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『春穀』

 あの方の、助けを求める声を聴いた気がして。
 周泰が飛び込んだ部屋にひとり座していたのは、彼の人の兄君だった。
 孫策、字を伯符。日焼けの似合う、明るくも精悍なその顔立ちに、何故だか今は歪んだ
ような笑みを貼りつけている。周泰の姿を認めると、わずかに眉を上げた。
 「何だ、恐ろしい顔して。謀反か?」
 主君の言葉で、周泰は自分が刀の柄に手をかけていたことに気づく。「申し訳、ござい
ません。仲謀様がただならぬお声を上げておられるように聞こえましたので」
 「声?…あぁ、あれか、悲鳴に聞こえたかもな」未だ幼さの残る弟の仕草を真似たつも
りなのだろう、孫策は胸の前で両の拳を握り、奇妙に高い声を出した。「『兄上なんか、
大っ嫌いだーっ!』って叫んで、走ってったんだ」
 周泰は返答に詰まって視線を泳がせる。悲鳴でなかったのなら勘違いをわびて退去する
だけだが、主君兄弟の間に何か揉め事があったらしいと聞かされて、ただ下がってもよい
ものなのだろうか。
 「言っとくが、おまえの所為だからな」そう言って悪戯っぽく笑う姿は、いつもの孫策
と変わりないようにも見えた。だが、このどこか憔悴したような気配は何ゆえなのか。そ
れに、兄弟の諍いの原因が自分だとはどういうことなのか。周泰はますます当惑する。
 冗談なのだろうか、と思いかけた周泰の目の前で、孫策はたちまち真顔に戻る。
 「話がある。そこへ座れ」
 おそらくつい先ほどまで孫権が座っていた場所を示される。何とも言えぬ居心地の悪さ
を感じながらも、周泰は従った。

 「傷はもう、すっかり良くなったのか」孫策が問う。
 「はい、長らく任務を離れまして、申し訳ありませんでした」主君の真意を量れぬまま
に、周泰は頭を下げる。
 「…ずいぶん、激しい鍛錬をしているそうだな」
 「はい。末将の力不足ゆえ、仲謀さまを恐ろしい目に遭わせてしまいました」こうして
答えながらもその時の記憶が鮮明に蘇ってくる。宣城で、兄の留守居をしていた孫権。だ
が薄い防御の隙をつかれ、敵の刃がその身に迫ったのだ。周泰は奮戦してどうにか孫権を
守り抜いたが、自身もおびただしい傷を受け、一時は人事不省となった。
 命がけで孫権を救ったとして、周囲の称賛を浴びながらも、周泰は己の不甲斐なさに臍
を噛む。若い主の無事を確かめる前に、意識を手放してしまった。もしも、今少し敵の数
が多かったなら。今少し敵が粘り強かったなら、どうなっていたか。
 今も肌のあちこちに残る刀傷と同様、その出来事は周泰の心に傷跡となって刻まれてい
た。二度と繰り返してはならないと、強く思う。だからこそ、不確かな叫び声に体が動き、
主君の居室に刃を見せて駆け込むような真似をしてしまったのである。
 「で、もっと強くなって、あいつを守ろうってことか」
 「それが末将のつとめと心得ます」
 誉められたいわけではなかった。心から、それが当然の義務だと思っていた。だが、次
に孫策の発した言葉は、周泰にとって意外なものだった。
 「自惚れるな」口元に笑みを残したまま、孫策は確かにそう言った。
 「何とおっしゃいます」周泰は思わず色をなす。未熟さを恥じて己を鍛えているのだ。
あの日、惨めに倒れ伏した姿を孫権に見せたことを、どれだけ悔やんだか。自惚れている
とは心外である。
 「おまえ一人で、万の敵から仲謀を守れるとでも思っているのか」まっすぐな、けれど
厳しい視線を向けられる。
 周泰は絶句した。それは確かに、無理な話だ。だが、孫権の側に仕えているのは自分だ
けではない。現に今も、他の者が護衛にあたっている。一人一人が、十分に力をつければ
いい。そうして油断しなければ、どれほどの大軍が襲ってこようとも、少なくとも孫権を
逃がすことくらいはできる筈だ。孫策は何が言いたいのだろう。
 「で、まあ、話というのはそこからなんだがな」緊張する周泰をよそに、孫策は一転し
て気さくな口調になった。遠乗りの相談でもするように、さらりと言ってのける。「おま
えに、春穀県の長をやってもらう」

