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『窓』

 目を覚ましたときには、もうだいぶ明るくなっていた。
 久しぶりにぐっすり眠ったようだ。牀の上で起こしてみた体も、心なしか軽い。
 「子楊」
 「はいっ」
 側仕えの者を呼ぶと、間を置かずに快活な返事があり、戸が開いた。
 「おはようございます、呂将軍。お呼びですか」
 「ああ、窓を開けてくれんか」
 子楊は、しばしこちらの顔を覗き込むようにして黙っている。病身の主を外の風にあて
て良いものかどうか、思案しているようだ。こんなときに小首を傾げる様は、聞いている
年よりもずいぶん幼く見える。
 だが、今朝は具合が良さそうだとすぐにわかったらしい。「はい」と素直に返事をして、
窓辺へ向かった。その身軽な仕草が快い。
 身の回りの世話をさせるようにと、主公・孫仲謀様がつけて下さったこの少年は、じっ
としているのは性に合わないとかで、あれを片づけたりこれを取り替えたり、始終こまご
まと立ち働いている。具合の悪いときなど鬱陶しくなりそうなものだが、不思議と気に障
らない。
 「そなたの若い頃に似ているな、子明」主公は笑いながらそうおっしゃっていたが。
 窓が開き、爽やかな風とともに子楊の声がふわりと飛んでくる。
 「小さな方の窓も、開けておきましょうか?」
 いたずらっぽく笑うのにつられて、こちらも苦笑しながら頷く。

 主公の内殿にあるこの部屋に引き取られてきてから、ひとりでいるときにも奇妙な視線
を感じることがあった。原因はすぐにわかった。壁に小さな穴が空いていて、隣の部屋か
ら誰かが覗いていたのだ。
 何か知っているかと子楊に問うてみると、ひどく恐縮した様子で何も存じませんと答え
た。その畏まり方で、本当の答えはわかる。それでも気づかないふりをして、気になるか
ら何かで塞いでおくよう言いつけた。
 その翌日、主公が見舞いに来られた。真っ先にその視線が向いたのは、やはり壁の穴の
あたりだった。そこには小さな画を掛けさせてある。
 「どうかなさいましたか、主公?」
 「い、いや。良い画だな」主公は慌てた様子で咳払いをした。「前に来たときには、無
かったように思うが」
 「友人から一昨日届いた見舞いの品です。故郷の風景に似ている画なので、そこへ掛け
させて朝晩眺めております」
 「そうか、故郷に…な」青みがかったその目が、眩しそうに細められたかと思うと、次
には落ち着きなくきょろきょろと動く。
 「他の場所に掛けた方が良いと、お思いですか」
 そう申し上げると、主公は視線を彷徨わせるのをやめ、がっくりと首をうなだれた。
 「…すまん、子明」
 「いえ、御顔を上げて下さい、主公」
 「そなたの体の具合が気になって仕方なかったのだ」と目を伏せたまま主公は続ける。
「本当は毎日でも見舞いに来たいのだが、それではかえってそなたを疲れさせてしまう。
ならばこっそり様子を窺うのがよかろうと」
 「それで、壁に穴を?」
 「…すまん」けして小柄とは言えない御体を縮めての、消え入りそうな声だった。

 結局、「見られたくない時には閉じておく」ということになったその穴を、子楊との間
では「小さな方の窓」と呼んでいる。
 主公がそれほどまでにこの身を気に掛けて下さるのは欣快に堪えないし、見舞いのため
に多忙な主公の時間を割いて頂かなくてすむのは、ある意味で気が楽だ。だが、体を拭い
ている様などはさすがにお見せするわけにはいかない。
 あまりに病状が思わしくない時なども閉じておいた方が良いかと思うのだが、それでは
「窓」が閉じているだけで主公にご心配をお掛けしてしまうのは目に見えている。
 眠っているときと、とても主公にお目に掛けられない格好になっている場合を除き、基
本的には開けておくことにしていた。眠っているときは開けておいても構わなかったのだ
が、「夜中に様子をご覧になっていることもありましたよ」と子楊が教えてくれたので、
夜は閉じておこうと決めた。見えないとわかっていれば、何も起きてはいらっしゃらない
だろう。

 「呂将軍?どうかなさいましたか」先ほどから子楊が呼んでいたようだ。
 「すまない、少し考え事をしていた…何だ?」
 「何かお召し上がりになりませんか?城下から良い青菜が届いているようですよ」
 「…そうだな」今朝は物を食べられそうな気がした。「少しもらおう」
 「はい、すぐに支度致します」子楊は笑顔で返事をして立ち上がる。「それから、昨夜、
陸伯言将軍からお手紙が届いております。お持ち致しましょうか」
 「それは嬉しいな、頼む」
 少年の身軽な足音が遠ざかると、部屋には恐ろしいほどの静寂が訪れた。遠く聞こえる
鳥の囀りに誘われるように、窓の外へ目をやる。子楊に言わせれば、「大きい方の窓」だ。

