カセレリア 第27号

2002.7.21(From bulletin of NGO-FOM)
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  1. カセレリア27号(FOM代表挨拶)
  2. ●ミクロネシア3たび 小森 宰平(会員番号 00737)
  3. ●やっとカニに ついでにカメも ポンペイ〜コスラエ日記 河瀬敦忠(会員番号 00736)
  4. ●はじめてのボンペイ 松村 寧子(会員番号00743)
  5. 今回の旅行日程


会員各位殿 カセレリア27号

ミクロネシア連邦のチューク島全域に非常時態宣言
 5月23日関西空港を出発し6月3日に帰国迄,会員の方々とポナペ島,及びコスラエ島(ミクロネ シア大使館のおはからいでFOMの公式訪問の形がとられコスラエ州知事をはじめ皆様の大そう親切 なお出迎え,御案内を受けました)の訪問を重ね,その御報告を兼ねてカセレリア27号の準備をして いたところ,7月12日東京のミクロネシア大使館のジョンフリツツ公使からの電話を受けあの日本を 襲った台風6号(現地名CHATA’AN)が日本に来る前にミクロネシア連邦のチューク(トラック珊瑚群 島)を襲い,多数の死傷者,家屋道路の破壊,流失,電気,電話,給水などの生活基盤に大損害を与え テューク島全域に非常時態宣言が敷かれたと言う悲報を知らされました。

7月9日現在で確認された死者46名,傷害をこうむった人71名(但し病院に運ばれて治療を受けた人以外は除く)家を失った人 の数は推定5000人以上。現地では強風,大雨が続き政府や駐留米軍が組織した調査隊や救護隊の活 動も思うようにいかず,無数の小島などには通信設備も不完全な所が多く被害の実態を掴むにはまだ時 間を要すると言う状態です。

 幸い,関係各国(日本を含む)政府からの救援物資も順次到着しだしたとの事ですが,被害者全てに 行き渡り給水の問題など解決するのはまだまだ先のようです。
 FOMとしては,代表名でチューク州知事のDR.ANSITO WALTER氏宛に下記の通りま ずお見舞いのFAXを打ちました。

FOM代表 本吉義宏

DR.ANSITO WALTER
CHUUK STATE GOVERNOR

YOSHIHlRO MOTOYOSHI
REPRESENTATIVE OF FOM

Dear Governor Walter,
I just received a telephone call from Minister John Fritz of your Tokyo Embassy informing us the tropical storm Chata'an, (Typhoon No. 6 as called in Japan) had attacked your villages and islands in the Chuuk Lagoon leaving extensive damages and so many casualties. He also provided us of the official report of Typhoon caused damages as of July 9, 2002. I think what we, FOM can do at this moment is a quite little, but we must do what we can do for you. Please provide us of your up-to-date information of Typhoon Chata'an case. The same Typhoon attacked and left quite extensive damages to us in Japan, and following Typhoon No. 7 and 8 just left us causing more damages by strong wind and heavy rain. So was the situation, we didn't come to know of your Chata'an disaster. My best regard and concern to Dr. Manual D.Sound and Mr. Nachsa Siren - - - ・

 先のエル二ーニョに出る旱魅の被害を受けた時は会員の河合千代子さん(岐阜,大垣)の経験を生かして頂きチュークで過去に日本軍が掘って使用した井戸の再生を計り60余の井戸を訪れ調査及び再生指導をしましたが,この度もFOMならではのチュークの被害者の方々の復活支援をせねばと考えています。

 会員の皆様にお願いしたいのは上記にかかわるFOMの活動資金が現在不足しています。必要ですので出来る範囲のカンパを集めて頂きたいのです。同封の振込用紙で「チュークカンパ」を記してお送り下さい。

代表 本吉 義宏

尚,ポナペ,コスラエ訪問の旅(5/23〜6/3)同行者は


●ミクロネシア3たび 小森 宰平(会員番号 00737)

