星の寝台特急


 きっとこの街のことは忘れられないだろう。短大を卒業後、単身上京し就職してから早
8年。だが、今彼女は続けてきた仕事にも見切りをつけ、慌ただしい生活に別れを告げ、
生まれ故郷へ帰ろうとしている。昨夜は恋人に、いや、恋人だった人に会ってきた。無機
質な言葉のやりとり。それで何もかも終わりだった。長い間同じ街で、同じ風景を見てき
たはずなのに、「絆」という名の目に見えない糸は、何故こんなにもほころびやすく、脆
いものなのだろう。

 「さようなら、おとうさん」 母親に連れられて乗り込んだ列車の窓から、少女は大き
く手を振っていた。窓の外の父親の姿はいつもより小さく見える。まだ10歳の少女は、
両親の毎夜の話し合いが自分の心の奥底に何か大きな不安を生み出していくことだけは、
薄々と感じていた。やがて母親の郷里へ引っ越すことになる。「ねえ、どうしておとうさ
んは一緒に行かないの?」と5歳の妹が半泣きで訊ねている。するとそれまで何処か別の
ところあった涙は一気に溢れ、頬を流れ落ちていく。母親が背中を向けて肩を震わせてい
た。

 その老婦人はひとり列車に乗り込んだ。休日の夜になっても、この駅は往来する人々の
波が途切れることはない。人混みの中を歩くのは久しぶりだった。 疲労感が全身を覆っ
ている。だが、心は穏やかだった。彼女は今は亡き夫とかつて暮らした地へ、独り赴いた
のだった。石畳に散る木の葉、静かに髪を揺らす風。空高く輪を描く鳥達には、あの山を
美しく彩る紅葉が見えているだろうか。目にするもの、耳にするもの、そして感じるもの
を永遠にしまっておけたなら、と彼女は願う。もうこれで旅も最後になるだろう。 彼女
は自分の病を知っていた。

 許されない恋だとわかっていた。叶わぬ恋だと。それでも相手を想う気持ちだけは消す
ことは出来なかった。こうして二人でいると、その穏やかな時間がいつまでも続くかのよ
うに思えてくる。でもそれはひとときの幸福感。北の街はすっかり冬支度だろう。厚手の
コートに長いマフラーは決して大袈裟ではない。自分たちには手に入れられぬ「未来」と
いう約束の鍵。喧噪の都会の駅のホームをぼんやりと見つめながら、今夜だけは夢の扉を
開けていようと二人は誓う。

 彼等は背中を丸めながら、ビールを片手に座席についた。出稼ぎを終えても故郷に裕福
な暮らしが待っているわけではない。長びく不況は町の産業にも重くのしかかり、彼等の
帰る土地にはもはや安住という言葉もない。それでも年も押し迫ったこの季節に、数ヶ月
ぶりに各々の家族の元へと戻っていく。身ひとつで動き回れる鍛えられた体に、気心しれ
た古い同郷の仲間たち。またひとつ踏みこたえ、またひとつ乗り切って、こうして共に歩
いていくのだ。

 時間がすべてを解決してくれるなんて、まだずっと先のことだと悟った。その悲しみは
癒されることがない。だから今夜も空を見上げてみる。無数に輝く小さな星の小さな光は
まるで、人々のそれぞれの悲しみを映しているかのようだ。どうか明日がいい日であるよ
うに.....心の中でそうつぶやいていた。


                                 2001 Winter
                                   Esme



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