君がいなければ


 柔らかな陽射しがあふれる3月、週の初めからずっと春物の軽いコートですませる陽気が続いて
いた。土曜の朝は、街はやや重いグレーの空の色に包まれていたけれど、何処から流れる古めかし
い音色のチャイムが人々に正午を知らせる頃には、春の太陽が顔をのぞかせ、空の透明なその青さ
に、公園の小鳥達や季節の花までもがはしゃいでいるかのようだった。

 小さなこの街の駅前広場にも、短い休暇を心おきなく楽しもうという人々が溢れていた。家族連
れ、恋人たち、何か面白いことはないかと目を輝かせる若者たち・・・思い思いにこの穏やかな午
後を過ごすのだろう。

 アニーは駅へ続くやや勾配のある坂道を下り、やがてバス停留所にたどり着いた。本来なら心躍
るはずのそんな春の風景も、彼女の目にはすべてが空虚に見えてならなかった。もう何日もはき続
けてきたジーンズのほころびが、彼女の疲労を表しているかのようだった。

 バスが到着するまでには、まだ時間があった。アニーは紺色のハーフコートのポケットに両手を
突っ込んだまま、しばらく立ち尽くしていたが、右手にしている腕時計で時間を確認すると、背中
のディバッグの中から一通の手紙を取り出した。それはシンプルな白い便箋に書かれていた。一文
字ずつが几帳面に記されていて、丁寧に三つ折りにたたんであった。彼女はその手紙をかすかに唇
を動かして読み始めた。

『 親愛なるアニー
 仕事を再開したと知り、君の身体がまいってしまっているんじゃないかと心配しています。本当
に僕で力になることがあるならば、すぐにでもそこに行きたいくらいだったけれども、ただ無事を
祈ることしかできなかったんだ。君はもう自分を責めなくていい。君がママを追いつめたなんて考
えちゃいけない。君の献身的な介護が君のママにとってどんなに心強いことか。
 君はママのためなら自分の持っているどんなものでも、それは目に見えるものだけじゃなく、時
間とか夢とか希望、すべてのものを捨てられるんだと知ったと、ママの命が助かったことが自分に
とっての最大のバースデープレゼントになったと、そう言っていたね。
 ここまで来たのだから、どうかこれからのすべてがうまくいきますように。1日も早く回復する
よう、祈っています。そしていつかまた君に会える時、君が笑顔であることを信じている。絶対に
笑顔で。
                                     レインより 』

 アニーはもう何度も読み返したこの手紙を、元の通り折ってそっとコートの左ポケットにしまい
こんだ。それからこの1ヶ月、過ごしてきた日々を振り返ると、溢れる涙を落とさないよう、あわ
てて空を見上げた。初めて耳にする医学専門用語の羅列、ふたりで語り合ったバースデーの夜、夢
なんだ、これは悪い夢に違いない、めまいがして倒れそうになった瞬間や、1日が1年にも感じら
れた日々・・・そして心の中で何度も繰り返された、I pray, I believe, I thank・・・・ママ、
貴女が憂うべきことはもう何もない。もう苦しむべきことは何もないんだ。だからはやく気づいて
欲しい。はやく戻ってきてほしい。

 にぎやかな声が聞こえてきた。ふと通りに目をやると、花束を抱えた数人の少女たちが楽しそう
に歩いている。今日が誰かのバースデーなのだろうか。アニーは彼女たちの眩しい笑顔を目の当た
りにした時、自分が初めて今年の春に触れたのだと気づいた。そして小さなためいきをついた。
 やがてバスが到着した。数分で家に帰れるだろう。もう安定剤は必要ないかもしれない。
 アニーはそっとバスに乗り込んだ。「そう、いつか絶対に笑顔で」と心の中でつぶやきながら。


                                     1996年 春
                                       Esme



                                         
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