 三年連続してフレンズ・オブ・ミクロネシア(FOM)の現地訪問に同行した。
 1回目は入会したばかりで、FOMが現地支援のボランティア組織とは知っていたが、観光の興味が優先していた。しかし本吉義宏代表に連れられてチューク(州)を回り、2回目はポナペ(州)を訪ねて本吉代表が理事を務めるPATS(Pohnpei Agriculture & Trade School=ポナペ農業工業高校)の卒業式に臨み、またあちこちで神戸市のマークをつけたままの寄贈消防自動車、救急車の多くを見るにつれ、FOMが何をしようとしているのか薄々理解できるようになってきた。戦時中にご迷惑をおかけした現地の人たちへお返しの支援を行う中で、真の独立を実現してもらう手助けをしていこうということなのだ。

 そうした線上にある活動なのだから、自立の芽を摘み取る安易な支援・援助は論外である。われわれ(この場合、自分だが)に何ができるか、何をしなければならないか、そして何をしてはいけないかをしっかり見極めることが何よりも大切である。

 僕と、同じときに入会し毎回一緒にツアーに参加している河瀬敦忠会員は、二人とも旅を主な仕事にしているマスコミ集団の旅行ペンクラブ(事務局=大阪)の会員である。
このクラブの活動の基本理念は「現場主義」。旅に関する活動の基点はあくまで旅先で、現場に行き、実際に現場の風に吹かれ、現場の匂いをかぎ、現場の視点で状況を把握し、情報発信していこうというのである。FOMの活動の視点も現場に立脚したものであるはずである。やらねばならぬ支援か、やってはならない援助かの見極めも、現場に身を置いてこそ見えてくる。そんな思いで1回目、2回目を経過、現地ではできる限り現地サイドの意見を求めることを重視したつもりである。

 3回目を踏み出す前、たまたま知り合いの娘さんが南太平洋のある国から青年海外協力隊の任務を終えて帰国、ちらちらと話を聞いた。それを総合すると、どうも理想と現実にはかなりの隔たりがあったと感じられた。栄養士の資格を持って、現地人の体質改善へつながる栄養指導をしたいと勇んでの出立だったはずだが、病院食堂での献立作りの下働きみたいな仕事が多かったようで「隊員の置き方にも問題があるように思います。どういう経緯で隊員を置いているのか知りませんが、セールスではないのだから、蛇足のような、とってつけたような赴任はやめてほしい。その国の人たちでやっていけるのを、無理に隊員を着任させる必要はないと思います。彼らには、彼らが作ってきた文化があり、習慣があり、その国や自然に合った生き方をしています。それを無理に自分たちの価値に合わさせる必要はないんじゃないかと思いました」と言っていた。まさにその通り! 現地の視点に立ってこその支援なのだ。青雲の志に燃える若者をそんな安易さで任務に送り出すとは−。

 しかしこれまで多くの青年を世界各地に送り出しているのだから、いくらかは現地の本音も伺えるかもしれないと、神戸のJICA(国際協力事業団兵庫国際センター)に出向き、とりあえず兵庫県からミクロネシアに派遣された青年の帰国後の報告書を見せてもらえないか頼んだところ快く応じてくれた。レポートにはコピー可、不可もあり、見せてもらったのはもちろん「コピー可」のものだが、ポナペで観光業の仕事をしてきた女性と空港でシステムエンジニアの仕事をしていた男性のレポートから読み取れたのは、隊員支援経費の少なさだった。

 そのあと、神戸JICAは、東京都からチュークの病院で保健婦の仕事をして帰国、現在は神戸の看護大学大学院で勉強中の女性、加古川からコスラエへ野菜栽培指導に行っていた青年を紹介してくれる電話が入り、女性とは電話で話し、男性とは出発直前に神戸・三宮で短い時間だが会って話を聞いた。前2回の現地訪問で、現地女性の肥満に驚き、成人病の増加も聞いていたから、野菜栽培は食生活改善につながるだろう、できれば手持ちのゴーヤ(にがうり)の種の栽培の可能性も教えてもらおうと思ったからだ。

