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『想夫恋』

「もう、お手紙は書き終えられたのですか?」
 妻の室を訪なった曹植は、ふわりとした笑顔に迎えられた。
「ああ、返さねばならない信(手紙)がだいぶ溜まっていたのだが、やっと片づいたよ」
「お疲れになったでしょう」
「いいや、好きな事だからな」曹植は笑って、妻の隣に座る。「また、縫い物をしていた
のか」
「ええ、もうすぐ縫い上がりますわ」
「綸」妻の名を呼んだ夫の腕が、そっとその細い肩に回される。また、痩せた。妻に気づ
かれぬよう、眉を顰める。「あまり根を詰めては良くないぞ」
「好きな事ですから」妻はそう言って、やっと手を休めた。
「何を縫っているんだ?」
 妻は答えない。ただ謎をかけるように小首を傾げ、微笑んでみせるだけだ。
 そんな仕草がひどく儚げに見えて、曹植は妻を抱いた腕に力を込める。耳朶に軽く口づ
ると、妻は何かに怯えたように縋り付いてきた。
「綸、綸」その躰の熱さが、恋情によるものではないことに気づいた夫は、慌てて妻に呼
びかける。「無理をするな」
「無理など」
「顔色が悪い」妻の言葉を遮って、曹植はあえて厳しい表情を作る。「熱もあるだろう。
今日はもう休め」
「…はい」
 夫は寂しげにうなだれる妻の肩を抱いたまま、寝所へと向かう。

 妻が、腕の中で静かに目を閉じている。その貌が青白いのは、月の光の所為だと信じた
かった。
 理由はわからない。医師にも診せたし、体に良いと言われる食物や薬はいろいろ試した。
なのに、妻の体からは日に日に生気が失われてゆく。
 夫婦の睦み合いもままならず、彼女は妻の務めを果たしていないとして自分を恥じてい
た。病の身なのだから、そんなことを気にする必要は無いと曹植は思う。今はただ、こう
して寄り添っていられればいい。いつか病の癒える日も来るだろう。
「…子建さま」眠っているとばかり思っていた妻が、か細い声で呼びかけた。
「どうした?」
「早く、側室をお入れ下さいますよう」
「何を言い出すかと思えば、莫迦なことを」曹植は苦笑して、思い詰めた表情の妻の頬を
撫でる。
 夫の手をそっととどめて、妻は言いつのった。「このような身では、もう子建さまのお
子を生むことは叶いません。どうか、お家のためにも、側室をお迎え下さいませ」
「子など要らぬ。父上にも、兄上にも、大勢の子がいるではないか。私の跡なら、その中
の誰かに継いでもらえば良い」
「お願いでございます…わたくしを困らせないで下さいまし」
「困らせているのは綸の方だ」曹植は妻を抱きしめた。「私の妻は、綸だけだ」
「子建さま」
「私は、そなたを幸せにすると誓った。…けして、子桓兄上のような真似はするまいと」
 曹植の長兄・曹丕は、絶世の美女と謳われる甄氏を娶った。だが近頃では、他の妻に寵
を移していると聞く。容色の衰え始めた年上の甄氏に飽きが来たのだろうと、周囲は無遠
慮に噂する。
「なりません」妻は涙声になってかぶりを振る。「わたくしの妬気の所為で、曹子建さま
は側妻を迎えられぬ、子も成せぬなどと、皆に後ろ指さされたくはございません。どうか」
 暗い疑念が胸をよぎり、曹植は思わず声を荒げた。「誰かに、何か言われたのか」
「いいえ、どなたも何もおっしゃりはしません。ですが、このままではきっと」
「…わかった」仕方なく曹植は呟いて、幼子をあやすように妻の背をやわらかくたたく。
「考えておく。だから、安心して休め」
 その場しのぎの言葉とわかっているのだろう、それでも妻はこくりと頷いて、目を閉じ
た。

 側室を持つように言われたのは、これが初めてではない。妻からだけでもない。父から
も、親しい友人達からも、以前から強く勧められているのだ。
 気品のある顔立ちに、優しげな物腰、溢れる詩才。曹植が望めば、喜んで側に上がるだ
ろう女は大勢いた。だが、当の曹植は全く心を動かさない。
 怖かった。ふたりの妻を等しく愛することなど、自分にはできない。きっとどちらかを
不幸せにしてしまう、そんな気がした。
 子孫繁栄のため、夫に大勢の側室を持つことを勧める。世の中では、それが正妻の美徳
とされていた。夫が毎晩自分をひとりにして、若い妻を抱き、身ごもらせても。喜びこそ
すれ、妬むなどは以ての外なのだそうだ。
 人々は甄氏を褒めそやして言う。妻達のうちに寵愛を受けているものがいれば、一緒に
喜び、力づけてやる。夫に顧みられぬものがいれば、励まし、どうすれば愛されるのか助
言してやる。見上げた賢婦だと。
 曹植はかつて、嫂である甄氏に想いを寄せていた。少年の日に盗み見たその美しい貌が、
ひどく悲しげな表情を浮かべていたことを、忘れられない。
 自分は、自分の妻になる人にあんな顔をさせるまいと、心に決めたのだ。
 妻は二度、子供を産んだ。二人とも、女の子だった。跡継ぎはまだかと、周囲は苦い顔
をしたが、曹植には娘たちが可愛くてならなかった。自分と妻の血を分けた子供。男でも
女でも、愛おしさに変わりは無い。
 けれども、その娘たちも、相次いでこの世を去ってしまった。甘く舌足らずな声、澄ん
だ瞳、柔らかな頬。思い出すと今も、胸が苦しい。
 もう子供を持ちたくないと言えば、嘘になる。親子で過ごす暖かな時間を、再び授かる
ことができれば、どんなにか幸せだろうと思う。けれども、家の為だけの子供ならば、欲
しくはない。子を生ませるためだけに妻を娶るような真似は、したくない。