 「褒賞なら、過分に頂きました。それに、末将に県長など」
 慌てて辞退する周泰を、孫策が手を振って遮った。「褒賞?褒賞で県長を任じるほど、
人材の余裕があるものか。県を治める力があると思うから言っている」
 「しかし」
 「幼平」孫策は周泰の字を呼んだ。「守るというのは、側で刀を振るうことだけじゃな
いだろう」
 言わんとすることはわかる。県長として土地を作り、民を作り、兵を作る。それらは土
台となって孫軍を支える。孫策の、そして孫権の力となるのだ。
 だが、自分にそんな役割が務まるとは思えない。主君に見込まれたことを喜びに受け取
りつつも、周泰は目を落とす。子供の頃から、取り柄といえば頑丈な体と腕っぷしだけだ。
寒門の出身である武骨者の自分が、人の上に立つなどと考えたこともない。
 それに、孫権から離れるのは心配だった。あの日以来、孫権はますます周泰を頼りにす
るようになった。一方で、生死の境を彷徨わせた負い目を感じるのだろう、何かと気遣っ
てもくれる。精一杯大人びたふるまいの中に、ふと見え隠れする子供じみた愛着を感じる
とき、やはり自分が側にいて守りたいと願う。
 「そんなに悩むようなことか」孫策は鼻の頭を掻いた。普段の引き締まった相貌が崩れ
る。やや寄り目になったその顔は、とても破竹の勢いで軍を進める勇将のものとは思えな
い。
 若すぎるのだ。戦場にあるには、人々の期待を担うには、この兄弟はあまりにも若いの
だ。目の前の主君に孫権の姿を重ね合わせながら、周泰は彼らの運命に胸の痛みを覚える。


 孫権は木の上に居た。梢に近い枝に腰を下ろして、足をやるせなげに揺らしているのが
見える。
 気に入らないことがあると、たいていこんな木に登って拗ねている。危ないからと止め
ても聞きはしない。周泰が腕ずくで引きずり下ろしたことが一度や二度ではない。
 宣城での一件以来、その癖は出なくなっていた。立場を自覚するようになったのかと安
心していたが、今回は我慢しきれなかったようだ。周泰は高い枝を見上げて嘆息する。
 『言っとくが、おまえの所為だからな』孫策の言葉が蘇る。自分を県長に任じようとし
たばかりに、孫策は弟から「大嫌い」とまで罵られてしまった。孫権に、誰よりも慕う筈
の兄に向かってそれほどの言葉をぶつけさせたのは自分なのか。
 「仲謀様」周泰は思いきって呼びかける。「危のうございます、すぐに参りますゆえ、
そこを動かずに」
 「来るな!」孫権の幼く尖った声が降ってきた。「どうせいなくなるんだろう。おまえ
もこんな子守より、出世して県長になる方がいいんだろう。だったら、だったらどこへで
も行ってしまえばいいんだ!」
 「仲謀様!」孫権が細い枝の上でかぶりを振るのにはらはらしながら、周泰は素早く木
に登ってゆく。すっかり慣れたものだった。もう何度目だろう。いつまで、こうして心配
させられるのだろう。
 「…幼平」泣くのを堪えていたのか、孫権の頬は紅潮していた。周泰が近づくと、それ
に気づいて顔を背ける。
 「さあ、こちらへ」
 周泰が差し伸べた腕から逃れようと、孫権が身をよじる。「来るな!子供扱いするな!」

 枝が、軋んだ。
 周泰は咄嗟に孫権を抱き留める。だがその拍子に、自分も体勢を崩した。そのまま、途
中の枝に引っかかれながらも、止まることができずに落下してゆく。

 胸の上に、温かみ。重み。背中の下に、冷たい地面の感触。自分がちゃんと孫権の下に
なっていることに、周泰は安堵する。「幼平」仲謀様はご無事か。「幼平!大丈夫か!?」
お怪我は無いようだ。「幼平!」ゆさぶられる肩に、痛み。いや、背中、腰、脚。全身の
痛み。地面に打ちつけた。木の枝で擦った。目の前に、泣き出しそうな主の顔。あの日と
同じだ。心配をかけているのは、結局自分の方ではないのか。
 「仲謀様」どうにか身を起こし、孫権に笑いかける。「末将は、どこへも参りません。
及ばずながら、お側にお仕えして、お守りさせて下さい」
 孫策には、県長就任を固辞したのだった。志が小さいと思われるかも知れないが、自分
は目に見えるところで、手の届くところで、孫権を守りたい。きっぱりと言い切った周泰
を、孫策は重ねて説得しようとはしなかった。
 「傷が増えるぞ」思い詰めたような表情のまま、孫権が呟く。
 「構いません」
 「…すまない。もう、こんな無茶はしないと約束する。兄上を補けられるよう、早く一
人前になるから。おまえにも苦労はかけないように身を慎むから」澄んだ目を周泰に向け
て、孫権は懇願する。「だから、もう少しだけ、一緒にいてくれ」