 ところが、話を聞くにつれ、またも青年海外協力隊派遣の構造の不思議さがクローズアップされてきた。赴任先は、ほとんどの場合、希望は通らずどこに行くか相手任せ。何がしたいか、何ができるかも同じようで、現地のニーズは知らされず、その青年も、野菜作りを指導に行ったはずが、コスラエには野菜作りの場はなく、子供たちに対する糖尿病教育の指導にあたっていたという。
 そう言えば、どの島へ行っても、畑が見られない。「家庭菜園くらい作って自分の健康作りを考えたらいいのに」と仲間と嘆き合っていたが、作らずともタロイモ、パンの実、バナナなど、糖分糖質など気にしなければ年中あるから手間をかけて作る必要はないということらしい。コスラエでは、加古川青年にバトンタッチするようにやって来た女性隊員に会った。彼女も野菜作り指導が目的だったが、やはり野菜はお呼びでなく、現地のカルチュア・スクールのようなところで伝統技能の伝承指導に当たっていた。

 青年海外協力隊の続きで言うなら、ポナペでは男性隊員二人と知り合い話し合ったが、一人は東海大学水産学部出身で、水資源調査が希望だったが、ここでも意に反してシャコ貝の養殖に当たっているらしい。
 ショッキングなことは、PATSから農業部門、つまり学校名の"A"がなくなるかもしれないと聞いたことである。農業を学んでも、卒業後に働く場がないから生徒数が確保できなくなってきたのが主な理由らしい。しかし農業は、ミクロネシアが自立し独立する上で、産業と同じくらいに重要な分野であるはず。そうした農業の活性化支援はどうなっているのか。外務省、日本は、援助・支援の大義名分のもと、援助資金を出し、人材を派遣してはいるが、いずれもが「現場知らずの机上プラン」である。

 コスラエでのわれわれの宿の一室に、60歳代後半のFさんという男性シニア・ボランティアが夫婦でおられ、一夜歓談したが、ここでも疑問が噴出した。Fさんはこれまで世界各国でボランティア活動に参画してこられたベテランだが、今回の任務は外務省を通じたコスラエ30年間の経済復興プラン作りで、任期は1年の予定で今年4月に着任したばかりという。当初、ポナペでミクロネシア事情などの研修を受けるはずだったが、飛行機の都合で直接コスラエ入り。予備知識なしの、いわば白紙状態で仕事を始めているらしい。
 「この時期に30年プランなどあり得ない」「現地に何が最も必要か、何ができるかを知り、まず1年、5年をクリアしなければ」。われわれの現場サイドの地に足の着いた発言やアドバイスに、藤田さんの目は大きく見開かれたまま。「へえ、そうですか」「知りませんでした」「今初めて気づきました」「目からウロコの思いです」。すべてが机上プランでの計画立案作業だったようで、れわれとの接触は、Fさんにとっていい意味でかなりの刺激になったと思った。帰国の朝、空港まで見送ってくれ、日本コスラエ友好協会会長のヒロシ・イスマイル氏への紹介を真剣に頼んでおられたのも、まず地固めからの思いにかられてのものなのだろう。

 FOMは、ミクロネシアの真の独立へ向けた現場主義での支援体勢と、本吉代表の豊富な人脈によって、すっごいエネルギーと説得力を持って迫っている。日本の国も、外務省も、ミクロネシア支援にはあくまで現場主義、現場を十分に理解した地の足のついた視点で援助をしてほしい、またミクロネシアへ赴任されたことのある青年・シニア海外協力隊の経験者の方々にもぜひFOMの会員になっていただいて、現地サイドの発言を寄せていただけないかと思った。


●やっとカニに ついでにカメも
ポンペイ〜コスラエ日記
河瀬敦忠(会員番号 00736)

 黒いハットにグレーのスーツ、ネクタイ姿で本吉代表は颯爽と関西空港に現れた。「コスラエはFOMの公式訪問というかたちになった」と事前に連絡を戴き、襟のあるシャツとル−プタイ・長ズボンはもって来たが本吉代表の「公式」の姿をみて少々焦った。しかし、今日はグアムで一泊、あとポンペイで5泊、それからコスラエである。まさか今から準備(練習?)でも、と疑問は解 決せぬまま超きびしい手荷物チェックをくぐりCO978便に乗り込んだ。

15時30分グアム着。しかしグアムはあまり好きにはなれない街だ。まち自体のにおい、おと、ひと−−いろいろあるとは思うが。
夕食に現れたのは本吉代表ではなく本来のモトさんだった。なぜかこのほうが似合う。翌24日は午前5時起床6時集合で空港への予定。

