戻る

『残像』

 父の葬儀が終わり、弟たちはそれぞれ領国へと発っていった。
 魏王としての「日常」が、父の後継となった曹丕に訪れる。
 父の座っていた場所に座り、父がしていたように政務をとる。文官の持ってきた竹簡を
広げると、鋭く視線を走らせる。その顔を見ていた文官の口元が、僅かに動きかけて止ま
った。
 それでも、曹丕は相手の言いかけたことを察していた。それは、曹丕の最も嫌う言葉。

 そうしておられると、まるで…

 父と比べられることは平気だった。将軍であろうと、地方の商人であろうと、跡を継い
だ者は必ずその前任者と比較されるものだ。まして、自分はあの曹操のいた場所に座して
いるのである。
 父の死は急なものではなかった。父が以前から周到に準備をしていたこともあって、全
ては大きな混乱もなく曹丕の手に引き継がれた。とは言え、一代で魏王の位にまで昇った、
余りにも巨大な男を天下は失ったのだ。人々がその代わりを求めるのは当然だった。真に
曹操の代わりになれる者などいないと知るゆえに、不安であろうことも。曹丕は曹操に似
た姿をしている、きっと同じだけの力を持っている、そう思いこんでいくばくかの安堵を
得ようとしている者達がいることも、曹丕は知っていた。父の残像であること、それもま
た自分の役目の一つなのだろう。
 それでも、父に似ていると言われることだけは苦痛だった。子供の頃から、ずっと。兄
弟の中で、自分の容貌が最も父に似ているのは、認めざるを得ない事実であるのに。
 植は、母に似て優しげな顔立ちをしている。熊は、父と母を混ぜ合わせたような顔に見
える。彰などは両親のどちらにもあまり似ていないように思えるが、母方の祖父に生き写
しなのだそうだ。父が側室に生ませた他の弟たちも、それぞれの母親に似ている者が多か
った。
 「背が伸びて良かったわねぇ。顔が孟徳様と同じだから、背丈もあのくらいにしかなら
ないのかと、密かに心配していたのですよ」少年の頃の曹丕に、母は笑いながらよくそん
な冗談を言った。
 父に瓜二つと言われるのは嫌だと、母に思い切ってそう言ったこともある。母は目を丸
くして、「あら、どうして?」と首を傾げた。
 「それは、確かに孟徳様は美男子ではないかも知れないけれど」母子二人だけの部屋で、
母は大袈裟に声をひそめる。「わたくしはそのお顔が大好きなのですよ。きりりとして、
深い色をした目なんか、特に」
 母の言葉は本心だったのだろう。何を思い出したのか少女のように頬を染める母に、父
の、自分のその目が一番嫌いだなどとは口にできる筈もなかった。

 父が憎かったわけではない。
 だが、父が自分を愛していないことは確信していた。弟たちや、今は亡き兄には向けら
れていた父の笑顔を、自分は正面から見た記憶が無い。
 可愛げのない子供だったのだろう、と曹丕は幼い頃の自分を振り返って思う。どうして
か、無邪気に甘えるということが苦手だった。弟たちが父の膝にまとわりつくのを、いつ
も少し離れたところから眺めていた。
 早く大人にならなければ、という気持ちは確かにあった。素直だが乱暴なところのある
彰、頭は良いが空想的でどこか危なっかしい植、一番年下で甘えん坊の熊。その中で、自
分が母を守らなければ、と背伸びをしていた部分もあったに違いない。
 ただ、やはり自分はもともと愛想のない性格だったのだろうと曹丕は思う。父はそれを
嫌ったのだ。そして自分は、父に愛されない自分を嫌ったのだ。心が通いあっていないの
に、血の繋がりを嫌というほど思い知らされる互いの顔を。
 「孟徳様があなたを嫌ってなどいるものですか」母は激しく首を横に振る。「あなたは
しっかりしているから大丈夫だと、そうお思いなのですよ。彰たちがまだ小さくて頼りな
いから、そちらに構っていらっしゃるだけで」
 曹丕自身もそう思いたかった。父は自分を認めてくれているのだと。だが、それなら。
兄を亡くした後、何故すぐに曹丕を後継と定めてくれなかったのか。

