戻る

『冥』

 暗闇の中を、一人の少年が歩いていた。
 果ての見えない漆黒の世界で、彼の周囲だけを、柔らかな光が包んでいる。若々しくも
優雅な身のこなしと、端正な顔立ちは育ちの良さをうかがわせた。だがその表情はけして
とりすましたものではなく、澄んだ瞳はこの見慣れぬ風景を楽しんですらいるように輝く。
 ひどく悲しげに啜り泣く声を耳にして、少年はしばし足を止めた。声の聞こえてくる方
向を確かめると、まっすぐにそちらへ歩き出す。
 やがて、少年を包む光が、闇の中にうずくまる人影をぼんやりと照らし出す。泣いてい
るのは、一人の少女だった。少年はそのまま歩み寄り、優しく微笑みながら言葉をかける。
 「どうして泣いているの?」
 少年の声に、少女は驚いたように顔を上げた。瞼を泣き腫らしてはいるが、その面差し
は整って美しい。
 「怖いの。ここは暗くて、寂しいの」
 少年は、闇の存在に初めて気づいたかのように周囲を見回す。「どうして、ここはこん
なに暗いの?」
 「母さまが、わたしのことを思い出して下さらないから」しゃくり上げながら、そう答
える。「思い出そうとすると、お父さまがお怒りになるから」
 「…どうして、怒るの?」
 「わたしが、お父さまの本当の娘ではないから。母さまがお父さまの元へ来られたとき、
わたしはもう母さまのお腹にいたの」
 母さまはわたしに聞かせないようにして下さったけど、みんな陰でそう言ってた。でも
本当の父さまがどこにいらっしゃるのか、誰も教えてくれない。だからわたし、叔父さま
にお訊きしたの。叔父さまが酔っていらっしゃるときに、お願いしたの。そしたら教えて
下さったわ。父さまはもう亡くなったのですって。わたしの父さまは、今のお父さまの敵
だったの。今のおじいさまはわたしにやさしくして下さったけど、お父さまと一緒に、わ
たしの本当の父さまと戦っていたの。父さまは、母さまを取られて、逃げて、首を斬られ
て。その首はおじいさまのところに送られてきたって、そう叔父さまはおっしゃったの。
 叔父さまは急に酔いが醒めて、ごめん、って。余計なことを言った、って。わたしを抱
きしめて謝って下さったけど、わたし本当のことが知りたかったから、叔父さまは悪くな
いの。だけど、今のお父さまがわたしの本当の父さまをお嫌いで、だから私のこともお嫌
いなんだって、それがわかってしまったの。
 弟が生まれたわ。母さまと、お父さまの、本当の子供。母さまにはわたしのこと忘れて
幸せになって頂きたいの。だけど、いや。いやなの。忘れられるのは寂しいの。
 一気に話し終えると、少女は再び顔を覆って泣きはじめた。
 「泣かないで」少年は少女と並んで屈み込んだ。「きみのお母さまは、きみのこと忘れ
たりしてないよ」
 少女はうつむいたまま首を横に振る。
 これまで穏やかな笑みを消さなかった少年が、ふいに真顔になって頬を赤らめた。
 「えっと…ね。僕、きみのお母さまとおじいさまに頼まれてるんだ。きみと一緒にいて
あげてって」
 「母さまと…おじいさまに?」
 「うん。きみのおじいさまって、僕の父上なんだけどね」元通りの柔らかな表情に戻っ
て、少年は言う。「きみのお父さま…僕の兄上も、それを許して下さったよ。きみが寂し
くないようにって、みんな願ってるんだよ」
 「お父さま…」少女がようやく顔を上げた。その目から、また新たな涙の粒がこぼれ落
ちる。
 「だから、一緒に行こう。もっと明るいところへ」
 少年が手を差し伸べる。少女がためらいがちにその手に触れると、少年の体だけを包ん
でいた光が、ふわりと広がって少女をも包み込む。
 「お会いしたことがないけれど、僕のおじいさま達もいらっしゃる筈なんだ。ええと…
きみにとってはひいおじいさまだけど」
 ややこしいね、と少年が頭を掻くと、少女は初めて笑みを見せた。