 ポンペイの空港でまず目に飛び込んできたのは新車同様の消防車とマイクロバスだった。FOMから贈られたもので(K氏のご尽力に感謝)今までにも数台の消防車やライトバン、小型ダンプが贈られ街中で活躍している。
この夜、我々のテーブルでは輪切りにされた大きなパイナップルに7色のロウソクが立てられ、モトさんの古希のお祝いが盛大且つ厳粛にとりおこなわれた。20時頃キチ村からミス・エリーゼなど美女2人の訪問を受ける。
5月25日。10時からのPATSの卒業式に出席のため8時にサウスパークホテルを出る。道路の舗装は少し伸びたがやはり途中から物を言うと舌を噛みそうなでこぼこ道になる。昨年はトラックの荷台に乗って往復、全員が痔になるのではと危ぶんだが今年はマイクロバスのおかげでその心配はなさそうだ。
 PATSの理事であるモトさんは壇上の席へ。卒業生の関係者とやじ馬はフロアにベタ座りして開会を待つ。小さい子供たちが退屈してぐじぐじ言い出すと小森会員と私の出番だ。こすると走る自動車、ワッペン、光るシールなど子供の気を引きそうなものがカバンから次々出て来る。美しい女声コ−ラスを聴いた後、あまり暑いので外へでると幼稚園児くらいの子供が数人でバッタとりをしている。仲間に入れてもらって一緒に走りまわっていると5分もたたない間に15人くらいにメンバーが増えた。ヘンな外人に興味をもったのか側を離れない。一人ずつバッタと一緒に記念撮影をしていたらとうとうフィルムがなくなってしまった。
 昼食の後コスチガン神父のお墓にお参りし、今回初参加の松村会員と有志がナン・マトール遺跡とケプロイの滝を観光。帰途、斎藤シスターへご挨拶してホテルへ。
18時にPATS副校長のブラザー・テリー・トッド氏の訪問があり、ホテルの庭で行われるミクロネシア・ポリネシア・ダンス・ライブ(音楽はテープ)に同席。食事をしながらの1時間ほどのショウだが中学生くらいの踊り手が多数出演し、なかなかの実力を見せてくれた。ミクロネシアとポリネシアの音楽の違いはわからない。最後にモトさん、増村さん、トッド氏がステージに上がりダンサーに腰の回し方を教えてもらっていたが絶望的だった。アーア、最後に疲れた。
しかし部屋へ帰るとうれしい物が待っていた。ポンペイで我々の世話をしてくれているMrアマドールが茹でた大きなマングローブガニを4匹もって来てくれていたのだ。3年目にしてやっと出会ったマングローブガニ。潮の都合だとか天気が悪いだとかいろいろな理由で昨年、一昨年と当たらなかったまぼろしのカニである。さっそくむしゃぶりついた。マンゾクの一瞬だ。