 周囲の者は噂する。あの曹操が、まさか年少の息子への愛情に目がくらんで後継に迷う
とは。合理的な人間だと思っていたが、やはり人の親か。
 その通りならどんなに良かっただろうと、曹丕は唇を噛んだ。確かに父は自分より植や
沖を愛していた。だが迷うのはその所為ではない。合理的であるがゆえに、長幼の序では
なく能力を以て、後継にふさわしい人間を選ぼうとしているのだ。曹丕を優れた人物と認
めていたのなら、例え憎しみ合っていようとも迷いなく曹丕を選ぶ。父はそういう男だ。
 悔しさを押し殺す曹丕の元へ、「お察し申し上げます」と同情めいた笑顔を浮かべた連
中が寄ってくる。ある者は曹丕こそが跡継ぎにふさわしいと心から信じ、ある者は長子を
立てた方が混乱が少なかろうとだけ思いこみ、ある者は曹丕に恩を売って出世を目論む。
植の周りにも同じような者達が集まった。事態は、兄弟だけの競争ではなく、臣下達を巻
き込んだ戦いとなってしまった。沖がこの世を去り、候補が曹丕と植の二人に絞られてか
らは、臣下達の対立は一層激しくなる。
 父ともあろう者がそのことを予測できなかったのだろうか、と今になって曹丕は思う。
してみると、やはり愛情に目が曇っていた部分もあったのか。それとも、家臣達を如何に
使いこなして勝利を得るか、そこまで量っていたとでもいうのだろうか。
 曹丕も、植も、ただ自分の方が優れていると父に認めてもらえば良い筈だった。しかし
周囲の雰囲気は、彼らがこれまでのように仲の良い兄弟でいることをすら許さない。互い
を蹴落とすための策略が、耳に囁かれる日々。
 初めのうち、この争いに関係の無い彰や熊とは比較的気軽に会えていたが、それも段々
に難しくなった。残りの兄弟を味方につけようとしている、そう邪推されるのが辛い。駆
け引きなどに縁がなく、板挟みになってうろたえる弟達の姿を目にするのが辛い。
 曹丕は弟達が好きだった。性格も、得意なこともそれぞれに違ったけれど、みな自慢の
弟達だった。感受性が豊かで、美しい詩を紡ぐ植。聡明で、知恵を人の役に立てるのが得
意な沖。争ってはいたけれども、憎んだことなど一度も無かった。

 本当に?
 植が禁令を犯して父の不興を買ったとき、心の底ではどう思った?
 沖が病の床に就いたとき、心の底では何を願った?

 やはり自分は冷たい人間なのだろうと曹丕は思う。父に甘えられなかったのと同じよう
に、弟達を心から愛することもできなかったのだ。
 だからこそ、彼らを平然と押しのけて、今この場所に座っていられるのだ。



 ひととおりの案件を処理し終えて、立ち上がった曹丕は、居室へ戻ろうとした足をふと
止める。側仕えの者を呼んで、外出の支度をさせた。
 郊外の、小さな屋敷。
 門の前で乳母と遊んでいた幼い男の子が、車から降り立った曹丕に気づいて目を輝かせ
る。
 「阿翁(ちちうえ)!」
 とどめようとした乳母を、曹丕は目で制した。幼子は危なっかしい足取りで、懸命に駆
けてくる。「阿翁!」曹丕の両足に飛び込むように抱きついて、止まった。
 曹丕を父と呼ぶこの子は、しかし曹丕の子ではない。幹、またの名を良。曹操の末子で
ある。
 病の重くなった曹操は、曹丕を呼んで告げた。「この子はわずか3歳で生母を失い、今
また5歳で父を亡くそうとしている。子桓…この子を、頼むぞ」
 曹丕は頷いた。自分以外の子には父らしい情愛を示すのだなと、どこか醒めた感慨もあ
ったが、幹の身の上には素直に同情できた。当の幹は何もわかっていないのだろう、きょ
とんとした表情を浮かべて曹操と曹丕の顔を見比べていた。

