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『日々是平日』

 後世の史家に言わせれば、私なぞはさしずめ「名もない官吏」ということになるのでし
ょう。いえ、「名もない官吏」としてすら記録に残るようなことはありますまい。ただ、
日々の勤めを黙々とこなしていくだけの身。これ以上の高位を窺う気も、まして天下に名
を轟かせようという気などはありませぬ。
 各地の人口を調べるのも、過去の法令の記録を整理するのも、これはこれで大切な仕事
なのでございます。非才の身ながらご主君・孫仲謀さまのために力を尽くし、天下万民を
安んじる一助となれば、それがわたくしの喜びです。
 ですが近頃、そう呑気なことも言っておられなくなりました。これまでは主に竹簡相手
の仕事をしておりましたわたくしですが、この度配置換えがありまして、なんとご主君に
訪問者を取り次ぐ担当になってしまったのでございます。
 用件を確かめ、ご主君にお目通りさせてもよいかどうかを判断しなければなりません。
通すにしても、急ぎの用件なのか、待たせるべきなのかを間違ってはなりません。
 申し上げておきます。ご主君は素晴らしい方です。齢二十にも満たない若さで兄君の跡
を継がれたとのことですが、周囲の意見をよくお聞き入れになり、これまで立派にこの地
と人々を守ってこられました。本当にご聡明な、器量の大きな方なのです。
 なのですが…その、何と申しましょうか。稀に、至極稀になのですが、たいそう臍を曲
げ、いえ、気むずかしくなられることがおありです。そんなときに、諌言をしに参った人
間でも通してしまったらと、考えるだけでも血の気が引く心持ちがいたします。

 その朝も、ご主君は執務をとりながら、時折苛立ったご様子で左手を動かしておられま
した。よく目を凝らしますと、お側に置いた手戟をお手に取っては戻し、取っては戻しと
していらっしゃるのです。傍らで書類をお渡しする係の者などは、顔色を失って震えてお
ります。
 ご主君の兄君…長沙桓王もご存命の頃、わたくしはまだお仕えしておりませなんだが、
やはりよくお手元に手戟をお持ちだったそうです。ある時などは、和平を乞う使者を一撃
で仕留めた、などという馬鹿げた噂も流れております。まさか。いくら何でも、和睦の交
渉に来た人間を、話の途中で打ち殺したりするわけがございません。
 「ひっ」
 ごとり、という重い音と同時に、押し殺したような悲鳴が聞こえました。ご主君が、手
戟を誤って取り落とされたようです。竹簡を受け取ろうとしていた役人が、小さく身を仰
け反らせました。ご主君はちらりとそれをご覧になっただけで、すぐに次の案件に目を移
されました。そしてまた、左手は手戟を弄ぶ動きを繰り返しておられます。わたくしは、
足音を忍ばせるようにして御前を離れ、勤務場所である宮門へ向かいました。
 ご機嫌を損ねておられる理由は承知しております。先頃、魏騰殿に、法に触れる行いが
あったのです。桓王の代からの臣に、信頼を裏切られたとお思いなのでしょうか。知らせ
を受けたご主君のお怒りようといったら、傍目にも恐ろしいものでございました。今朝は、
そう、これでもだいぶ落ち着いておられると申せましょう。
 魏騰殿が何ゆえ罪を犯したのかは存じません。一本気で、自分を曲げて周囲に合わせる
ということをなさらない方です。おそらくやむにやまれぬ事情があったのでしょう。しか
し、「魏騰の罪を赦せなどと諌言したものは死罪に処する」とご主君がおっしゃる以上、
自分の身を投げ出してまで庇い立てすることはできません。
 間違っているとは思います。ですがわたくしはやはり命が惜しいのです。いえ、この身
ひとつの問題ではありません。わたくしにもしものことがあれば、妻やまだ小さい子供た
ちはどうやって生きてゆけばよいのでしょう。悪くすれば、わたくしに連座して死罪にな
るやも知れません。そんなことになったら。妻や子をそんな目に遭わせるくらいなら、死
んだ方がましと言うものです。
 …何処かで間違ったような気もいたしますが、職務中です。恐ろしい想像はこのくらい
にしておきましょう。