 5月26日 午前中、ちょっとタウンウォッチング。SEIレストラン(日本人経営)でコショウ干し風景を見たり、ジョイ・レストラン(日本人経営)でおみやげの品定めをしたり、WALL MART(スーパー)で蚊取り線香(メーカーは和歌山県、マレーシア、ニュージーランドなど)を買ったり(青コショウと間違って危うくナントカ豆を買ってしまうところだった。ジョシーさん、気が付いてくれてありがとう)。中古車センターでトヨタ・セリカ=5600ドル、三菱デリカワゴン=6000ドル。
昼食後、KITTI(キチ)地区のイヨアニス家をたずねた。
NETT(ネッチ)、U(ウ−)などポンペイの6つの地区のうち一番大きい地区がKITTI地区でイヨニアス家はそこの名主のようなもの。一族はミゲール市長をはじめ国会議員など優秀な人材を輩出している。モトさんは亡くなった先代の義兄弟で我々も大変な歓迎を受けた。数時間前から準備していたのだろうか、バナナの葉の小山から湯気が上がっていた。尋くとオレンジほどの大きさの石を焼き、そのうえに?を載せバナナの葉っぱをかけて蒸し焼きにしているという。
大きな石の上で木の小枝を砕いているグル−プがいた。カヴァの木(シャカオの木とも。コショウ科の植物)の根茎を石で砕いてシャカオを作っているのだ。木から出る汁をハイビスカスの外皮繊維に染み込ませ絞るとぬるっとした茶色い汁ができる。それをココナツをハーフカットした器に入れて回し飲みする。メテスミン、カバインなど弛緩・鎮静作用のある成分が含まれているが習慣性はないらしい。宇宙飛行士の緊張緩和や睡眠に利用されたこともあるという。数回まわってきたがまあなんとも微妙な味で旨いともまずいとも−−困った味であった。
しばらくして蒸し焼きグループのバナナの葉が取り除かれはじめた。立ちのぼる湯気の中から少しづつ中身が見え始める。大きな山からブタが3匹、もうひとつの山からカメが1匹現れた。10分ほどで鮮やかに解体された御馳走が運ばれて来た。恐る恐るカメに手を伸ばす。トリのササミを思わせる淡泊な味と歯ざわりである。焼き魚、酢に浸したさしみ、パンの実など大変な量が並べられている。客が食べ、大人たちが食べはじめてやっと子供達に食事がまわってくる。子供達はそれまで近くで適当に遊んでいる。総勢100人ほどの一族の集まりは、しっかり長幼の序が守られていた。これだけの手間をかけているのはカマチップという最高の来客接待だ、とモトさんの解説。
それにしても便所にスケッチブックが置いてあったのはなぜだろう。幾度も写真を見直しているが何かおかしい。
19時。セブンスデイ・アドベンチスト・スクールの卒業式に出席。自主性、それぞれの思いを述べる言葉、親と子の交歓など、日本の卒業式では見られないシーンに思いっきり感動した。突然ものすごいシャワーが来たが会場へ入り切れない人達は半分濡れながらも子供達を見守っている。
終わりの方で突然モトさんの名前が呼ばれベンジャミン校長からフレンズ オブ ミクロネシアへ感謝状が贈られた。

 27日 朝からカツオ釣りの予定が明日に延期になったため久しぶりに夕方までフリー。ナミキ通りをぶらついたり郵便局できれいな切手を物色したり(ミクロネシアは熱帯魚の切手で有名)雑貨店、観光協会などをひやかして回る。
17時、ベンジャミン校長宅へご招待。
カマチップが始まる。85人まで数えたがあとは不明。まずは冷やしたココナッツジュースがふるまわれ、子供達と遊んでいるうちに御馳走がどんどん運び込まれ5メートルほどのテーブルに隙間なく並べられていく。ここでも働くのは女性だ。勿論シャカオづくりの男たちも忙しい。昨年仲良しになったジェイジェイという可愛い女の子が覚えていてくれた。少し大人っぽくなっていた。10歳になったという。宴たけなわのころ謝して辞す。

 翌日は朝から雨。それでもカツオ釣り。ようやるわ、といわれても出掛ける。桟橋についていくら待てども船頭さん(ベンジャミン校長)が来ない。Mrアマドールが呼びに行ってくれた。「寝ていた。すぐ来る」。昨夜のお疲れが出ていたのだろう。気の毒なことをした。
雨は止みそうにない。道具、クーラーを積み込み25フィート程のボートでサンゴ礁の間を縫いながら外洋へ向かう。けっこうなうねりと雨の中、鳥山を見つけてはイカに似た疑似餌を引くがカツオのお気に召さないようだ。1時間半ほど粘ったが諦めて帰港する。 出港前、青年海外協力隊のメンバー2人に偶然出会い、一緒に晩飯を、と約束する。
14時、「これ以上休まれへん。机がなくなる」という松村会員を空港で見送る。グアムで往復1泊づつしなければならない、というスケジュ−ルがうらめしそうだ。
夕刻、SEIレストランでコショウを受け取りPCRレストランへ。驚いたことに仕切られたカウンター席に回転寿司のコンベアがまわっている。寿司だけではなくてんぷら、唐揚げ、スパゲティ、調味料などがぐるぐる回転しているのだ。聞くとここのオーナー・秋永氏が自分で作った、という。
海の見えるテーブル席へ着いて間もなく協力隊の2人がやって来た。いろいろな話の中から私の中でJICAのやり方に対する疑問が次々とわいてくる。これには伏線がある。こちらへくる1週間ほど前に大阪のJICAを訪ねた。JICAの活動、我々の活動が現地で協力できるものがあるか、重複していないかを知りたかった。1.ミクロネシアでの協力隊の最近の活動。2.現地で会って話を聞きたいので23日の出発までに現地の連絡先が判れば教えてほしい、間に合わなければ私のスケジュールと連絡先を記すので現地で電話でも貰えればこちらででかけます、といって帰ったが結局ナシのツブテだった。
2人の青年は大変感じがよく、安い手当をやりくりしながら一所懸命やっているのが伝わってきた。こちらも応援したいと思う。

