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『毒』

 間もなく、使いの者が戻ってくるだろう。

 巴丘にいる貴方のもとへ遣った使者。持たせたのは、手紙と、小さな包み。
 手紙には、こう書いた。
『病に罹られたと伺いました故、医者に調合させた薬をお届け致します。苦みが強いかも
知れないとのことですので、湯で薄めて飲まれるのが宜しいかと存じます』

 賭だ。短い文の中には、嘘を一つだけ混ぜてある。それに気づかれたら、私の負けだ。

 私の、負け。それを考えただけで、掌に汗が滲む。あんなものを送るべきではなかった、
そう悔やむ。賭に勝ったとしても、私は友をひとり、失うのだ。
 だが、もう遅い。とうに、あの「薬」と手紙は貴方に届いているはずだ。
 幾度も、幾日も考え抜いて……決めたことだ。



 貴方に出会うまで、私は自分をもっと豪放な人間だと信じていた。
 「魯家の狂児」と渾名されていた私の前に、居巣の県長として貴方は現れた。
 貴方はあくまでも礼儀正しく、だが何の遠慮もない態度で、資金と食料を援助して欲し
い、と言ってのけた。
 貴方の力になりたいと考えたのは、事実だ。孫家の跡継ぎとやらも、袁術などよりよほ
ど面白そうな相手に思えた。
 けれども、倉をまるまる一つ差し出したのは、好意からだけではなかったのだ。

 類い希な才の主が、その才を捧げるべきものを、すでに見出している。その姿が妬まし
かった。まっすぐに私を見つめる、迷いのない貴方の瞳。信じあえる者とともに飛翔して
ゆこうとする、美しい翼の輝き。それは、未だこの地から飛び立てぬ私の影を、濃く映し
出した。
 ほんの一瞬でいい、その輝きを曇らせてしまいたい。貴方の顔が、当惑の色を浮かべる
のを見たい。三千斛、おそらくは算段しているよりもはるかに多量の米を目の前に差し出
してやれば、わずかにでも貴方を戸惑わせることができると思った。

 貴方は顔色ひとつ変えなかった。私の暗い思惑に、気付いているのか、いないのか。た
だ、涼やかに笑って礼を述べた。
 それが、私の初めての「負け」だった。



 私は貴方に心服した。やがて貴方に友と呼ばれる存在になったことが、何より嬉しかっ
たのだ。貴方と論を交わす、心浮き立つ日々。美しく研ぎ澄まされた貴方の言葉に、私の
言葉もまた磨かれ、力を得てゆくのがわかる。気恥ずかしい話だが、自分もともに輝くこ
とができると感じていた。
 だが。
 私の心には、初めて出会った日の影が、まだ焼き付いていた。あの日、貴方の光によっ
て映し出された、醜い嫉妬の影。
 貴方の、広量でありながら細やかな心遣いに触れる度に。慎重さと大胆さを兼ね備えた
戦略を目の当たりにする度に。私の中で少しずつ膨らんでゆくのは、敬愛と、嫉妬だった。
 認めてしまえば楽なのだ。自分は貴方にかなわないのだと。なのに、私の中に残る歪ん
だ自負が、それを認めない。



 そして、曹操の侵攻を受けての、あの朝議で。
 降伏すべきだと主張する皆の中で、私は抗戦を唱えた。勝算があったからだ。主公に呼
び戻されてきた貴方も、勝機有りと説いた。だから主公は、開戦を決意して下さった。
 ……『だから』。私ではなく、貴方が抗戦を説いたから。私には、そう思えてならない。
無論、主公が私の献策に全くお心を動かさなかったのならば、わざわざ貴方を呼ばれる筈
も無かっただろう。けれども、主公はまだ迷っておられたのだ。貴方の確かな言葉が必要
だったのだ。
 わかっている、貴方を超えられなどはしない。軍を統べる立場にある貴方の賛同を得ら
れたことで、良しとすべきなのだ。
 曹軍との戦は、我ら−主公と、同盟を結んだ劉備の連合軍−の勝利に終わった。

 劉備と結んだのは、ほぼ私の独断だ。曹操に対抗するには、それが必要だった。実際の
戦力よりも、我々が手を結んでいるという事実が、曹操への脅威になり得るのだ。
 彼らとの同盟が必要だと考えたのは、貴方も同じだった。赤壁に曹操を撃退するまでの
間は。

 私は、劉備を助け、我らと共に曹操に立ち向かえるだけの力を持たせようと考えた。
 貴方は、劉備の力を奪い、馬超と結んで曹操を挟撃しようと考えた。
 どちらが正しいとか、優れた戦略だとかいうものではなかったのだろう。劉備を潰すの
は、貴方のやり方。劉備を育てるのは、私のやり方。ただそれだけだ。見据える先は同じ。
主家を思う心が、異なる形をとっただけだ。
 諸将の意見は分かれた。主公は、両者の折衷案ともいうべき益州攻略を劉備に持ちかけ
たが、一蹴される。我らのとるべき道は、まだ定まらなかった。