 翌日、周泰は孫策に呼び出された。彼が部屋へ入るなり、孫策は一通の書簡をぽんと机
上に投げ出してみせる。「何だと思う」
 愉快そうな孫策の態度に、周泰は困惑する。「申し訳ありません、わかりかねますが」
 「仲謀からの提案書だ」堪えきれないといった風に、孫策の喉から笑いが漏れた。「お
まえを、春穀県の長に推薦するそうだ」
 「仲謀様が…?」周泰は呆然と立ちつくす。昨日、これからも側に置いてくれと願った
とき、喜んで下さったではないか。もう少し一緒にいて欲しいとおっしゃったではないか。
もう少しとは、たかだか一日の話だったのか。
 「あくまでも自分の配下だ、俺に勝手に動かされた形にはしたくないんだろう」孫策は
弟の書簡が可笑しくてたまらないらしい。「あいつも意地っ張りというかなんというか…
ガキの頃から少しも変わらない」
 「そんなことは」
 「ああ、わかってる。成長したよ」孫策は目を細めた。弟思いの兄らしい、暖かさが滲
み出る。「これを持ってきたとき、目が赤かった。一晩寝ずに考えたんだろう」
 周泰は改めて書簡に目をやる。まだぎこちなさの残る筆跡だったが、丁寧に、丁寧に綴
られたのが見てとれる。幼いながらに装束を整えて、ずっと年上の部下達の中で背筋を伸
ばしている孫権の姿に、その文字はよく似ていた。
 「で、どうする?この推薦、受けるか?」
 孫策は、周泰に県を治める力があると言った。孫権は、私情を振り切って、孫軍のため
に周泰を手放す決心をした。ならば、自分が辞退する理由はもう、ない。
 「非才の身ではありますが、謹んで承ります」
 「頼んだぞ」孫策は厳めしい様子で頷いてから、不意に気さくな若者の顔に戻る。「…
でも、本当にいいのか?あいつがあんまり幼平幼平ってなつくから、俺がやっかんで引き
離そうとしているだけかも知れないぞ?」
 「…は?」
 「冗談だ、冗談」ひとり腹を抱える孫策に、どう答えていいのかわからない。
 若いのだ。この兄弟は、まだあまりにも若いのだ。

 任地への出立の日がやってきた。朝靄の中、自ら見送りに出た孫策と孫権に向かい、周
泰は拱手して深々と礼をする。「それでは、行って参ります」
 「ああ、頼むぞ。体に気をつけてな」孫策が親しげに声をかける。
 孫権は、半ば兄の陰に隠れたまま、無言で周泰を見つめていた。兄に小突かれるように
して、ためらいがちに前に出る。深く息を吸って、ようやく言葉を絞り出した。
 「約束は守るから…何も、心配するな」
 「はい」周泰がもう一度頭を下げる。しばらくは会えないのだ。何か言っておくことは
ないか。前夜からずっと考えを巡らせていたのだが、思い浮かぶのは腹を冷やすなとか馬
の後ろから近づくなとかいった類の、これまでの他愛ないやりとりばかりだった。そして
胸が一杯になって、言葉が見つからないのだ。
 結局、周泰はそのまま馬に跨った。一度だけ振り向くと、孫権が子供のように手を振る
姿が、小さく見えた。

 「…行ってしまったな。まあ、行かなきゃ春穀が困るんだが」孫策はひとりごちて、弟
の後ろ姿をちらりと見やった。
 去ってゆく影に向けて力一杯振っていた手が、力なく下ろされる。孫権はくるりと振り
返ると、兄に向かって胸を張ってみせた。「さあ、兄上、戻りましょう。冷えてきました」
 「そうだな」孫策には、親しい者との別れを乗り越えた弟が誇らしく、愛おしい。本当
はこんな思いをさせずに済めば一番いいんだが、と内心で苦笑する。そうして、弟の頭に
載せようとした手を、途中で止めた。
 「な、何ですか!?」ぐい、と肩を掴まれて、孫権が焦った声を上げる。
 「図体ばかりでかくなりやがって」孫策が急にそんなことを言い出す理由が、孫権には
わからない。兄は繰り返し、掌で弟の肩を乱暴に叩く。「ついこの間まで、この辺から見
上げてたくせに」
 いつか、ただ守るべき存在ではなくなってゆくのだろう。書簡の内容を聞いたときには
周泰がどれだけ寂しかったか、孫策には想像できる。

 馬上にある周泰の耳に、孫権と孫策のはしゃぐ声が聞こえた。空耳なのはわかっていて
も、周泰はしばし、楽しい空想に身をゆだねる。
 兄弟は互いに小突き合い、笑い合いながら戯れていた。過ぎゆく時を、惜しむように。

<終>

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 「聲」「痕」に続いて孫権と周泰のお話、3作目になります。「孫策は、周泰に深く
 感謝し、彼を春穀県の長に任じた」という正史(ちくま学芸文庫「正史三国志7」周
 泰伝より)の記述から、どうしてだかこんなことになってしまいました。「武勇を奮
 って活躍したからといって、県長が務まるかどうかはまた別問題では?」とか、「身
 を挺して孫権を守った周泰を、なぜここで引き離すんですか?」という疑問がスター
 トだったのですが、全く答えになっていません(汗)。孫策兄上、何だかひとりウケ
 な人になってますし。
 タイトル、単なる県名です。なんとなく「春の穀物」→「伸びゆく息吹」のようなイ
 メージで、孫権の成長と重ねてつけてみました。成長?
 ところで…木に登らせた時点で、落ちるのは皆様予測なさったかと思います…。ベタ
 ですね。
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