 29日 さあいよいよ公式訪問。午後の便でコスラエへ。その前に大使館を訪ねYasui参事官に話を聞く。
コスラエ空港で待っていてくれたのはMrアーロン・F・シグラー。州知事の特別秘書だ。滞在期間中のスケジュール表を渡される。かなり詳細に時間割されているがポンペイ時間があるようにコスラエ時間もあるだろう、と淡い期待を懐に入れて宿のフェニックスリゾートへ向かった。ここはダイビング客が殆どで、食事は何処かへ出掛けなければならないという。さいわい宿のオーナー・笠井氏が朝晩送迎してくれるというので近くのレストラン・ノーチラスへ。道の向こうは海、熱帯植物やプールがありなかなかいい雰囲気だった。

 30日 今日はコスラエ州・シグラー知事を公式訪問。因みにシグラーという名前は伊達政宗が慶長18年(1613)、メキシコ〜スペイン〜ローマに派遣した慶長遣欧使節団の支倉常長からきている、という。「ハセクラ」が数百年かかって「シグラー」になったといわれればそこそこ納得。「コスラエ」が日本のガイドブックに「クサエ島」で記載されているものが現在も書店に並んでいることを思えば−−。
全員正装、といっても長ズボンにエリ付きシャツ。カルチャーセンター、観光協会、歴史博物館などを見学後、再度カルチャーセンターへ。青年海外協力隊の女性に出会う。野菜の栽培ということで来たのだが仕事がなく、いまは伝統技術の継承に携わっているという。他に土木、日本語、環境など協力隊員が数人滞在しているらしい。
此処で昼食。メニュ−は蒸し焼きにしたパンの実、タロイモ、スープ、ココナツなど。 74歳という現地の人に会ったが、きれいな日本語で話してくれた。戦時中軍属をしていた、という。
観光局の話だと年間の観光客は約900人(来島者は約2000人)、多くはアメリカ人で日本人は60人位だそうだ。
時間の都合でポンペイのナン・マトールより古い、と伝えられるレロ遺跡を訪ねることにする。
柱状節理の大石を組み合わせ積み上げた外壁、水路、王墓、住居跡などがジャングルの中に点々と続く。どんな方法でこの難工事を進めて行ったのか、なぞだらけの遺跡だ。シャカオを作った跡もある。
キリスト教は1850年頃入って来たらしいがその教義からかコスラエではシャカオが禁止されているそうだ。その他つい最近まで飲酒には警察の許可が必要、日曜日には長いズボンかスカ−トを、など厳しい教則があった。
午後、シグラ−知事のオフイスを訪問した。
質素な知事室で1時間ほど懇談する。やはり知事とモトさんは以前からの知り合いだった。父君は日本語バリバリだったという。小森会員が自作の宝貝ループタイを知事にプレゼント。
惜しいことにモトさんのネクタイ・スーツ姿は関西空港での1回きりだった。何のためにもってきたのかなァ。
このあと、Lelu小学校を視察。教材、文房具が足りない。
夕食はアイランド・カフェでMrアーロンと。