 しばらくは、そんな日が続いた。妻はひたすらに縫い物に打ち込んでいるかと思えば、
ときおり側室の話を持ち出す。曹植はわざと怒ってみせたり、宥めたりする。
 綸は子を生めぬことを気に病んでいる。悩むから余計に良くないのだ、と曹植は言う。
心を苛むのをやめて、ゆっくり養生すれば、やがて体も癒えるだろう。綸はまだ若い。体
が癒えれば、子はそのうちにできるだろう。
 いいえ、と妻はおだやかな笑みを浮かべたまま否定する。このままでは子建さまも、わ
たくしも歳をとるばかり。早く健やかな女性を側にお迎えになり、わたくしに子建さまの
お子を見せて下さいまし。そう主張して、譲らない。
 夫の心を他の女性に奪われて、喜ぶ妻がいる筈がない。それは、自分の勝手な思い込み
なのだろうか。側室を迎えれば、妻は本心から安堵するのだろうか。
 病で、やつれた面差しの所為かも知れない。だが、曹植には妻の微笑みが、どこか寂し
そうに見えて仕方がないのだ。
 妻が、あまりに一心に縫い物を続けているのも、曹植には気がかりだった。さほど急ぎ
で必要な衣装なども無いはずだったから、ただ仕立てること自体を楽しんでいるのだろう。
それにしても、以前はそれほど裁縫ばかりを好んでいた印象は無い。よく琴を弾いたり、
詩を吟じたりもしていた。それともあれは、と曹植は思う。無理に夫の好みに合わせよう
としていたのだろうか。本当は楽器などより針と糸を手にしたかったのに、我慢していた
のかも知れない。
 それならそれで構わない、好きなことをしてくれるのが一番良い。問題は、根を詰めす
ぎることだ。あれでは、体に障る。曹植は何度も止めようとするが、愛しげに、まるで語
りかけるかのように布を縫い上げてゆく妻を見ていると、強くは言えなくなる。その時の
妻は、本当に幸せそうなのだ。
 何を縫っているのか訊ねても、けして答えない。ただ、微笑む。楽しそうに、とても楽
しそうに。

 やがて、同じことの繰り返しだった日々に、小さな区切りがついた。
「今日は、縫い物はしないのか?」
 帰館した曹植に問われ、妻は満ち足りた表情で答える。「ええ、やっと縫い上がりまし
たの」
「そうか、ではそろそろ何を作っていたか教えては貰えないのかな」
「ふふ、そうですわね…」悪戯っぽく笑って、肩をすくめた。「子建さまの、新しい奥方
の衣装ですわ」
「また、そのような」
 語気を強めた曹植の腕を、妻がはしゃいだ様子で胸に抱く。
「ええ、冗談ですわ。あれはわたくしが着ますの。自分のものばかり縫っていると、お叱
りを受けて止められてしまうかも知れませんので、黙っておりました」
 曹植はしばし呆気にとられ、それから思わず笑い出す。「そんな心配をしていたのか?
綸が自分の着物を縫ったからといって、誰が叱ったりするものか」
「…よかった」
「では、早く着てみせて欲しいものだな。さぞ美しいだろう」
 夫の言葉に、妻は嬉しげに笑う。「ええ、もうすぐお見せできますわ」
 妻のこんなに晴れやかな顔を見たのは久しぶりだった。曹植の胸に、暖かな光が灯る。
これで、少しは体も快方に向かうかも知れない。
 縫い物が終わったのなら、近々一緒にどこかへ出かけようか。可憐な花の咲き乱れる野
山へ、それとも賑やかな市へ。早くも内心でそんな算段を始めた曹植の顔を、妻が不思議
そうに見上げた。



