a letter from JOCV in Pohnpei(Digest)

隊員からの手紙(抜粋)

Index
  1. のどかなポンペイ
  2. 1st.FSM Gamesの成功
  3. 遺跡調査
  4. 遺跡の謎
  5. 日本統治時代のポンペイ
  6. ポンペイの戦後50年
  7. ミクロネシアの将来は?


のどかなポンペイ
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 早いもので、私が、ここボーンペイヘ青年海外協力隊員として赴任して以来、1年4ヶ 月余りが過ぎました。2年間の隊員活動の中では、すでに折り返し点を回り、いよいよ活 動全体の総まとめを念頭に入れながら、日々業務を行うという段階になりました。任期中 にぜひやりたいこと、また必ずやらなけれぱならないことを思い浮かべると、自分に残さ れた期間で出来上がるものなのか不安になり、焦りさえ感じてしまいます。とは言え、こ こは南の楽園。太陽の光を浴びてキラキラと輝く青い海と、抜けんぱかりの青い空とを見 つめていると、そんな不安や焦燥、危機感などはどこへやら。ポンペイ人が、自分たち の国の将来に対して、危機感を強く抱かない気持ちに、共感さえできてしまいます。南の 島には、眉間にしわを寄せた顔など似合いません。彼らの楽天的な価値観こそ、ポーンペ イの最大の財産かもしれません。ただ、来年の春には、日本の社会に復帰するつもりの私 としては、それでは困るのでしょうが。

1st.FSM Gamesの成功
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 さて、ポーンペイで起こった大きな出来事といったら、7月上旬に、日本の国体にあた る“1st FSM Games”があったことでしようか。国体と言っても、国全体で人 口が12万人、ポーンペイ州では3万人といった規模ですから、むしろ市民体育大会の方 が適切でしょうか。それでも、栄えある第1回目の開催を首都のあるポーンペイ州で行う ということで、事前からの盛り上がりは相当なものでした。特に問題と思われた資金集め でしたが、様々なチャリティーショウや、ミス・ポーンペイ及ぴミス・FSMコンテスト (一番多くの寄付金を集めた人がミスに輝くという、一種の寄付金集め競争。よって、ミ スの候補者のほとんどが、大統領の孫娘とか、金持ちの一族とかいう人たちばかり。ただ、 ここで最も大切なのは、資金を集めてFSM Gamesを成功させることであるのだか ら、その意味では、このミス・OOOコンテストは名案と言える)などによって、なん とか賄ったのは、立派でした。何かというと、すぐに外国の援助に頼る傾向がある人々が 自分の手で資金を集めて運営したこの大会から、久しぶりに将来への希望というものを感 じ取りさえしました。「なんだ、できるじゃないか。」と。

遺跡調査
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 さて、協力隊のOBやOGの体験談によると、皆、口を揃えて「2年目は忙しい。」と 言います。この点においては、私も例外ではなく、現在、まさに“忙しい2年目”の真只 中にいます。
 まず、その取り掛かりは、2月の末からの、島の反対側、キチ村のパーレン地区の山奥 にある遺跡の測量調査でした。ポーンペイ州観光局が、この遺跡を観光向けの史跡公園と して整備するための事前調査と、その公園整備の計画立案を目的としたものでした。これ には、個人的にも、ポーンペイヘ来て初めて取り掛かる本格的な考古学的な仕事とあって、 たいへん意気込んで取り掛かりました。
 この遺跡は、標高40数mの丘の上にあり、太平洋の巨石文明で有名なナン・マドール 遺跡を小さくしたような、石を組み上げた構造(日本の城の石垣に近い)をしています。
この丘が海に近いこともあり、遺跡の最も高いところからの、太平洋を一望することので きる眺めはまさに絶景で、単に純粋な意味での史跡公園というだけでなく、景勝地として も十分価値を持っています。