 31日 今日も朝からむし暑い。9時にコスラエ・ジャパン・アソシエイション会長のヒロシ・イスマエル氏のご招待でR・ノ−チラスにて朝食会。奥様のミチコ・イスマエルさんもご一緒。ヒロシ氏はコスラエ州立病院の理事でもある。ガバナー・セキュレタリーのMrシグラー、アーロン・F・シグラ−氏も同席。お祈りのあと食事会が始まる。
午前中、Sansrik小学校、Utwe小学校、Malem小学校を視察のあとFOMから寄贈した消防車が活きているかチェックしに修理工場へ。
遅めのランチはコスラエ・ビレッジ・リゾートで。
海際に建つイヌーン・レストランとコテージ9棟から成り、宿泊はシングル60ドルから。20名ほど泊まれる。ダイビング・インストラクタ−が常駐し教室を開いたり器具のレンタル、修理もできる。
Mrア−ロンの仕事のこともあり2時すぎにOpenになったが15時30分から始まるKosrae Headstart幼稚園の卒業式に出席。それにしても暑いのなんの。男の子はブルーのガウン、女の子は赤いガウンに同色の帽子で整列して開会をまっているが行儀がいい。正面に着席し、名前を呼ばれるとマイクの前で自分の将来の夢・希望を述べ校長先生から卒業証書をもらい神妙に着席する。父兄のあいだから漏れる感動の声や笑い声が温かい。シグラー知事の挨拶や卒業クラスの歌があり1時間30分ほどで式は終わった。 式場の裏の広場は各家庭自慢の手作り料理が山盛り。お母さん方がウチワでハエを追いながら式の終わるのをまっている。夜中の1時頃まで宴会が続いていた。
偶然隣の部屋にシニアボランティアのF氏が泊まっていて午後8時頃から自室へお招きして話をきく。外務省の依頼でミクロネシアの今後の30年計画を作成するために、今年4月に1年の滞在予定でコスラエへ来たという。我々の話をきいて「目からウロコがおちました」。
机上プランだけでミクロネシアの経済30年計画なんてできるのだろうか? −F氏に極力アドヴァイスし、人脈の紹介を約束してわかれた。

 6月1日 いよいよミクロネシアと別れる日。11時に空港へ。
滞在中ずっと世話になったMrアーロンがきてくれた。F氏も、キチ市長もいる。Mrアーロンのおかげで厳しい税関の検査もほどほどに。VIPル−ムで待っているとアリックアリック駐日大使が訪ねて来てくれた。昨日ポンペイにいたはずだが。
空港の間口半間ほどの売店で花札を売っていた(6ドル50セント・韓国製)。Mrアーロンに話すと島の人達は好きでよくやるという。早速どこからか調達してきて(あとで聞くと売り物を借りて来た)テーブルの上に配り始めた。役は日本と殆ど同じで赤タン・青タン・月見で一杯など。コスラエで花札をする、とは想像もしていなかった。通路に即席の露店も店開き。ゆで卵、巻き寿司も売っている。
東京の文化学院へ1年半通ったという女性税関吏の厳しい手荷物物検査のあとやっと機内へ。
あとは今夜グアムで一泊し、明日帰国。
過去3回のミクロネシアで感じたことは島の人達の親日さということだ。お会いした一部の人から全体を推測することはできないが、トラック島では歩いていると大人も子供も「コンニチワ」と度々声をかけてくれた。ポンペイ島では子供たちにかこまれ、コスラエ島ではカルチャーセンターで何度も昼食のお代わりをすすめられた。大声をだしたり怒っている人をみたことがない。
 日本とのつながりも深いようだ。7月にはMrア−ロンが島の子供7人を連れて福岡へ来る。もちろん本吉代表の数十年に亙る苦労が水のように浸透していった、ということの評価を抜きには考えられないことだが。
これらの島々が自立するためにはどう力添えしていけばいいのか、そのための教育、仕事づくり、健康(肥満・糖尿病)対策、環境問題、温暖化による海岸線の侵食(ツバルでは既に国を挙げての移民計画)−−考え出したらきりがない。
フレンズ・オブ・ミクロネシアの一歩一歩が大変な力をもち始めていることを実感した今回の旅だった。


●はじめてのボンペイ 松村 寧子(会員番号00743)