 冥婚の、小さな祭壇。甄夫人と呼ばれる女が、その前に座っている。
 前夫である、袁熙との間の娘。病のために、その短い生涯を終わらせてしまった。今の
夫の目を気にするあまりに、寂しい思いをさせたまま。
 どんなに悔やんでも、あの子に償うことはできない。今はただ、せめて安らかに眠って
欲しいと祈ることしか、できない。
 美しい相貌を悲しみに翳らせていた女が、急に何かに気づいたように祭壇を見上げた。
 「…どうした?」義父・曹操が、気遣わしげに声をかける。
 「いえ…」女は、しばし迷った後に答えた。「あの子が、笑ったような気がして…」
 義父は、黙って頷く。
 曹操の息子、沖が、彼女の娘と同じ年頃で亡くなった。ひとりで冥界を旅させるのはし
のびない。そう考えて、亡き二人を娶せた。
 儀式にすぎない。遺された者達の、自己満足にすぎないのかも知れない。それでも、沖
の優しい手ならば、あの子に届くのではないか。ひとりぼっちだったあの子に。皆に愛さ
れた、聡明で純真な義弟の笑顔を女は懐かしむ。

 「ほら、見えてきたよ」少年が指さす先に、まばゆい光が見える。
 「うん」嬉しげに答えながらも、少女は立ち止まる。そうして、自分たちが通り抜けて
きた闇を振り返った。「もう…母さまたちには会えないのね」
 「そう、だね」少年も、何も見えない筈の彼方へ目をやった。「本当は…もっと、一緒
にいたかった」
 少女がまた泣き出しそうになる。少年は慌てて、繋いだ手にもう片方の手を添える。
 「大丈夫だよ、またいつか会えるから。だからそれまで待ってようよ」少年は小首を傾
げて少女の顔をのぞきこんだ。「側にいるから…もう寂しくないよね?」
 少女は頬を染めてこっくりと頷く。

 父母の思いが、少年と少女の体を柔らかく包み、足下を照らしている。
 再び歩き出した二人の姿が、やがて大きく暖かな光に溶け込んで、見えなくなった。

<終>

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これ三国志なんですか。
 ええと、若くして亡くなった曹沖くんに、曹操様がシン氏の亡くなった娘を娶せたと
 いう記述が曹沖伝にありましたので、折角だから二人ちゃんと会えてるといいなーと
 お気楽に思って書いたものです。
 「<終>」まで打ち込んだあとで「『シン氏(一族)の娘』であって『シン夫人の娘』
 じゃなかったのでは」ということに思い当たり、愕然としておりますが。
 シン夫人の生んだ娘だとした場合、たとえ建前でも「曹丕の娘」ならそう明記するの
 ではないかと思います(それだと今度は同姓の叔父姪…冥婚とはいえ)。書いてない
 ってことは袁熙の娘かも、と解釈するにしても、それを認めた上で曹沖くんのお嫁に
 するかどうか。そんなこんなで「曹沖の冥婚相手の母親はシン夫人、さらに父親は袁
 熙」とする本作の設定は創作であります。
 それから、如何にも娘さんのことを思っての冥婚でもあるように書いてますが、当初
 曹操が曹沖と合葬しようとしたのは[丙β]原の娘だそうです。[丙β]原に「冥婚なん
 て凡俗です」と断られて諦めている模様。それでも他の相手をみつけて敢行してしま
 うあたり、迷信嫌いそうな曹操には珍しいなと感じました。
 ちなみに酔っぱらって子供にいらんこと吹き込んだのは内部設定で子文叔父さまです。
 でももしかすると子建叔父さまかも…母さまに横恋慕してた疑惑もありますし。うわ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

戻る