 姿勢を正したわたくしの視界に、何やら異様な風体の人物が入って参りました。頭髪を
全て剃り落とし、自らを後ろ手に縛り上げています。わたくしは頭を抱えました。相手が
わたくしに向かって口を開いたときには、正直申し上げて逃げ出したい心持ちでございま
した。
 やってきたのは呉範殿でした。坊主頭の所為で人相が変わって見え、すぐにはわからな
かったのです。ご主君にお目通りしたい、と呉範殿は言うのです。自分が諌言をするため
に参ったことを、ご主君に伝えて欲しいと。
 冗談ではありません。「諌言などなされば、あなたも魏騰殿と共に死罪にされてしまい
ます。何とぞお考え直し下さいますよう」
 「わたしは、魏騰殿といっしょに死のうと誓った。諌言が通らぬのなら、もはやこの世
に未練はない」
 呉範殿は魏騰殿と同郷の生まれであり、親交が深いと聞いています。魏騰殿に負けず劣
らず融通の利かない、いえ信念を曲げない方ですから、気が合ったのでしょう。友誼に篤
いのは素晴らしいことだと思います。
 しかし。今のご主君に諌言など、結果は見えております。「わたくしまで命が危なくな
るとわかっておりますのに、そんなことをお伝えするわけには参りません」
 「あなたには子供があるか」血走った目で呉範殿がわたくしに問います。
 「ございます」相手の意図が見えぬまま、気圧されてわたくしは答えます。悪戯盛りの
息子。やっとよちよち歩けるようになった娘。わたくしにもしものことがあったら、あの
子たちは、そして妻は。
 「もしあなたがわたくしのために死ぬことになったら、子供は私があずかろう」呉範殿。
お気遣いは嬉しく思いますが、取り次ぎの役人であるわたくしを打ち殺すくらいなら、ご
主君はあなたを生かしてはおきますまい。それなのにどうやってわたくしの子供をあずか
るというのでしょうか。

 ここはどんなことをしても呉範殿を帰さなければなりません。衛兵を呼ぼうとしたわた
くしですが、なぜか頭の中でもうひとりのわたくしがそれをとどめます。
 ご主君がまだお若くていらした頃、ええ、遊びたい盛りのごくお若い頃です、会計を預
かる役人に、公費からこっそり小遣いを出すよう所望されたことがあったとか。一人は帳
簿をごまかして金を工面し、もう一人はきっぱりと断ったそうです。ご主君は、後に当主
となられたとき、ご自分に厳しくあたった呂範殿を重用され、ご自分のために不正をはた
らいた役人を任用しなかったのだと、わたくしは聞き及んでおります。
 それでは、今のご主君のお気持ちはどうなのでしょう。もしも本当は魏騰殿を罰したく
ないのだとしたら。罪を犯した者を赦すわけにはいかないが、お心の底では、厳しく諫め
てくれる者を待っておられるのだとしたら。役人に止められて引き下がった呉範殿や、止
めたわたくしにもお怒りが及ぶ可能性があります。ですが、ですがやはり魏騰殿へのお腹
立ちがおっしゃる通りのものだとしたら。
 落ち着いて考えてみましょう。ご主君は、諫めに来た者もろとも魏騰殿を処罰なさるお
つもりなのか、実は諫める者をお待ちなのか。わたくしの行動は、呉範殿を通すか通さな
いか。この組み合わせで、四通りの結果を予想することができます。
 一、断固魏騰殿を罰されるおつもりのご主君に、呉範殿をお目通りさせた場合。魏騰殿
は死罪、諫めた呉範殿も死罪。それを通したわたくしも命が危ういでしょう。
 二、断固魏騰殿を罰されるおつもりのご主君に、呉範殿をお目通りさせなかった場合。
魏騰殿はそのまま死罪、呉範殿とわたくしにお咎めはないでしょう。
 三、本当は魏騰殿をお赦しになりたいご主君に、呉範殿をお目通りさせた場合。ご主君
は呉範殿の諌言を容れた形をとられ、魏騰殿は少なくとも死罪を逃れるでしょう。呉範殿
とわたくしにお咎めはないでしょう。
 四、本当は魏騰殿をお赦しになりたいご主君に、呉範殿をお目通りさせなかった場合。
死罪を宣言なさった手前、諫める者がいなければ、ご主君はやむなく魏騰殿を処刑される
でしょう。先ほど考えた通り、せっかく足を運びながら引き下がった呉範殿と、その原因
となったわたくしは、あたら功臣を斬らなければならなかったご主君のお怒りに触れて、
罰せられるおそれがあります。
 わたくしが助かるのは二と三、呉範殿を通しても通さなくても結果は半々です。呉範殿
もわたくしと同じ目に遭うことになります。ですからわたくしの亡き後子供をあずかるな
どとは土台無理な話なのだと改めて思います。そして魏騰殿はどうでしょう。死罪を免れ
ることができるのは、三の場合だけでございます。すなわちわたくしが呉範殿をここで通
さなければ、魏騰殿はけして助からないのです。