 太平洋に浮かぶ珊瑚礁の小さな島、大きな産業がないために伝統的な生活が守られていて、地球が温暖化すれば沈んでしまう・・・ポンペイ島を地図でみつけてそんなイメージを描いていました。そして3日ごとに飛行機が飛んでもだれも乗っていないだろうと、本当に何もない所を想像し、出発しました。
 満席の飛行機で現地に到着し、まず驚いだのは空港に沢山の車があったことです、乗合バスはなくてほとんどが自家用車で、それも日本で走っているようなきれいな車が多いのです。もしかするとこの島には大きな町や産業があって裕福なのではないか、と錯覚するくらいでした、実際の島の中心街は小さな町でしたが、スーパーマーケツトがあり、広い舗装道路を車が行き交う光景は、予想外のものでした。
この車はどこからやって来たのだろうか、謎が深まってきました。
 今回の旅行で一番印象に残っているのは、キチ村の訪問です、町から車で30分ほど、途中通り雨に遭いながら、両側に樹ばかりが茂る道を行き、さらに森の中に人ると小さな建物がありました。電気や水道とも無縁なようなところで、何十人もの人が眼一杯のご馳走を準備して私たちを歓迎してくれました。魚や蟹に始まって、豚の丸焼きに亀の丸焼きとシャカオも頂きました。大量の料理に圧倒され、食べ物が豊富なことを実感し、伝統的な生活の一端に触れることも出来ました。そして、きれいな目をした子供が大勢遊んでいる姿に、現在の日本人が失ってしまった人間らしさを見た思いがしました。
 7日間の日程は瞬く間に過ぎてしまいましたが、予想どおりだったものも違ったものも含めて、多くのものを見、経験することができました。高校の卒業生には女子生徒が多く、皆明るい笑顔が輝いていたので、この島の未来も明るくなるだろうと希望をもっています。次に行くときには、少しは勉強もして、この島を知りたいと思いました。


今回の旅行日程

2002年5月23日〜6月2日
@23日・木 関西空港出発(本吉代表・上川夫妻・増村、松村・小森・河瀬の7人) グアム・プラザホテルにチェックイン
A24日・金 早朝グアム空港発−チューク経由−ポナペ着 サウスパーク・ホテル・チェックイン
B25日・上 PATS卒業式へ全員出席 式後、河瀬、上川夫妻、松村、小森=PATS船着き場からナン・マドールヘ船でホテルヘの帰路、有志がケプロイの滝に、ついで全員で斎藤シスターの自宅を訪問
C26日・日 午前中、本吉代表はPATS理事会出席で他のメンバーはフリータイム
2時半発でキチ村・イヨアニス家を訪問し歓待を受ける
帰路、斎藤シスターの教会誌同夜はセブンス・デイ・アドベンテスト・スクールの卒業式に全員出席、本吉代表にベンジャミン校長からFOMへの感謝状贈呈
D27日・月 午前中フリー夜、ベンジャミン校長のファミリーに招かれパーティー
E28日・火 ベンジャミン氏の船でカツオ釣りに行ったが豪雨で釣れず先に帰る松村さんを見送りに全員で空港へ
青年海外協力隊員(高橋、笹本さん)と知り合い夜、招いて歓談
F29日・水 日本大使館を表敬訪問、Y a s u i参事官と会見>br> 午後の使でコスラエヘ移動、知事特別秘書アーロン氏の出迎えがありVIP扱 いで入国
フェニックス・リゾートにチェックイン
G30日・木 観光協会や歴史博物館を見学
カルチャースクールを見学し現地食材による昼食
レロ遺跡探訪
アーロン・シダラー知事と会見
Lelu小学校を視察
H31日・金 日本-コスラエ友好協会会長ヒロシ・イスマイル氏夫妻による朝食会招待
Sansrik、Utwe、Malem3小学校を視察
FOM寄贈の消防動車・救急車の現状を視察
コスラエ・ビレッジ・リゾートで昼食
午後、ホテル向かい広場で行われたKosrae Headstart 幼稚園卒園式に参列
夜、同宿のシニアボランティアF氏夫妻を招いて歓談
I1日・上 ホテルをチェックアウト空港に知事特別秘書アーロン氏来てくれVIP扱いで出国手続き、荷物は初めて関空まで直送
たまたまコスラエヘ帰国中のアリックアリック駐日大使がVIP室へ挨拶に
J2日・日 定時に関西空港帰着
FOM連絡先


フレンズ・オブ・ミクロネシア(F.O.M.)
〒651‐0011神戸市中央区下山手通2−13−10
聯合ビル4階
(株)モトズ・工ンタープライズ内
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