものです。)

遺跡のなぞ

インデックスへ  抜粋  Next
 ところが、この遺跡の目的となると、ほとんどわかりません。墓や一般の住宅ではない ことは、たぶん間違いないでしょう。しかし、何のために丘の上にこんな石造建築を作っ たのか、それぞれの部分の構築物は何を意味するのかについては、頭を捻り無い知恵を搾 っているところです。様々な人に尋ねてみた結果、最も多かった意見が「城塞説」です。 理由としては、丘の上という戦略上の拠点にある、石組みの外に面した端の部分には、以 前には石の「壁」があったことがわかる、この時代は各地に権力が分散して、戦乱の時代 であったことが想定される、などです。ただ、個人的には、ほぼ正確に真東と真西を向い ている(つまり春分の日と秋分の日に、太陽が昇って沈む方向を正確に向いている)こと から、太陽に関しての何かの祭祀を行う場所ではないのだろうかという、 「天体祭祀場( 天文台)説」考えているのですが。いずれにしろ、まだまだ、勉強不足です。

 実は、この遺跡については、とんでもない(!?)後日談があるのです。私としては、 現地で描いた測量図を、 トレースして清書し、まず上司等に提出した後、公園整備計画を 立案して、測量調査自体におけるレポートを作成すれば、この遺跡に関しての業務は一応 全て終了するものと考えていました。ところが、土地局長、歴史保護文化課長、さらには FSM連邦政府のStaff Archaeologist,Dr,Rufino Maurisioまで欲が出て来て、 「ぜ ひ、部分的で構わないから発掘調査をし、14Cによって絶対年代を調べるべきだ。」とい うことになりました。 「金のことは、心配しなくていい。」という、上司からの心強い助 言で(けれど、いったい何処から金を捻り出すつもりなのだろうか?)、私もその気にな り、いざ発掘調査ということになったのです。14Cの分析にかけられそうな遺物が出土し そうな場所を探して、 3カ所を発掘する計画としました。調査を開始して、始めの2日間 はよかったのですが、それから・・・・・・。
 発掘調査は、現在も継続中なので、発掘調査が始まってからいったい何が起こったかは、 調査に一応の区切りがついてからまとめたいと思います。来年の年賀状には、報告できる 予定なので、お楽しみに。それにしても、今回の出来事は、 “ポーンペイの奥の深さ”と か、 “途上国での発掘調査の難しさ”を、自分に対して、身に染みて教えてくれました。 この遺跡の、一連の調査は、私に、本当に多くの教訓を与えてくれたものです。

日本統治時代のポンペイ

インデックスへ  抜粋  Next
 また、ポーンペイリトルキニ博物館のイベントとして、観光客が増加する7〜9月の サマージーズンに合わせた形で、企画展“The Past Pohnpei”を企画、 開催しました(9月末まで開催中)。これは、古い写真(90〜60年前のもの。オリジ ナルは展示できないので、接写して、適当な大きさに引き伸ばした)を、60点ほど展示 したものです。現在地が判明したものについては、現況の写真をすぐとなりに展示して、 現在の変貌ぶりが比較できるようにしています。展示会場は、博物館の他に空港のロビー も利用し(当初は、空港ロビーの中央に展示していたのに、 「交通の妨げになる」という ことで、ロビーの隅に追いやられてしまったのは残念)、できるだけ多くの人に見てもら えるようにと配慮しました。

 実は、この企画展の調査段階から気が付いていた、現在のポーンペイを考える上で、非 常に重要なことが一つあります。  ポーンペイは、1914年から45年までの31年間、日本に支配統治されていました。 今回展示した写真の多くは、日本時代のもので占められています。確かに、日本時代には、 日本人がポーンペイ人に対し、同じ人間同士として心から恥ずべきこと、現在でもポーン ペイの人々に対して本当に申し訳なく思うことが数々ありました。 「日本人に、テニアン 島へ連れていかれた私の親戚は、二度とポーンペイへは帰ってこなかった。」と言われた とき、ボランティアとしてきている私がここで謝罪すれば、彼らの気持ちは晴れるのでし ょうか。たぶん、無理でしょう。それらは、永遠に消し去ることのできない歴史の汚点な のですから。

 しかし、そんな不幸な歴史とは裏腹に、カメラのレンズを通して見た、その当時の風景 や人物からは、明らかに現在以上の豊かさや明るさが見て取れるのです。それも、日本人 においてではなく、ポーンペイ人自身やポーンペイ社会全体に対して。
 日本時代には、日本資本とはいえ、製糖工場〈現在ではジャングルになってしまった) 鰹節生産工場、コプラ工場、澱粉生産工場、パイナップル畑、全て現在では喉から手が出 るほど貴重となった輸出産業が、厳然とそこにはありました。当然、産業があれば仕事も 多く、現金収入の道も広かったことでしょう。さらに、整った街並、学校、教会、ほとん どが現在より豊かに感じられます。また、ポーンペイ人の服装を見ても、教会に出掛ける 姿などは、現在では考えられないほどオシャレで整っています。そして驚くべきことに、 ポーンペイ人自身が、過去の不幸な関係を越えて、「日本時代は良かった。」と証言する のを実によく耳にするのです。

ポンペイの戦後50年

インデックスへ  抜粋  Next
 「ただ物質的に豊かであればよい。」という風には決して思いません。しかし、何ら自 立のための産業を持たず、若者は学校を卒業しても職がなく、かろうじて外国からの援助 金によって財政を支えている現状を考えると、写真のなかの世界が、とても輝いて見える のです。そして、ここで、この問いに触れないわけにはいきません。「ポーンペイにとっ て、戦後の50年間とはいったい何だったのか。戦後のアメリカの援助とは、いったい何 だったのか。はたして現在は、過去よりも発展したといえるのか。」と。