 呉範殿を御前に通せば、当然、一の事態もあり得ます。ですが、どちらにしてもわたく
しの命が危ういのだとすれば。せめて魏騰殿が助かる望みのある道を選ぶのが筋というも
のでしょう。
 「よろしゅうございます」わたくしは心を決めました。扉を開け、ご主君のおられる室
に足を踏み入れます。
 「殿、呉範」たったそこまで申し上げたところで、飛んできた手戟が、わたくしの足下
の床に突き刺さりました。「ひゃあぁ」わたくしはたまらず部屋を走り出ます。一でした。
一です。誰かの諌言をお待ちだったのかも知れないなどと深読みしたわたくしが愚かでし
た。ご主君は心底お怒りです。呉範殿が魏騰殿と親しいことを、ご主君はよくご存じです。
命乞いに、諌言に来たと直感されたのでしょう。
 ご主君の一撃から身をかわすことのできた幸運を天に感謝しました。あるいは、お怒り
のあまりに狙いを違えられたのかも知れませんが。ですが幸運はそこまででした。扉を出
たところで、足が縺れて倒れてしまったのです。あろうことか、腰が抜けています。もう
逃げられません。さらば妻よ息子よ娘よ。
 わたくしの開け放してきた扉から、呉範殿が駆け込んでゆくのが見えます。ああ、もう
どうなろうとも構いません。呉範殿の名をお耳に入れた時点で、ご主君にとってわたくし
は罪人です。今さらあの方が御前へ通ろうが通るまいが。
 いえ、まだわずかな望みは残っています。五つめの可能性。魏騰殿を処罰するつもりの
ご主君のお心を、呉範殿が動かすことに成功すれば良いのです。
 ところが、わたくしと入れ違いに御前に駆け込んだ呉範殿は、まるで鏡に映したかのよ
うに、扉を入ったところで転んでしまいました。しかも悪いことに、両手を後ろに回した
状態で縄を打っています。思い切り顔を床に打ちつける格好になりました。次の瞬間、そ
の頭の上を飛んできた手戟は、わたくしから三尺と離れていないところへ落ちました。

 わたくしはそこで気を失っていたようです。それから何がどうなったのか、詳しいこと
は存じません。「呉範殿は額を床に打ちつけ、涙ながらに諌言した」と伝えられています。
少なくとも最初の一回が意図的に打ちつけたものでないことをわたくしは存じていますが、
それは言わぬが花というものでしょう。ともあれご主君のお気持ちは解けました。呉範殿
も、魏騰殿も赦され、そしてわたくしもこうして生きています。魏騰殿と親しい方の名を
耳にされただけで手戟を投げつけられるのですから、やはりご主君は本当に魏騰殿を処刑
するおつもりだったのでしょう。諌言を容れて、それほどの相手をお赦しになれるご主君
は、懐の深いお方だと…いえ、呉範殿があそこで転ばなければどうなっていたかは考えま
すまい…。
 長沙桓王が和平の使者を打ち殺したという話も、やはり本当のことなのでしょうか。
 後に、魏騰殿についても、穏やかならぬ噂を耳にいたしました。桓王ご存命の頃にも、
そのご機嫌を損ね、あやうく処刑されそうになったのだそうです。そのときには何と、桓
王とご主君の母君であられる呉太后に救われたのだとか。何でも、魏騰殿を殺せば人々の
信を失う。そんなことになるのを見たくはないからその前にこの井戸に身を投げる、とま
で太后はおっしゃったのだそうです。
 人が自分の命をかけて誰かを救おうとするなど、よほどのことです。そうして二度も救
われた魏騰殿は、さぞ素晴らしい方なのでしょう。ただ、そんなに立派な方なら、二度も
主君から死罪にされかけなくてもよいのではないかと思います。

 命をかけたり、かけられたり、そんな信義を羨ましく思う気持ちも確かにございますが、
わたくしはもうあんな恐ろしい目に遭いたくはありません。妻と子を守り、静かに穏やか
に、名もない役人としての生を全うしたい、今はそう願うばかりでございます。


<終>

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 そしてきっちり「取り次ぎの役人」として正史に記述されている官吏さんのお話です。
 「あなたには子供があるか」「ございます」「もしあなたが(略)」の会話は、ちく
 まの正史にあったそのままです。実際にはこの後の「よろしゅうございます」は即答
 でした。いいんですかそれでいいんですか官吏さん。
 桓王(孫策)さんが和睦交渉にきた厳輿さんを手戟で葬り去ったのも正史にある話。
 呉夫人が井戸端で「功臣殺すような息子に用はない」と凄んだのも同様です。ホント
 にどういう人たちなんですか孫ファミリーおよび魏騰さん。
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