遺跡の謎
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 ところが、この遺跡の目的となると、ほとんどわかりません。墓や一般の住宅ではない ことは、たぶん間違いないでしょう。しかし、何のために丘の上にこんな石造建築を作っ たのか、それぞれの部分の構築物は何を意味するのかについては、頭を捻り無い知恵を搾 っているところです。様々な人に尋ねてみた結果、最も多かった意見が「城塞説」です。
理由としては、丘の上という戦略上の拠点にある、石組みの外に面した端の部分には、以 前には石の「壁」があったことがわかる、この時代は各地に権力が分散して、戦乱の時代 であったことが想定される、などです。ただ、個人的には、ほぼ正確に真東と真西を向い ている(つまり春分の日と秋分の日に、太陽が昇って沈む方向を正確に向いている)こと から、太陽に関しての何かの祭祀を行う場所ではないのだろうかという、 「天体祭祀場( 天文台)説」考えているのですが。いずれにしろ、まだまだ、勉強不足です。

日本統治時代のポンペイ
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 ポーンペイは、1914年から45年までの31年間、日本に支配統治されていました。
今回展示した写真の多くは、日本時代のもので占められています。確かに、日本時代には、 日本人がポーンペイ人に対し、同じ人間同士として心から恥ずべきこと、現在でもポーン ペイの人々に対して本当に申し訳なく思うことが数々ありました。 「日本人に、テニアン 島へ連れていかれた私の親戚は、二度とポーンペイへは帰ってこなかった。」と言われた とき、ボランティアとしてきている私がここで謝罪すれば、彼らの気持ちは晴れるのでし ょうか。たぶん、無理でしょう。それらは、永遠に消し去ることのできない歴史の汚点な のですから。
 しかし、そんな不幸な歴史とは裏腹に、カメラのレンズを通して見た、その当時の風景 や人物からは、明らかに現在以上の豊かさや明るさが見て取れるのです。それも、日本人 においてではなく、ポーンペイ人自身やポーンペイ社会全体に対して。  日本時代には、日本資本とはいえ、製糖工場〈現在ではジャングルになってしまった) 鰹節生産工場、コプラ工場、澱粉生産工場、パイナップル畑、全て現在では喉から手が出 るほど貴重となった輸出産業が、厳然とそこにはありました。当然、産業があれば仕事も 多く、現金収入の道も広かったことでしょう。さらに、整った街並、学校、教会、ほとん どが現在より豊かに感じられます。また、ポーンペイ人の服装を見ても、教会に出掛ける 姿などは、現在では考えられないほどオシャレで整っています。そして驚くべきことに、 ポーンペイ人自身が、過去の不幸な関係を越えて、「日本時代は良かった。」と証言する のを実によく耳にするのです。

ポンペイの戦後50年
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 「ただ物質的に豊かであればよい。」という風には決して思いません。しかし、何ら自 立のための産業を持たず、若者は学校を卒業しても職がなく、かろうじて外国からの援助 金によって財政を支えている現状を考えると、写真のなかの世界が、とても輝いて見える のです。そして、ここで、この問いに触れないわけにはいきません。「ポーンペイにとっ て、戦後の50年間とはいったい何だったのか。戦後のアメリカの援助とは、いったい何 だったのか。はたして現在は、過去よりも発展したといえるのか。」と。
 日本人である私が、こう言うことに対して、批判されることを承知で言うのならぱ、 戦後のアメリカの援助は、東西冷戦の産物で、あくまで「ミクロネシアを自立させない」 ための援助だったのではないでしようか。医療や、インフラ整備、教育に対しての援助は したものの、決して将来の真の独立のための、産業開発はさせなかったのです。アメリカ は、ミクロネシアを、ずっと“紐付き”にしておきたかったのではないのでしようか。

ミクロネシアの将来は?
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1986年の独立時にアメリカとの間で結んだ15年間の自由連合協定〈軍事、外交につ いてはアメリカに委ねる代わりに、膨大な財政援助を得る)は、2001年以降、継続さ れる見通しはありません。つまり、あと6年で、戦後の国連信託統治領時代から継続して いた、アメリカからの財政援助が途絶えるのです。 「そんな勝手な話が。」と、お思いに なられるかもしれませんが、これが大国の思惑に左右された、太平洋の小さな島国ミクロ ネシアの現実なのです。ポーンペイをはじめとしたミクロネシアの将来は、未だ見えてき ません。
Mr. Saito 1995年10月9日
青年海外協力隊  在ミクロネシア連邦ポーンペイ州(当時)
斎藤 弘之


All rights reserved. HIROYUKI SAITO 1995
筆者はすでに帰任し、岐阜県安城市にて学芸員として活躍中
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