 窓の形に切り取られた、青く澄んだ空。
 空は無限に広がっているけれども、病に伏した我が身に与えられているのは、この空の
欠片のみだ。
 自分は何をしているのか、そんな問いが浮かび上がる。
 もう主公のお役に立つことは無いというのに、内殿の一室を与えられて、主公にただご
心配だけをお掛けしけている。
 小さな窓の向こうの、青く澄んだ空。主公のその瞳に映すべきものは、このみじめに病
んだ身より他にある筈なのに。主公のお心の、ほんの一部とはいえ、わずかな時間とはい
え、あの小さな窓が切り取るべきではない筈なのに。
 子楊にしても、心優しく利発で、勤勉な若者だ。しかるべき役目を与えれば、きっと有
能な人材に育つだろう。ここで病人の世話をさせているより、主公のお役に立つ仕事があ
るのではないか。

 「失礼します、お手紙をお持ちしました」沈んでゆく思いを軽やかに断ち切るように、
弾んだ気配が部屋に飛び込む。文を受け取りながらふと見ると、子楊の顔はわずかに上気
していた。急いで戻ってきたのだろう。
 「お読みになっている間に、食事の支度が出来ると存じます」そう言って、また軽い足
取りで部屋を出ていった。
 伯言殿からの文は、見舞いというよりは近況報告に近かった。そして、これについて近
いうちに教えを請いたいとか、夏になったらあれを是非見せたいとか、これから先のこと
についての言い回しが多かった。まるで、いつかまた共に働く日が来ると信じているかの
ように。

 ちょうど文を読み終えたとき、部屋の前まで足音が近づいてきた。子楊が戻ってきたの
だろう、本当に文を読む間に支度ができたとは。
 いい勘をしている、そう言ってやろうと待っているのに、なかなか部屋に入ってくる様
子がない。耳をそばだてると、何やら小声で言い争っているような気配がある。
 やがて、それもおさまった。一方の人物が去っていったようだ。
 「お食事をお持ちしました」普段とかわらぬ明るい様子で、子楊が食膳を運んでくる。
 迷ったが、訊ねてみることにした。「今、部屋の前で、誰かと話してはいなかったか?」
 「え、あ、はい、少し」この少年が歯切れの悪い物言いをするのは。「…ちょうど、殿
にお会いしまして」
 「叱られてはおらなんだか?」
 「そうですね、叱られたといえば叱られたのですが、そうではないといえばそうではな
いような気も致します」
 「何だ、それは」
 「将軍がお食事をなさるとのことで、殿はたいそうお喜びだったのですが」そこまで言
って子楊は声をひそめた。「ちゃんと青菜は柔らかく煮てあるか、味付けは濃すぎないか
薄すぎないかと気になさいまして。大丈夫ですと申し上げましたら、ところで昨夜届いた
文は見せたのかとお訊ねになりました。今お読みになっているところですとお答えしまし
たら、『あいつの文は長いからそんな物を読ませては疲れてしまう』と、今にもお部屋に
踏み込んで将軍のお手から文を取り上げそうな勢いでした。でも将軍はお喜びのご様子で
すから、と申し上げましたら今度は食事が冷めてしまう、何をぐずぐずしているのだ早く
持って行けと」
 それは確かに、叱られたとも何とも言いようがないが。
 「子楊」
 「…はい」
 吹き出すのをこらえきれないように肩をふるわせる少年に、主公を笑ってはならんぞと、
小声で一応釘をさしておく。

 開いた窓が、かたかたと音を立てた。
 「風が出てきたようですね。窓を閉めましょうか」子楊が、早くも窓辺に歩みかける。
 「いや、もう少し開けておいてくれないか。気持ちが良い」
 失礼致します、と慌てた様子で子楊が額に掌をあててくる。冷たい風が快いのは、熱が
あるせいではないかと心配しているのだ。「大丈夫ですね。寒くなったら、おっしゃって
下さい」
 大丈夫、の声が大きかった。そう、隣室にまで聞こえるのではないかというくらいに。

 窓の外に見える空は、どこまでも澄んでいた。
 もう二度と、あの空の下を駆けることは叶わないだろう。主公の御為に振るうことので
きる力は、もう二度とこの身に宿ることがないだろう。
 それでも、いましばし、ここに留まっていよう。開かれた窓が、天とこの身を繋ぐのな
らば。
 窓の向こうの青い空。願わくば、その曇る日の少しでも遠からんことを。

<終>

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 病を発した呂蒙を内殿に引き取り、壁に空けた穴から始終様子を窺っていた孫権。
 それを正史で読んだときに妙に衝撃を受けてしまい、これは自分の中でなんとか消化
 しなければ…とひねりだしたお話です。
 側仕えの子楊くんは、おわかりとは思いますがオリジナルキャラです。史実の人物で
 誰か適当な人がいれば良かったのですけど。
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