雨の中のラストワルツ


 彼と出会ったのは私が23歳の夏だった。
 当時勤めていた銀行の直属の上司で、年は私より18ほど上の人だった。その会社には夏期の調
整人事異動というものがあり、あまり暑さを感じなかったその年の7月、彼は夏の香と共に私たち
の課へやって来た。
 穏やかな物腰と優しい笑顔、仕事に対する熱心な姿勢に、初めから魅かれていたのかもしれない。
心から尊敬できる人だった。仕事をしていく中で、共にプロジェクトを組み、意見交換をして、難
題と思えることでもひとつずつクリアしていく過程が、日々の励み、喜びとなっていった。毎日が
充実していた。
 決算月の近づくまだ春浅い頃は日々忙しく、私たちは毎晩のように残業に追われていた。そんな
時期でさえ、私には少しも苦にならなかった。彼をサポートしていくことで、何もかもがうまく進
んでいるように思えていた。
 実際、仕事上だけでなく、私たちはとても気が合った。
 時々、仕事帰りに彼は夕食に誘ってくれた。時には町の小さな居酒屋へ、時には少しおしゃれな
レストランへ。そんな時にはよく、互いに好きな映画や作家や音楽の話をしていた。彼は特に70
年代の音楽を好み、Carole KingやJames Taylor、Carpentersのテープをプレゼントしてくれた。
映画「West Side Story」について、熱っぽくその魅力を語ってくれたこともあった。アルコール
のせいだろうか、日頃口数の多くない彼には珍しく饒舌だった。私など知る由もない青春時代を、
まだ20代の青年はどんな思いで過ごしていたのだろう。
 食事が終わると近くの公園を散歩した。郊外のこじんまりとしたその公園には、私たちの他には
恋人達がひと組と灰色の野良猫が一匹居るだけで、澄み切った空気の中、遠くでかすかに瞬く高層
ビル群の光を見つめながら、二人でベンチに腰掛けて、少しぎこちなくたたずんでいた。どこから
か、悲しげな鳥の鳴き声が聞こえていた。
 そんな静かな、二人だけの秘密の時間は、私にはいつも夢のように思えてならなかった。ロマン
チックな気持ちとともに、哀しい想いも拭いきれなかった。彼が私の恋人でいてくれたら、どんな
に幸せだろう。私のことは、単に自分の子供のようにかわいがってくれているだけかもしれない。
彼には高校生のお嬢さんがいた。

 淡い恋は突如終わりを迎えた。
 出会いから二度目の冬、彼のニューヨーク支社への転勤が決まったのだ。突然の知らせに、ただ
私はショックを受けるばかりだった。心にぽっかりと穴が空き、それでも職場で何も感じないよう
振る舞うことは本当につらかった。
 最後に彼と会ったのは、何度か散歩したあの思い出深い公園だった。霧雨の降る寒い夜、私の目
からはぽろぽろ涙がこぼれて止まらなかった。誰かの前であんなに泣いたのは初めてだろう。胸が
苦しかった。そんな私を見て、彼も少しつらかったのだろうか。私の耳元でこうささやいた。
 「またいつかきっと会おうね」
 彼の黒いコートは何故か初めて出会った時の香がした。まぶしい太陽の光り、青々とした葉、生
命力あふれる水。そう、私の中で彼はいつも夏を思い起こさせた。そしてその夏とかけ離れた凍る
夜にさよならを言わなければいけないということが、いっそう私を悲しくさせた。しっとりと周り
の風景を抱え、密かに煙る空気に包まれて、私たちは互いに手を触れ合うことさえなく、いつまで
もそうしてたたずんでいた。
 どうしてあなたは遠くに去って行くのだろう。

 拍手が長く長く続いていた。あちらこちらで揺れる色とりどりの幾つもの風船、足元でしずくに
光る緑のビニールシート、空におぼろに浮かぶ月。この日のために用意したかかとの高いベージュ
のサンダルは、近くの水たまりのせいで、すっかり湿ってしまった。
 そして、目の前のスクリーンに映し出されたメッセージ
           THANK YOU
            FAREWELL
         THE HEARTLAND
の文字を見つめながら、私は立ちつくしていた。会場のざわめきは無限の空に吸い込まれて、少し
ずつ遠くへ流されて行くようだった。
 涙が落ちないようにこらえていた。

 人と人が出会ったり別れたりする時のドラマ、それは何てあっけなくちっぽけで、それでいて、
何て深く、強く、心に刻まれるものなのだろう。
 「ラストワルツ」のテーマだけが、いつまでも私を包み込んでいた。

                                     1994年 秋
                                       Esme



                                         
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