 貴方の戦略は、貴方の力無しでは実現し得ないものだった。貴方の存在は劉備にとって
脅威となった。裏返せばすなわち、『周瑜さえいなければ』劉備の配下には、そう考える
者も出てくる。『あなたのような方が軍を統べておられれば、孫将軍も安泰でしょう』私
に向かって、貴方に成り代われと焚きつける者さえもいる。
 無茶な話だ。煌めく将器、主公と諸将からの厚い信頼。私が取って代われる要素など、
何ひとつありはしないのだ。

 主公は、貴方の策を容れられた。ならば、私もそれに従うまでだ。貴方の戦を補けよう。
ゆくゆくは貴方が西から、主公が南から曹操を討つ。私は主公のお側で力を尽くそう。
 そう心を決めた。

 なのに、貴方は遠征の準備も終わらぬうちに、巴丘で病を発した。貴方無しでは、この
遠大な計画を進めることはできない。貴方の回復を待つのか、進軍を諦めるのか。我らの
行く先は、再び揺れ始める。
 このままでは、国がこわれてしまう。



 なぜ、貴方は私を説き伏せようとしなかったのだろう。論を交わす機会は、いくらでも
あったのに。主公と群臣達に向けて軍略を語りながら、なぜ私を論破してみせなかったの
だろう。
 貴方にとって、私はどんな存在なのだろう?

 巴丘にいる貴方のもとへ送ったのは、手紙と、小さな包み。それは私の心毒。初めて出
会ったあの日から、少しずつ私の中で嵩を増し続けた、黒い澱み。
 貴方は、それに気づくのだろうか。



 使者が、戻ってきた。
 どこか怯えた色の目を向けてくる使者から、貴方の様子を聞き出した。
 貴方は、包みを受け取り、私の手紙を読むと、すぐに湯を持ってこさせた。手紙に再び
目を走らせると、湯と薬を一息に飲み干したのだという。
 ああ。私は息をつく。やはり貴方はそうしたのだ。
 薬を飲んだ貴方は、途端に激しく咳き込んだ。思わず駆け寄った使者に、貴方は告げる。
『苦い薬だと言うから一息に飲んだのに、ひどく甘いではないか』

 堪えきれず笑い出す私に、使者はますます訝しげな表情になる。誠に申し上げにくいの
ですが、薬か、お手紙の内容か、どちらかをお取り違えになったのではありますまいか。
そんなことを言う。
 いや、ほんの悪戯だ、私は笑いが止まらぬままの息づかいで答えて、悪趣味だとでも言
いたげな様子の使者を下がらせた。

『病に罹られたと伺いました故、医者に調合させた薬をお届け致します。苦みが強いかも
知れないとのことですので、湯で薄めて飲まれるのが宜しいかと存じます』
 手紙に混ぜた、たった一つの嘘。苦い薬ではなく、甘い薬。嘘はそれだけだ。
 正真正銘、貴方の体に良いようにと、医者に調合させた薬だ。

 貴方は私の送った薬を飲んだ。国内を二分しかねない論議で、貴方と異なる主張をする
人間が送った薬。貴方に取って代わろうとしている、そんな噂さえある人間からの「薬」
を。劉備が私を抱き込もうとしている可能性だって、皆無ではないのだ。
 もしも疑われたなら、それまでだと思った。貴方にとって、私はその程度の存在なのだ
と。薬を飲んだふりをして、やはり苦かったなどと返事を寄越そうものなら、賭は私の勝
ちだった。貴方もその程度の人物だったのかと、私は暗い満足感に浸っていたのだろう。
 けれども、貴方は一息に薬を飲んだ。



 三千斛の米を差し出した、あの日と同じだ。私の心に生まれた毒を、貴方はさらりと飲
み干して、涼やかに笑うのだ。
 私の負けだ。なのに、そう、貴方に全ての澱みを掬い取られてしまったかのように、気
持ちは晴れていた。胸に満ちるのは、芳醇な美酒。かつて誰かが貴方を評した通りの。
 願わくば、今しばし貴方を友と呼ぶことを許して欲しい。主家への忠義が、異なる姿を
とったとしても。
 貴方は私を無理に説き伏せようとはしなかった。主公が劉備と手を携えるおつもりなら
ば、私が交渉にあたる。単独で益州を取るおつもりならば、貴方が軍を進める。それが互
いの役割だと、思ってくれていたのか。

 だから、貴方は病などに負けてはならない。主公は、貴方に行く手を委ねられたのだ。
今は貴方の戦を補けよう。いつものように堂々と軍を率いる貴方の姿を見たい。ようやく
濁りを拭いさった、この目で。貴方の光を、もっとこの身に受けてみたいのだ。
 巴丘の空に向かって、ただ願う。いつか再び、貴方と論を戦わせる日が来ることを。

<終>

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 すみません、魯粛が女々しいです。
 何かの本で「魯粛が周瑜を暗殺したって線もあるんじゃないの?」というような仮説
 を読みまして、えーそれは何かイヤだなぁ、と「ぬるい」モードに入って作ったお話
 です。「ほほぅ、そう来るか」みたいな駆け引きありの友情、を狙ってたんですが、
 何かぐちゃぐちゃですな。魯粛さん一人相撲はっけよい。
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