『やすみなく過ぎゆく時に』 (by しまみお様) 管弦の音が宴の広間を、ゆるやかに満たしていた。 空には皓々と照る明月がかかり、広間には燈火が明々と灯されている。 戦の合間の、心休まる風雅なひととき。 居並ぶ臣下の中央に座し、丞相は機嫌よさげに左右の者に笑いかけ、酒杯を傾けている。 丞相は新しい詩を賦すと、管弦にかけて唱(うた)うのが常であった。きっと今日も新作を披露されるのだろう。 丞相の表情からそうと察し、それを横目に見ながら荀文若は、端正な面に穏やかな笑みを浮かべて、隣に座す文官の一人と言葉を交わしていた。 やがて丞相が楽隊に合図をおくると、管弦の音がひときわ高く掻き鳴らされ、人々のざわめきが潮の引くようにおさまっていく。 丞相が、杯を置いて立ちあがる。 宴の中央へと一歩踏みだし、軽く袍の袖を広げて目を閉じると、管弦の旋律にあわせて、低く深みのある声を朗々と響かせた。 厥初生 (生けるものの始めて現れしより) 造化之陶物 (造化のみわざになるものは) 莫不有終期 (終わる期(とき)あらざるはなし) 莫不有終期 (終わる期(とき)あらざるはなし) 聖賢不能免 (聖賢(ひじり)とて免るることはなし) 何為懐此憂 (はかなき命は憂うるもせんなし) 願魑竜之駕 (さらばいざ竜に駕して天翔けり) 思想崑崙居 (崑崙(こんろん)の宮居にぞ想いを馳する) 思想崑崙居 (崑崙(こんろん)の宮居にぞ想いを馳すれど) 見期於迂怪 (めざす地はあまりに遠く) 志意在蓬莱 (あらためて蓬莱の山に心ひかるる) それは、現世を憂え神仙の世界への憧れを歌う遊仙詩であった。 丞相の詩は、為政者としての理想を希求する真情を吐露したものや、乱世に生きる弱者の苦しみ、悲しみを詠ったものが多かったが、時には、このような遊仙詩も好んで詠っていた。 荀文若は、笑みを消した静かな表情で、丞相の声に耳を傾ける。 志意在蓬莱 (蓬莱の山に心ひかるるも) 周孔聖徂落 (周公・孔子の聖いまはなく) 会稽以墳丘 (禹も今は会稽の墳(おくつき)に眠る) 会稽以墳丘 (禹も今は会稽の墳(おくつき)に眠る) 陶陶誰能度 (人の世を心のどけく過ごすは誰ぞ) 君子以弗憂 (すぐれし人は憂えずや) 年之暮奈何 (されど年の暮れるをいかんせん) 時過時来微 (ああやすみなく時は過ぎ時は来る) 最後の一節を丞相が詠い上げると、余韻を残して管弦の音が消えた。 一瞬の静寂の後、満座の拍手が丞相に送られる。詩の出来映えを口々に称える者達に囲まれる丞相の後ろ姿を、なんとも言えぬ思いを抱えて荀文若は見つめる。 そう、周公も孔子も禹も、いにしえの聖賢はすでにない。 漢朝の権威は失われ、群雄が我勝ちに各地で割拠する国難の時。この乱れた国を再び統一し、漢朝の元で秩序を正す旗手は丞相であると思い定めて、私は貴方を支えて来た。 そして、中原のほとんどをその手に治めた貴方だが、未だに、西に劉備、南に孫権が根強い抵抗を続けている。 統一への道は遠く、貴方は、時の過ぎ去るのに追いたてられ、こうして詩にあらわにするほど不安やいらだちを感じているのだろうか。 あの精力的な貴方が覇道を追い求めるのに疲れを感じ、その志は涸れかけているのだろうか。 そんな懸念に優美な眉を寄せ、不安に揺れる心のままに丞相の姿に眼差しをそそげば、ふと、気配を感じたのか、振り向いた丞相と視線が交わる。 奥深い光を宿す、切れ長のするどい瞳に、燈火を映してきらめかせ。 いたずらが見つかった悪童のように、にやりと口元をゆがめて笑う。 その貌にみなぎる覇気は衰えようもなく。 ――ああ、まったく、この人は。 安堵と苦笑が入り混じった小さなため息を微かにもらし、荀文若はふわりと丞相に微笑みかえした。 時として貴方の中の詩人の感性は、世を憂え、夢の世界へ飛翔して私達をあわてさせる。だが、貴方の為政者の矜持は夢の世界で遊ぶままを潔しとせず、必ず現実世界へと回帰し、私達を引き連れて、さらなる道を進んでいくのですね。 光り差す荒れ野の中を。道無き道を。倦むことなく力強く。 されば、私も。 私の持てるすべてを貴方に捧げ、やすみなく過ぎゆく時に逆らって。 どこまでも貴方に付き従いましょう。 我が主公の進むがままに――。
<了> 引用の漢詩は曹操作「精列」。訳は『曹操 三国志の奸雄』(講談社学術文庫)に従いました。 なお、一部の漢字は、同音同意の、表示されやすいものに改めております。 <作者あとがき> この短文は、いつもお世話になっている六花さまの三国志サイト「燕雀楼」オープン記念に捧げさせて頂きます。私に魏は難しかったです(^^;)。粗品ですがお受け取り下さいませ。 <燕雀楼管理人より> しまみお様の魏小説(^^)ありがとうございます!丞相も文若殿もツボです!(←本当は曹操様の笑みに管理人もっと狂乱したのですがお恥ずかしいのでこのくらいに)雰囲気の出し方もさすがですわ。 しかし、丞相が詩上手かったから良いようなものの、「下手の横好き」で新作披露されまくったらちょっと配下の皆さんツライだろうなぁ…と要らん想像をしてしまいました。「詩は上手いけど歌がヘタ」とか。ああぁ。 |