夢を解く鍵


     あるとき私は、果てしなく続く雪原に佇むその人を見た。済みきった空気。遠い空に点在する
    白い雲。そのあまりの美しさに私はすでに言葉を失っていた。行く手に輝く光と白の地平線の接
    点に手をかざし、その人の表情を確かめようとしたが、苦悩のかげりにも似て、はたまた微笑ん
    でいるようにも見えた。朝なのか夕暮れなのかさえもわからなかった。足元から長く伸びる影。
    ここでは氷の軋む音とつがいの鳥達の鳴き声しか聞こえない。やがて、その人は雪の大地を踏み
    しめて、陽の射す方向へと歩き出してゆく。私は白い息を吐きながら、その人の背中を追うのだ
    が、遠くなるばかりだった。やがてその姿は点となり、足跡も消えてしまった。
     その夜、記憶の糸をおぼろげながら辿ってみると、その人は、大きな岩場の一角に凛として立
    っていた。夜の闇が辺りを包み、港を滑るように出ていく観光船の光だけを頼りに、やはり私は
    その人の心の中を推しはかろうと、その姿をずっと見つめていたのだった。打ち寄せる波の音。
    まるで心臓の鼓動のように、規則的に繰り返されるその音を耳にしていると、なぜか涙が溢れて
    くる。穏やかな波間に揺れる灯り。まだ頬に冷たい風を受けながら、ただ静かにその灯りのかけ
    らを眺めていたあの日、私はその人との再会を心に誓っていた。
     修道院の窓から、射し込むまばゆいほどの陽光。やがて、あるときの私達は、天井にまで広が
    る壁画を見上げていた。肩を並べて、最後の晩餐を味わう。その人の足どりは重く、私はその人
    と歩調を合わせて歩いた。建物は静まりかえり、この世に存在するすべての生き物はどこか別の
    世界へ導かれたかのようだった。二人の足音だけが響き渡っていた。
     「眠れそう?」その人が尋ねてきた。
     「眠れると思う」私はそう答えたものの、やはり眠れなかった。目を閉じていても眠れぬまま
    に夜明け近くまでベッドに横たわり、神の啓示について考えていた。手を伸ばせば届きそうな敬
    虔な世界のことを。
     陽は傾き、辺り一面が燃えるような紅い絨毯に変わっていった。草原を滑るように吹く風が、
    私の白いドレスと帽子を揺らす。かつて、人々がそうしていたように、裸足で大地に立ってみる。
    遙か彼方に浮かぶ雲は少しずつ形を変えて、やがて訪れる漆黒の空に溶けていこうとしている。
    今この夢の続きを永遠に見させてくれるのなら、私はすべてをなげうってこの地に身体を横たえ
    るだろう。そして私はただ幼い子供のように泣きじゃくり、その人を困らせてしまうことだろう。

                                     2003 Spring
                                       Esme





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