 日本人である私が、こう言うことに対して、批判されることを承知で言うのならぱ、 戦後のアメリカの援助は、東西冷戦の産物で、あくまで「ミクロネシアを自立させない」 ための援助だったのではないでしようか。医療や、インフラ整備、教育に対しての援助は したものの、決して将来の真の独立のための、産業開発はさせなかったのです。アメリカ は、ミクロネシアを、ずっと“紐付き”にしておきたかったのではないのでしようか。
 もちろん、この意見に対しての批判・反論は知っています。曰く「戦後、人々を強制労 働や低賃金の労働、または生命の危機から“解放”したのは何処の国だ。」、 「人々に、 別け隔てのない教育、医療を提供したのは何処の国だ。」、 「これまで、人々に、膨大な 援助をしてきたのは、いったい何処の国だ。」と。

ミクロネシアの将来は?

インデックスへ  抜粋  Next
 考えてみれば、歴史とは皮肉なものです。ソ連という国が消え、東西冷戦が終わり、ア メリカがミクロネシアを“紐付き”にしておく政治的理由がなくなってしまったのです。 さらにアメリカは、現在、膨大な財政赤字を抱えて、援助どころではありません。よって、 1986年の独立時にアメリカとの間で結んだ15年間の自由連合協定〈軍事、外交につ いてはアメリカに委ねる代わりに、膨大な財政援助を得る)は、2001年以降、継続さ れる見通しはありません。つまり、あと6年で、戦後の国連信託統治領時代から継続して いた、アメリカからの財政援助が途絶えるのです。 「そんな勝手な話が。」と、お思いに なられるかもしれませんが、これが大国の思惑に左右された、太平洋の小さな島国ミクロ ネシアの現実なのです。ポーンペイをはじめとしたミクロネシアの将来は、未だ見えてき ません。

 再び、写真の話に戻ります。はたしてポーンペイ人は、現在ではジャングルになってし まった場所に製糖工場があったことを知り、どう考えるのでしょうか。他にも、鰹節生産 工場、コプラ工場、澱粉生産工場、パイナップル畑を見でどう思うのでしょうか。何を感 じるのでしょうか。 「昔はよかった。日本時代は豊かだった。」と、支配・被支配という 不幸な関係を忘れて、ただ感傷に浸るだけでよいのでしょうか。
 この企画者である私が、今回の写真の展示を通して、ポーンペイ人に対して投げ掛けた メッセージがあるならぱ、それは、彼らが“過去”を見ることで、 “現在”そして“将来” を考える、一つのきっかけにしてほしいということでしょうか。過去には、外国資本なが らも、国を興す産業が確かにありました。現在、それが無いのはなぜでしようか。どうす れば再び産業を興し、国として自立が図られるのでしょうか。展示を見ながら、または見 た後で、このような自問自答を、できるだけ多くの人にしてほしいのです。そして、それ が、人々の間で広く議論されるようになった時、ポーンペイをはじめ、ミクロネシアの新 しい将来が見えてくると考えるのですが。
 博物館に勤める協力隊員の国際貢献とは、こんなところなのでしようか。

日本人観光客のために

インデックスへ  Next
 さらに、私を忙しくさせているのが、あちこちからの頼まれ仕事です。 中でも最も多いのは、日本人観光客に対しての、いわゆる“日本語対応”の整備といっ たところです。ポーンペイは、年間総観光客のうち、日本人が4割を占める所なのです( 大半が、ダイビング目的なのですが)。よって、様々な場所で、日本語での対応というこ とが、重要なカギになっているのです。私が頼まれるのは、具体的には、日本語の観光ガ イドの制作から、観光地への日本語標識の併設、レストランの日本語メニューの作成(翻 訳)などなどです。前の遺跡の調査で知り合って以来、ポーンペイ州観光局から頼まれる ことが多くなってきています。これらは、協力隊員としての業務とは別なので、断ること もできるのですが、生来の“イヤとは言えない性格”からか、ついつい安請け合いをして しまうのです。

 とはいえ、将来、ポーンペイを経済的に支えるとすれば、当面の間は、漁業と観光しか ないでしょう。つまり観光は、重要な基幹産業なのです。となれば、発展途上国の国づく りに貢献するという青年海外協力隊員としては、性格のこともあいまってか、やはり協力 しないわけにはいきません。 「2001年以降の命運がかかっている。」などと言ったら オーバーでしょうか。もっとも、レストランのメニュー1つくらいでは、大したことあり ませんが。
 というわけで、また忙しくなってしまうのです。

 今回も、長々とした手紙に、最後までお付き含いくださいまして、誠にありがとうござ いました。中には、グチやボヤキのような内容もあったかもしれません。もし、御不快に 思われた箇所がありましたら、どうかお許しください。  ポーンペイには、季節の変わり目というものがありませんが、日本では夏から秋へと移 り変わる時期かと思います。よく、季節の変わり目には、体調を崩しやすいと言います。 どうかお体には、くれぐれもお気を付けてお遇ごしください。
では、また。

1995年10月9日
青年海外協力隊  在ミクロネシア連邦ポーンペイ州
斎藤 弘之

Mr. Saito

インデックスへ

All rights reserved. HIROYUKI SAITO 1995


jocv pageJOCV page Home pageHome page


Friends Of Micronesia/a1shima@hi-ho.ne.jp