 翌日、館に戻ったときには、全てが終わっていた。
 新しい衣服を身につけた妻は、穏やかな表情で目を閉じていた。
 妻の横たわる牀台の傍らに、小さな杯。
 目を泣きはらした侍女たち。
「お戻りになるまでお待ち下さるよう、お止めしたのですが」涙まじりの、家僕の声。
 曹植の震える指先に触れるのは、冷たい頬。驚くほど娘たちに似た、あどけない寝顔。
「それではきっと主公に命乞いをなさるからと、そうおっしゃって…ご自分のために禁令
を曲げるようなことをさせるわけにはいかないと、そう…」
 家僕たちの嗚咽が、ひどく遠く聞こえる。
 曹植の留守中のことだ。妻は昨日縫い上げたばかりの衣を着て、庭へ出ていた。それを、
たまたま楼台に登っていた魏王…曹操に、見られたのだ。
 ただ衣を新調しただけなら、とがめ立てはされない。だが、妻の身を包んでいた絹地に
は、美しい縫い取りが施されていた。それが、奢侈を禁じた曹操の命に反しているとされ
た。
 相手が息子の妻といえど、法を曲げる曹操ではない。すぐさま毒杯を持った使者が館を
訪れ、妻は曹植の帰りも待たずにそれを飲み干した。
「何故だ」物言わぬ妻に、曹植は問う。縫い取りのある衣服が禁じられていることを、知
らなかった筈はない。それなのに何故、わざわざそんなものを着て、義父の目に触れるよ
うなところへ出ていったのか。
 何故父は、自分に知らせることもせずに、それほど急いで妻に死を命じたのか。

 何故妻は、こんなにも幸福そうな笑みを浮かべて眠っているのか。

 いくつもの問いが、知りたくない答えを形づくってゆく。妻の冷たい躰をかき抱いて、
曹植は熱い涙で頬を濡らす。自分と、妻の。
 この死は、妻が自ら望んだこと。
 楼台から見下ろす魏王を、まっすぐに見つめ返す妻。知るはずのないその光景が、曹植
の脳裏に鮮やかに浮かぶ。
 三男の妻。周囲がいくら勧めても側室を持たぬ三男の、ただ一人の妻。子を成せぬ妻。
ふだん慎み深い彼女の、豪奢な装い。そこに込められた意図を、曹操は余りにも正確に読
みとったのだ。
 誰が妻を苦しめたのか。
『わたくしの妬気の所為で、曹子建さまは側妻を迎えられぬ、子も成せぬなどと、皆に後
ろ指さされたくはございません』
 いつも、妻はそう嘆いた。誰に責められたわけでも無いと言いながら、ひどく人の噂を
恐れていた。
 誰が…いや、他の誰でもない。
 曹植は慟哭する。妻を悲しみの果てまで追いつめたのは、自分なのだと思い知る。

 若い妻に寵を移した、兄のようにはならぬと繰り返した。その言葉は、甄氏への想いと
取られたか。ふたりの妻を持つことになれば、ふたりを同じようには愛せぬと怯えた。そ
の不安は、いつか正妻が疎んじられると伝わったか。
 妻の本当の望みは、何だったのか。夫が側室を娶り、その女の産んだ子を抱くことか。
それで娘を失った悲しみが癒えるのか。
 自分は妻を愛している。他の女も、子も要らぬ。それで良いのだと信じていた。周囲が
何を言おうと、自分が妻を守る。それで良いのだと。
 妻の心を受け取れていなかった。自分の心を伝えきれていなかった。

 衝動にかられて取り上げた毒杯は、既に虚しく乾いている。再び溢れ出る涙が杯を濡ら
し、妻の衣装にこぼれ落ちる。
 妻の想いが込められた縫い取りに、夫の涙は、ただ、奇妙な濃淡を添えるだけだった。



 慊慊仰天歎   満ち足りぬ思いで天を仰ぎ、ため息をつく
 愁心將何愬   この哀しみを、どこへ訴えれば良いのでしょう
 日月不恆處   日も月も、ひとつところにとどまってはいないように
 人生忽若寓   人の命も瞬く間で、この世は仮のやどりのようなもの
 悲風來入懐   哀しい風が胸に吹き込み、
 涙下如垂露   涙が露のようにこぼれ落ちます
 發篋造裳衣   でも、箱を開けてあなたのために衣装を作りましょう
 裁縫[糸丸]與素 白絹を裁ち、縫い上げましょう



<終>

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 いやその終わり方はどうなんですか。
 最後の詩は曹植作「浮萍篇」の後ろ7行です。この詩と、正史崔[王炎]伝の註にあっ
 た「曹植の妻が縫い取りのある衣装を着ていて死を命じられた」というエピソードを
 読んで「裁縫つながりー!」ということでお話作ってみたんですが……。全然繋がっ
 てないですから。
 子供いない子供いないって騒いでますが、曹植さんの後はきっちり息子が継いでます。
 娘さんを亡くしているのは事実のようですが、それがこのお話の「妻」(崔氏という
 ことになりますね)の子供なのかどうかというあたりは、まるっきり創作です。
 ちなみにオフラインインフォメーションでご紹介しております「日月之行」に書き下
 ろしました「感婚賦」の続きになります一応。あちらも詩を引用しようとして計画倒
 れになりました。あらあら。
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