 父の死後、曹丕は幹を育ての母親や使用人とともにこの屋敷へ住まわせている。実母を
亡くした後、幹は父の別の側室が母代わりとなって育てていたのだ。おそらく幹は実の母
の顔も覚えていない。父も、母も、本当の親ではないのだと、気づいてはいない。
 「元気にしていたか、良」曹丕は幼い弟をそちらの名で呼んでいた。父がそうしていた
ように。
 「うん…じゃなくて、はい!」
 「そうか。うむ、少し重くなったな」幹を抱え上げて、同じ高さで目を合わせる。嬉し
げにこちらを見つめ返す幼子に、曹丕は問うた。「良は、儂が好きか」
 「だいすき!」間を置かずに、幹が答える。曹丕の首に、両腕を回してくる。
 まだ数度しか顔を合わせていないのに、何が大好きなものか。曹丕は内心で苦笑する。
抱き上げて、やさしい言葉をかけてくれるなら、誰でも良いのだろう。
 それでも。「良は、阿翁、だぁいすき」耳元で歌うように繰り返す声は、甘く澄んで、
曹丕の胸に突き刺さる。
 何がこんなに悲しいのだろう。
 幼い弟を抱いてやることにすら、「この子は自分を脅かす存在ではない」そんな言い訳
を必要とする自分。あれほど幹の行く末に心を砕いていたのに、既に忘れ去られている父。
自分を愛してくれた父と、薄情な兄の区別すらついていない幹。
 「儂は、おまえの兄なのだぞ」曹丕は弟を抱く腕に力を込める。小さな体は、この世の
冷たさを知らぬかのように温かく、この世の痛みを知らぬままに柔らかい。
 何が、こんなに悲しいのだろう。
 ふと気づくと、幹が腕の中でもがいていた。曹丕は慌てて幹を足下に降ろし、目の高さ
にしゃがんで向き合う。「すまんな、苦しかったか」
 けれども、幹が体を動かそうとしていたのはそのためではなかった。幹は自由になった
手を伸ばし、自分の袖で曹丕の目元を拭う。
 「泣かないで、阿翁、泣かないで」自分も目にいっぱい涙を溜めながら、たどたどしい
口調でそんなことを言う。何もわかっていないくせに。目の前にいるのが誰だかも知らな
いくせに。ただ自分を抱き上げてくれた人が泣いているから、一緒になって悲しんでいる。
大好きな人が、泣いているから。
 「ありがとう、もう大丈夫だ」曹丕は幹の細い両肩に手を置いた。
 「…ほんと?」幹が首を傾げる。
 「ああ、大丈夫だ」そう答えて笑顔を作った曹丕は、幼い弟の目を覗き込んだ。濡れた
大きな瞳に、自分の顔が映っている。

 そこに、父がいた。優しい微笑みを、まっすぐこちらに向けていた。
 曹丕は息を呑む。目にしたことが無い筈の、父の笑顔。その記憶が、鮮やかに蘇ってき
た。弟達が生まれるよりも前の出来事。曹丕が、父との間に心の壁を作るよりも前の。
 父は自分にこんな表情を見せたことがあったのだ。
 自分はまだこんな風に笑うことができたのだ。
 血の繋がった弟達を領国に追いやった時の自分は、さぞ冷たい目をしていたのだろう。
骨肉の争いの中で、家族の情愛など凍り付かせてしまったのだと思っていた。自分はそう
いう人間なのだから、と。
 「阿翁」小さな手が、曹丕の頬に触れてくる。
 澄んだ瞳に映るのは、父の愛情の残像。自分の中に残る、温かな感情の残像。
 そうだ、思い違いをするな。曹丕は自分にそう言い聞かせる。これは残像に過ぎない。
 弟達を都へ戻すわけにはいかなかった。彼ら自身に野心は無くとも、必ずや野心家達が
集まってくる。曹操が迷っていたことを、皆知っているのだから。弟達を利用しようとす
る者だけならばまだ良い、ためらいなく処断できる。だが、もしも彰や植が立ち上がった
ならば、彼らをまっすぐに慕う者達が少なくはない筈だ。曹丕は確信する、弟達の美点を
知るゆえに。
 弟達を都へ戻すわけにはいかない。昔のように仲の良かった兄弟にはもう戻れない。
 この胸を締め付けるのは、ただの、残像なのだ。

 「阿翁」幹の声が、幼い頃の自分と重なる。父をそう呼んだ記憶は、遙かに遠いけれど。
 自分もいずれ、幹にとっては残像となるのだろう。
 それでも、今は。今だけは。
 曹丕はゆっくりと立ち上がる。置いて行かれそうな気がしたのか、幹があわてて手を繋
いでくる。とは言え小さな手では、曹丕の指を握るのが精一杯だった。その柔らかな力が
愛おしい。
 「さあ、部屋で遊ぼうか」声をかけてやると、やっと安心したように幹が笑った。
 「あそんでくれるの?」
 「そうだな、今日はお話をしてやろう」小さな歩幅に合わせながら、曹丕は歩き出す。
「南の国から来た、大きな大きな動物のお話だ」

<終>

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 曹幹伝の註にあったエピソードを勝手に膨らませてみました。ずっと書きたかったん
 ですよ…いや本当はもう少し明るく。しかし実際曹丕パパ(偽)は在位7年で崩御し
 てしまうので、曹幹くん数えで12かそこらなのにまた保護者を失ってしまいます。
 可哀想すぎ。
 手持ちの正史(ちくま学芸文庫)では曹幹は曹丕を「お父さん」と呼んでいたと訳し
 てあります。白文では何て言ってるんだろう、とネットをあたったら「阿翁」とあっ
 たので、何か「阿」のつく響きの方が幼い感じがするかなぁとこれを使ってみました。
 「ぱぱ」ってのも何ですし。
 曹操様、長身の美丈夫との説もありますが、私の個人的なイメージでは今回のように
 「美男子ではない上に小柄」です。「曹丕が曹操にぶんぬき(栃木弁で『そっくり』
 の意)、だけど上背はある」というのも個人的な思いこみです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

戻る